旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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お盆の夜は・快談・怪談

2010-08-26 00:21:00 | ノンジャンル
 “遠く聞こえる 歌・三味・太鼓 月の出るころ 線香焚いて ご先祖さまを お出迎え お盆の月は美しい エイサー エイサー 皆 出ておいで

 旧暦七夕に節入り〈しち いり〉した旧盆。13日の「御迎え=うんけー」・14日「中日=なかび。なかぬふぃー」・15日「御送ゐ=うーくゐ」を先祖神が見守る仏壇の前でしめやかに。そして集落の広場では念仏踊り・通称エイサーの歌・三線・太鼓・踊りが華やいで、正月と並び年中行事最大の祭事をすませた。この後は綱引き・村遊び・村芝居・月眺み〈ちち ながみ〉の旧暦8月15夜を待つことになる沖縄。
 殊にお盆の3日間、仕事の都合などで遠く離れて暮らしている兄弟・縁者は、先祖神を祀った元屋〈むーとぅ やー。本家〉に集い、近況などの語り合いを恒例としている。特定の宗派を持たず、先祖崇拝を通して己のルーツを確かめ向き合う沖縄人。このことが最近表立っている国民的社会現象、つまり肉親でありながら20年も30年もの高齢者消息不明の事例を沖縄はゼロにしている。

 “風にゆられて ご先祖さまは にこにこにこり おいでになった 街のおじいちゃん おばちゃんたちも 揃ったところで ウートートゥ エイサー エイサー 皆 出ておいで

 こうして長老から新生児まで親戚中が一堂に会すると、どうしても長寿長命が話題になる。
 歌人、書家であり頓智、機智で琉球歴史にその名を刻む粋人・渡嘉敷親雲上兼副〈とぅかしち ペーチン けんぷく=1743~1837〉は、あの世の閻魔王の迎えがきたならば[こう言ってやろう]と、琉歌を詠んでいる。

 “むしか閻魔王ぬ 我身迎えが来らば 九十九までぃや 留守とぅ返ぇーし
 〈むしか ゐんまおうぬ わみ んけが くらば くじゅうくまでぃや るすとぅ けーし

 歌意=もしもあの世の閻魔王がワシを迎えに来たなら、ワシは99歳までは[年]を留守にしているわいッ!と、追い返してしまえッ」
 こうした大らかで意気盛んな考え方・生き方が長寿県を誇示する基本になっているのだろう。さらに男女を問わず、それぞれの生まれ年を厄払いとして「年日祝儀=とぅしびー すーじ」を行うのも、ここからの発想だ。このことは後年、本土の長寿祝いと重なって回数を多くしている。それはそれで結構なことだ。親の長寿祝いは幾度あっても、子や孫にとっては歓ぶことなのだから。
 熊本県に遊んだ折、人吉町土手在の蓬莱山永国寺に立ち寄ってみた。目にしたもののひとつに、長寿を訓じた色紙があった。いわく。

永国寺

   【迎えが来たら】

 一、還暦の六十に迎えが来たら とんでもないと追い返せ。
 二、古希の七十に迎えが来たら 留守でござると突っ放せ。
 三、喜寿の七十七に迎えに来たら まだ早すぎると答えておけ。
 四、傘寿八十に迎えが来たら そんなに急ぐなと言っておけ。
 五、米寿八十八に迎えが来たら も少しお米を食べてから。
 六、卒寿九十に迎えが来たら 折りみてボツボツこちらから。
 七、白寿九十九に迎えが来たら 百の祝いがすむまでは。
 八、皇寿百十三に迎えが来たら そろそろゆずろう日本一。
           九州相良郷 永国寺[落款]

 大本山総持寺御直木・肥後三十三観音第九番札所・曹洞宗蓬莱山永国寺は、神奈川県横浜市鶴見区にある大本山総持寺の御直木として、球磨人吉曹洞宗十六ヶ寺の本山である。創立は応永15年〈1408〉。相良9代・前続公の開基により、実底超真和和尚が開山。現在の住職は40代目である。本尊は、釈迦牟尼仏で脇侍に文殊、普賢両菩薩が安置されている。鎌倉時代末期から室町時代初期の作と推定され、像内に延宝元年〈1763〉から同3年にかけて、京都の大仏師法橋康裕によって補修されたという旨記があるそうな。
 西郷隆盛とも縁が深い。明治10年〈1887〉西南の役の際、田原坂の戦いに敗れて撤退する西郷隆盛は、当永国寺に本営を置き、33日間陣営立直しを試みたが結局、さらなる官軍の追撃に抗しきれず、そこも撤退せざるを得なかった。本堂前に「西郷隆盛先生之遺跡」があるのはこれに由来する。

 “お盆提灯あかあかとともり 家中青くしわせあかり 昔ばなしに 思い出ばなし 待ち遠しいな ウサンデー エイサー エイサー 皆 出ておいで

    
 永国寺を通称「幽霊寺」とも言う。当時を開山した実底超真和和尚の筆になるとされている「幽霊掛軸」を見ることができるからだ。由来はこうだ。
 創立当時、近郷に名を知られた武士がいて愛女を囲っていた。それが本妻の知るところとなり日夜、その愛女を責め抜いた。愛女は苦悩に耐え切れず、遂には球磨川に身を投げてしまった。しかし愛女の執念はこの世に残り、幽霊となって本妻の前に現れた。本妻は永国寺に駆け込み、実底和尚の法力にすがった。それでもなお現れ出た愛女の霊であったが、和尚による因果と道理の説法を受けた上に、和尚が描いた己の醜い姿に驚き「引導を渡して欲しい」と懇願。望み通り和尚の導きによって成仏。二度と現れることはなかったという。
     
       掛け軸
 
 男と女の愛と憎しみは紙一重。この種の怪談は世界中にあるようだ。それだけ人間の業は深いということだろう。幽霊ばなしが楽しめる条件のひとつは、世の中が平和でなければならないことだろう。いまの日本はどうだろう。幽霊の出番がまるでない。

 “月いろの風 妹おねむ お盆の夜の おもてなし エイサー エイサー 皆 出ておいで

 ※文中挿入の歌詞は、琉球放送制作「おきなわのホームソング」内の「お盆の夜は」。作詞上原直彦。作曲上地等。うた那覇及び金武町少年少女合唱団。CD発売中。

     

英霊の声が聞きたい

2010-08-19 00:20:00 | ノンジャンル
 映画全盛のころ、お盆興行と銘打ってスクリーンに登場するのは化け猫や幽霊だった。
「恐るさむんぬ見欲さむん=うとぅるさむんぬ みーぶさむん」。恐いものはかえって見たくなるもので、入江たか子の怪猫ものや「四谷怪談」「番町皿屋敷」など両手で目を覆いながらも、指の間から見入って“涼”を入れたものだ。大和の歌舞伎や大衆演劇や落語の夏興行も「納涼祭り」の幟が劇場前にはためいて、夏の風物詩になっている。
 巡業芝居華やかなりし頃の沖縄でも、それは例外ではなかった。名優比嘉正義〈明治26年~昭和51年(1893~1974)〉の得意芸のひとつ「深夜の叫び」は、四谷怪談の沖縄版で、夫に毒を盛られた妻が、鏡の前で髪をすくと髪が櫛にかかり、ポロポロ抜ける場面や青蚊帳の中から、凄まじい面相で出てくる場面は、少年ながらも“女の怨念”をもろに感じて震え上がった。
 「真壁道ぬ逆立ち幽霊」は、大二枚目平安山英太郎〈明治38年~昭和54年(1905~1979)〉の女形が冴えて、観客を恐怖させた。これまた夫に裏切られ殺された上に、両足には5寸釘を打たれて葬られた妻が、逆立ちして現れ、恨みを晴らすという物語。沖縄の幽霊には足があるのだ。

 人間の五感は、実体のないさまざまなモノを生み出す。この世に未練や怨念を残して夜な夜なさまよい出るモノ。動物や物が魔力を発揮して、人間に禍をするモノ。生命があるはずもないものが、不可解な動きや作用をするモノ。それらを人間は「あの世のもの」あるいは、計り知れない「魔界のもの」として恐れながらも、どこかで楽しんでいるように思える。
 【幽霊】=死者の霊が生前の姿をして現れるといわれる現象。特定の人の前に、時を選ばず現れるとされる。
 と、辞書にある。
 実体はないのに「見たッ」という人が私の周辺にも多少いる。いわゆる「ユーリー見じゃー=んーじゃー。幽霊を見る能力の持ち主」がそれである。彼らはきっと五感が並みではなく優れているのだろう。好奇心だけは旺盛な私も少年のころ、幽霊が見たくて[幽霊が出る]と噂される墓地の辺りや、長年住む人もなく放置された廃屋を悪童連れ立って探検したものだが、遭遇は果たせなかった。鈍感なのかも知れない。
「大勢で行ってはダメだ。幽霊にも都合がある。見たかったら1人で出掛けるがいい」
 大人にそう言われたが、その勇気を持ち合わせていなかったというのが、幽霊未遭遇の真相である。が、ただ1度それらしきものを見た?ことがある。夏の夜・・・もっとも幽霊は夏場のもので白いものを着けている。厚着をした冬の幽霊の話は聞いたことがない。雪女でさえ風になびくほどの白い薄着だ。幽霊にも個性的なファッションスタイルへのこだわりがあるのだろう。
   
 話を戻そう。
 ある夏の夜。小用に起きた少年は、家向かいのガジマルの大木の上から“おいでおいで”をしている白いモノを見てしまった。悲鳴を上げて就寝中の親や兄弟を起こしてしまったのは言うまでもない。その夜は「夢を見たのだ」と片付けられ翌朝、確かめたところ、どこから飛んできたのか白い洗濯物が大木の枝に引っかかり、少年に向かって“おいでおいで”をしていたことが分かった。“幽霊の正体見たり枯れ尾花”であった。
 幽霊の姿に見えても、実際は枯れたススキの穂であるように、恐れているものでも、実体を確かめてみると、何でもない平凡なものなのだ。

 まだ寒さが残る今年3月。仲間たちと九州の温泉を楽しんだ。
 熊本県北西郡に位置し明治10年〈1877〉、西南の時に戦場になった[田原坂]が移動コースの途中にあると聞いて立ち寄った。右手に血刀、左手に手鍋、馬上ゆたかな美少年たちの古戦場。彼らの凄惨な戦士の成り行きを碑文やパンフレットで知るにつけ、あたりの竹藪に霊気がただようものを感じた。地元の人の「いまでも時々、合戦の声や馬の蹄の音が聞こえる」の説明に[ここなら出ても不思議はない]ロケーションであった。戦死者名を石碑の前に花をたむけて合掌している人の姿もあった。
    
    田原坂公園      西南の役戦没者慰霊之碑

 戦後まもなくの沖縄にも、人心が未だ治まらなかったせいもあったのか戦死者がらみの幽霊ばなしが語られていた。「ふぃーたいユーリー=兵隊幽霊」もそのひとつ。
 場所は戦時中、日本軍司令本部のあった首里城界隈、最大の激戦地・南部の喜屋武・摩文仁・真壁集落界隈・中部や北部の山中や避難壕など、沖縄戦が現場になっている。
 6月から8月にかけて、毎夜のように号令とともに行進する日本兵の軍靴の音が聞こえてきたという。多くは軍靴の音のみだが、中には兵隊の一人が立ち止まって敬礼をし、また隊列に戻るのを見た人もいる。兵隊の霊のほとんどが青ざめて無表情だったが、敬礼をした兵隊は「何かを訴えたそうだった」そうな。
 「この世に幽霊なぞ存在するものかッ」
 私もそう思う。しかし沖縄戦終結・日本の終戦記念日・お盆と続く6月から8月になると「兵隊の霊も出てきてほしい。無言ではいず、あの戦争の実相を語ってほしい」と思うのである。日本の口先ばかりの平和論は、彼らに対して無惨過ぎはしないか。「恨めしい」のひと言も言えず国に殉じたまま、沖縄の風の中を彷徨う彼らは無念極まりないに違いない。われわれは彼らの軍靴の音や無言の敬礼をする姿を見、聞きする心情を平和に中に置き忘れている。

  

終戦65年・不発弾の島

2010-08-12 00:20:00 | ノンジャンル
 『オーストラリア北部ダーウィンの浜辺で犬と散歩をしていた男性が、波打ち際で爆弾のようなものを見つけ、これが大変危険な手りゅう弾だったことがわかりました。
 警察や軍によりますと、この手りゅう弾は第2次世界大戦のときのもので、450グラムの爆薬を含んでおり“極めて危険”という代物でした。ダーウィンでは5ヵ月前にも、日本軍が空襲で使った不発弾2発が道路工事の際に見つかっています』
2010・7月21日(シドニーDPA=共同)  

 日本軍は、地球のどこまで攻撃したのだろうか。オーストラリアでも、安心して犬の散歩もできないでいるらしい。沖縄ではどうだろう。
 7月14日午前10時10分ごろ、糸満市真栄里の道路拡張工事現場で、ロケット弾や手りゅう弾などの不発弾約900発が地中から発見された。処理に当たった陸上自衛隊によると、これらは信管があるものとないものがあったが、現場周辺への危険性はないと判断して、避難措置はとらず、同日午後7時20分までに回収している。
 「不発弾が発見された」と110番通報をした工事関係者によると、工事に伴い磁気探査を実施したところ、地中に反応があった。発見された不発弾の内訳は、81ミリ迫撃砲弾62発、60ミリ迫撃砲弾416発、手りゅう弾81発、ロケット弾2発、小銃弾340発など合計902発。地中に埋められていた1斗缶のような容器に入っていたが、日本製か米国製かは陸上自衛隊が調査中。
 発見された場所は、糸満市真栄里の国道331号の道路拡張工事現場。周囲はサトウキビ畑に囲まれ、飲食店やガソリンスタンドはあるが、民家はない。近くに住む男性<60歳>は「激戦地の糸満市内で生まれ育ったが、一度に900発の不発弾が見つかるのは聞いたことがない。市内では爆発事故も実際に起きているし、不安だ」と話している。
 また、同市真栄里の比嘉正信自治会長<68歳>は「近くには給油所や病院もある。もし爆発事故となれば、集落にも被害が出たのではないか」と、不安を隠さない。
 糸満市市民生活課の玉城幸輝さん<54歳>は「これほどの数は初めて聞く。万が一を考えるとぞっとする。激戦地だったので不発弾はまだ出る。工事の際の磁気探査を徹底するしかない」と強調。
 上原裕常市長は、迅速な処置に安堵する一方、市への報告がなかったことに「万が一のことがあれば市は手の打ちようがない。連絡体制がどうなっていたか早急に確認する必要がある」と指摘した。
 糸満市では2009年1月、今回の発見場所から約1キロの同市古波蔵で、水道工事中に、沖縄戦時下の米製250キロ爆弾が爆発。重機を操作していた男性が重傷を負うなど、大きな事故があったばかりだ。
 県によると、2009年1月から12月までの不発弾届け出件数は1124件。県内には依然として2000トンを超える不発弾が埋まっているとみている。


 昨年、南風原町内の小学校男生徒は、いつも登校下校をしている道路脇で小銃弾を見つけ〔皆に見せよう〕と、学校に持ち込むという事例があった。学校側は「その男生徒に何をどう諭せばよいのか。注意すればよいのか。それらしきものを見つけたら、勝手には触らないで先生に知らせるようにとしか指導しえない。なにしろ、どこに不発弾が埋まっているのかわからないのだから・・・・」と、困惑のコメントをしていた。
 これが日本唯一の地上戦が行われた沖縄の今日である。あれから65年経ったいまでもだ。

 8月。テレビをつけてみる。
 8月15日終戦記念日を前に「日本のいちばん長い夏」といった特別番組が放映されている。貴重な映像記録・体験者の証言・識者、評論家の戦争と平和論などを謙虚に拝聴する。しかし、激戦地のひとつであった西原町に住む私。いや、沖縄に生きている沖縄人。自分がいま、テレビを見ている家の地中にも不発弾が埋まっている可能性大と思うと、65年前に「日本のいちばん長い夏」が終わったのではなく、あの日からの65年間もこれからの50年、100年間も〔長い夏〕を背負っていかなければならないことを実感せざるを得ない。

 「妄想に過ぎる」。
 そうあって欲しいのだが、こうしている間にも不発弾は発見されている。
 ※8月3日午前11時35分ごろ、那覇市小禄の工事現場で整地作業をしている建設業者のパワーショベルが半球形の不発弾1発を掘り当てた。豊見城署によると、不発弾は直径約80センチ、高さ約50センチの旧日本軍製機雷でリード線が付いていた。豊見城署は陸上自衛隊や那覇市役所と協議して、現地処理の日時を決める予定。
 ※8月4日午前10時ごろ、那覇市首里大名町の埋蔵文化財発掘調査現場で、小火器弾413発と手りゅう弾2発、47ミリ砲弾と37ミリ砲弾それぞれ1発が土中から発見され、現場を確認した陸上自衛隊が回収した。那覇署によると、弾は沖縄戦時中の旧日本軍のもので、すべて未使用。三八式歩兵銃4丁も一緒に発見された。
(沖縄タイムス紙)         

 これでも〔妄想〕か。
 そうであったにしても〔県内には依然として2000トンを超える不発弾が埋まっている〕島の上でわれわれ沖縄人は暮らしている。地中に不発弾、地上に米軍基地を抱えながらである。





戦争の残した日々

2010-08-05 00:20:00 | ノンジャンル
 RBCiラジオの番組「民謡で今日拝なびら」は、来春2月に50年の節目をつける長寿番組だ。午後3時生放送。
 プロデューサー兼ライターとして関わった私だが、会社の方針で遂に声出しするようになって45年ほど経っている。現在は、沖縄芝居の役者北島角子<月・水>、八木政男<火・木>両人が出演。金曜日は「逢ちゃりば兄弟」と題して、日々を懸命に全うしている市井の方々に出演願っている。
 長寿番組ともなると<勝手な解釈だが>聴取者にとって北島・八木・上原は〔親戚つき合い〕になって春夏秋冬、ごく個人的な手紙・ハガキも寄せられる。一家の慶事・悩みごと・周囲に起きた珍事、奇談。それらを放送コードの許す範囲にアレンジして、リクエストの“島うた”を共に紹介している。例年、6月から8月にかけては戦中・戦後の体験、追想を語る手紙、ハガキが目立つ。
 昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸。多くの民間人の命を奪いながら、6月23日に地上戦を終結させている。この体験は、沖縄人の心の傷になって残っていても、独立国日本は、世代が代わった今日に至るも何らケアをしていない。沖縄戦の風化をまっているのだろうか。

 7月はじめ。那覇市の主婦東江茂美さんから手紙をいただいた。本人に直接逢ったことはない。私信とも言うべきものだが、手紙の住所を手掛かりに連絡をとり、本人の了解を得て紹介したい。沖縄戦がはっきりと見える。かの日米戦争は65年の時を経ても、一人ひとりが背負い続けているのだ。

東江茂美さんからの手紙

 私の母親の両親は沖縄戦の最中、喜屋武村<現・糸満市>で亡くなったそうです。砲火の下を逃げ惑う中、母の父親は足を負傷。妻と娘に「先に逃げろッ」と言って避難行の途中で別れ、母親と娘は自然壕に逃げ込みました。その時、娘<私の母>はマラリアにかかっていたそうです。一緒にいた避難民に迷惑がかからないようにと、壕の入り口近くにいたところ、爆弾の破片を受けて母親は即死。私の母も喉を負傷。いまも傷痕があります。
 『母親の亡骸を目の前にしても涙も出ず。悲しいとか苦しいとか辛いとか、何の感情も湧かず・・・・何も考えられなかった』と、母は言います。壕を後にする時、亡骸が母親と分かるようにと、絣の着物に包み置き、壕を離れました。戦火が治まったころ、絣の着物を目安に現場を訪れてみると、亡骸はそのままの状態で残っていたそうです。妻子を先に避難させた父親<私の祖父>の消息は分かっていません。最近、母が私に『我んねぇ親ぬ骨ぇ ちゅーさがやぁ=私・・・・母親の遺骨はどうしたのかナ』と言います。母の記憶は、あの時のまま止まっているのでしょう。止まった記憶をあの世まで持っていくのかと思うと切ないです。母の妹ふたりは九州に疎開。父親は最後まで疎開には反対だったようですが、最終的には『家族の誰か、ひとりでも生き残れるように』と、母親が説得、決断したそうです。そんな悲しい決断をしなければならなかった祖父母に、私は逢いたかった。いろんな昔の話を聞きたかった。いろんなことを教えてもらいたかった。私も50歳を過ぎて、ますますその思いはつのります。この8月に私も、初孫を抱きます。子や孫のために、悲しい歴史をくり返さないよう祖父母の思い、母親の思いを伝えていきます。母は82歳になりました。

 いまひとつの戦後。
 老婆は女の子の孫をおぶって村に下りてくる。
 立ち寄るのは戦火を免れた自分の家である。戦前は裕福な農家だったらしく一番座、二番座、裏座、そしてシム<台所>のある大きな茅葺きの家。
 老婆は、夏のひとときを福木やクヌブンギー<九年母木・島みかんの木>の下で孫とともに涼をとり、あたりが暮れなずむころ家の床下に貯蔵してあった米5合ほどと、近くの畑に伸びほうだいになっている青物を摘んで山に帰っていく。そんな日が何日も何日もくり返されていた。
 その家は石川真山さん・老婆の長男の家なのだが、金武村<現・町>の山中で捕虜になり、捕虜収容地のひとつ、ここ石川市<現・うるま市>に連行されてきた那覇市出身上原直實一家8人が仮宿としていた。上原直實は、老婆に言った。
 「この家は、あなた達の家ですよ。那覇の空襲を逃れてきたわれわれが住んでいるが、家主のあなた達は、どこでどうしているのか」
 老婆は答える。
 「避難民はアメリカ兵に見つかって捕虜になったが、わたし達は石川岳に準備してあった防空壕に身を隠している。なぜ?。わが一家は、まだアメリカ軍に見つかっていないんだもの。勝手に投降しては天皇陛下に申し訳ない。わたし達が捕虜になるまで、あなた達はわが家に住んでいていいよ」
 そう言って老婆は、石川岳に帰って行った。
 沖縄を占領した米軍にとって山中に身を潜めた民間人なぞ、もはや敵ではない。完全に無視されながらも老婆一家は〔直接、アメリカ兵に発見されない限り、捕虜ではないッ〕として、山籠りを続行。ニッポン人であることを誇っていた。
 結局、老婆一家はアメリカ兵の手垢のつかない純粋なニッポン人のまま自主下山。上原直實一家は元の主に家を返して当時、〔沖縄復興の槌音も高く〕民政府が建造した企画ハウスに移り住むのだった。
 こうした悲喜交々の事例は各地であった。8月になると決まって話に出る。
 「あの老婆はすでに亡くなったが、婆さん一家はアメリカの捕虜という汚名もなく、純粋なニッポン人として生き抜いてきた。いまでは子孫も繁栄していてよかった」
 当時、私は7歳。上原直實は親父である。