旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

暮れゆく羊年に・・・

2015-12-20 00:10:00 | ノンジャンル
 人はまず、人に出逢い親交を深めて歳月を刻んで行く。
 それはそのまま、自分の人生の(歴史)というと、いささか大仰かも知れないが、人はひとりでは生きられないかぎり、出逢いを大切にし、相手を受け入れることで、精神的な充実を得てきたのではなかろうか。そのことを(自分の人生の歴史)と思うようになった今日このごろのだ。出逢いの人(ひとりが1ページ)。さあ、私は今年、何ページの出逢いをし、充実を得てきたか。ふと、思いを馳せるのは(暮れゆく年)のせいであろう。

 出逢いというか、人を迎え入れるには、それなりの儀式があるようだ。
 琉球王府時代、宮古、八重山は王府から派遣された(奉行)をトップとして行政されていた。任期は時代によっても異なるが、だいたい3~5年。したがって、それぞれの歓迎、送別の儀式があった。石垣島の西寄りに位置する川平村、崎枝村の例を見てみよう。
 八重山政庁に新任の奉行や随行役人がくる。トップの奉行役人は石垣村の蔵元(くらもと・政庁)に起居するが、与人(ゆんちゅ)と呼ばれる役人は、担当地に赴き屋敷を持ち、行政することになる。
 村人たちは新任与人が来るたびに村の広場で芸能を披露して(歓迎の儀式)を行う。それがタイミングよく豊年祭など年中行事の時期にあたると、その行事がそのまま(歓迎儀式)になることがあったという。この催事に与人をどう招き入れるか。これがすばらしい。
 祭りが始まる直前、村の女童たちがガジュマルの木の枝をそれぞれに手にし、左右に打ち振りつつ与人宅をおとずれ、半ば強引の態で与人を祭り会場に連れ出す。そして、村人たちの待ち受ける会場中央に誘導すると、手にしたガジュマル木の枝で与人の背中などを叩きながら、女童たちは問答を仕掛ける。
 「歳は幾つか」「首里に妻子はいるか」「この村に来て、目にとまった女はいるか」「その女の名前は何と言う?」など他愛もないことを問い掛けるのだ。与人はそれなりに答える。ガジュマル木の枝で叩くのは、ガジュマル木は霊木とされて、一種の禊ぎ・お祓いを意味している。その問答は明るく見守る村人たちの爆笑を買う。爆笑が大きければ大きいほど、新任与人は歓迎され、信任を得たことになるのだ。時には与人を馬に乗せ、村中を案内することもあった。その風景はこの地の島うた「繁盛節」「崎枝節」に軽快に詠み込まれている。

 いまひとつ、親交のきっかけになった「ソーミンぬちゃーしー」について記そう。
 「ソーミン」は素麺。「ぬちゃーしー」は、出し合う・持ち寄るの意。
 それは近年になって庶民の中で成された、今風に言えば(食事会)である。
 例えば集落に他所からの移住者があったとする。すると、集落の主婦たちがソーミンを村屋(集会所)や長老宅に持ち寄って、汁もの、炒めものにし、移住者を招いて食事会を催すのである。のちに一般的食材になったソーミンも王府時代は宮廷料理のひとつであり(共白髪)と美称され「君は百歳私しゃ九十九まで共に白髪の生えるまで」と長寿の歌もある。つまり「ソーミンぬちゃーしー」には、移住してきた家族に「同じ釜のモノを食したあなた方は、もうこの村の一員。共に白髪の生えるまでの親交をして行こう」という歓迎の意が込められているのである。
 これは主に主婦を中心に成されたが、いまは主婦に限らず形を変えて、ホテルや格好のついた外国料理店などでやっている「女だけの食事会」に受け継がれている。この場合も食事代は誰かのおごりだけではなく、自己負担であろう。それも金銭の出し合い、寄せ合いの形態で「ぬちゃーしー」の進化と考えてよかろう。

 ところで。
 12月の暦をめくったばかりの過日。宜野湾市真栄原にある行きつけの寿司屋「大将」に身を置いた。古女房が月イチの「ソーミンぬちゃーしー」に出掛け(夕食は適当に)と言い残されたからだ。けれども一人では寿司もビールもひと味落ちる。近くに住む歌者田場盛信を呼び寿司を付き合ってもらった。「大将」にはタクシーで出掛けた。アルコールを好まない田場盛信はもちろんマイカー。世間ばなしに世は更けて「大将」も調理場の火、表の灯りも落とすという。
 早い時期の経過をちょいと恨みながら腰を上げ「タクシーを」と私。
 「ボクが送りますよ」と田場盛信。
 私の足元がビール5杯で千鳥になっているのを見てのことだ。言葉に甘えた。そして、彼は自宅まで20分ほどの夜道を帰っていった。古女房はまだ帰宅していない。着替えをして手足を洗うこと10分ほど。携帯を見ると「ボクも家に着きました」というメール。そのあとに電話の着信まで残っている。メールはよしとして、電話は(何ごとか)と、急ぎ掛け直してみると、田場盛信の安堵したような声色がある。
 「ああ、よかった。彦さん(彼は私をそう呼ぶ)は酔っていたから気になってメール、電話をした。何時もなら直ぐに返信があるのにそれがない。奥さん不在の家で、具合が悪くなったのかと、いまそこへ向かっているところです。何もなかったなら、このまま引き返しますよ。おやすみなさい」。
 「ありがとう」のひと言が喉につまってかすれた「気にしてくれる人がいる」。胸が熱くなった。鼻にツンとくるものがあった。田場盛信は長い付き合いで私の(歴史)にある人だが、ここへきて、その歴史の1ページに爽やかな挿絵まで添えてくれた。いい未年の暮れである。



時を刻む・流行歌その3

2015-12-10 00:10:00 | ノンジャンル
 古い年賀状が出てきた。
 年月日を見ると15年も前のもの。
 「謹賀新年」の筆字の下に、これは黒のサインペンの流れるような女文字。「久しく逢っていませんが、今年はぜひお茶する機会をつくりましょう・真智子」とある。30歳半ば、彼女の夫君と親交を深くし、彼女の家庭料理の御世話にも再三なったことだが、夫君の仕事の都合で東京に移ってからは、無沙汰が続き、季節の便りだけの交友になっていた。気がつけば、ここ4,5年、年賀状もお互い絶えている。今年は夫婦宛に新年の挨拶をしよう。

 ◇「逢いたくて逢いたくて」唄/園まり。
 伴子、亜希子、順子、麗子、ゆきゑ・・・・。
 そんな名前の中にひとり(まり)と名乗る女性がいた。姓は(宮下)といい、父親の仕事の都合で埼玉県からきた人だった。バンカラが売りもののボク。他の女ともだちは「おい!」とか「亜希子!」とか、呼び捨ての声掛けをしていたのだが(その人)だけに(まり)とも(まりちゃん)とも呼べず(宮下さん)とは、さらに呼べなかった。遠いあの頃にしては、ショートカットの黒髪がごく自然に、顔だちをすっきりとさせた色白の人だった。
 あるグループでの出逢いだったのだが、多くを語るでもなく、しかし、口を開くと、しっかりとした発言をしていた。ボクは仲間以上の好意を寄せ、いつか突発的に「好きだよっ!」と言いそうな自分が怖かった。
 そんなある日。何の前触れもなく、その人は「父の転勤で・・・・」と、人伝の言葉を残して、大阪へ行ってしまった。脱力感が全身を覆い、ボクもグループを脱退した・・・。以来、その人の消息をまるで知らない。
 いま、もしラジオかテレビに「あの人に逢いたい!」なぞという番組があったなら、ボクは迷わずその人の名前をあげるだろう。
 ♪愛した人はあなただけ わかっているのに心の糸が結べない 好きなのよ好きなのよ くちづけをして欲しかったの だけど 切なくて涙が出てきちゃう~
 年末の風は、ボクの胸にあの人の白い顔を運んできた・・・・。

 「厄介な!いや、不自由な世の中になったものだ」。
 吸いたいときに煙草が吸えない。公的な場はすべて(禁煙)の文字がにらみを利かせている。ボクの仕事場は11階建ての10階にあり、1服するにも社外に出なければならない。「世のならい」では致し方もなく、エレベーターのお世話になりっぱなしである。それが煩わしくて煙草に、きっぱりと別れを告げた意思強固な御仁も傍にはいるが生来、意思薄弱を通しているボクは、いまだに1日15本から22、3本に愛用のジッポーの火を向けている。
 この拙文を書いているすぐ手にすることのできる個所に煙草とジッポーは、声を掛けられるのを待っている。その煙草の箱の表にはこう書いてある。
 「煙草は、あなたにとって心筋梗塞の危険性が非喫煙に比べて約1.7倍高くなります。(詳細については、厚生省のホームページをご参照ください)とあり、ご親切にアドレスまで記してある。
 また箱の裏には、
 「たばこの煙は、あなたの周りの人、特に乳幼児、子供、お年寄りなどの健康に悪影響を及ぼします。喫煙の際には周りの人の迷惑にならないように注意しましょう」とある。
 表の文言は、なるべく読まないようにし、裏の「周りの人の迷惑にならないよう」を採用しているボクなのである。

 ◇「ベッドで煙草をすわないで」唄/沢たまき。カバー=リリー。
 財布やハンカチとともに煙草を持つようになって50余年。わが家は和式造りでベッドがなく「ベッドで煙草をすわないで」と言われたことはない。寝煙草はしていた。けれども、酔いにまかせても枕もとの畳を焦がして以来、寝煙草は自粛している。
 いつだったかの日活映画で、石原裕次郎と北原三枝?か南田洋子かのベッドシーンを見た。裕次郎はシーツから裸の上半身を出して、ニガイものでも呑み、吐き出すように煙草を吸っていた。彼がやると何でも図にはまっている。
 「よし!いつかおれもやってみよう!」
 若いボクはそう決めていたことだが、時だけが虚しく過ぎるばかりで、家でも外でも裕次郎を演じることは実現していない。気持ちは切れてはいないが、もう無理だろう。
 なぜならば昨今は、家でも外でも煙草を吸えば、相手の笑顔をかき消し、眉を曇らせるばかりか、ストレートに「臭い!」という残酷な言葉を投げつけられる・・・・。
 それでも青春の憧れのワンシーンは忘却仕難く、今夜も、
 ♪ベッドで煙草をすわないで~私を好きなら火を消して~甘いシャネルのため息が~今夜もあなたを待っている~
 沢たまき、リリーのハスキーボイスを耳の奥によみがえらせながら窓を開け、今日ラストの煙草にジッポーを合わせて吸い、寝支度をするばかり・・・・。ボクには「裕次郎の夜」は、もう来ない・・・。
 心待ちしていた電話がなった、古馴染みからだ。
 「カラオケでもどうだ」。
 否はない。「ジングルベル」や「赤鼻のトナカイ」とはいかないが、時間を逆回ししてわれらの青春歌謡を堪能してくるか!。



海洋王国・マーランが行く!

2015-12-01 00:10:00 | ノンジャンル
 秋の海にマーラン船が走った。
 うるま市教育委員会が復元した沖縄特有の木造物資運搬船・マーラン船(通称山原船=やんばるしん)が、11月3日、与那原町在「与那原マリーナ」に入港した。同船は1日に国頭村安田港を出港、うるま市の平安座南港、同津堅港軽油という約115キロの帆走だった。
 うるま市はマーラン船の操船技術を継承し戦前、沖縄本島海岸の交通の要所となり、物資が運搬されていた様子を再現する「やんばる~与那原間帆走事業」を計画。造船は同市の船大工越来治喜さん(61歳)が手掛けた。風力だけで走るマーラン船の復元は戦後初めてで、操船はB&Gうるま市勝連海岸クラブのメンバー延べ13名が務めた。
 この日の海岸は強風。決して順風満帆とはいかず、津堅島から約2時間の海路だったが、同海岸クラブの親田辰美会長(58歳)は「風が気になったが無事ゴールした。(風頼み)だった先人たちの苦労を実感できた」と日焼けした顔いっぱいの達成感を述べていた。
 また、ゴールを見届けた与那原町古堅国雄町長には、かつてマーラン船で運ばれた薪、山原竹、スヌイ(もずく)などが国頭村やうるま市の関係者から手渡された。

 ♪やんばるぬ山ぬ広さあるくとぅや 与那原ぬタムン 見ちどぅ知ゆる
 〈やんばるぬやまぬ ふぃるさあるくとぅや ゆなばるぬタムン んちどぅしゆる

 と琉歌にあるのは、まさにこれである。
 「国頭村はじめ大宜味、名護など山原地方の山々は余程広いに違いない。毎便毎便、マーラン船が運び、与那原の浜に言葉通り‟山積み”される薪を見れば分かるではないか」。
 行ったことも見たこともない山原地方の山々の広さを大量の薪材から想像した与那原はじめ、南部の人びとの心情がうかがえる1首である。
 昔から海を生活の場として逞しく生きてき、したがって造船技術に長けていた海の民勝連の人たちが(マーラン船復元)を成し遂げた情熱は容易に納得できる。快哉!快哉!

 琉球には古くからさまざまな(船・舟)があり、それぞれの役割を果たしてきた。それらを列記してみよう。
 ◇唐船=とうせん・とうしん。進貢船として中国航路に就いた官船。
 ◇楷船=かいせん・きーしん。薩摩航路の官船。
 ◇飛船=ひせん・びしん。緊急時に唐、薩摩に派遣する特別官船。
 ◇馬艦船=まーらんせん。通称やんばるせん・やんばらー。大型は東南アジア、中国航路の貿易船。小型は琉球国内を結ぶ物資輸送船。
 ◇タタンナー=マーラン船の小型。
 ◇シンニ=丸木舟。内海漁業用。または近距離の離島への渡し船。
 ◇サバニ=近距離漁業用。帆を掛けると中距離も対応できる。

 明治4年(1871)石油発動機船が導入され、離島航路が改善される一方、大正期にかけては鹿児島郵便船会社が沖縄に就航。運輸丸、名護丸、本部丸、盛安丸、大成丸、幸運丸、渡口丸など民間運営の汽船が活躍した。とは言っても離島航路は月に1回、もしくは2回だった。

 話をマーラン船に戻そう。
 マーラン船は近世中期以降、沖縄で最も普及したシナ式ジャンク型の主に物資輸送船。名称「マーラン」は「馬艦」の唐音を転訛したもので、18世紀はじめ中国・福建省伝来の船型。それまでの大和船(地船)に比べて、より大型。また、船足も海上を(馬のように走った)ことから(馬艦)の呼称が付いたという。
 尚敬王代、宮古、八重山航路の御用官船が、この馬艦造りに改定されたことをきっかけに、18世紀には沖縄全域に普及した。
 両先島蔵元政庁(琉球王庁の出先機関)の御用公船として仕立てた12反帆船を例外として、たいていは5~8反帆船。マーランは殊に、沖縄本島北部・通称ヤンバル地方と那覇や与那原などを結ぶ船として活躍したことは前述のとおりである。

 港は文化の入り口である。
 なかでも経済は物資の流通に負うところ大だ。現在は船便に航空便が加わって、那覇空港はハブターミナルが稼働し、中国、アジア諸国を結んで沖縄経済、いや、日本経済の要になっている。
 くだけた話をすれば、港のあるところ色街・歓楽街が出来、景気を活性化させた(マーランの時代)もそうであった。船頭やカコ(水夫)たちも花街の(花)と大いに親しんだ。馴染みの花も出来る。しかし、山原と那覇のこと。季節によっては半年も1年も那覇行きが絶えることがある。そこで、花街の花が彼らの船の入港を待ちわびる琉歌をひとつ。

 ♪名護や山原ぬ行ち果てぃがやゆら なまでぃマーランぬあてぃぬ無らん
 〈なぐやヤンバルぬ いちはてぃがやゆら なまでぃマーランぬあてぃぬねらん

 歌意=名護という所は山原の果ての果てなのだろうか。上客の船頭たちの噂も沙汰も聞こえない。商売あがったりだワ。
 人で賑わう港はいい。軍港はいらない。