旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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三線・赤花。そして輝き

2017-03-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「輝」。
 今年のコンセプトは、これである。
 毎年「ゆかる日まさる日さんしんの日」のイベントのコンセプトを1文字で表し、司会者席のバックに掲示している。昨年は「創」だった。「輝」とは、名誉で、華々しいさま。希望や歓喜が表に出るさまを意味している。「さんしんの日」も25回、年を回した。人間も25歳は輝いて行動する時。RBCiラジオは、三線の音を太陽として(世界に輝く)ことをスタッフ一同決意。この一文字に思いを込めた。
 墨痕鮮やかに「輝」を書いたのは第16回からメイン司会者のひとり狩俣倫太郎アナウンサー。趣味で書道を嗜んでいるというのがいい。
 昨今、右を向いても左を見ても、冴えない空気ばかり。また、節目とは言え、25年も経ると、ややもするとくすみがちで、初心の初々しさ・輝きを失念しがち。そこで「さんしんの日」を契機に、内なる「輝き」を放とう。そのことを世界中で共有しようとの願望が秘められている。ひとり輝いてもそれは微々たる光。万人で光ってこそ「輝き」と言えるのではないか。そう高邁な想念を抱いているようだ。
 その「輝」に、さらに輝きを加えているのがポスター。
 画面中央にまっすぐ、逞しく伸びた黒檀の棹。力強く張った3本の絃。その真中にウチナーンチュの心意気を誇示して、一輪のアカバナー(沖縄在来のハイビスカスの1種)。しかし、よく見ると三線は沖縄そのもの。アカバナーは三線を愛してやまない沖縄人の輝きを感じることができるけれども、この三線にチーガ(共鳴盤)が描かれていない。思うに物言わぬ三線に命を込めて弾き鳴らすのは人間。どういう音を出すかは(あなた次第)という画家からのメッセージが聴こえてくる。じっと、このポスター、いや、ひとつの絵画として見入っていると、三線の音が聴こえてくる。描いたのは無念にも、画家としての充実期に逝った与那覇朝大氏。

 与那覇朝大(よなは ちょうたい)。
 1933年10月8日、八重山石垣市新川生れ。2008年7月2日。西原町在アドベンチストメディカルセンターで心不全のため逝去。19歳、絵家を志し八重山からコザ市(現沖縄市)に移り住む。1971年、新美術協会展新人賞受賞。1977年、沖縄県デザインコンクール会長賞。1986年、第33回新美術協会光琳賞。日本美術選賞。1992年、新美術協会桃山芸術大賞。1998年、アート・オブ・ジ・イヤー・グランプリ受賞。1999年、フランス芸術協会から、20世紀芸術遺産認定作家に認定。2004年、ジュネーブ国際平和遺産認定作家賞受賞するなど国際的にも評価された。

 出会ったのは、彼がライカム画廊の一絵家として、ビロードのキャンパスに米兵の似顔を描くことを生業としていたところ。時、ベトナム戦争が熾烈を極めているころだ。沖縄から出兵し、彼の地で戦死した米兵の写真を戦友が持ち込み、与那覇朝大が写真と見違うほどに写生。戦友が本国に持ち帰る。絵画に疎い私は、それをそっちのけに、3ヵ日をおかず逢い、コザ市の歓楽街中の街のおでん屋、同市諸見里百軒通りの料亭で遊んでいた。遊興費はすべて彼持ち。
 酒はもちろんのことだが、彼の目的は三線を弾き、ふるさと八重山の歌を歌うことにあった。私が八重山節に傾倒していったのは、その辺に始まったといえるだろう。
 ライカム画廊から同市の自宅、宜野湾市大山へ。そして中城村登叉にアトリエを移して落ち着いたころだ。「ゆかる日まさる日さんしんの日」を立ち上げることになった。
 彼は言った。
 「三線は歌者だけのものではない。絵描きは、どう関わればいいのだ」。
 「ポスターを描いてくれ」。
 なんの遠慮もなく言い放つ私に彼は、1週間後に応えてくれた。三線の上辺部をひと筆書きのように仕上げた作品だ。私には(簡単過ぎる)と思われる原画は、絵ごころのある人たちを唸らせた。このことは、いまでも恥入っている。
 与那覇朝大は歌三線が上手かった。時折、殻のアトリエに親しい歌者が集まって、非公開の歌会を催すのだが「安里屋節」「仲筋ぬヌベーマ節」「しょんかね節」は、誰も歌はない。彼の(持ち歌)としていたからだ。三線も3丁持っていたが、2丁は私にも弾かせてくれたが、愛用の1丁だけは手を触れることさえ許してくれなかった。
 己でそばを打ち、山羊汁を作り、季節の食材を使ったチャンプルーを料理人よろしく仕上げて、仲間を呼んではふるまっていた。そして酒をお共に「歌三線」になるのである。
 陶芸家としての名も馳せる。大山に住まいしていた折り、隣家に茶道を心得た人がいて、呼ばれては茶を楽しんでいた。私も同席したことがあるが、ある日の茶会。彼が手にした茶碗が少々重かったらしく「自前の茶碗を持ちたい」。そのことがきっかけになって、本格的焼窯を設置。土も自ら選定して焼いた。これは後年、中城村登叉に移されて「朝大窯」と称されることになる。
 画家、陶芸家としての与那覇朝大の表の顔よりも、ひとりの人間としての、私なりの話は尽きない。
 「さんしんの日」も25回。志半ばにして逝った彼にも参加してもらおう。いささか個人的感情が絡んでいるが、その思いがあって今回のポスターは、彼の作品を遺族の了解を得て使用することになった。では、与那覇朝大の歌声「安里屋節」はどうするか。彼がいないいま、彼がかわいがっていた八重山の歌者大工哲弘に歌ってもらうことにする。

  

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