旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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染織・この預かりもの

2015-05-20 00:10:00 | ノンジャンル
 94歳が走った。
 大宜味村喜如嘉(きじょか)から南風原町本部(もとぶ)までは約130キロの道程。第1走者は芭蕉布織人間国宝平良敏子女史94歳。歩くようにスタートした老女の心底には(わたしの手についた芭蕉布や染織の技術を時代にバトンタッチしたい)という“想い”が熱く燃えていた。走者が肩にかけたのは「想いの手ぃさーじ」と名付けられた各地の染織物を繋ぎ合わせて作ったタスキである。

 去る4月18日朝。
 NPO法人沖縄県工芸産業協同センター主催第1回伝統工芸団体駅伝は、こうして北から南へ中継された。もっとも老女の走行距離は100メートルだったが、老女は笑顔で走破し(しっかり受け取ってね。頼みましたよ。預けましたよ)と第2走者へタスキを渡した。
 染織技術を時代へ。芭蕉布をはじめ7つの作品を1本のタスキにして、各生産地区間約5キロを分担して走ったのである。読谷山花織(ゆんたんじゃ はなWUゐ)、知花花織(ちばな=沖縄市)、紅型(びんがた)や首里織(那覇市)などの担い手が受け継いだほか、浦添市区間では八重山ミンサー織、久米島紬の織り手が参加。まさに“想いぬ手ぃさーじ”駅伝。
 駅伝中継地はまず、喜如嘉を午前7時スタート。名護市~恩納村~読谷村~沖縄市~嘉手納町~北谷町~宜野湾市~浦添市~那覇市。そしてゴールの南風原町「かすり会館」に着いたのは午後6時だった。全長約130キロだが、生産地以外では、車や自転車を走らせ、沿道の人たちに「伝統工芸継承・育成」をアピール。したがって、実際に走行したのは約40キロ。しかし、実走した約300人の胸には、この大いなる遺産継承への(熱き想い)が、ふつふつとたぎっていたに違いない。
 走者・伴走者の感想。
 「平良敏子先生に続け!その決意を1歩1歩ごとに強くした」。
 「ひとつひとうの産地は小さいが、織り手は2000人を超える。細い1本の糸がひとつにまとまれば、沖縄の染織は未来へ繋げる」。
 「今日という日を失念せず、機(はた)に向かいたい」。
 「実際の走行は130キロ中、40キロだったが、これからの明日に繫げれば何万キロにもなる。やる気が湧いた」。
 ゴールイン後は関係者が「かすり会館ホール」に参集して、健闘を讃え合い、達成感にひたり、琉球の伝統工芸をユネスコ(国際教育科学文化機関)の無形文化遺産登録申請を要請する宣言文を読み上げた。
 94歳から60歳代~40歳代~20歳代への身体をもっての「想いの手ぃさーじリレー」。新聞には地方版で紹介されていた駅伝に、感動を禁じ得なかった。

 「およそ伝統と名の付くものは、すべて先人からの(預かりもの)である。預かりものは、いずれ返さなければならない。誰に預けるか。誰に渡すのか。次代の心ある人へ」。
 琉球古典音楽野村流松村統絃会師範故宮城嗣周師は、このことを信念とし、実践していた。また、こうも言っておられた。
 「悠久の昔に生まれたものを原形のまま、あるいは多少、時代の感覚を取り入れながら(今日に再現する)ことを(伝統)というのではないか。もちろん、どんな伝統も新しい感覚を注入しなければならないのは言を持たない。流れのない溜り水は、いずれ腐るからね。ただ伝統の源流、原型を失念してはならないだろう。日進月歩!新しくなる時代のひとに(古いもの)を伝えるのは難しい。けれども、難しくても継承活動は継続しなければなるまい。わが家系がそうだ。宮廷音楽家だった祖父松村真信から父宮城嗣長。そして私が受け継いだ伝統音楽。それは祖父、父から預かったもの。それを私有化するわけにはいかない。これを正統的に(預かってくれる人)を探して組織を立ち上げ、育成しているのだよ。これもまた(心ある人格者)を見極めなければならない」。
 禅問答はまだ続く。
 「心ある人に育てるには、自分が(心ある人)にならなければならない。自分のことは自分では評価できないもので、これがまた難しい。だから師匠は弟子の3倍も4倍も研鑽する。父嗣長は言っていたね。歌三線は己が(いい人)になるために修めるもの。歌三線がうまくなって世間から認められたことをいいことに(悪い人)になっては何にもならない。悪い人には成り易いが、いい人になるのも、これまた時間がかかる。難儀なことだ」。
 宮城嗣周師は70年余を歌三線に捧げて逝った。
 琉球音楽野村流松村統絃会は、師の実弟宮城嗣幸、高弟山城柳太郎氏らに預けられて現在、100年余の歴史を刻んでいる。

 そこで私。不遜ながら思ってみた。
 「誰から何をどう預かったか。何を時代へ預けようとしているのか、何もないのである。何も預けられなかった私は、いい人にも悪い人にもなれないのだろうか」。
 平良敏子女史の“想いぬ手ぃさーじ”に感動し、宮城嗣周師の蘊蓄を耳の底にとどめていながら・・・・。
 外は雨を生みだすに懸命な灰色な空。それに己の来し方行く型に想いを重ねてみるのが精いっぱいである。Tシャツの首筋がひんやりしてきた。梅雨冷えか・・・・。



夏・母・歌

2015-05-10 00:10:00 | ノンジャンル
 “夏がくれば思い出す はるかな尾瀬 遠い空 やさしい影 野の小径 水芭蕉の花が咲いている 夢見て咲いている水のほとり 石楠花色にたそがれる はるかな尾瀬 遠い空”
作詞江間章子。作曲中田喜直「夏の思い出」の歌詞である。
 さて私は(夏が来れば)どんな歌を思い出すのか。
 “小さい花はこべの花 おかあさんの花 野原にそっと咲いて いつもボクを見ている花 小さな花はこべの花 おかあさんの花”。
これである。
 遠い日の高校生のころ、東京の高校玉川学園から交歓学生でやってきた、今はジャーナリストの森口豁や脚本家(故)金城哲夫ら数名の同期生たちが歌ってくれたのが、60年経ったいまでも心に刷り込まれていて、時折、何の前振りもなく口ずさんでいる自分に気付く。殊に5月になると“はこべの花~”が口をついて出るのは、色とりどりの花が咲き「母の日」があるからかも知れない。けれども、他界して40年にもなるおふくろと重なるのは(はこべの花)ではなく、黄色い(ゆうなの花)と真っ赤なアカバナー(赤花・ハイビスカス)である。常に身近に咲いているからだろう。
 母親・おふくろの話になると誰しも目じりが下がり、瞳を輝かせるのは、これまたどうしてだろう。理屈抜きに(いい人)に成り切っている。母親とは誰にとっても、そうした存在なのだろう。そして、母親が口癖のように掛けていたユシグトゥ(寄事・教訓)が、これも誰しも心に刻んでいるのではなかろうか。
 3年前、92歳で逝った沖縄芸能史研究家で、私が師と仰いできた崎間麗進先生の御母堂はこうして諭していて、麗進先生はこれを座右の銘としておられた。
 「人ねぇーウシェーらってぃん 人ぉウシェーんな」。
 直訳すれば「他人に軽んじられても、他人を軽んじてはならない。他人に馬鹿にされても差別されても他人を差別したり、馬鹿にしてはならないということになる。
 「那覇のど真ん中(泉崎町)に生まれ育ちながら、貧乏人の子沢山でね。なにしろ沖縄の中心那覇は、貧富の差がひどくてクーシームン(貧乏人)は、とかく差別された。ヒンスウムン!ヒンスウムン!とウェーキンチュ(富貴人・金持ち)の子弟は、口にして差別し、いじめの対象にもされていた。そのことで僕がグレはしなかと気にして(人ねぇーウシェーらってぃん 人ぉウシェーんな。ますます劣等感を増すばかりだ!)と、口癖のように言っていたのではないかと思うよ」。
 私のおふくろはどうだったか。
 いくつかな言葉が脳裏をはしるが、一番に思い出すのは、「三人からぁ世間=みっちゃいからぁ しきん」。
「人が三人寄れば世間の態を成す」。したがって、世の中に出たら、三人どころか多勢の人と接して生きなければならない。わがままは家では通用するが世間では通らない。協調性を持て!という訳だ。五男四女の中の9番目の私。よほどわがままで協調性に欠けていたのだろう。20歳過ぎても30歳になっても「三人からぁ世間」のひと言を掛けられてきたが、さあ、おふくろの寄言を実行してきたかどうか。ちゃんと悟り切っていない。

 親と子はいつの時代でも世界中同じなのだろう。ウクライナには次のような慣用句がある。
 「小さな子は頭痛をもたらし、大きい子は心痛をもたらす」。
 赤ん坊や幼児を育てるのも大変だが、親の苦労はむしろ、子が大きくなってからの方が大きいという。各国の諺を拾ってみよう。
 ◇小さい子は母の前掛けを踏みつけ、大きい子は母の心を踏みつける」=ドイツ。
 ◇小さい子は膝に重く、大きな子は心に重い=エストニア。
 ◇小さい子は粥を食べ、大きな子は親の心を食う=チェコスロバキア。
 ◇小さい子は眠らせてくれず、大きくなると母親の方が眠られぬ=ロシア。
 ◇小さい子は小さな喜び、大きな子は大きな悩み=ロシア。
 それでも世界の母は、懸命に子育てをしてきている。

 琉歌にいわく。
 ♪思み童しかち 今どぅ思み知ゆる 昔我身守たる 人ぬ情
 〈うみわらび しかち なまどぅ うみしゆる んかしワミ むたる フィトゥぬ なさき

 「我が愛する子をすかすし、守り育てるようになって、思い知るのは昔、このようにして自分を育ててくれた人(親)の愛情の深さである」と詠んでいる。
 どうやら子育ての大変さは、子の立場のころは気付かないが、自分が人の子の親になってつくづく実感し、親の情愛を知ることになるだろう。
 「親の意見と茄子の花は 千にひとつの仇はなし」。
 親子ばなしをするたびに出てくる教訓の一句だが、これまた誰しも親にならないかぎり、内容を把握していないように思えるが如何なりや!
 はてさて。
 かくも「いい親」に成り切って蘊蓄を垂れ流している私。一男一女の子たちには、どう評価されているのか。この際聞いてみようか。いやいや、聞くまい。自信がない。答えが・・・怖い。そっと歌って己を慰めよう。
 “小さい花はこべの花 おかあさんの花~”
 窓の向こうに梅雨を受けて紅の色を増しているアカバナーが、こっちを向いて笑っている。



女性解放・海浜に遊ぶ

2015-05-01 00:04:00 | ノンジャンル
 菜の花から生まれたらしい黄色いハーベールーが人家の庭にも舞っている。
 ハーベールーとは蛾をふくむ蝶類の総称だが、一般的にはモンシロチョウやアゲハチョウなどを指しハベル、ハビルとも言い、地方によって呼び名も多々。
 沖縄の春、そして若夏をアギ(陸地)に運んでくる。琉歌に次のような1首を見る。

 ◇ミストゥミティ起きてぃ 庭向かてぃ見りば 綾蝶無蔵が(あの花くぬ花)吸ゆる妬たさ
 *ミストゥミティ=早朝の丁寧語。普通語はフィティミティ。*綾蝶無蔵=アヤハベル=綾模様の蝶。*ンゾ=愛する女性の総称。
 早起きをして戸を開けて庭を見ると、自分の愛する女性を思わせる美しい模様の蝶が咲き誇る色とりどりの花から花へと飛び回っている。彼女の心も蝶のように定まらず、惑いがあるのではなかろうか。この私ひとりに止まってくれたらいいのに・・・。そう思うと蝶に嫉妬を覚える!
 大抵は花を女性、蝶を男性に例えるのが普通。けれども、この詠人はこれを入れ替えている。ややもすると(愛憎)になりかねない主題を(自分の花)にすることによって、目覚めのときの爽やかさを上品に表現している。よほどいい恋をしている花と蝶だったにちがいない。
 アギ(陸地)にその年の新しい命がよみがえる頃、今年は40日ほど前にアーサ(アオサ・岩海苔)が採れ、スヌイ(もずく)が食卓に乗って食欲を促している。そして、島びとは気温の上昇にともない、解放を求めて海浜に行楽する。
 「三月遊び=さんぐぁち あしび」「浜下り=はまうり」がそれだ。
 年中行事のひとつとして華やかに催される「サングァチー」は、旧暦三月三日に賑わう。今年は4月21日だった。
 戦前まではこの日。那覇などでは一斉に稼業の手を空けて、殊に老若を問わない女性たちが、この日のために仕立てた着物をつけ、重箱詰めの馳走を持参して海浜に出、儀式として、まず白砂を丹念に踏み歩き、海水に手足をすすぎ、あるいは潮浴びをして身を浄化、(女性の諸厄)を払った後、白浜に敷いた敷物の上に馳走を並べて飲食。さらに沖縄独特の鼓・チヂンに合わせて歌い、即興舞いをして、春の1日を海浜に遊ぶのである。
 1日で済ます所もあり、那覇の垣花町、若狭町などでは3日間を遊びに興じた。その間、男たちは家事一切を受け持ち女性たちを解放した。

 ◇夫やりば夫ゐ 舅やりば舅ゐ 三月ぬ遊び 我っ達ぁ勝手
 〈WUやりば WUゐ シトゥやりばシトゥゐ サングァチぬ あしび わったぁ かってぃ

 「夫が何さっ!舅が何さっ!三月遊びはアタシたち女の自由の日よっ!思いのままにあそびましょっ!」。
 そう言ってのける若妻もいて、解放の日の歓びを詠んでいる。
 「舅、夫は絶対的存在だったからね。口応えひとつ許されず、ただただ服従するのみ。だからサングァチーだけを楽しみに1年365日を暮したものさ」。
 これは筆者の明治生まれのおふくろが、サングァチミッチャ(旧暦3月3日)が近くなると、懐かしそうにもらしていたことば。
 「でも、女は嫁ぐまでは父親、嫁いでからは夫、舅に従っていたほうが、しあわせなのよ」。
 このことばを付けるのを忘れなかった。もっとも、戦後のデモクラシーを享受した姉たちは、フフンと鼻で笑いながら聞いていたが・・・・。

 浜下りは本来(儀式)である。
 季節の風が北から南にまわり、水が温むようになると、男たちが海に出る作業が頻繁になる。そこで女たちは海浜に出て海の安全、幼児の健全な生育を祈願したのが始まり。それに(みそぎ)の伝説などが後付けされて(遊び)主体になったとされる。
 奄美大島では「この日、浜下りをし潮干狩りを成し、貝類や小魚など海の幸を鍋に入れないとその1年、海のモノを口にすることが叶わない。(どういうわけか)耳が遠くなったりする」なぞという言い伝えもある。
 「浜下り・浜遊びを正当化するための都合ばなしさ」。
 そう一笑にふす向きもあるが、それこそ取ってつけた、うがった見方。素直に浜下りを楽しめばよいのではなかろうか。今風の解釈をつけていては、民間の風俗行事は何ひとつ楽しめない。

 四面海に囲まれた沖縄とは言え、海浜が近くない集落はどうするか。
 宜野湾市我如古(がねこ)集落には独特の(三月遊び)が現存する。旧正月をすませたところから「十人筆者=じゅうにん ふぃっしや」という、いわば「三月遊び実行委員会」が組織され、拝所回りの手順が吟味され、手踊りの稽古等々が始まり、当日の運営一切を女性だけで仕切っている。
 現在は男女問わず自治会長が中心に実施されている。会場もかつてはガニク・ヒラマーチャー(我如古平松)と呼ばれる松の下だったが、いまは公民館で行われている。地謡以外は男性の参加は遠慮しなければならない(決まり)だったが、それもいまでは緩和されて、集落中で「女性解放の日」を祝っている。もちろん、集落の起源であるニーヤ(根家)我如古グスク(城)村ガー(井泉)などを参拝してからの(遊び)である。手踊りの中に「スンサーミー」がある。一名「作たる米=ちくたるめー」という「サンサーミー節」「すーらき節」「今帰仁節」の3節でなされる「ウステーク踊り=臼太鼓」は一見の価値がある。

 かくて野山は百花繚乱。海浜には新しい命の誕生が躍動。太陽はそれらを包み込んで輝き、沖縄は一気に夏へ。