旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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歌い分け・かじゃでぃ風節=その⑥

2011-04-20 00:21:00 | ノンジャンル
 風の渡りがよく、あたりもすっかり清く明るくなった。二十四節季のひとつ「清明」である。野山の草木が萌え、その色を濃くする時候。
 今年の沖縄のシーミー<清明>行事の節入りは4月5日。珍しくも、女性だけが海浜に出て歌舞・馳走を披露して遊ぶ「浜下り=はまうり」「三月遊び=さんぐぁちあしび」の日と重なった。さらに、野山の風景を引き立たせるかのように野生のユリの白が、一幅の絵を完成させている。
 大和の彼岸の墓参り行事は、沖縄ではそうなされてないが、シーミー祭は盛大かつ華やかに行われる。先祖崇拝を信仰観念とする沖縄だが、シーミーは先祖供養の儀式とは趣を異にしている。普通の墓参は、あくまでも慰霊、供養が本旨とするが、シーミー祭は一族の老若男女が墓前に揃っての、一種の春の行楽的要素を有しているのだ。重箱詰めの馳走も色々。定番の餅や沖縄4大馳走とされる豆腐、蒲鉾、肉、牛蒡は欠かさないが最近、若い人のリクエストにより、ケンタッキーチキン、ミスタードーナツも加わるようになっている。季節の花や線香を手向けて、今年の豊作と胴頑丈強さ<どぅ がんじょうさ。健康>を祈願するのは変わらないが、いまひとつには(先祖神の加護)によって、このように「枝広がゐ=ゆだふぃるがゐ」つまり、先祖という大木の根があってこそ、子孫という枝や葉が広がり、一門の繁栄をみていることを披露、報告する行事なのである。
 沖縄人は、あの世はそう遠い所にあるとは思っていない。むしろ、ごく身近にあり先祖と共存していると考えている。
 「後生や雨垂ゐぬ下=ぐそうや あまだゐぬ しちゃ」という俗語。慣用句がある。後生・あの世は遠くにあらず、雨垂れが落ちる軒下ほどの近くにあって、子孫を見守っているとする観念だ。したがって、一門の墓地は生きている人の住まい同様に親しみ、少年たちの格好の遊び場だったし、陽除けの為に植えられたクワディーサーの木<和名=モモタマナ>の下には、日暮れてからの恋人たちの語れー所<かたれーどぅくる。デイトの場>にもなった。
 それだから、一家が新しく墓を建造し落成すると祝儀歌“かじゃでぃ風”を墓の中で歌う。むろん、納骨前であることは言うまでもない。

 【墓所落成祝儀歌】
 symbol7土ん引ち美らさ 石ん据し美らさ 風水マチガニぬ 向けぬ清らさ  
 <ちちん ふぃち じゅらさ いしん ゐし じゅらさ ふんしマチガニぬ んけぬ ちゃらさ

 語意*風水マチガニ=墓の尊称。美称。松金の字も当てる。
 〔語意〕
 (ご先祖及び肉親の霊骨を納める)敷地の土を均せば、なんと上質の土であることか。建立した石造りの墓の構えは、なんと美的であることか。さらに、墓口の方向を選ぶ風水の理にもかなった重厚感は、一門一族の繁栄と盤石を約束する如く荘厳である

 丁寧な家族、一門では“かじゃでぃ風”の他に「柳節=やなじぶし」も伴せて歌う。
 “柳は緑花は紅 人はただ情梅は匂い
 柳はヤンナキジ・ヤンナギと発音するが、あとはきっちり大和言葉。万物の自然体を歌い、人間は“人はただ情”を強調している。生きている間は、お互いに“情”を尽くさなければならないと説く。あの世でもこの世でも情けは第一義なのだろう。

写真:亀甲墓

 沖縄の墓は亀甲型が多く、その外上部は丸みをおびた設計になっていて母親の腹部を表わしている。したがって、内部は母親の体内。御察しの通り人は、母親の体内から出て命を全うし、再び母親の体内に還るとする観念がそこにはある。
 一門一族意識を重んじる家系の墓の作りは大きく敷地200坪300坪と広い。また、それを大いに誇りにしている。
 私ごとで恐れ入るが、わが家墓所でさえシーミー祭には兄弟姉妹はもちろん甥、姪、婿や嫁、その子も参集。その数30名は下らない。
 それこそ個人的な話になるが、兄弟フィレーちょうでー。兄弟つき合い>をしてきた画家で陶工の輿那覇朝大。生れ島の八重山石垣市新川を離れ、コザ市<現・沖縄市>に拠点を置いて、本格的な創作活動を開始したころ、八重山にあった墓所を北谷町の鶯谷墓地公園内に移した。新設当日、皆して参集したことだが、三線は携帯していたものの彼も私も、同行の連中ひとりとして「墓所落成祝儀歌」の歌詞を失念している。しかし、儀式は儀式。何かを歌わなければならない。そこで採用された歌は、八重山の代表的祝儀歌「鷲ん鳥節=ばすぬ とぅる節」。朝大兄と私が歌うことになったが、墓の中での歌三線は適当にエコーが効いて名唱になった。が・・・・。輿那覇朝大も7年前に岸の向こうに逝ってしまった。「鷲ん鳥」で祝った墓に眠っているのだが、“土ん引ち美らさ 石ん据し美らさ 風水マチガニぬ 向けぬ清らさ”ではなく“綾羽ば生らしょうり びる羽ば孵だしょうり”で落雷祝いをした墓の中の居心地はどうだろうか。友人、仲間が集まれば酒の前に、彼のリードで歌っていた「鷲ん鳥節」だから、鷲にいざなわれて極楽に着き、絵を描き、酒をのみ、三線を引き歌い、土をこねているにちがいない。

 *「歌い分け・かじゃでぃ風節」シリーズ完結。

 お知らせ! 
 上原直彦・北村三郎
 琉歌、諺、俗語、芝居などの文化・芸能等の講演活動を行います。

 講演依頼、詳細についてのお問い合せは下記までお願いいたします。
 (有)キャンパス TEL:098-932-3801 


      日時:2011年4月29日(金)
      午後7時00分開演
      料金:2,000円
      場所:沖縄市民小劇場 あしびなぁー



歌い分け・かじゃでぃ風節=その5

2011-04-10 00:06:00 | ノンジャンル
 「50過ぎてから、久しくなるよ」
 某所で逢った老女。あまりにもはつらつとした言動に魅かれて、年齢を聞いたのに対する返事がこれだった。瞬時をおいて、同席していた人の耳打ちで知ることになるのだが、老女は大正11年生の89歳だそうな。
 「お幾つですか」の問いに、まともに「89歳」とは答えず「50過ぎてから、久しくなるよ」と即答するこの洒落っ気。ひょっとすると、この老女の若さの秘訣は、ここにあるのではないかと、感じ入ったしだい。確かに89歳は、50歳を過ぎて久しくなるのだから、老女はサバをよんだのでもなんでもない。(ほんとうのことを言った)まで。会話の楽しみ方を教えてもらった。
 「爺は幾つになったの」と、この春中学生になる孫に問われた私は応じる。
 「72歳と6ヵ月。この歳は、誰でもなれる。キミたちもなってみるがいい。誰でもなれる72歳に、キミたちがなれないわけはない」
 孫は「ふ~ん」と言っただけで反応が薄い。私の返答は屁理屈色が濃く、洒落心も見えず、ただただ、いつもの説教くさいそれになって、孫の心には届かなかったようだ。人間修業が足りない・・・・反省。

 【九十七歳・カジマヤー祝儀歌】
 symbol7七橋ゆ渡てぃ 七・四辻超ちょてぃ 誠カジマヤーや 神ぬ御祝  
 <ななはしゆ わたてぃ なな ゆちじ くちょてぃ まくとぅカジマヤーや かみぬ うゆえ
 
カジマヤーは、風車の意。
 人間、三途の川にたどり着くまでには、人の世に架かる複数の橋を渡らなければならない。また、幾つもの四辻、つまり人生の十字路を多くの人びとと交わりながら、生きなければならない。したがって(七)は、限定された数できなく、並々ならぬ艱難辛苦・喜怒哀楽を意味していて、97歳に達するまでにはそれらを乗り越えてきたことを表わす(七)である。
 〔歌意〕
 人間らしく、人生という川に架かった幾つもの橋を渡り、多くの人びとが通る十字路を往来して、97歳になった。これからは、童心に孵って風車遊びをするほどの若返りを果たすとした。これは、正に神の守護による人生最高の祝儀である。

 かつて、食料事情も悪く、まして風邪引きひとつ迷信的民間療法に頼っていた時代は、新生児の死亡率が高かった。ゆえに人びとは、神の力を借りなければならない。
 生まれた子が5歳、7歳になるまではわが子にしてわが子にあらず。天から預かった「童神」として細心、丁寧に育てた。その念願が叶って5歳、7歳にもなり、亜熱帯の植物阿檀<アダン>の葉で作ったカジマヤーを回して広場や野原を走り遊ぶわが子の姿を見たとき、親は(一人前に育つ)ことを確信した。97歳は、その〔童神=わらびがみ〕に還ったとして、子や孫たちは盛大な祝儀をするのである。
 しかし、さらに古くは97歳の長寿は皆無に等しかったため、稀にこの歳に達した者は、あの世に行く準備「後生支度=ぐそうしたく」をし、生きながら本葬儀のしきたり通りの模擬葬儀をした。その際には、仏前での儀式のあと、木製の車に乗せて墓に連れて行く。一応の人生は〔終わった〕とする考え方だ。さすがに、そのまま墓に入れることまではしない。童神への蘇生の儀式と言えるが、その一行を迎える近隣の人びとは皆、目をそむけ行列を避けた。老人がこの先、長生きをするにはその分だけ、誰かの寿命が縮むという観念があってのことだ。
 しかし、時代とともに敬老思想が高揚。現在では、長寿肖り<あやかり>の行事になっている。むしろ、人びとも自分たちの周囲から97歳の長寿者が出たことを〔人間関係と環境がよい証〕と認識。家族も〔親孝行の賜もの〕として大いに誇るようになっている。本人もまた、人生の七つの橋を渡り、七つの四辻を超えた充実感を噛み締めながら、人びとに長寿の幸福を授ける役に就くのである。
 童歌風には“花ぬカジマヤーや 風連りてぃ遊ぶ 我身や孫連りてぃ 共に遊ぶ”と歌われる。風車は風を伴って勢いよく回り遊んでいる。わが身は孫たちと人生を謳歌する。〔なんと幸せなことか〕という長寿者ならではの心情が読み込まれているのだ。

 孫に「坊は大きくなったら何になるの」と聞いたら「お医者さん」と答えたあと「お爺ちゃんは、大きくなったら何になるの」と問い返された。しばし悲哀を覚えながら「仏さん」と言うと孫は「イヤだっ!」と泣いた。
 永六輔氏の著書にそんな一文がある。いい光景ではないか。

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 上原直彦・北村三郎
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 「ばん」塾10回節目公演
  日時:2011年4月29日(金)
     午後7時00分開演
  場所:沖縄市民小劇場 あしびなぁー





歌い分け・かじゃでぃ風節=その4

2011-04-01 00:10:00 | ノンジャンル
 トゥシビー祝儀は、生れ年の厄祓いを兼ねた長寿祝いであることを記してきたが、85歳と次の97歳のそれとの間に、いまひとつ祝い事があり、これには沖縄ならではの歴史的背景がある。
 すなわち、本土でなされている88歳の〔米寿祝〕だ。沖縄ではこれを「米ぬ御祝=ゆにぬ うゆえー」「トーカチ祝儀=スウジ」という。伝来の年代は明確ではないが、慶長14年<1609>薩摩の琉球侵攻=通商・薩摩の琉球入り=後、10数年を経て採用されたものと言われている。
 鹿児島には古来、八十八歳の賀・トカキイエ・トカツユエがあった。それが琉球化したと思われるのが「トーカチ祝儀」である。鹿児島では、トカキイエは男性の米寿祝の呼称で、女性の場合はイトヨイイエと言い分けていたそうな。トカキイエ<斗掻き祝>イトヨイイエ<糸縒り祝>である。トカキイエの語は俵に詰めた米の品質を調べるときに使う竹製の斗掻き=とかき=を来客に配ったことに由来する。これに対しイトヨイイエは、木綿糸もしくは絹糸をチュカナ<1束>配ったことに語源はあるが、時代とともにそれは廃退して、男女ともに斗掻き祝に統一されている。つまり、薩摩支配が濃厚になるにつれて琉球では、85歳の3年後に薩摩風俗の斗掻き祝を「トーカチ祝儀」として、新たに加えて定着させたのである。
 もちろん、米寿祝は現在でも催されていて、生れ年祝の中では最も盛大である。そのときに用いられる「かじゃでぃ風節」の歌詞は、次の八八八六の30音だ。

 【八十八歳・トーカチ祝儀歌】
 symbol7米ぬ寿ぬ 御祝酌盛ゆし 子孫打ち揃るてぃ 百歳みしょり   
 <ゆにぬ くとぅぶちぬ うゆえ さくむゆし くぁ・んまが するてぃ ひゃくしぇ みしょり

 〔歌意〕
 祝座に揃った近親者の総意を詠んでいる。
 壮健にして米寿を迎えました。駆けつけた一人ひとりの盃に「長寿肖り=あやかり」のお神酒なみなみと注いで福徳をつけてくださる。なんとありがたいことか。これからは、子や孫に囲まれて、百歳まで長命なさいませ。

 ひとは「自分はもう歳だ~」と思った瞬間から老い始めるという。年齢は人それぞれで、己の年齢を常に「いい年頃」と受け入れることが出来れば、肉体はともかく心が老いることはない。長寿祝いの琉歌に「若々」の文字が多用されているのは、こうした観念を持ち合わせているからだろう。元旦の若水しかり。毎朝昇る太陽を若太陽<わかティーダ・ティダ>としているのも、この発想から生まれた言葉。
 ところで。
 模擬葬儀を見聞きしたことがあるだろうか。85歳に行なう地域もあるが、88歳の場合も、地域限定ながら「模擬葬儀」が現存する。トーカチ祝の当日の真夜中、当人に白い死装束を着せて、仏壇のある座敷に寝かせることから儀式は始まる。手を胸に組ませ、顔に白い布をかぶせる。周囲には子や孫はもちろん、近親者が神妙な面持ちで座し、当人を見守るさまは、本葬儀そのものの光景。そして、準備が整ったところで「御願=うぐぁん」を捧げる。御願の仕切りは、たいてい長男の役目。その祝詞は地域によって相違するが、ほぼ次の内容。
 「あなたは、八十八歳の長命をなさり、子や孫に福徳をつけて下さいました。われわれにも子孫繁栄、無病息災をあらしめて下さるよう、お願い申し上げます」
 まるで仏にたいする祝詞のようだが、その後が儀式の本旨になる。時を見計らい長男、もしくは長老が当人に声を掛けると、寝ていた当人はおもむろに起き上がる。つまり、蘇生するのである。地域によっては、歌三線の演奏があり、当人を中心に家人一同が「かじゃでぃ風」を舞う。これが丸1日掛けてなされるトーカチ祝のプロローグとなる。模擬葬儀には、儀礼的名称はなく、単に「御願」と言っている。
 この風習は、戦後のアメリカ文化に押し流されたかして、急速に消えつつある。だが、皆無ではない。本島北部、中部、南部。そして、宮古、八重山の1部には現存すると聞いている。私の知る模擬葬儀の例は、うるま市屋慶名にあった。

 まったくの蛇足になるが、屋慶名の例の見聞と聞き取りを基にして脚本を書いた。題して「トーカチ物語・命果報孵でぃ果報=ぬちがふう しでぃがふう」。
 芝居や琉歌、諺、俗語などをテキストとし沖縄語の勉強を楽しんでいる北村三郎・芝居塾「ばん」は、開塾10年になる。その節目公演と銘打って、来る4月29日夕刻7時から沖縄市民小劇場「あしびなぁ」の舞台に、この脚本を乗せる。素人集団に過ぎないが、沖縄芝居の役者北村三郎の演出を得て、そこそこの芝居になる。よろしければ、観覧いただきたい。
問い合わせ:電話098-932-3801 キャンパスレコード。
       

 高年齢者にとって生きにくく住み辛いニッポンになってしまったが「長生きも芸の内」。若い内からトーカチ祝目指して、世にはばかってみようではないか。

  〔歌い分け・かじゃでぃ風節〕は、4月10日号につづく。

 ※お知らせ  
  上原直彦・北村三郎
  今年から文化・芸能講演会等の講師として活動します。
    

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