旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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仲よし小道のランドセル

2015-11-20 00:10:00 | ノンジャンル
 ♪仲よし小道は どこの道 いつも隣のミヨちゃんと ランドセル背負って元気よく お歌を歌って通う道~
 昭和22年(1947)。私は捕虜収容地のひとつ旧石川市(現・うるま市)城前小学校の3年生だった。
 その年の春か秋。学校の「お遊戯会」のメンバーに選ばれた。たしか男児3名、女児3名だったと記憶している。その時の演目が「仲よし小道」だった。
 同級生の女の子と(仲よく)手をつないでダンスする。これには、なかなかの抵抗があって、先生の指名に尻込みをした。たとえ8歳と言えども、日本男児である。明治生まれの親父に「男女7歳にして、席を同じくせず」の教育を受けていたからだろう。
 「これからは男女平等の民主主義の世の中です。おやんなさい」。
 赤嶺という女先生の熱っぽい説得を家に持ち帰り、親父に話すと親父は「うん」とも「すん」とも言わない。明治男には、男女平等、男女共学が得心がいかなかったのだろう。けれども、兄や姉たちは時代を敏感に捉えていたのだろう。お遊戯会出演を大いに奨める。
 「親父は俺が得心させるから」。
 10歳上の兄の言葉を納得して、出演を決意した。いや、決心するに心動かされた。いまひとつの理由は、ボクと組む女の子が、F‣Mさんと言って、学校中でも(美少女)の十指に入る子だったからである。稽古にも熱が入り「仲よし小道」は満足するに十分な評判を得てプログラムを飾った。音曲はもちろん、戦火を生き残った蓄音機盤。蓄音機の針が盤をこする、いわゆるスクラッチもボクには快い楽器の音に聞こえていたように思える。

 「この歌、知っている?」。
 いま6人いる孫の中の5年生に、自慢半分に問うてみると、
 「ランドセルは知っているけれども、歌は知らない」。
 つれない返事が返ってきた。

 ランドセルは、主として「小学児童が学用品を入れて、背中に背負って通学する学用鞄」と、説明するまでもあるまい。殊に低学年児童が学校の生き返り、ランドセルを左右にゆらしながら走っているさまを見ると、ボクの唇は勝手に‟仲よし小道は どこの道~”と声を発し、隣のミヨちゃん、いや、M子ちゃんが、瞼に登場するのである。
 日本においてはランドセルは、なんでも軍人専用だったようだが明治の中期、大正天皇が学習院入学の折り、通学用として、伊藤博文がイギリスから取り寄せて献上したと伝えられる。そののち、学習院が校規をもって(生徒用)に採用した。それがしだいに一般の児童用として普及、現在に及んでいる。なお、ランドセルはオランダ語の(ランセル)の転訛だそうな。日本語訳は「背嚢(せのう)」。
 背嚢=物を入れて背負う方形のかばん。皮やズックなどで作る。軍隊で使用されたものをいうことが多い。辞書にはそうある。

 11月9日。新聞をひらく。
 「ランドセル商戦、はや、活況」「時期、年明けから年末に」「フィット感の確認重要」の文字が目を引いた。
 ランドセルの発売は、新学期前と存念していたが、さにあらず、すでに始まっているそうな。4年ほど前まで年明けの1月からが売れ時だったが、最近は年内の10月から年末にかけてピークとなっている。
 人気色は男児用が黒や青、女児用は明るめの赤やピンク、薄い紫などなど。お値段は平均3万円から4万円が売れ筋。扱い店の人は選び方のポイントとして「軽さも大事だが、まず背負ってみての重量感やフィット感が大事。児童の成長過程においても形は変化する。教科書などを入れると重さの感じ方も変わるので、店頭に置いてある砂袋など、重りになるものを入れて体感させてほしい」と助言している。

 「俺にも来春、小学校に上がる孫がいる。本人はまだ入学を意識していないようなので、クリスマスのサプライズプレゼントにしようかと思っている」。
 そう目を細めて言うのは、友人のK。ランドセルは爺婆の愛と夢も詰めるもののようだ。
 かく言うボク自身は、ランドセルを背負ったことがない。
 終戦直後の1年生は、HBTと呼ばれた米兵の野戦服をほどいて縫い直した親父特製の手持ち鞄や米軍基地から払い下げられた軍用のそれで高校までを通した。それもけっこう重宝だった。なにしろ、教科書、雑記帳、筆記用具、弁当箱などのほか、学校には持ち込んではいけない軍用ナイフや遊び道具や大人用の雑誌「キング」「リベラル」などもしのばせることができた。それはすべて肩に掛けるモノで、背中に背負う(かばん)は、いまもって持ったことがないのである。

 最近、歳のせいか両手が塞がるのがなんとなく不安だ。年寄り用のリュックサックも流行りだが、この際、体裁をおっぽり出して、小学生用のランドセルを背負うって見ようかと思う。体裁よりは利便性を重要視したいのである。リュックサックにしないで、ランドセルに思いを馳せるのは、それを背負って‟仲よし小道”を通りたいからだ。それを実行したらあなた!ボクと並んで歩いてくれるだろうか。古女房や娘は(拒否!)するだろうが‟隣のミヨちゃん”なら‟お歌を歌って”歩いてくれるに違いない。またぞろ歌ってみる。
 ♪仲よし小道はどこの道 いつも隣のミヨちゃんと ランドセル背負って元気よく お歌を歌って通う道~。



酒の座の遊戯=サムイ・おとーり

2015-11-10 00:10:00 | ノンジャンル
 少なくとも5、6人はいて飲んだほうが酒はうまい。
 二人のさし向いそれも悪くはないが、どちらかというと5人はいたほうがいい。世間ばなしが交換できるのがいい。かつて少年のころ、親父たちが気心を知った人たちと車座になって、酒瓶を回して歓談しているさまを見てきたからだろう。
 興にのると親父たちは、遊戯を始める。
 座の中央寄りに(ふたり)が進み出て向い合って正座。その手にはお箸が3本握られている。
 「とぉいっ!=(用意は)よいかっ!」。
 座の中の年輩者の掛け声とともにふたりは、お箸を持った両手を後ろ腰のあたりに隠す。そして、相撲の立ち合いよろしくにらみ合い、気の乗ったところで、互いに声を発する。
 「いくちっ!いくちっ!いくちっ!ヤイッ!」。
 (幾つだ!幾つだ!幾つだ!)の声の後の(ヤイッ!)で、右手か左手に持ったお箸を目の前に出すと同時に(何本っ!)と数を言う。差し出すお箸は1本でも2本でも3本でも、あるいは持たなくてもいい。要するに双方が差し出したお箸の合計本数を言い当てた者を勝ちとするのである。先に3連勝した者は、座主からなみなみと注がれた祝杯を受けるという遊戯だ。そしてそれは組み合わせを替えて、延々となされる。真剣勝負の親父たちの大声は隣家にまで聞え、夜なぞ起き出して覗きにくる童もいるほどだった。わが家でそれがなされると、ボクは(親父の傍)という特等席で(見学)。「早く大人になってボクもやりたい!」と、切望したものだ。

 宮古島市の各地の酒座にも似たような(サムイ)と称する遊戯がある。
 サムイの場合、那覇とはちょっと異なり、お箸3本は初めから両者の前に置いて勝負はなされる。睨み合いのあと気合いを入れて片手を出す。ジャンケンの要領だ。その片手の指の数の合計を当てるというもの。そして勝つと目の前のお箸を1本取る。3本のお箸を先に取った者は(勝利の美酒)を喉にすることが出来るのだ。
 サムイは琉球王朝時代に中国から入ってきたもののようで、首里士族の酒座の余興として流行り、その後、庶民の間でもなされたものという説がある。必勝法はただひとつ。
 「相手の癖を読みとること」だそうな。

 また、宮古島には「おとーり」という酒座の作法がある。土地の言葉では「ウトゥーイ・ウトゥーズ」。起源は神事にあり御嶽・拝所でなされたが、いまでは個人の家や巷のお座敷、スナックなどでも頻繁に見られる光景である。簡単にいえば酒の回し飲みだが、本来は「神に捧げた貴重な御酒」を皆して、均等に飲むという(平等の精神)を強調した儀式だった。
 まず酒宴を司る(親・おや)が発声する。酒宴の趣旨説明を祝辞として述べた後、盃の酒を飲む。そして、その盃は次の者に渡される。指名を受けた者は、誇らしく祝辞を述べ、盃を干し、次へ回すという段取り。かつては(チブ・おちょこ)で成されたが、今ではコップ。酒は泡盛。筆者も2度3度経験しているが、要領を知らず飲み干していると、結構早めに酔いが回る。

「おとーりの作法」に詳しい「ぷらかすゆうの会=平和の世の会」の川満和彦氏はこう説明している。
 1.親はひと通り盃がまわると「つなぎます」と言い、2番手に仕切りを繫ぐ。口上は長くなってはいけない。3分程度がいい。
 2.回し方は親を中心に右回りと左回りがある。親の仕切りしだい。一般的には時計回り。
 3.グラスに注ぐ酒量は、最近は受ける人の意向を尊重している。かつて華やかなころは、親に負けじと量を増やすことを自慢していたが、最近は良心的になっている。
 4.酒の濃度は一般的に8~10度。市販されている泡盛の濃度は25~30度。43度などがある。などがある。‟おとーり専用”の8~10度の1升瓶を限定販売している。
 5.酒はほとんど泡盛だが、時にはビール、ウィスキーも用いる。しかし、それは「おとーりの伝統」に反する。おとーりは泡盛に限る。
 6.参加者全員におとーりが一巡すると、このごろは宮古空港を発着する飛行機に準えて1順目を「第1便」2順目を「第2便」3順目を「第3便」と称して宴席がお開きになるまで、‟おとーり”の盃は飛ぶ。中には居残り組がいて、それからは何便飛んだのか管制塔も司令不能になる。
 なお「ここが肝心なのだが」と断っては川満和彦氏は、
 「おとーりの親や子が口上を述べている間は、私語を慎み、静粛に聞くことを礼儀としている」と結んでいる。

 ‟白玉の歯に沁みとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり”
 歌人若山牧水は(静かに)を好んでいるがそれもよし。けれども年末は古馴染みや後輩たちとの‟サムイ”や‟おとーり”もいいのではないか。
 ここまで書いて、ふと部屋の一隅にある亡父の白黒写真に目をやると、真面目な顔が一瞬ほころんで、こう言っている。
 「お前もいっぱしの酒飲みになったな」。



月が美しい時効

2015-11-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「拝啓」の書き出しの礼状が届いた。
 嘉手納町に事務局を置くNPO法人かでな主催「第2回‟月眺み”大会実行委員会」(実行委員長神山吉郎)からだ。
 9月26日夕刻6時から嘉手納ロータリーを会場に催される同大会の案内を筆者担当RBCiラジオ「民謡で今日拝なびら=月~金・午後4時」でしただけなのに、丁重なことだ。
 「月眺み大会」とは、嘉手納町の西に位置する月の名所水釜を詠んだ新民謡「月眺み=ちちながみ」をコンクール方式で歌い合う大会。
 この日はあいにく台風接近のため、会場を町内のロータリープラザホールに移しての大会になったが、9組ののど自慢が出場して賑わった。

 ♪照り美らさあむぬ 押し連りてぃ里前 水釜ぬ浜や 月見どころ

 と、まず女性が歌い出すと、男性が返歌をする。

 ♪月やあまくまに 眺みてぃどぅ見ちゃる 何すが徒に 浜ゆ降りが

 女性=月が照り映えている(家にこもっておれようか)一緒に連れ立ち、水釜の浜辺に降りて眺めましょうよ。
 男性=月なぞあちこちで都度、眺めてきたモノだ。あらためて、浜辺に降りて何とする。徒労というものだ。

 作詞は富着よし(ふちゃく)。
 1908年。読谷村伊良皆(いらみな)の照屋家に生まれた。嫁して富着姓に。嘉手納町に暮らしを立てていた。詠歌をよくし、書きためていたものの中の「月眺み」に作曲家普久原恒男が曲を付け、唄/兼村憲孝、多和田真正、城間ひろみ、岸本ゆり子でレコーディング(45回転盤)。人びとの耳や唇に馴染んだ。他に冨着・普久原コンビの作品に「なれし古里」「浜遊び」「面影」などがある。1972年、64歳で逝去。
 嘉手納町民は「わが町の歌」として捉え「月眺み大会」を仕込んで、歌い継いでいる。
 ちなみに嘉手納町水釜は、琉球古典音楽の大家幸地亀千代師、奥間盛正師を同時代に輩出している。(わが町)に秀でた人物が存在することは、町民が誇り、それだけで文化の継承になるということか。

 ♪情てぃし知らん 月眺み知らん 明日からぬ明後日 我んね知らん
 ♪水釜ぬ月ん 照る月や一ち 草花ぬなびく ムイに行かな

 女性=(わたしの)情も知らず、月を愛でる情緒もしらないなんて、何と無粋な!そんな人のことなぞ(明日、明後日からは)知らないわよっ!付き合わないわよっ。
 男性=(そこまで言うなら)。水釜の月は何時も眺めている。どうせならば、草花が夜風になびく丘に行こうよ。

 作曲の普久原恒男。
 1932年大阪生まれの沖縄人。1959年。大阪西淀川にあった沖縄のレコードレーベル「マルフクレコード」を1959年、伯父で養父の普久原朝喜より引き継ぎ帰郷。1961年から本格的な作曲活動に入った。「芭蕉布」「豊年音頭」など多数の作品がある。
 普久原恒男著「五線譜による沖縄の音楽」には「月眺み」について、こう記している。
 「1961年。初めて書いた民謡曲。作詞の冨着よしは、戦争を生き抜いた典型的な沖縄のお母さん。現在のコンクリートで固められた嘉手納町水釜ではなく、半農半漁を営む人たちの素朴な入江だったころの水釜の月見を詠んだうた。音響機器も蓄音機から電蓄への変換期で、レコードも78回転のSP盤からEP(45回転)へ変わりつつあった時代の節目の作品。那覇からコザへ帰る乗合自動車の中、この曲をラジオで聴いたある高名な舞踊家は感動して、帰宅するのももどかしく、振付けをして踊ったというエピソードもある。

 ♪ムイ登てぃ来りば 照り美らさ勝てぃ 此処居とぉてぃ互に 語れ遊ば

 男女=丘に登ってみれば、月は一段と照り勝っている。此処で心の飽くまで語ろう。

 11月1日は旧暦の9月20日。
 5日前の9月15日(八月十五夜)に対して「後の十五夜=あとぅぬ じゅうぐや」と言い、8月のそれに負けず劣らず美しいとされ、筆者も古馴染み宅に招かれて秋の月影とほろ酔いの頬に心地よい風を楽しんだ。

 ◇寝屋ぬ灯火ん あがた押し退きり 照る月や清か 惜しさあむぬ
 〈にやぬ とぅむしびん あがた うしぬきり てぃるちちやさやか WUしさあむぬ

 歌意=寝屋の行燈の灯りは、隣の間に押し退けよ。二重に明るいのは、清かに明かりを投げかけてくれる名月に対して失礼。いや、いかにも惜しくてならない。
 沖縄の月は四季折々美しい。身も心も月色に染めてくれる。