旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑳

2012-03-20 23:57:00 | ノンジャンル
 ◆昭和56年〈1981〉
 ◇若者、銭湯を知らず
 各家庭に浴室が普及して、銭湯経営は斜陽の一途をたどっている。昭和40年〈1965〉、那覇市内に120軒あった公衆浴場も27軒に激減。県全体でも74軒を数えるにすぎない。『ちなみに平成24年現在、地方で3軒が営業』
 特にオイルショック以降、那覇市では昭和53年〈1978〉から4年間で14軒が廃業。憂慮した市当局も1軒当たり6万円の助成金を支出しているが、業者はさらなる増額を要求している。入浴料は大人200円、中人100円、小人70円。女性の洗髪料30円。東京では、この年5月7日から大人200円、中人90円に値上げしているが、小人40円は据え置きになった。
 銭湯の衰退により温泉のない沖縄の小中高校生には、本土旅行をしても入り方に戸惑い、水着持参の児童生徒が増えた。
      

 ◇無国籍混血児
 全国の米軍基地の53%・米兵の約3分の2の3万5000人が駐留する沖縄の混血児は3000人とも3500人ともいわれる。国際結婚の届け出数は年間約450組。離婚数は年間150組で、毎年約100人以上の混血児が出生している。
 沖縄の国際結婚の特色は、外国人の夫の除隊や転属などによる別居や離婚、家庭放棄が圧倒的に多く、混血児を持つ家庭の約80%が母子家庭であること。その国籍も日本籍64%〈母親籍〉、アメリカ籍20%、フィリピン籍11%と複雑。特に無国籍児が多く、全国のそれのほとんどが沖縄。日米の国籍法の相違を浮き彫りにしている。
 [注=「混血児」の表記は当時の表記

 ※公選知事。
 ◇大田昌秀〈おおた まさひで〉。大正15年〈1926〉久米島町出身。復帰後第4代沖縄県知事
 沖縄県立師範学校在学中の昭和20年〈1945〉3月「鉄血勤皇隊」に動員され、情報宣伝隊「千早隊」に配属された。
 昭和21年〈1946〉=沖縄文教学校卒業。同23年〈1948〉=早稲田大学教育学部英文科卒業。同31年〈1956〉=米シラキューズ大学大学院・社会学科専攻終了。帰郷して琉球大学に勤務。5年後の昭和43年〈1968〉、同大学教授に就任した。
 平成2年〈1990〉琉球大学を辞任。同年11月18日の沖縄県知事選挙に出馬。現職の西銘順治を破り当選。その後2期勤める。
 著書に「沖縄の民衆意識」「近代沖縄の政治構造」「沖縄のこころ」「鉄血勤皇隊」「これが沖縄戦だ」「戦争と子ども」「総史沖縄戦」「検証・昭和の沖縄」「慰霊の塔」「見える昭和と見えない昭和」など40冊余があり、昭和47年〈1972〉復帰の年に、沖縄タイムス文化賞、昭和62年〈1987〉東恩納寛惇賞を受賞。「大田昌秀は、政治家というよりも学者」と評されている。

 ※公選知事。
 ◇稲嶺惠一〈いなみね けいいち〉昭和8年〈1933〉関東州大連・現在の中国遼寧省に生まれたが、本籍は沖縄県本部町。復帰後第5代沖縄県知事。父は、琉球石油〈現・りゅせき〉の創始者で元参議院議員の稲嶺一郎。
 昭和32年〈1957〉慶応義塾大学経済学部を卒業して「いすゞ自動車」に入社。昭和48年〈1973〉「琉球石油」に転出。取締役を経て昭和61年〈1986〉の同社社長、平成5年〈1993〉には、会長及びりゅうせきネットワーク会議議長に就任。以来、沖縄の実業界、財界で手腕を発揮した。平成10年〈1998〉、沖縄県知事選挙に立候補。現職の大田昌秀に勝って当選。この選挙戦では公明党は、表向き“自主投票”の姿勢を取りながら大田支持の構えを見せたが、実質的には稲嶺惠一を支援。自民党・公明党連立の試金石になったと言われる。2期の在任中、平成12年〈2000〉に開催された九州・沖縄サミットの誘致、首里城守礼門・紫式部をデザインした2千円札の発行、沖縄都市モノレールの開通など、実績多々を上げた。
 
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   楽しみに読んで下さる皆様方にお詫び申し上げます。

   
  

沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑲

2012-03-10 00:00:00 | ノンジャンル
 ▲昭和56年〈1981〉
 ◇復帰10年目
 沖縄タイムス社と朝日新聞社が有権者69万1551人の内、1200人の面接によってまとめた「沖縄・復帰10年目の県民意識調査」が、4月30日に発表された。
 ◆復帰と暮らし
 「よかった」の答えが62%の「よくなかった」の20%の3倍を示した。
 ◆今の生活
 「暮らしやすい」27%に対し「暮らしにくい」が49%で、約半数が悲観的。
 全国平均の約3倍の失業率、物価高騰。さらに米軍基地の重圧などの生活環境の悪化を反映している。
 ◆安保と基地
 日米安保条約は「日本のためになる」28%「ならない」27%と評価はほぼ同じ。3月の全国調査では「ためになる」55%「ならない」13%「どちらとも言えない」20%に対して、沖縄県民の意識差がはっきりと出た。米軍基地に対する「不安感」67%の数字は、復帰1年目の調査「不安感」63%を上回った。不安の理由は「戦争に巻き込まれる」「基地がらみの事件事故」や「軍事演習の恐怖」が大半。「米軍基地をどうすべきか」の項目には、80%が「縮小・撤去」を願望している。
 ◆自衛隊について
 縮小、撤去を求める反対派が減少し、肯定派とほぼ同率になった。それでも全国調査の肯定派60%、反対派30%に比べると反対派が多い。反面、昭和55年〈1980〉12月、県議会で僅差ながら[県当局が自衛隊募集業務]を決めたことには、約半数が反対している。凄惨な陸上戦を体験した県民には、戦争に対する不安が拭い切れずにいる。

 ◇昔「ペーデー」今「自衛隊」
 復帰前、毎月1日と15日の米兵のペーデー〈給料日〉には、嘉手納、コザ、金武、浦添、那覇など、つまり基地を抱える市町村の歓楽街はドルを切るGIたちで賑わった。しかし、復帰10年、いまでは自衛隊の給料日・毎月18日が賑わう。彼らがよく出入りする店を誰が言ったか「自衛隊バー」と呼ぶ。
 那覇市小禄の歓楽街“新町通り”は、かつて那覇エアベース所属の米兵で繁盛していたが、いまはGIたちに代わって自衛隊員が経営を潤している。経営者や女性従業員によれば、自衛隊員は「ひとりではなく4~5人、もしくは10数人で来店する」「接客も難しくなく、紳士的で支払いもきっちりしている」と好評。4~5年前までは「お勤めは?」の問い掛けに「会社関係」と答えていた彼らも、10年にして「沖縄は国内」という認識が高まったのか「自衛隊勤務」を即答するようになっている。

 【公選知事】
 ※西銘順治〈にしめ じゅんじ〉。大正10年〈1921〉生~平成13年〈2001〉没。知念村〈現・南城市〉出身。復帰後第3代沖縄県知事
   
    写真:ウィキペディアHPより
小学校の一時期を南洋パラオで過ごした。東京帝国大学〈現・東京大学〉を卒業後、外務省入り。戦後帰郷して、沖縄ヘラルド紙、沖縄朝日新聞社の社長に就任した。昭和22年〈1950〉、沖縄社会大衆党結成に参加。昭和29年、同党公認で立法院議員選挙に出馬して当選。しかしその後、比嘉秀平琉球政府行政主席と共に同党を脱党。琉球政府政財局長、計画局長を歴任する。昭和37年〈1962〉、沖縄自由民主党の後押しに応じて、那覇市長選挙に出馬・当選。2期勤める。その間、当時の高等弁務官キャラウェイが、米本国ケネディー大統領の新政策「沖縄の離日政策」に端を発した、世に言う「キャラウェイ旋風」をめぐって沖縄自由民主党を離党。しかし、昭和43年〈1968〉には復党して総裁の座に就く。そして、この年に行われた行政主席選挙に「早期日本復帰は慎重に」と論じて立候補したが、「1日も早い日本復帰」を公約した革新系の推す屋良朝苗候補に敗れた。なお、この選挙では日米両政府が保守系である西銘順治を当選のための画策があったことが、平成22年〈2010〉末に公開された外交文書によって判明している。
 昭和45年〈1970〉の沖縄国政参加に自由民主党公認で立候補した西銘順治は、衆議院議員に当選するが、3期目半ばの昭和53年〈1978〉の沖縄県知事選挙に自民党、民社党推薦で出馬。革新系の県議会議長知花英夫〈嘉手納町出身〉を破って当選し、県政を保守の手に取り戻した。在任中、それまでの革新政権下では行われなかった「自衛隊募集」を県庁で開始したほか、公共事業を積極的に推進。沖縄県立芸術大学の設置など多くの事業を成し遂げた。
 平成2年〈1990〉衆議院議員に復帰して平成8年〈1996〉まで在任。激動の時勢を見極める政治力は、県民からも高く評価され「沖縄からの初の大臣誕生か」と大いに期待され、沖縄開発庁、経済企画庁の政務次官を歴任したが、期待の大臣就任は果たせなかった。

 およそ国政に携わる人物は、われわれからは“雲の上”の存在だが、西銘順治はひと味異なっていた。筆者なぞも、那覇市内の日本蕎麦、沖縄そばの店で近親者らしい人たちと麺をたぐっていたり、普通の小料理屋の店のカウンターで泡盛を口もとに運んでいる姿を都度見かけた。「私生活では“政治家”を感じさせない人物」とは、西銘順治を知る人たちの人物評。享年80歳。

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑱

2012-03-01 00:00:00 | ノンジャンル
 悲願の日本復帰を果たして1年が過ぎた。27年間のアメリカ世から脱却したものの、県民の生活には依然として〔明と暗〕がつきまとっていた。

 【昭和48年=1973】
 ◇復帰1年・世論調査
 琉球新報社は4月20日から3日間、県下1000人を対象に世論調査を行った。
 調査は主に(1)復帰1年後の実態。(2)現在の不満と将来への希望。(3)沖縄県の振興策。(4)米軍基地と自衛隊について。(5)県政に対する意識と当面する問題への対策などを中心に実施された。回答率は77%。
 その結果『復帰してよかったと実感している』が49.9%。『復帰前がよかった』が36.3%。これはドルと円の通貨価値・物価落差に、生活の不安があったためで、回答者の77.9%が理由にした。『米軍基地』は、完全撤去47.7%。『自衛隊』は42.3%が肯定。その理由の大半は、災害救助に期待してのこと。『屋良政権支持』は、50.6%と前回〈1972年12月〉の69%を下回った。

 【昭和49年=1974】
 ◇コザ市から沖縄市へ
 コザ市は戦前の越来村。人口約7000人の純農村だった。昭和20年4月1日、米軍は沖縄上陸を果たすや、この地にマリン部隊や野戦病院、物資集積所等々を設置。中心地になった字呉屋〈ごや〉を米軍は、どう聞き取ったのか『コザ』と発音。それにならって越来村議会は昭和31年6月13日、意識調査に基づき『コザ村』にすることを決議。しかし、それも束の間。同年7月1日、市制を施行『コザ市』を名乗った。「日本唯一のカタカナの市」は「基地街」の呼称とともに全国に知られた。現在の『沖縄市』に改名したのは、昭和49年4月1日のことである。

 【昭和50年=1975】
 ◇皇太子御夫妻に火炎ビン
 7月17日正午過ぎ。皇太子殿下〈現・今上天皇〉は、沖縄国際海洋博覧会の名誉総裁に就任なされた機会に、美智子妃殿下を伴い沖縄を訪れた。しかし、県内では歓迎派・反対派が真っ二つ分かれ、民主団体や学生など約4万人を動員してデモ行動に出た反対派と日の丸の小旗を振って沿道を埋めた歓迎派は、警察の厳戒体制のもとで対峙した。こうした騒然たる中、夫妻は「ひめゆりの塔」への車中の人となったが途中、空港から糸満市内にさしかかった午後1時5分ごろ、沿道の建物3階窓から御夫妻乗車の後続車に火炎ビンや石、空きビン、角材が投げられたが一行は無事。犯行に及んだ男二人は、その場で逮捕された。
 さらに午後1時25分ごろ、御夫妻が「ひめゆりの塔」に到着した際、同塔の壕の中から火炎ビンが表路上に投げられた。沖縄戦の犠牲になった188名の沖縄県立師範学校・沖縄県立第一女学校の学徒の冥福を祈られた際の事件。壕に潜んでいた男二人は、なおも爆竹を鳴らして飛び出してきたところを警備員が取り押さえた。男らは「沖縄解放同盟」と書き込んだヘルメットを被っていた。
 【沖縄県知事】
 ※平良幸市〈たいら こういち〉。明治42年~昭和57年=1909~1982=。
 西原村〈現・町〉出身。第2代〈公選〉沖縄県知事
 昭和3年〈1828〉沖縄県立師範学校を卒業後、教職に就いた。戦後は、沖縄民政府文教局入りし、教育復興に尽力。その後、昭和22年〈1947〉に西原村村長選挙に当選して政界入りをした。沖縄群島議会議員、現在の県議会にあたる立法院議員・議長を務めた。そして、昭和51年〈1976〉6月、屋良朝苗前知事の後継者として知事選挙に出馬し当選。自治権の確立、反戦平和の理念を貫き、復帰処理、戦後処理にあたった。しかし、昭和53年7月30日に実施される「交通方法変更問題と予算折衝のため上京中、脳血栓で倒れ、この年11月、任期半ばで辞職。現役時代は、社会大衆党書記長及び委員長の任にあり、沖縄の革新勢力の要だった。昭和57年〈1982〉3月5日没。

 【昭和51年=1976】
 ◇具志堅用高世界チャンピオンに
 10月11日。山梨県甲府市・山梨学院大学体育館で行わWBAジュニアフライ級タイトルマッチで、タイトル保持者・ドミニカ共和国のホワン・グスマンと対戦した沖縄県八重山・石垣市出身具志堅用高〈21歳〉は、7回のゴングが鳴った32秒後、グスマンにノックアウト勝ち。世界チャンピオンの座についた。以来、13回のタイトル防衛を果たし、沖縄の青少年や県民に「やれば出来るっ!」の勇気と希望を与えた。
 しかし、昭和56年〈1981〉3月8日。地元沖縄・具志川体育館でメキシコのペドロ・フローレスとグローブを交えた14回目の防衛戦に敗れて引退した。
 現役時代、キャンプ中の具志堅用高に問うたことがある。
 「リングに上がったときの心境は?」
 彼は語った。
 「怖いっ。逃げ出したいっ。観客にはただのロープにしか見えないあの四角い囲いが、ブロックに高い塀に思える。そこから出るには、相手を倒すしかない。その一心で打ち続けるのですよ」。

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