旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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どこへ行くのか・日本

2007-06-14 15:08:31 | ノンジャンル
★連載NO.292

 明治12年<1879>4月4日。沖縄県の誕生日である。したがって、沖縄県は128才。
 明治政府は琉球王国をひとまず(琉球藩)にし、本土の各藩同様「藩を廃し県を置く」つまり、廃藩置県をもって、沖縄を日本国に組み入れた。
 唱歌「蛍の光」の3番の歌詞に♪千島の沖も沖縄も・・・・の1行を入れて(美しい国)づくりへ踏み出したのである。
 以来「鼻ふぃーしん 大和風にふぃり=くしゃみも日本風にせよ」と、皇民化教育は徹底されていった。このことは、第1次、第2次大戦を仕掛けるころまでには一応の成功?をおさめ、男たちは勇んで戦場に出、女たちは(銃後の妻)となって、鬼畜米英に立ち向かった。

 ♪男 生まりてぃくりば 軍人になゆい 女 生まりてぃ我んね 銃後の護り
 意訳=男に生まれたら軍人なる。女に生まれた私の役目は銃後の護りに徹すること。
 皇民化教育を進められている中で歌われた流行り唄「銃後の護り」の1節だ。
 日本の南端に住む沖縄人は「オキナワもん」と呼ばれ、本土から差別された時代だが、それでもオキナワもんの出征兵士は「これで天皇の民になれた。日本人になれたッ」と歓喜したという。
 本土では、
 ♪ボクは軍人大好きだ 今に大きくなったなら 勲章つけて剣さげて お馬に乗って ハイドードー
 と、歌わせていた。しかし、国民はひそかに♪ボクは軍人大嫌い 今に小さくなったなら おっかさんに抱かれて乳飲んで 1銭もらって飴買いに。と替え歌を歌っていた。
 沖縄の「銃後の護り」と重ね合わせてみると、日本国の近代史が見えはしないか。

 再び「銃後の護り」
 ♪男ん子産ち でぃかちょおさ 軍人になゆい 女ん子どぅん産しね 銃後の護り
 意訳=男児を産んだ。でかしたぞッ。立派な軍人になるぞ。女児を産めば、これまた銃後の護りの要員になる。


 私事。
 明治生まれの母は、5男4女を産んだ。
 「あとひとり!10名産めば天皇陛下から褒美が貰えたのにッ」
 ふたりの息子を太平洋上とビルマ戦で戦死させながら、戦後になっても本気ともとれる言葉を口にしていた。「産めよ!増やせよ!」の時代に生きたとは言え末っ子の私は、さむざむと(親心)を聞いたことを今も忘れない。国が危機感をもって推進している少子化対策の向こうには、近い将来の「軍隊増強」「銃後の護り育成」の意図があるのだろうか。いやいや、それは(考え過ぎ)・・・・であればいいのだが。

 東京からは沖縄は見えないが、沖縄からは東京がよく見える。
 麻生外務大臣は(例えば)と前置きにしたとしても「沖縄が他国から攻撃された場合」なぞと、国の自衛力増強を促している。銃口を向ける人は、銃口を向けられる人の脅威を知らないでいる。おそろしいことだ。
 さらに時を同じくして文部科学省は、高校歴史教育検定で沖縄戦の「集団自決・強制集団死」に、日本軍が関与したとする記述を削除・修正。
 このことに抗議する「沖縄戦の歴史歪曲を許さない!県民大会」は6月9日、那覇市の県民広場で怒りをもって開催された。
 「米軍の捕虜になるくらいなら、自ら命を断ち、日本人の誇りを守れッ」
 壇上に立った瑞慶覧長方<ずけらん ちょうほう>さん75才は、自身の体験を証言した。
 「戦争中、国民学校6年を終えたばかりの13才。学徒動員で日本軍のための防空壕堀りをしていた。(昭和20年)5月23日。(出身地)大里村<現・南城市>の民間壕に避難していたが、そこも日本軍に追い出され玉城、東風平、摩文仁の激戦地を彷徨。こうした中、日本軍は、天皇の子である日本軍が米軍の捕虜になっては、これ以上の恥はないぞッ。いざというときは(自決せよッ)と、2個の手榴弾を渡した」<沖縄タイムス・6月10日朝刊より>



 日本という国は、またぞろ、
 ♪ボクは軍人大好きだ・・・・を子供たちに歌わせ、男たちを軍人にし、女たちを銃後の護りにつかせようとしているのだろうか。
 6月23日は、日米戦争における沖縄地上戦が終結した日である。

次号は2007年6月21日発刊です!

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