旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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琉歌百景・昔節五節編 その➁

2009-03-25 22:01:00 | ノンジャンル
連載NO.385

 琉歌百景○35〔昔節その③ 首里節=しゅゐぶし。すゐぶし〕
 ♪籬籠まてぃ居りば くくてぃるさあむぬ うす風とぅ連りてぃ 忍でぃ入らな
 <ましくまてぃ WUりば くくてぃるさ あむぬ うすかじとぅ ちりてぃ しぬでぃ いらな>
*ませ【籬】。辞書には、➀〔まがき。ませがき〕。②「芝居小屋の枡の仕切り」とあるが、この1首の場合、江戸城大奥にあたる首里城の大内原<うーちばる>を示す。城人<ぐしくんちゅ>、城女童<ぐしくみやらび>と称する女官が4、50人詰めていた。大内原は男子禁制だが、その中の女官の宿直<とのい>の若侍に対する“想い”を大胆に詠んでいる。
 歌意=籬内〈ましうち〉、つまり大内原に籠もってばかりいると〔くくてぃるさ=心落ちつかない様〕、気が滅入り心侘しい。うす風=と共に宿直の彼のもとへ忍んでいこう。
曲節に乗せる場合、この後に「里が番所=さとぅが ばんどぅくる」が付く。忍んで行く先は、思いびとが宿直をしている部屋であることが明らかになる。
 また「うすかじ」については「そよ吹く風」とする説と「後風=うしかじ」「押風=うすかじ」とする説などの解釈が研究者の間にある。チラシは「仲順節=ちゅんじゅん ぶし」。

 *琉球百景○36〔仲順節〕
 ♪別りてぃん互げに 御縁あてぃからや 糸に貫く花ぬ 散りてぃ退ちゅみ
 〈わかりてぃん たげに ぐゐん あてぃからや いとぅにぬく はなぬ ちりてぃ ぬちゅみ〉
 歌意=逢瀬のあとに今、しばしの別れがあったにしても、糸に貫きとめた愛という花は永遠に散ることはない。
 貫くと退くを巧みにかけている。貫花〈ぬちばな〉は、春の花々を30個40個と複数を赤い糸に貫きつなげて、いわばハワイのレイのように作り、女童が愛する男に贈る〔愛の交歓〕の習慣。
 沖縄本島中部に位置する中城村に「仲順」の地名がある。お盆に演じられる念仏踊り、通称エイサー唄に「仲順流り」はあっても“別りてぃん互げに・・・・”の「仲順節」そのものはない。しかし、平敷屋朝敏〈ふぃしちゃ ちょうびん=1700・11・30~1734・6・24〉の筆になる組踊「手水ぬ縁=てぃみじぬ ゐん」の主人公波平山戸〈はんじゃ やまとぅ〉と、深い愛を誓った女性真玉津〈まだまち〉の、しばしの別れの場の音曲として歌われることからして、歌詞、曲ともに平敷屋朝敏の創作と言われる。ただ、なぜ平敷屋は地理的に「手水ぬ縁」の内容とは関わりのない「仲順節」という節名にしたかは明らかではない。曲節は、すでにあったのを用いたとも考えられる。

 *琉歌百景○37〔昔節五節その④ 諸屯節=しゅどぅん ぶし〕
 ♪枕並らびたる 夢ぬちりなさよ 月や西下がてぃ 恋し夜半
 〈まくら ならびたる ゆみぬ ちりなさよ ちちや イリさがてぃ くいし やふぁん〉
 歌意=愛しい人と枕を並べている夢を見ていたのに、風の音に驚いたかしてハッと目覚めた。時はと言えば、就寝のおりは中天にあった月が西に傾いている冬の夜半。なんとつれない夢を見たことか。冬の夜のひとり寝は、ことさら侘しい。
 夜具になるのは己ひとりの温もり。しかし、それがふたりの温もりに思えてならない。そうなると思慕の念はますます増幅。ついには、冬の夜を悶々と明かしたに違いない。
 作者は、赤嶺親方〈あかんみ うぇーかた〉。彼は女性の身になってこの1首を詠んでいる。男のひとり寝よりも、女のそれと解釈した方が恋歌としての情感は深みを増すと思うのだがいかが。チラシは「芋ぬ葉節=んむぬふぁ ぶし」


 *琉球百景○38〔芋ぬ葉節〕
 ♪芋ぬ葉ぬ露や 真玉ゆか美らさ 赤糸あぐ巻ちに 貫ちゃいはきら
 〈んむぬふぁぬ ちゆや まだまゆか ちゅらさ あかちゅ あぐまちに ぬちゃゐ はきら〉
 歌意=陽が昇りきらない内に、芋の葉についた丸い朝露はキラキラと白く輝いて、真玉〈宝石。宝玉〉よりも清らかで美しい。ひとつひとつ赤糸に数珠繋ぎにし、あぐ巻ち〈首飾り〉を作り、あの人に差し上げたい。
 蓮の花や芭蕉の葉ではなく、芋の葉にしたのは甘藷の茎が赤みがかっているのを知っていて作者は、赤い糸や飾り紐に貫いた首飾りを連想したのではなかろうか。芋の葉に浮く露なぞはつい見逃しがちだが、身近にある何気ない情景に歌心をそそられた感性、観察力は、実にすばらしい。
 なお「諸屯節」の「しゅどぅん、しょどん」は、奄美大島の地名で「潮殿」の表記もあり、次の1首がある。

 *琉歌百景○39
 ♪諸屯女童ぬ 雪ぬ色ぬ歯口 何時か夜ん暮りてぃ 御口吸わな
 〈しゅどぅん みやらびぬ ゆちぬるぬ はぐち いちか ゆんくりてぃ みくちすわな〉
 *雪の色と書いて「ゆちぬる」と発音。白い歯並びは古今、女性のチャームポイントのひとつ。*御口吸わな=口を吸う。口づけの意。
 歌意=諸屯の乙女たちの雪のように白い歯は、なんとも魅力的。やがて日が暮れたならば誘い出して、口づけを交わしながら愛を語りたい。
〈次週につづく)

次号は2009年4月2日発刊です!

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昔節・五節=んかしぶし いちふし

2009-03-19 12:41:00 | ノンジャンル
★連載NO.384

 琉球古典音楽の中の「昔節」は「工工四・中巻」に収められている。後にふれる「大昔節」に対して「前ぬ五節」とも称する。

 ※琉歌百景○29〔昔節五節その①作田節=ちくてんぶし〕
 ♪稲花咲ち出りば 塵ふぃじん着かん 白実にやなびち あぶし枕
 〈ふばな さちじりば ちりふぃじん ちかん しらちゃにやなびち あぶしまくら〉
 *白実=しらちゃに。稲の穂。米粒。他に赤実=あかちゃにもある。*ちりふぃじ=土や塵などの汚れ。
 歌意=労を惜しまず育てた稲が見事に実を結んだ。白い実は黄金のモミに包まれ、塵ひとつついてはいない。あぶし〈畦〉に近い稲穂は、それを枕にするほどの実りだ。
 豊作の光景が見えるようだ。五穀の内でも、米の出来不出来はそのまま国力に関わり、人びとの暮らしを左右する。稲穂を「菩薩花」と称したのも、その辺に裏づけされた尊称だろう。また俗に作田類として「早作田節=はいちくでんぶし」「揚作田節=あぎちくてんぶし」「伊集早作田節=んじゅはいちくてんぶし」がある。
 これら古節には〔御供・うとぅむ〕あるいは〔チラシ〕という短い節がついているが、「作田節」のチラシは、次の「早作田節」。

 ※琉歌百景○30〔早作田節〕
 ♪銀臼なかい 黄金軸立てぃてぃ たみし摺り増しゅる 雪ぬ真米
 〈なんじゅうし なかい くがにじく たてぃてぃ たみし しりましゅる ゆちぬ まぐみ〉
 歌意=銀の突き臼で脱穀した米を金の尺棒を立てて量を計ってみると、予想以上の増産である。しかもその米は雪のように真っ白で美しい。
 実際には木臼を用いたのだろうが、この句は、琉球王代第2尚氏11代・尚貞王〈1645~1707〉の詠歌とされる。


 ※琉歌百景○31〔昔節五節その②ぢゃんな節〕
 ♪昔事やしが 今までぃん肝に 忘ららんむぬや ありが情
 〈んかしぐとぅ やしが なままでぃん ちむに わしららんむぬや ありがなさき〉
 歌意=もう遠い遠い日のことではあるが、老境に入っても心の奥に残り、忘れがたいのは、彼女の熱い情愛である。
 ものの本には、詠み人しらずになっているが、男性の詠歌と思われる。琉歌の用語としては”ありが情”のように「あり」は、男性が女性をさす言葉。逆の場合は「あま」と表現する。舞踊曲「浜千鳥節=通称・ちじゅやー節」に、“あまん眺みゆら今日ぬ空や”の例がある。人間、長い人生の間には男女を問わず、胸に秘めた想いがあり、老境の精神生活の支えになる。思い出づくりは、常々していたほうがよいということか。〔ぢゃんな〕の語意については、優雅、温情の意を表わす古語とする説のほかに諸説あるようだ。チラシは「大兼久節=うふがにくぶし」

 ※琉歌百景○32〔大兼久節〕
 ♪名護ぬ大兼久 馬走らちいしょしゃ 舟走らちいしょしゃ 我浦泊
 〈なぐぬ うふがにく んまはらち いしょしゃ ふにはらち いしょしゃ わうらどぅまい〉
 *いしょしゃ=口語では「いそうさ」「いそさ」と言い、嬉しいさま。歓喜の意。
 歌意=名護間切〈現名護市〉大兼久には、松の木に囲まれた馬場があり、若者たちが乗馬、競馬を楽しんでいる。いきいきとして頼もしいかぎり。一方、毎年イルカがやってくる我が名護浦、湾に舟を走らせ白波を蹴っているさまは絶景。爽快。
この白砂青松の中の光景に詠み人は、大いに“いしょしゃ”歓喜を覚えたことだろう。

「ぢゃんな」には、旋律を異にする「長ぢゃんな節=なが」がある。
琉歌百景○33〔長ぢゃんな節〕
 ♪首里天加那志 十百とぅとぅちゅわれ 御万人ぬまぢり 拝でぃしでぃ 
  ら
 〈しゅい でぃんじゃなし とぅむむとぅとぅ ちゅわれ うまんちゅぬ まじり WUがでぃ しでぃら〉
 *首里天加那志=国王の尊称。*十百とぅ=十の百倍・千年。この場合、永遠の意。*まぢり=すべて。全体。
 歌意=国王様にあらせられましては、幾久しくおわしませ。われわれ万民は、その徳をいただき、奉公いたしましょう。
この家臣の王寿万歳に対して、国王は返歌をしている。それが「長ぢゃんな節」のチラシ「伊集早作田節」の歌詞。

琉歌百景○34〔伊集早作田節=んじゅ はいちくてんぶし〕
 ♪蘭ぬ匂い心 朝夕思みとぅまり 何時までぃん人ぬ 飽かん如に
 〈らんぬにうぃ ぐくる あさゆ うみとぅまり いちまでぃん ふぃとぅぬ あかんぐとぅに〉
 歌意=蘭の香りに飽きを覚えるものはいまい。人の心もそれにならいたい。皆の者もこのことを朝夕忘却せず、身も心も蘭の如く香しくあってほしい。万民に飽きられてはならない。
君臣和睦というところか。


*来週号につづく。

次号は2009年3月26日発刊です!

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琉歌百景・御前風五節その②

2009-03-12 13:01:00 | ノンジャンル
★連載NO.383

 琉球古典音楽の「工工四」に記されている楽曲の成り立ちや形態を五節づつ括った呼称がある。
 先週号に続き「御前風五節」・かじゃでぃ風、恩納節、中城はんた前に次ぐ二節を紹介しよう。島袋盛敏著「琉歌集」、宮城嗣周著「嗣周・歌まくら」を参考にしているが、分不相応も省みず、これまでの見聞を基に私的解釈を試みることを容赦願いたい。もちろん研究者の論説に異を唱えるものでは決してない。お含みおきを。

 琉歌百景○26〔御前風五節その④長伊平屋節=なが いひゃ ぶし〕
 ♪とぅりぬ伊平屋岳や 浮上てぃどぅ見ゆる 遊でぃ浮上がゆる 我玉黄 
  金
 <とぅりぬ いひゃだきや うちゃがてぃどぅ みゆる あしでぃ うちゃがゆる わたまくがに>
 *とぅり=凪。*我玉黄金=愛する者。琉歌に登場する玉黄金は、他にも
「玉黄金無蔵=たまくがに んぞ・愛妻、愛人、彼女。*玉黄金里=たまくがに さとぅ。夫、彼氏。*玉黄金産子=たまくがに なしぐぁ。わが子。などがあり、玉<宝物、宝石>や黄金のように掛け替えのない人をさす。*遊でぃ=ここでは<わが子の>立ち居振る舞い、<立身出世した>立派な姿と解釈したい。
 歌意=波荒い海として名高い伊平屋渡<いひゃ どぅ>も、今日は油を流したように凪ぎ伊平屋島が波の上に浮き上がったように見えて美しい。同じように、わが子も立派に成長した。その姿は、ことのほか頼もしく美しい。
 この歌詞は、津堅親方<ちきん うぇーかた>の詠歌とする説と、琉球国第二王統初代尚円王<1415~1476>の母が、わが子の国王即位を歓喜して詠んだとする説がある。津堅親方と伊平屋島との結びつきは定かでなく、尚円の出生地が伊平屋島であるところから、尚円の母説が通説になっている。要研究。
 後者を前提にした次のような挿話がある。古典音楽をよくする方々の集会で「長伊平屋節」が話題になった。
 「尚円の母が首里入りしてから詠んだとされるが、これはおかしい。首里からは伊平屋島は遥かに位置し、見えるはずもない。したがって、波が荒いか凪いでいるか確認の仕様がなかろう」
 視覚的にとらえた議論を静かに聞いていた野村流松村統絃会師範・故宮城嗣周翁は、おもむろに口を開いた。
 「見える見えないの問題ではなかろう。およそ音楽をするものは、聞こえないものを聞き、見えないものを見ることができる心眼を持たなければならない。尚円の母の詠歌もそれだ。実際には伊平屋島は見えなくても心頭を滅却し、思念を深くして心眼をもってすれば、心底に映し出すことができる。ましてや、己の故郷は目を閉じれば見える。表現者の情念とはそうしたものだ」
 心眼と言えば、江戸中期の臨済宗の僧で、高位を捨てて諸国を遊歴・教化につとめ禅の民衆化に尽力した白隠禅師は、こう詠んでいる。
 “闇の夜に鳴かぬ鳥の声聞けば 生まれぬ先の父ぞ恋しき”


 琉歌百景○27〔御前風五節その⑤特牛節=くてぃ ぶし〕
 ♪常盤なる松ぬ 変わる事無さみ 何時ん春来れば 色どぅまさる
 <とぅちわなる まちぬ かわるくとぅ ねさみ いちん はるくりば いるどぅまさる>
 歌意=四季を通してみどりを絶やさない松。冬枯れを知らず、それどころか巡り来る春毎に、一段とその色を増す。人の心身もそうありたい。壮健長寿と重ねあわせている。
 北谷王子の詠歌。これに類似する和歌が古今集巻一・春の部にある。
 “ときわなるまつのみどりもはるくれば いまひとしおのいろまさりけり”=源宗千朝臣。
 「工工四」には「常盤なる・・・・」が記載されているが、本歌は読谷村に生まれた次の句といわれる。

 琉歌百景○28
 ♪大北ぬ特牛や なじち葉どぅ好ちゅる 我した若者や 花どぅ好ちゅる
 <うふにしぬ くてぃや なじちばどぅ しちゅる わしたわかむんや はなどぅしちゅる>
 特牛、日本の古語=ことひ・ことゐ。強大強靭な雄牛に意。これに対して大きな雌牛を「うなめ」というと辞書にある。大北<うふにし>は、読谷村間切の古称。なじち葉=なじちゃら、なじちゅうとも言う。和名ハイキビ。生命力旺盛、どこでも見かける雑草。
 歌意=大北の巨牛はハイキビを好んで食う。われわれ若者が好きなのは花である。
 この場合の〔花〕は、単なるフラワーではなく、若者の意気、精気としてみると歌は膨らむ。さらに〔花〕を〔弥勒世・みるくゆう。平和の世〕に置き換えてみても味わいがある。読谷村の名所残波岬に建立された歌碑には、この歌詞が刻まれていてここ数年、地元の人たちは「特牛節」を歌う場合、敢えて“大北ぬ特牛や・・・・”を採用している。
 御前風五節をそれぞれ漢字2文字で表すならば、かじゃでぃ風=歓喜。恩納節=優美。中城はんた前節=華麗。長伊平屋節=悠長。特牛=荘巌と、島袋盛敏氏は位置づけた。


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琉歌百景・御前風五節編

2009-03-05 22:41:42 | ノンジャンル
★連載NO.382

 民謡という言葉は「民族歌謡」の略語とされる。各都道府県のそれは「里うた。俚謡あるいは単に“うた”」と称していたが明治以降「民謡」に統一されたようだ。沖縄も例外ではないが沖縄の場合、民族歌謡にはふたつの流れがあって、琉球王府・宮廷音楽を中心に発達してきた歌三線音楽を「古典音楽」、地方の庶民の中で歌われたものを「民謡」としてきた。これも廃藩置県後の呼称。しかし、昭和47年<1972>の日本復帰以降から古典音楽は変わらないが民謡は、古来使われてきた「島うた」が主流になり、今日では普通語になっている。
 古典音楽は、教本及び記録本とされる「工工四・くんくんしー」上中下巻に124曲が収められて、その後収集記載された楽曲を合わせると204曲が伝承されている。さらには年代別あるいは形態によって5節づつ区分「五節・いつふし」と呼称している。これらを〔あくまでも〕私流の解釈を混じえて楽しんでみよう。表記は口語体にした。

 ※御前風五節<ぐじんふう いちふし>。宮廷の祝儀の際、国王の御前で演奏されたことによる呼称。

 琉歌百景○22〔御前風五節その①かじゃでぃ風〕
 ♪今日の誇らしゃや 何にじゃな譬てぃる 蕾でぃゆる花ぬ露逢ちゃたぐとぅ
 <きゆぬ ふくらしゃや なWUにじゃなたてぃる ちぶでぃゆる はなぬ ちゆちゃ たぐとぅ>
 歌意=今日の誇らしい歓びを何にたとえようか。花の蕾が朝露に出逢って、いましも満開するような心地。
 琉球、殊に古語を普通語に訳するのは至難。そこで私流に〔花〕を〔命〕と解釈してみた。
 *今日の誇らしくも歓ばしい祝儀を何にたとえたらよかろうか。それはひと皆が新しく輝かしい命の誕生とその活力を得て活性する心地がする。
 「かじゃでぃ風」には「嘉謝手風」「鍛冶屋手風」「冠者手風」の記載がある。
 なお「ちぶでぃWUる・・・・」の発音もある。


 琉歌百景○23「御前五節その②恩納節・うんなぶし」
 ♪恩納松下に 禁止ぬ碑ぬ立ちゅし 恋忍ぶまでぃぬ 禁止や無さみ
 <うんな まちしたに ちじぬふぇぬ たちゅし くいしぬぶ までぃぬ ちじや ねさみ>
 女歌人ナビーの詠歌。地方の庶民の唯一の娯楽は、歌三線を持ち出しての毛遊び<もうあしび・野遊び>であった。そのことは、王府から見れば著しい労働力の低下につながるとして、毛遊びの風習を改めるべく禁止令を出した。それに反発した1首と言えよう。
 歌意=若者たちの寄り所・並松<なんまち>の下に毛遊び禁止の立て札が立った。いかに御上の命令が絶対と言えども、若者の恋心を抑圧することはできまい。禁止の碑文!何するものぞ。無視して大いに語らおう。
 恩納ナビー=生没未詳。詠歌の背景を推察するに尚敬王<1713~1751>、あるいは尚穆王<しょうぼく。1752~1794>時代の人物と思われる。

 琉歌百景○24〔御前風五節その③中城はんた前節・なかぐしく はんためぇぶし〕
 ♪飛び立ちゅる蝶 まじゆ待て連りら 我身や花ぬ本 知らんあむぬ
 <とぅびたちゅる はべる まじゆまてぃ ちりら わみや はなぬむとぅ しらんあむぬ>
 歌意=春。花から花へ飛び移るハベル<蝶。ハビル・ハーベールーとも言う>よ。しばし待ってもらいたい。花の咲く野を知らない私をそこへ連れて行ってはくれまいか。一緒に遊びたい。
 直訳すればそうなるが実は、花の本は花の島・遊郭をさしているようだ。そして、この歌の場合の蝶は遊郭通いに長けた友人を意味している。と言うのも作者本部按司朝救<もとぶ あんじ ちょうきゅう>が、妻とくつろいでいる所へ悪友連が遊郭遊びへの誘いをかけてきた。本部朝救は按司<あじ。あんじ。高官位名>ながらもその遊びの経験がなかったわけではないが、妻の手前「花の島なぞ私は行ったことがない。しかし、せっかくの誘いだから連れて行ってほしい。いいかい?愛しの妻よ」と、妻の許可を得るために即興で詠んだと言うことだ。特記しておかなければならないのは、王府時代の遊郭は酒色のみにあらず。身分の高いお歴々の親睦会、歓送迎会、文化討論会、詠歌会、さらには政治的会合の場にもなっていたという。
 中城は、沖縄本島の地名中城ではなく、久米島宇江城、比屋定あたりをさす旧地名。「はんた」は、一般的には集落のはずれ、あるいはその先端地形や崖淵をも意味するが、ここでは〔中と称する城〕一帯のこと。その中城の支配者が貯水池を建設。水路をひいて稲作をはじめ作物の増産を成したことから、次の歌が生まれた。

 琉歌百景○25
 ♪はんた前ぬ下ゐ 溝割てぃどぅゆくす 三十まし三まし 真水込みてぃ
 <はんためぬ くだゐ んじゅ わてぃどぅ ゆくす さんじゅうまし みまし まみじ くみてぃ>
 んじゅ・んーじゅ=溝、水路。まし=水田地の数詞あるいは形の称。下ゐ=この場合は傾斜地。
 歌意=中城周辺の傾斜地に水路を通して、多くの農耕水田に水をひいた。おかげで豊作を得た。実りの地は見た目にもなんとも美しい。
この節は別に「中地はんた前節」「仲地はんた前節」として残っているが、楽曲がいいせいか歌詞を替えて歌われ、組踊「姉妹敵討=しまい てぃちうち」にも「石川はんた前節」の節名で用いられている。御前風五節に組入れられたのも、その辺が理由ではなかろうか。
“飛び立ちゅる”の歌詞は、遊郭とは切り放して純粋に「春の歌」として鑑賞した方がいいのかも知れない。  〔御前風五節。後の2節は次回につづく〕

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