旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
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時を刻む・流行歌

2015-09-20 00:10:00 | ノンジャンル
 ※「白い花の咲く頃」唄・岡本敦朗。
 この歌を聞いたのは「二十歳になった頃」。昭和33、4年頃だったと記憶する。私の周辺では「流行歌を歌うのは知的ではない」とされていた。二十歳の歌は「トロイカ」「カチューシャの唄」などロシア民謡や「民族独立行動隊」「インターナショナルの歌」等々、日本復帰に向けてのそれだ。流行歌は、運動会のスクェアダンスに用いた「青い山脈」ぐらいなもの。
 こうした中、ラジオが聞かせてくれた「白い花の咲く頃」。後に知ることになるがNHK制作のラジオ歌謡のひとつだ。何が私の感性をゆさぶったかというと♪・・・・さよならと云ったら~だまってうつむいていた お下げ髪~。このフレーズだった。
 別にお下げ髪の思いびとがいたわけではないが「さよなら」という言葉の切なさ、寂しさ。そして甘酸っぱさが、心に刷り込まれたことではあった。
 作詞者は何に「さよなら」を云ったのか。「あの白い花」「あの白い雲」「あの白い月」と綴っている。
 勝手に想像するのだが作詞者は、戦争で愛する人に、愛する故郷に、いくつかのことに「さよなら」をせざるを得ない境遇にあったのだろう。
 またすぐに逢える「さよなら」はよしとして、センチメンタルに過ぎるやも知れないが、切ない、寂しい「さよなら」は口にしたくない。

 RBCiラジオ(月曜日~金曜日)午後5時放送のワイド番組「柳卓の‟いいんでないかい!」は、リスナーと向かい合った情報・音楽番組である。
 柳卓(やなぎ たく)は北海道空知郡芦別の出で、大学卒業と同時に琉球放送に入社。折から注目のメディアになったラジオ、テレビのバラエティー番組の司会をパワフルにこなし人気者になった。その間に那覇市泊生まれの女性(信子)と結婚。すっかり(40年のウチナーンチュ)を自認していた。
 「いいんでないかい!」金曜日のコーナーに「名曲発掘委員会」があって、リスナーが(名曲)と目する歌謡をメール、ファクシミリ、手紙で受け付けて紹介している。
 たまたま、会社でのデスクを二人部屋に並べていることもあって、私も「名曲発掘委員会」に参加させてもらっている次第。

 ※「国境の町」唄・東海林太郎。
 お盆の夜。いまは仏壇の人になってしまった兄貴や、彼の友人たちが集うと歌っていた「国境の町」を思い出す。
 ラジオがまだ普及していなかった昭和20年代。少年のボクにとっての「大人の歌」は、もっぱら兄貴や年上の人たちの唇が発するそれを耳に馴染ませて覚えたもの。
 ♪・・・雪の広野よ~は、どこの国境の広野町だったのだろう。いまになって理解するのだが、中国に侵攻した日本軍は、シベリア越えをして、ロシア国境まで兵を進めた。故郷を離れて何千里。雪の異国からの思いは家族には届かない。死の恐怖と背中を合わせながら、故郷へつづく空を眺めながら(男泣きする宵)もあったであろう。そして、故郷で自分の無事の帰りを待っている(キミに逢うのはいつの日ぞ)だけを胸に兵士たちは、お国のための行軍をしたのだろう。その兵士たちの幾人が故郷の土を踏み得たか。
 国境の町に散った兵士たち・・・・。今年のお盆には、千の風になって、故郷に帰還しただろうか。いや、帰還したに違いない。そうでなければ彼らの魂の安寧はあり得ない。
 お盆の夜は己一人のみならず、日本人の(来し方)をつくづく思わせる。

 時を刻む歌は何であれ、聞き歌う本人にとっては名曲、名作である。ただ、この頃は「唄う歌から見る歌」になった。テレビのおかげだろう。けれども、聞く一方に飽きた若者たちはシンガー・ソング・ライターになって、ユニットを組んで自己表現をしている。羨ましい限りだ。それでも昭和生まれは、これまでは流行歌と云われた演歌その他のものに、時代を再確認するのである。

 ※「望郷酒場」唄・千昌夫。
 演歌を歌って泣いたことがあるか。
 友人Yは、自分で選んで「望郷酒場」を歌うたびに、決まって鳴き声になる。それも出だしからウルウルしている。♪おやじみたいなヨー~酒飲みなどにならぬつもりがなっていた~。このフレーズが身につまされるらしい。
 Yの親父さんは、相当の酒好きだったらしく、おふくろさんは随分苦労したそうな。Yはそれを見て育ち、おふくろさんからは「大人になっても、酒を口にしてはダメよ」と、ことあるごとに諭され、Yもまた、そう心に決めていた。
 あれから幾年月・・・・。酒と煙草の匂いを残して親父さんは逝った。おふくろさんも、額に苦労の皺と(ぬくもり)を残して逝った。
 あれほど「親父みたいな酒飲みにはならない!」と、肝に銘じたはずの自分が、親父の盛りのころの歳になったいま、酒好きになっている。
 「知らず知らず、盃に親父の顔を写し出しているのかも知れない。まあ、女房、子には苦労はかけてはない。それは、親父のおふくろに対する罪滅ぼしをボクがやっているのかな」。
 「望郷酒場」を歌い終えてYは、鼻の頭をひとなでして、盃を口元に運ぶ。演歌を歌って泣けるこの男が私は好きだ。因みにYが望郷する所は八重山。

 名曲は専門家が選定するものではない。個々の(想い)に合致すれば、それが名曲、名作。
 柳卓の「名曲発掘委員会」のメンバーになりませんか。



長生きはしたいが・・・・

2015-09-10 00:10:00 | ノンジャンル
 A=えっ?‟敬老の日”は9月15日ではないの?いつから9月21日になったの?」
 B=今年かららしいよ。聖徳太子が現在の大阪市の「悲田院」に、老人の救護施設を設立したのが9月15日だったとされるが、国民の休日もコロコロ変わるね。もっともこれは昭和26年(1951)に施行された「老人福祉週間」に因んで「としよりの日」と命名された。
 A=ところが多くのご老体から‟年寄り呼ばわりはされたくない!”とクレームがついた。
 B=ならばと政府は昭和38年(1963)老人福祉法が制定されたのをきっかけに‟としよりの日”を‟老人の日”にした。平仮名書きを漢字にしただけだがね。
 A=これもまた安易に過ぎるってんで、昭和41年(1966)「敬老の日」に改められて、めでたく国民の祝日に落ち着いていたのに、今度はハッピーマンデー制定とやらで、今年は9月21日月曜日にして、土曜日、日曜日、そして敬老の日・国民の休日・秋分の日と5連休をつくった。
 B=いじり易いのだよ老人関係は。まあまあ、そこまでひがまなくても、実労をしている青壮年のいい骨休めになり、子どもたちが連休を喜ぶならば、何日でもかまわないがね。ところで、老人は敬愛されているかね。
 A=う~ん・・・・。敬愛されているとしようよ。そう思わなければ、その先生きていけないよ。

 自らのグループを「若寅会」と名乗り、都度集まっては天下を論じている昭和13年生(1938)の面々の気炎は、喉を喜ばせるビールジョッキの往来とともにボルテージは上がっていく。

 かつては深沢七郎著「楢山節考」に描かれる姥捨て山伝説や、沖縄の伝説「あむとぅぬ下」にあるように、61歳になると老人は鳥さえ鳴かない山奥に捨てられたという。貧困がもたらした悲惨な風習と云えよう。

 A=オレたちも、これ以上年を重ねると、どこかに捨てられるのかなぁ。
 B=う~ん。すでに社会から切り捨てられているような気がしないでもないがね・・・・でもなぁ。本音を吐けば、長生きはしたいが、年寄りとは呼ばれたくないね・・・・。
 ジョッキを口に運ぶ手の動きが鈍くなった。けれどそれも、ちょっとの間で面々の気炎は消えることはなかった。

 ここに子を育てあげ、穏やかに老後を夫妻で過ごしている老夫が詠んだ狂歌がある。

 ◇ハーメー面見りば 口汁どぅ垂ゆる 梅干しぬ如に成やい居りば
 〈ハーメーちらみりば くちしるどぅ たゆる ンミブシぬぐとぅに なやいWUりば
 
 *ハーメー=母前。老女、老妻。これに対して老父、爺を御主前(ウスメー)という。
 歌意=このところの老妻の顔を朝夕見るたびに、ヨダレが垂れるワイ。リンゴのようなフー(頬)に惚れて連れ添ったことだが、50年余経ったいま、リンゴは梅干しになってしまって・・・。ヨダレを誘うばかり。

 これを「薄情なっ!」と解釈するのは短絡にすぎる。梅干しになったいまでも、リンゴとして愛しているからこそ詠める1首なのである。老妻は老妻で「ほんとにそうですねぇ」と肯定しながらも「貴方の黒々とした頭髪もすっかり雪霜にになってしまって・・・・」と、決して言葉にはせず、心で思いながら、微笑で熱いお茶を差し出したに違いない。
 老夫は自分に対しても高齢を否定しない。鏡を見てこう詠んだ。

 ◇昨日見ちゃる鏡今日見りば 知らん御年寄ゐぬ何処から参ちゃが
 〈チヌーんちゃる かがん チューとぅやいみりば しらんうとぅすヰぬ まあから もちゃが

 *この場合、昨日は過去。今日は現在。
 歌意=若いころ、いい男じゃワイと見とれた鏡を今日覗いて見れば、そこには見も知らぬ老人が写っている。つい、‟爺さんは誰?どこから来たの?”と声を掛けた。

 時間は止められない。止まらない。また止めてもならない。それを承知して妻子を愛し、友人知人と親交し、世間にも多少の役に立てば、これまた「そこそこの人生」ではなかろうか。
 とまあ、悟り切ったようなことを書きながら赤面しているのは、どうしてだろう。

 ◇老いぬれば頭は禿げて目はくぼみ 腰は曲がりて足はヒョロヒョロ

 名称はどうであれ「敬老の日」を前に、老いを狂歌にすることのできる老人に「わたしはなりたい!」。もっとも、十分に老人なのだが。
 なお「長生きはしたいが、老人とは呼ばれたくない」は、永六輔著書からの引用。

 

カロリナス台地の蝶

2015-09-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「終戦70年の節目。今年のお盆は特別にやらなければなるまい」。
 盆入りの前に南洋諸島のテニアン島に渡った人がいる。
 旧盆は去る8月26日が旧暦7月13日で祖霊を迎える(御迎え・ウンケー)、14日(中日、ナカヌフィー)、15日が御送り(ウークイ)でとどこおりなく終えた。
 今年の旧盆を(特別)と位置付けた件の人は、父母の霊をテニアンまでウンケーしに行ったのである。
 「かの地で亡くなった両親は、存命なら100歳を越えている。自力での帰郷はできないだろうから・・・・」。
 年明けから、この思いが胸を去来していたという。
 その祖霊は遺族の十分な子孫のもてなしを受けて心安らいだことだろうが、テニアンへは、どう帰ったのだろうか。再び息子に伴われて、飛行機によるウークイだったのか。それとも千の風になって南へ向かったのか。いやいや、譬え身はテニアンの土と化しても、魂はわが家に留まって、子孫を守護する役割に就いたに違いない。

 南洋諸島は、現在のミクロネシアの1部。赤道以北のマリアナ、カロリン、マーシャル3島を指す。
 大正3年(1914)。第1次世界大戦まもなく、日本海軍は諸島を占領。以来、第2次大戦の昭和19年(1944)、米軍が侵攻、占領するまでの30年間は日本国の統治下にあった。
 沖縄から南洋諸島に移民した理由は3つ。1.貧困と人口過剰の緩和(実は国の南進国策による)、2.日本の統治地のために、難しい渡航許可が不要。3.労働によって生活の安定が得られる。もちろん、移民会社の勧誘要領なのは言を持たない。
昭和15年には約5万人が移住。沖縄での暮らしよりはましだと判断したことだったが「聞くと見るとは天地の差」、過酷な労働を強いられていたと(南洋帰り)の方々は言い「ンムニー食どぉてぃん、生り島ぁまし=練り芋を食しても、自分の故郷沖縄がいい」と述懐する。
 南洋群島サイパン支庁はサイパン島、テニアン島、ロタ島など統治。他にパラオ島、ヤップ島、ポナペ島、ヤルート島にも支庁があった。移住者による生産労働は、日本資本の南洋興発会社の管理下にあり、糖業と漁業。
 「日本語学校もあり、専修学校という専門学校も設置、興発会社の指示に逆らわなければ、一応の生活はでき、沖縄よりはよかったのかも知れない」。
 そう回顧する向きもあるが、しかし、太平洋全域制覇を目論むアメリカが黙認を許さない。昭和19年2月23日。米軍はまず、テニアン島を空襲。諸島を攻めた。同年8月3日。日本軍が壊滅した時点には、サイパン島約6000人、テニアン島約3000人の沖縄人が戦没している。

 さて。時は経巡り昭和53年(1978)8月。テニアン島最大の激戦地カロリナス草原台地に「沖縄の塔」「専修学校慰霊碑」2基が建立された。引揚者の念願が33年を経て叶ったのである。
 琉球放送のディレクターだった私は、末吉晃成カメラマンと共に、碑の除幕式取材のため関係者及び遺族墓参団に同行した。沖縄で採掘したトラバーチン造りの2基の慰霊塔は、カロリナス台地に白いアクセントをつけていた。「昨夜まで洪水状態の豪雨だった」という現地の人たちの懸念とは裏腹に、除幕式当日は、箒で掃いたように雲ひとつない快晴。太陽はあくまでも眩しく、海はあくまでも青く、波は確かな流れで沖縄に向かっているように思えた。
早朝、除幕式典前に現場入りした私と末吉カメラマンは取材開始。カメラは米軍の戦闘用のアイモ。私は携帯した三線を取りだした。取材プランに「慰霊塔」の前で‟南洋小唄を歌うシーン”があったからだ。下手な歌三線であることは許していただいて(遠隔の地に眠る人びとに、故郷の三線の音を聴いてもらおう)。このことだった。
 この一節は戦前の沖縄芝居の人気役者比嘉良順が昭和14年(1938)タイヘイ(太平)レコードに吹き込んだ自作の「南洋小唄」。比嘉良順自身も慰問公演でサイパン、テニアンの地を踏んでいる。
 ♪恋し故郷ぬ親兄弟とぅ別り 憧りぬ南洋渡てぃちゃしが~
 〈恋し故郷の親兄弟と別れて、憧れの南洋に渡ってきたことだが・・・・〉
 歌三線は南の島の風に溶け込んだ。するとどうだ!突然、上空が陰った。
 「雨雲かっ?」。
 そうではなかった。
 カロリナス台地の山手から数千の、いや、数万羽の蝶々が飛んできて慰霊塔の上を旋回し、合図でも仕合ったかのように元の山手に飛び去った。
 「さすがに南洋諸島!こういう現象もあるのだ」。
 歌い続けていると、蝶々と入れ替わるように今度は、海側の5、60メートルはあろうかと思われる断崖絶壁の下から、無数の名も知らぬ海鳥が湧き出て上空を舞い飛んだあと、鳴き声を残して海へ帰って行った。
 「御霊が感応したのだっ!」。
 除幕式の準備をしていたスタッフ一同「合掌」したものである。いまでも折につけ、この体験談をするのだが、相手は疑わし気な眼差しで聞き流している。信じようと信じまいと、それは問わない。37年前の夏の出来事である。
 
 9月の声を聞いても猛暑は衰える気配がない。太陽が実力を発揮する朝の内、近くの木々や庭の辺りを終戦70年目の今年の蝶がたゆとうている。何を問い続けているのだろう。