“遠く聞こえる 歌・三味・太鼓 月の出るころ 線香焚いて ご先祖さまを お出迎え お盆の月は美しい エイサー エイサー 皆 出ておいで”
旧暦七夕に節入り〈しち いり〉した旧盆。13日の「御迎え=うんけー」・14日「中日=なかび。なかぬふぃー」・15日「御送ゐ=うーくゐ」を先祖神が見守る仏壇の前でしめやかに。そして集落の広場では念仏踊り・通称エイサーの歌・三線・太鼓・踊りが華やいで、正月と並び年中行事最大の祭事をすませた。この後は綱引き・村遊び・村芝居・月眺み〈ちち ながみ〉の旧暦8月15夜を待つことになる沖縄。
殊にお盆の3日間、仕事の都合などで遠く離れて暮らしている兄弟・縁者は、先祖神を祀った元屋〈むーとぅ やー。本家〉に集い、近況などの語り合いを恒例としている。特定の宗派を持たず、先祖崇拝を通して己のルーツを確かめ向き合う沖縄人。このことが最近表立っている国民的社会現象、つまり肉親でありながら20年も30年もの高齢者消息不明の事例を沖縄はゼロにしている。
“風にゆられて ご先祖さまは にこにこにこり おいでになった 街のおじいちゃん おばちゃんたちも 揃ったところで ウートートゥ エイサー エイサー 皆 出ておいで”
こうして長老から新生児まで親戚中が一堂に会すると、どうしても長寿長命が話題になる。
歌人、書家であり頓智、機智で琉球歴史にその名を刻む粋人・渡嘉敷親雲上兼副〈とぅかしち ペーチン けんぷく=1743~1837〉は、あの世の閻魔王の迎えがきたならば[こう言ってやろう]と、琉歌を詠んでいる。
“むしか閻魔王ぬ 我身迎えが来らば 九十九までぃや 留守とぅ返ぇーし”
〈むしか ゐんまおうぬ わみ んけが くらば くじゅうくまでぃや るすとぅ けーし〉
歌意=もしもあの世の閻魔王がワシを迎えに来たなら、ワシは99歳までは[年]を留守にしているわいッ!と、追い返してしまえッ」
こうした大らかで意気盛んな考え方・生き方が長寿県を誇示する基本になっているのだろう。さらに男女を問わず、それぞれの生まれ年を厄払いとして「年日祝儀=とぅしびー すーじ」を行うのも、ここからの発想だ。このことは後年、本土の長寿祝いと重なって回数を多くしている。それはそれで結構なことだ。親の長寿祝いは幾度あっても、子や孫にとっては歓ぶことなのだから。
熊本県に遊んだ折、人吉町土手在の蓬莱山永国寺に立ち寄ってみた。目にしたもののひとつに、長寿を訓じた色紙があった。いわく。
永国寺
【迎えが来たら】
一、還暦の六十に迎えが来たら とんでもないと追い返せ。
二、古希の七十に迎えが来たら 留守でござると突っ放せ。
三、喜寿の七十七に迎えに来たら まだ早すぎると答えておけ。
四、傘寿八十に迎えが来たら そんなに急ぐなと言っておけ。
五、米寿八十八に迎えが来たら も少しお米を食べてから。
六、卒寿九十に迎えが来たら 折りみてボツボツこちらから。
七、白寿九十九に迎えが来たら 百の祝いがすむまでは。
八、皇寿百十三に迎えが来たら そろそろゆずろう日本一。
九州相良郷 永国寺[落款]
大本山総持寺御直木・肥後三十三観音第九番札所・曹洞宗蓬莱山永国寺は、神奈川県横浜市鶴見区にある大本山総持寺の御直木として、球磨人吉曹洞宗十六ヶ寺の本山である。創立は応永15年〈1408〉。相良9代・前続公の開基により、実底超真和和尚が開山。現在の住職は40代目である。本尊は、釈迦牟尼仏で脇侍に文殊、普賢両菩薩が安置されている。鎌倉時代末期から室町時代初期の作と推定され、像内に延宝元年〈1763〉から同3年にかけて、京都の大仏師法橋康裕によって補修されたという旨記があるそうな。
西郷隆盛とも縁が深い。明治10年〈1887〉西南の役の際、田原坂の戦いに敗れて撤退する西郷隆盛は、当永国寺に本営を置き、33日間陣営立直しを試みたが結局、さらなる官軍の追撃に抗しきれず、そこも撤退せざるを得なかった。本堂前に「西郷隆盛先生之遺跡」があるのはこれに由来する。
“お盆提灯あかあかとともり 家中青くしわせあかり 昔ばなしに 思い出ばなし 待ち遠しいな ウサンデー エイサー エイサー 皆 出ておいで”
永国寺を通称「幽霊寺」とも言う。当時を開山した実底超真和和尚の筆になるとされている「幽霊掛軸」を見ることができるからだ。由来はこうだ。
創立当時、近郷に名を知られた武士がいて愛女を囲っていた。それが本妻の知るところとなり日夜、その愛女を責め抜いた。愛女は苦悩に耐え切れず、遂には球磨川に身を投げてしまった。しかし愛女の執念はこの世に残り、幽霊となって本妻の前に現れた。本妻は永国寺に駆け込み、実底和尚の法力にすがった。それでもなお現れ出た愛女の霊であったが、和尚による因果と道理の説法を受けた上に、和尚が描いた己の醜い姿に驚き「引導を渡して欲しい」と懇願。望み通り和尚の導きによって成仏。二度と現れることはなかったという。
掛け軸
男と女の愛と憎しみは紙一重。この種の怪談は世界中にあるようだ。それだけ人間の業は深いということだろう。幽霊ばなしが楽しめる条件のひとつは、世の中が平和でなければならないことだろう。いまの日本はどうだろう。幽霊の出番がまるでない。
“月いろの風 妹おねむ お盆の夜の おもてなし エイサー エイサー 皆 出ておいで”
※文中挿入の歌詞は、琉球放送制作「おきなわのホームソング」内の「お盆の夜は」。作詞上原直彦。作曲上地等。うた那覇及び金武町少年少女合唱団。CD発売中。
旧暦七夕に節入り〈しち いり〉した旧盆。13日の「御迎え=うんけー」・14日「中日=なかび。なかぬふぃー」・15日「御送ゐ=うーくゐ」を先祖神が見守る仏壇の前でしめやかに。そして集落の広場では念仏踊り・通称エイサーの歌・三線・太鼓・踊りが華やいで、正月と並び年中行事最大の祭事をすませた。この後は綱引き・村遊び・村芝居・月眺み〈ちち ながみ〉の旧暦8月15夜を待つことになる沖縄。
殊にお盆の3日間、仕事の都合などで遠く離れて暮らしている兄弟・縁者は、先祖神を祀った元屋〈むーとぅ やー。本家〉に集い、近況などの語り合いを恒例としている。特定の宗派を持たず、先祖崇拝を通して己のルーツを確かめ向き合う沖縄人。このことが最近表立っている国民的社会現象、つまり肉親でありながら20年も30年もの高齢者消息不明の事例を沖縄はゼロにしている。
“風にゆられて ご先祖さまは にこにこにこり おいでになった 街のおじいちゃん おばちゃんたちも 揃ったところで ウートートゥ エイサー エイサー 皆 出ておいで”
こうして長老から新生児まで親戚中が一堂に会すると、どうしても長寿長命が話題になる。
歌人、書家であり頓智、機智で琉球歴史にその名を刻む粋人・渡嘉敷親雲上兼副〈とぅかしち ペーチン けんぷく=1743~1837〉は、あの世の閻魔王の迎えがきたならば[こう言ってやろう]と、琉歌を詠んでいる。
“むしか閻魔王ぬ 我身迎えが来らば 九十九までぃや 留守とぅ返ぇーし”
〈むしか ゐんまおうぬ わみ んけが くらば くじゅうくまでぃや るすとぅ けーし〉
歌意=もしもあの世の閻魔王がワシを迎えに来たなら、ワシは99歳までは[年]を留守にしているわいッ!と、追い返してしまえッ」
こうした大らかで意気盛んな考え方・生き方が長寿県を誇示する基本になっているのだろう。さらに男女を問わず、それぞれの生まれ年を厄払いとして「年日祝儀=とぅしびー すーじ」を行うのも、ここからの発想だ。このことは後年、本土の長寿祝いと重なって回数を多くしている。それはそれで結構なことだ。親の長寿祝いは幾度あっても、子や孫にとっては歓ぶことなのだから。
熊本県に遊んだ折、人吉町土手在の蓬莱山永国寺に立ち寄ってみた。目にしたもののひとつに、長寿を訓じた色紙があった。いわく。
永国寺
【迎えが来たら】
一、還暦の六十に迎えが来たら とんでもないと追い返せ。
二、古希の七十に迎えが来たら 留守でござると突っ放せ。
三、喜寿の七十七に迎えに来たら まだ早すぎると答えておけ。
四、傘寿八十に迎えが来たら そんなに急ぐなと言っておけ。
五、米寿八十八に迎えが来たら も少しお米を食べてから。
六、卒寿九十に迎えが来たら 折りみてボツボツこちらから。
七、白寿九十九に迎えが来たら 百の祝いがすむまでは。
八、皇寿百十三に迎えが来たら そろそろゆずろう日本一。
九州相良郷 永国寺[落款]
大本山総持寺御直木・肥後三十三観音第九番札所・曹洞宗蓬莱山永国寺は、神奈川県横浜市鶴見区にある大本山総持寺の御直木として、球磨人吉曹洞宗十六ヶ寺の本山である。創立は応永15年〈1408〉。相良9代・前続公の開基により、実底超真和和尚が開山。現在の住職は40代目である。本尊は、釈迦牟尼仏で脇侍に文殊、普賢両菩薩が安置されている。鎌倉時代末期から室町時代初期の作と推定され、像内に延宝元年〈1763〉から同3年にかけて、京都の大仏師法橋康裕によって補修されたという旨記があるそうな。
西郷隆盛とも縁が深い。明治10年〈1887〉西南の役の際、田原坂の戦いに敗れて撤退する西郷隆盛は、当永国寺に本営を置き、33日間陣営立直しを試みたが結局、さらなる官軍の追撃に抗しきれず、そこも撤退せざるを得なかった。本堂前に「西郷隆盛先生之遺跡」があるのはこれに由来する。
“お盆提灯あかあかとともり 家中青くしわせあかり 昔ばなしに 思い出ばなし 待ち遠しいな ウサンデー エイサー エイサー 皆 出ておいで”
永国寺を通称「幽霊寺」とも言う。当時を開山した実底超真和和尚の筆になるとされている「幽霊掛軸」を見ることができるからだ。由来はこうだ。
創立当時、近郷に名を知られた武士がいて愛女を囲っていた。それが本妻の知るところとなり日夜、その愛女を責め抜いた。愛女は苦悩に耐え切れず、遂には球磨川に身を投げてしまった。しかし愛女の執念はこの世に残り、幽霊となって本妻の前に現れた。本妻は永国寺に駆け込み、実底和尚の法力にすがった。それでもなお現れ出た愛女の霊であったが、和尚による因果と道理の説法を受けた上に、和尚が描いた己の醜い姿に驚き「引導を渡して欲しい」と懇願。望み通り和尚の導きによって成仏。二度と現れることはなかったという。
掛け軸
男と女の愛と憎しみは紙一重。この種の怪談は世界中にあるようだ。それだけ人間の業は深いということだろう。幽霊ばなしが楽しめる条件のひとつは、世の中が平和でなければならないことだろう。いまの日本はどうだろう。幽霊の出番がまるでない。
“月いろの風 妹おねむ お盆の夜の おもてなし エイサー エイサー 皆 出ておいで”
※文中挿入の歌詞は、琉球放送制作「おきなわのホームソング」内の「お盆の夜は」。作詞上原直彦。作曲上地等。うた那覇及び金武町少年少女合唱団。CD発売中。