旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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諺・俗語の中から・友人

2012-05-20 00:15:00 | ノンジャンル
 「首切り友=くびちり どぅし=」
「刎頚の友」「刎頚の交わり」の沖縄口である。
刎頚は、首をはねること。中国の史記に出てい「その友人のためなら首をはねられてもいいと言うほどの深いつき合いをさしている。「首切り友」は、それをもじったと思われる。 友人はそうあらなければならないだろうが、昨今のどこかの国の政界財界官界は、首切り友同士がどこでどうトチ狂ったのか、首切り友の首の取り合い、切り合い、ハネ合いをしている。
友情を説いた「首切り友」「刎頚の友」の意味を「旨い話、おいしい話、金儲け話があると、命預けますと固く誓うが、そのうま味がなくなったと確認し、利用価値なしと判断、邪魔ッな場合は早めに手を切る。そして、その場で素っ首を切り、ハネること」と、言いなおさなければならなくなった。

「友切り=どぅし じり」なる言葉もある。
友人としての縁が切れることを意味している。が、絶交とは異なる。絶交の場合は、主義主張、価値観、立場の相違から意識的につき合いをやめることである。しかし、「友切り」は、周囲からいつの間にか友人がいなくなることをさす。例えばの話。私に幾人かの友人がいたとする。いずれも個性豊かな面々。 私は喜んで親しみ、首切りの友の契りを結び<親友>を公言するだろう。ところが、私に欲が出てきた。親友たちの才能や力を自分のためにのみ利用する。それが金銭絡みだったらどうだろう。親友らには配分せず、己のふところを温かくする術を覚えたらどうだろう。私は彼らにはニコニコ顔だけをふるまって、利用しつづけるだろう。「彼らは気づくまい」と意識したときから、友人関係は正常さを欠いてくる。また、彼らも私の打算に気づき、感情的にギクシャクして、いつの間にかひとり抜けふたり抜け・・・・。そして、誰もいなくなる。
これが「友切り」である。
自分では、うまく立ち回ったつもりだっただけに修復はきかない。モロイけれども、<人情>とは、そうしたものではなかろうか。ちょっと、ドロドロした話になったが、私には、幸いにしてドロドロの沼にはまる前に、いさめてくれる<首切り友>がいる。ありがたいことだ。
独白=ちょっと、いい人ぶったかナ。


また、「友騙すしやかねぇ親騙し=どぅし だますしやかねぇ うや だまし=」友人を騙すより、己の親を騙せと言うことだ。誰も騙さず生きられたら、それに越したことはない。が、どうしても騙さなければならない場合は、友人を騙してはならない。親は子に騙されても、愛憎だけですまされる。友切りすると、一生寂寞感にさいなまれるのではなかろうか。
私事。
おふくろの口から直接は聞いてないが、おふくろは姉に「夫ん持ちゅらぁ 友多さしから持てぃうとぅん むちゅらぁ どぅし うふさしから むてぃ=」夫にするなら友人の多い男にしなさいと言っていたそうな。
おふくろは、明治29年生まれで90才まで生きたが、明治・大正・昭和と激動の日本、いや、沖縄の中で生きてきた。彼女には<首切り友>が、いかに深く人生に関わるか。実生活の中で会得したのだろう。
おふくろは、私にはこう言った。
人間、胴一分しぇ生ちぇ居らんにんじん どぅいちぶんしぇ いちちぇうらん」「人間、自分ひとりでいきているのではないヨ」
うまいことを言ったものだ。
おやッ?待て。
「首切り友」「友多さ=とぅし うふさ=」「友切り」・・・。どうして今日は「友人」にこだわっているのか。私の周辺に首切り友がいなくなったのか。友切りが始まっているのか。怖いことだ。今夜は「酒飲み友=さきぬみ どぅし」「飲み友だち」を集めて、そこいらを語り合ってみることにする。あなたも仲間に入りませんか。


  

復帰のあとあさき

2012-05-10 00:44:00 | ノンジャンル
 1972年5月15日は、200ミリを越す豪雨であった。県内外の新聞雑誌は「うちなぁんちゅ=沖縄人=の嬉し泣きの涙か、納得のいかない悔し涙か、無情の涙か」などと伝えた。
ラジオのディレクターだった私も特別番組を制作。午後9時から午前1時までの生放送。キャスターは新屋敷二幸アナウンサー(元名桜大学教授)、コメンテーターは作家大城立裕氏。沖縄地上戦。敗戦。国に見捨てられたアメリカ世。それでも、母なる国への夢を捨てきれず、命がけの復帰運動の経緯などを語りながら番組は進められた。しかし、勝ち取った祖国復帰のフタを開けてみると、沖縄人の民意などどこにもなく、依然、在日米軍基地の75%は沖縄に置いたままの復帰。番組そのものもギクシャクしたままの終わり方だった。
基地付きは、40年経ったいまも変わらず、逆に強化されていく。これでも、復帰は果たされたのか。アメリカと日本の狭間に置かれて不安をかこっている沖縄人は、果たして<完全なる日本国民>に成り得ているのか・・・・。あの日の涙は、いまなお流し続けているのである。
古諺に「泣ち涙ぁ ぬぐてぃ とぅらし=人の泣き涙は拭ってあげよう」とある。祖国母国の<母>は、声はかけてくれたが、抱きしめてはくれない。涙も拭ってはくれない。それどころか、いまもって<痛みの涙>を強いている。
「そりゃあ、被害者意識ってぇもんよッ」
こんなコメントも聞こえる。その通りである。被害者なのだから、その意識をもつのは当然で<その意識>があればこそ、真の平和を本土の国民と共有するために、戦い続けているのである。
日本政府はイキなこともやってくれた。1981年5月15日付の琉球新報の記事に曰く。
「総理府は、昭和47年3月22日付で、屋良朝苗主席あてに5月15日の復帰の日に、市町村教育委員会を通して、沖縄の小、中学校児童約20万人に復帰記念メダルを配布するよう正式に通知した。このメダルは銅製で直径2.2センチ。裏側中央には国旗を描き、上辺に<復帰おめでとう>、下の方には<内閣>の文字。表は<守礼門>を中心にして、周囲に海をあしらった波形がデザインされている。ところが<核付き返還・屈辱の日>として、沖縄教職員組合は配布に反対。各分会に対しても、配布に非協力体制をとるよう指示。当時の児童生徒は、小学校が233校で12万9449人。中学校が149校で7万1144人。計20万593人。宮古、八重山、北部で校長を通して配られたものの、那覇や中部では、現場の反対にあい、約10万個が宙に浮いたまま回収された。那覇の場合は、教育委員会が受け取りを拒否したといわれる。この10万個のメダルは、県教育委員会の倉庫に今なお眠ったままで、取り扱いに苦慮している」
母は、泣く子に甘いアメをあたえて、基地付き復帰を納得させようとしたが、子は、アメを受け取らなかった。なめなかった。


2002年。
政府と県の異例の共催で<沖縄復帰30周年式典>が、19日午後、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開かれた。小泉首相、綿貫衆議院議長、倉田参議院議長、山口最高裁長官ら<三権の長>が揃った。会場は盛り上がったようだが、一般家庭はモリ下がった。
平成生まれの子のコメントが耳の底から離れない。
「祝日なのにどうして日の丸を揚げないの。むつかしい顔をした大人たちはヘンッ!」
この子たちに<復帰>をどう伝えたらよいのだろうか。
梅雨入りした沖縄地方。涙も枯れ果てたのか空梅雨である。



海止み・山止みの頃

2012-05-01 00:03:00 | ノンジャンル
 これで何度目になろうか。
 小さな庭に37年立っているクルチ〈黒木。黒檀〉の繁った枝葉の中にホートゥ〈鳩〉が巣を掛けたらしい[らしい]というのは、親鳩の警戒心を刺激しないように気を配って近づかないようにしているからだ。しかし、親鳩の出入りからして巣掛けは確かである。親鳩は時たま巣を離れ、それでも遠くまでは行かず、そこいらを神経質に飛びまっている。巣の周辺の安全性を確認しているのだろう。その際、家人は鳩の期待に応えようと息をひそめ、できるだけ無視を装い、物音をたてないようにしている。
 おかげで、いつも数羽連れだって顔を見せていたクラー〈雀〉の姿が皆目なくなった。どうやら鳩が巣を守るためにクラーを威嚇、どこぞに追い払ったらしい。それでも鳩が無事孵化して巣立ったら、クラーもわが家に戻ってくるにちがいない。

 昔はこの時季「山止め・海止め=やまどぅみ・うみどぅみ」を実践していた。
 陰暦4月から5月いっぱいは、山に入って木を切ったり、磯や川での小魚、蟹、貝などを獲ることをひかえた。山では若木をはじめ、共生する鳥類の産卵、孵化がある。磯や川も同様、そこに暮らす生物たちが命をはじめる時・場所であることを人間が尊重していたのである。所によっては罰則を定めたようだが、一般的には[注意・警告]にとどまり「禁を犯すとウーカジ〈大風、台風〉が発生して不作になる。ハブに咬まれる」などの俗説のいくつかで牽制していた。昔びとは、自然と共に生きている、いや、自然に生かされていることを礎にしていたのであろう。現代人が失念していることのひとつのように思えるがどうか。


 うるま市石川・嘉手苅〈かでかる〉、通称石川高原に平成10年に開園した「ビオスの丘」は、いまが花盛りのようだ。去る日曜日、ビオスの丘に遊んだ友人がメールを送ってくれた。
 「ビオスとは、生命を意味するギリシャ語。植物を通して“やすらぎ”と“感動”の提供を標榜するだけにカクチョウラン、ツルラン、シラン、ナゴラン、ナルヤラン、フウランなど危急種、絶滅危惧種の蘭を主に沖縄ならでの亜熱帯植物と風景を楽しんだ。園内の湖辺には水牛が涼み、湖面をアーケージュー〈とんぼ〉が飛び、水鳥のバンが泳ぎ上手を自慢。ゲットウ、ソウシジュ、サンダンカなどと競って自生のアカバナー、タンポポ、スミレが笑顔でいた。久しぶりに[ビオス]を実感した」


  友人は[お前もヤーグマイ〈家籠り〉せず、アウトドアを楽しめよ]と、尻を叩いているのだ。そのことは十分自覚しているものの出不精はなかなか解消できないでいる。そこでヤーグマイしたまま、花に親しむ方法を見つけることにした。つまり、琉歌の中に花を求めた。そして、意識的に[蘭]と出会う。

 ♪蘭ぬ匂い心 朝夕思みとぅまり 何時までぃん人ぬ 飽かんぐとぅに
 〈らんぬ にうぃぐくる あさゆ うみとぅまり いちまでぃん ふぃとぅぬ あかんぐとぅに

 琉球王府時代のある年の正月。重臣たちが揃い、国王に年頭の祝辞を述べた。
 「御主加那志前=うしゅがなしいめー。国王様=がご壮健であられること。これが琉球国の平和の基礎。何時までも万民のために健康でありますように」
 これに対して国王は、前記の1首を詠んで答えた。
 「蘭の花の美しさ、匂いは万民が等しく好むところ。万民が愛でて飽きない“蘭の心”をもって国政にあたるように。万民あっての琉球国なのだから」
 重臣たちの祝辞は「長ぢゃんな節」。国王の返歌は「伊集早作田節=んじゅ はいちくてんぶし」として、いまでも歌われている。
 蘭はまた、男女の心象をも映し出す。

 ♪蘭ぬ花忍でぃ 忘りたさ昔 飽かん眺みたる 梅ぬ姿
 〈らんぬはな しぬでぃ わしりたさ んかし あかん ながみたる んみぬ しがた

 蘭の花に心ひかされて飽きることなく愛でている。それゆえ、しばらく前に好み愛した梅の花のことをすっかり失念していたという歌意だ。これを単に蘭、梅とせず、男女に置き換えると意味がまったく異なる。梅の時季には「梅が1番」としながら、梅の時節が過ぎ、蘭が咲きはじめると蘭に心を移し「1番」とする。人間はなんとも移り気、新しいモノ好みで薄情になったりする。その浮気者を男とするか女とするか。昨今は判定しかねるが、昔風に男とするならば、薄情者代表としてひと言、申し上げなければならない。
 「身近にあった、あるいは在る梅がキライになったのではない。いまを盛りとして咲く蘭も、心奪われるほどスキっというだけのことだ」と。

 とかく沖縄は、花が咲き鳥が歌い舞う初夏の真っ只中にある。