旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

十二支シリーズ⑧ 戌・犬

2010-03-25 00:20:00 | ノンジャンル
 私事だが犬恐怖症である。嫌いではない、恐いのである。
 かつてドンと名付けた北欧系の犬を飼っていたが、おどおどした私の態度にドンの立場からは(力関係・上下関係はオレが上!)と認識したらしく、主人の私に向かって吠えるドンとは遂に反りが合わず、犬好きな友人宅に引っ越してもらった。

 犬に対する私の[おどおど]には原因がある。
 20歳のころ。隣家に飼われていた大型犬。いい関係で頭をなでたりしていたのだが、ある暑い夏の日、彼も不快指数100%に達していたらしく、おっくうそうに寝そべっている側をいつものように通ったとたん、右膝に噛みつかれた。以来、深く結ばれていた彼との友愛にヒビが生じ修復不可能になってしまったのである。どんなに小さな犬にも、あのときの大型犬の形相が重なって、恐怖がよみがえるのだ。周囲からは病的と言われるが、この病は一生治らないだろう。

 糸満市阿波根にある沖縄県警察本部属託・シオン警察犬訓練所山内昌靖所長と歓談する機会があり、意識的に避けていた犬の話を聞いた。それによると、犬の社会は上下関係、力関係で成り立っているそうな。
 「この関係が健全に維持されてこそ、どんな犬も快適に生きられるというもの。それは飼犬として人間社会に入ってもかわらない。しかし多くの事例は、かわいがり過ぎて犬の方が人間よりも優位に立ちその結果、命令なぞ聞かなくなる。言い換えると、犬は(上下関係はオレが上)と思い込み、吠えたり噛みついたりで人間に命令を下そうとする。それを(悪い犬)と人間は勝手に見なす。いい犬と暮らしたいと望むならば、犬より上位に立ち、強弱をつけたはっきりとした声でコミニュケーションを図ることだ。つまり、幼児に接するような感覚と愛情を示して飼育することが肝要。犬は命令されるのを不快とはしない。むしろ、本能的には快適なのだ」
 山内昌靖所長の話しぶりには、子弟教育の理念すら感じられる。山内所長はさらに語った。
 「わが子が悪さをすると親は、そんな子に育てた覚えはないと言うが、では誰が育てのか。親に覚えがなくても、そう育てたから、こう行っただけのこと。子だけの責任とは言い難い。犬と子どもを同一視してはいけないが、命あるものとの向かい合いは、やさしい愛情と厳しい愛情を均等に持たなければならない」
 そう話したあと、次のように結んだ言葉が胸にしみた。
 「人間は100年生きられる。犬は15年から20年の平均寿命。人間の5分の1、あるいはそれ以下しか生きられないのだから、愛おしんで飼ってやってほしい」

琉球犬=トゥラー

 ※いぬ【戌・犬】十二支の第11。昔の時刻「戌の刻」は、今の午後7時から9時。方角はほぼ西北西。

 犬は他の動物の中でも、最も古くから人間と共に暮らしてきた家畜。犬の移動や分布を解明すれば、民俗のルーツが分かるとさえ言われている。公認されたものでも100種を越え、それぞれの特徴によって猟犬、番犬、闘犬、愛玩犬などとして飼われている。しかし、これほど人間と深く関わっていながら、俗語に登場する[犬]はスパイをはじめ、密偵、間者、裏切りものなどにとどまらず犬侍、犬畜生、犬死になぞとロクな例語を持たない。それなのに人間は、犬の出産が軽いことにあやかって妊娠5ヶ月ごろの戌の日に岩田帯を締めて安産を祈願する。おかげでわれわれは、元気に産声を上げて生まれてきたことを忘れてはならない。犬嫌いではなく、あくまでも犬恐怖症の私でも、犬への恩義は常々感じている。

 ※犬、骨を折って鷹に取られる
 犬も鷹も狩猟をする。犬がせっかく追い詰めた獲物をちょっとしたスキに鷹に取られる場合があることから、人間社会にも苦労して積み上げたものを他人に横取りされるさまを言い当てた言葉。
 ※犬の川端歩き
目的もなく。ただただほっつき歩くさま。また、一生懸命に事を成しても何の結果も得られないことをいう。
 かつて私は、川端歩きの犬だった。
 独身時代。親掛かりの身でありながら、ひとたび外に出ると2、3日帰らないことしばしばだった、疲れ果てて帰宅すると、おふくろは決まってこう言った。
 「お前は、家付かん犬〈やーじかん いん〉みたいだ。たまには家で落ち着きを見せなさい。外回ぁるー〈ふか まぁるー・出歩くこと〉ばかりしていては、家ぬ神〈やーぬ かみ・家の守護神〉に見放されるよッ」
 そう言うときのおふくろの目は、悲しそうだった。それでも犬男には反省の色なく、翌日からまたぞろ川端歩きをしていた。
 いまはどうか。
 おふくろが逝って20余年。説論が聞けなくなった分、自覚したのか川端歩きの習性は改まり、もっぱらおとなしい番犬の日々を過ごしている。





十二支シリーズ⑦ 酉・鳥・鶏

2010-03-18 00:20:00 | ノンジャンル
 暁を告げる鶏の鳴き声を聞かなくなってから久しくなる。
 鶏はいつから鳴かなくなったのだろう。いや、鳴いてはいるだろうが、かつてはどこの家でも飼っていた鶏は、ほとんどが養鶏場住まいをして肉用、卵用としての育ち方を選び、時を告げる役目を目覚まし時計にゆだねてしまっている。その点、野鳥は意のままに空を飛べるぶん、朝な夕なわが家の庭先まで義理堅く訪ねて来てくれて、美声の挨拶を受けている。


 ※とり【酉】十二支の第10。昔の「酉の刻」は現在の午後5時から7時。方角は西。
 普通、トリと言えば、鶏をふくめあらゆる鳥類をさすが、世界には約8600種、日本には約520種いるそうな。これらを科・目別に分類するとなると専門家でも分厚い数冊の本を要するだろう。
 トリとは「飛翔生活に適応した脊椎動物。体は羽毛で覆われ、前肢は翼となる。恒温動物で卵生。口は嘴となり歯はない。肺で呼吸」と辞書にある。
 [鳥]を用いた日常語は実に多く、沖縄の場合「飛び鳥=とぅびとぅゐ」にも、いくつかの慣用句があって、自由に空を飛翔することから「自由」を意味したり、余所からやってきたかと思えば、すぐに去っていく人のさまを「飛び鳥のようだ」と表現する。また、食が細いさまを。トリがエサを突っつく様子に例えて「鳥ぬ物突ちゅんねぇ=とぅゐぬ むぬ ちちちゅんねぇ」と言い、食の細い若者には「娘を嫁がせるなッ。ロクな働きは出来ない。妻子は養育できないッ」として敬遠される。
 すぐれた人のいない所で、能のない者が威張る例えに「鳥無き里の蝙蝠」と言う。
 では、蝙蝠はトリかケモノか。

 ※こうもり【蝙蝠】自由に飛行できる哺乳類。前肢の骨が特殊な発達をし、その骨の間に飛膜を張って翼を形成する。昆虫などを主食とする小形コーモリ類と、果実を主食とするオオコーモリ類に大別できる。世界には約800種、日本には約30種生息している翼手種である。
トリともケモノともつかないことから、争っている双方に要領よく味方する者を「こうもり人間」。仲間としては異質だが仲間は仲間とする考えの例えを「蝙蝠も鳥の内」と言う。また一方では、ふさわしくない者が賢者の中に交じっているさまも意味している。蝙蝠の沖縄口はカーブヤー。少年のころは夏の夜、カーブヤー狩りをよくしたものだが昨今はその姿さえとんと見かけなくなった。
 蝙蝠が翼を広げたような形をした黒布張りの傘に「こうもり傘」があるが、いくら直訳でも「カーブヤー傘」とは言わない。西洋を総称して[ウランダ]とした時代の名残りで、沖縄的には「こうもり蘭傘=らんがさ・オランダ傘」と称した。


 鶏について。
 キジ科の家禽。世界中でもっとも多く飼育されている。卵用・肉用・卵肉兼用・愛玩用・闘鶏用と多くの品種がいることはご存じの通り。原種は東南アジア産のセキシュクヤケイと言うそうだが、日本にはフタカケ、ナガナキドリの古語もあるという。
 沖縄の鶏は、いつごろどのように飼育され始めたか定かではない。卵用、肉用の他に薬用の烏骨鶏、闘鶏用のタウチー、鳴き声を楽しむチャーンなどは、いずれも中国から輸入されたものと言われている。それが明確に記述されているのは、沖縄学の父伊波普猷の全集5の「朝鮮南島漂流記」に見ることができる。文明9年〈1477〉、朝鮮人7名が航海中に遭難して、琉球列島八重山与那国に漂着。やがて乗組員や積荷もろとも島々を経由して、沖縄本島に送られた経緯が記録されている。その積荷の中に鶏も記されているが、種類は不明。鶏の名称を「庭鶏」と書いて「みやとり」とあり。これが今日的に言う「みゃーどぅゐ」「なぁどぅゐ」になったと思われる。鴨は「がぁどぅゐ」。

 鶏は鶯とともに多くの琉歌に詠み込まれている。

 symbol7鶏ぬ卵や 二十日目に孵でぃる 我身や里逢ちゃてぃ 今どぅ孵でぃる
 〈なぁどぅいぬ くがや はちかみに しでぃる わみや さとぅ いちゃてぃ なまどぅ しでぃる

 *孵でぃーん=しでぃーん=は〈クーガ=卵=が孵化するように〉生れ出る・生まれ変わる・新しい命を得るの意。歓びを得て生まれ変わる幸福を意味する言葉「孵でぃ果報=しでぃがふう」もそのひとつ。
 歌意=鶏の卵は、親鶏に抱かれてから二十日目に孵化し雛になる。わたしは好きなあの人に出逢い抱かれて今、大人の女性になった。
 遊び唄の三線に乗せて歌うには、色気と情緒がからみ合ったお勧めの1首。



 symbol7干瀬に居る鳥や 満潮恨みゆゐ 二人や暁ぬ鶏どぅ恨む
 〈ふぃしに WUるトゥイや みちす うらみゆゐ たいや あかちちぬ トゥイどぅ うらむ

 歌意=干潮時の岩瀬に羽を休める鳥は、満潮を恨む。飛び立たなければならないから。夜を徹して語り合う二人が恨むのは、暁を告げる鶏。人目につく前に別れなければならないから。
 岩瀬にいた鳥は、ウミドゥイ〈海鳥・代表してカモメ〉かサージャー〈白鷺〉か。



十二支シリーズ⑥ 申・猿

2010-03-11 00:20:00 | ノンジャンル
 3月に入っても寒い日が続いている。
 ふとテレビをみると、長野県かどこかの山間に湧き出る温泉場が映っている。しかし、露天風呂につかっているのは人間にあらず。野生の猿の一家が頭に粉雪を乗せながら、赤い顔をさらに赤くし、目を細めて気持ちよさそうに入っている。天然温泉のない沖縄育ちにとって、羨ましいことこの上もない。何事か成す場合、よくも考えもしないで他人の真似をすることを「猿の人真似」「猿真似」と言うが、温泉の温かさに眠気まで誘われている猿の一家がなんとも羨ましく「わたしは猿になりたい!」「人の猿真似」をしたくなったしだい。

 ※さる【申】十二支の第9。昔の「申の刻」は、現在の午後3時から5時。申の方角は西南西にあたる。あとひと月もすると、冷たい北風はしだいに南へ回り、申の方角から吹くようになって“うるじん・うりずん・うるずみ”の季節を迎えて、寒さは遠退く。

動物の猿とは、人を除く霊長類の総称。南アメリカ産で尻だこの発達した狭鼻猿類。尾のない高等な類人猿の他にツバイやキツネザルなどの原始的な原猿類が含まれる。俗にエテ公とも言い、動きがすばやいことから「ましら」とも言う。沖縄語ではサールー
 猿に因んだ慣用句を拾ってみよう。
    

 ※猿が辣韮を剥くよう
 猿に辣韮〈ラッキョウ〉を与えると、皮を剥き続け、ついには食べる部分すら残さないと言われることから、無駄な努力をして何の益も効果もまったく上がらないさまを形容している。

 ※猿に鳥帽子
 烏帽子は、元服した男子のかぶり物の1種。黒塗りをしたことから、カラスの漢字を当てたようだ。平安時代には貴賤の別なく日常的に着用。もともとは布製だったが後世は紙製でウルシ塗りが普通になった。身分によって形や塗りが異なったそうな。
 
 ※猿の尻笑い
 猿が自分の尻の赤いことに気づかないで、他の尻の赤いのを笑うさま。目くそが鼻くそを笑うという例えもあるが、人間界にも自分の欠点にまったく気づかず、他人のフギ〈欠点・失敗・あらの意〉を笑うものがいる。政権交代後、政治家同士の「猿の尻笑い」的シーンがテレビに映し出される。しかし、これは「笑い」ではすまされまい。

 ※猿も木から落ちる
 木登りは得意中の得意の猿でも、時には登り損ねて落ちることもある。書道の達人弘法大師にも筆の誤りはあったそうだし、泳ぎの達者な河童も川の流れに足をとられて溺れることもあるそうな。沖縄の俗語には「走馬ぬキッチャキはいんま」がある。キッチャキはけつまづくの意。どんなに足の速いとの誉れ高い名馬でも、なにかの拍子にキッチャキすることもあるわけで、名人上手の手からも水が漏れることも、ままあることだ。またぞろ政治家絡みになるが、猿は木から落ちても猿でいられる。でも、選挙の票数で当落が決まる彼らは選挙に落ちると「ただの人以下!」と言った御仁がいる。ジョークとしては面白いが、当人にとっては笑ってもいられまい。

 ※猿は人間に毛が三本足らぬ
 猿がいかに人間に類似していると言っても、猿は所詮猿。人間に及ぶものではない。その差を[毛3本]にしたところがいい。つまりは、人間はイチムシ〈けもの〉に劣ってはならない。人間らしくあれ!と説いている。
 いかに人間同士でも、どうしても気が染まない人がいるものだ。何かにつけていがみ合う。慣用句では「犬猿の仲」としていて、同席すれば良し悪しは問題外の外。とかく生理的に受け付け合わない。しかし、猿の生息しない沖縄では犬と猿ではなく「犬とぅ猫=インとぅマヤー」にしている。

 ところが、王府時代の宮廷芸能のひとつ組踊〈くみWUどぅゐ〉に猿が登場する芸題がある。作者は高宮城親雲上〈たかなーぐしく ぺーちん〉。ぺーちんは、宮廷の高官の職位。生没不詳。作品名「花売ぬ縁=はなういぬ ゐい」。その2段目には、大道芸をする小猿の出がある。称して「猿引きの場」。
 物語は、首里を離れて単身、大宜見間切津波村に下った男森川の子〈むいかわぬ し=子・=は下級官位名〉を妻子が尋ねて行く。森川は、篭に花々を積んで担ぎ歩く花売りの暮らしをしている。10余年ぶりに邂逅した親子は(やはり家族は離ればなれになってはいけない。ひとつ家に暮らすべき)だとして首里に戻る。母子の旅の途中、大道で鳴物に合わせて芸をする小猿を見かけるのだが、大抵7、8歳の子役が演じるため、この組踊の見せ場になっている。もちろん、沖縄には猿はいない。それでも猿が登場するのは、組踊そのものが大和の能・狂言を参考にして創作されたからだ。歌舞伎や大和芸能に猿引きの場が多々あることはご存じの通りである。

 京都・嵐山の猿山に遊んだことがある。
 山頂の小屋の中から野生の猿を観察するわけだが、小屋に人間が入ると外の猿たちがエサをねだって小屋を囲む。金網や強化ガラスで安全は確保されているものの、その情景は人間がオリの中にいて、外から猿が人間を見学しているようだった。妙な気持ちを押さえて猿につき合った。

     


十二支シリーズ⑤ ひつじ・やぎ

2010-03-04 00:20:00 | ノンジャンル
 北の大地に憧れを抱かせてくれたのは、ひとつの学校唱歌だった。昭和20年の小学校1年生は、もう5年生になっていた。作詞不詳・船橋栄吉作曲「牧場の朝」。
 “ただ一面にたちこめた 牧場の朝の霧の海 ポプラ並木のうっすりと 黒い底から勇ましく 鐘が鳴る鳴るかんかんと”
 “もう起きだした小屋小屋の あたりに高い人の声 霧につつまれあちこちに 動くひつじのいく群れの 鈴が鳴る鳴るりんりんと”
 “今さしのぼる日の影に 夢からさめた森や山 あかい光に染められた 遠い野末に牧童の 笛が鳴る鳴るぴいぴいと”
 「北海道の牧場の様子を歌っています。ポプラ並木、羊の群れ、牧童、一面の朝霧。聞きなれない、見たことのない情景ですが、これはですね・・・・」。
 受持ちの女先生は、北海道に行ったことがあるらしく、歌詞の1語1語を解説してくれた。終戦まで、那覇に生まれ育った少年は牧場を知らない。フィージャー〈山羊〉は知っていても、羊にはお目にかかったことがない。まして、その羊が群れをなしていて、それを牧童が鐘や鈴で操るなぞ、頭の中に自分なりの牧場を作り、羊を幾匹も飼って情景を想像する以外、術はなかった。あれから60年余、雪の北海道は何度も旅し、ジンギスカン料理は食しているが“牧場の朝”“ポプラ並木””ひつじの群れ”は、いまだ知らない。

 ※ひつじ【未】十二支の第8。昔の時刻「未の刻・未時」は、今の午後1時から3時。未の方角は、ほぼ南南西。
 動物の未は牛の仲間らしい。ウシ科ヒツジ属の家畜と辞書にあって、メリノー種などの毛用種のほか毛肉用種、乳用種などがいる。キリスト誕生物語には、羊飼いが主役をつとめていることからすると、羊は2000年以上前から人間の衣食を満たしてきたようだ。性質がおとなしく飼主にも従順。しかし「羊の屠殺場に赴くが如し」という慣用句があって、屠殺場に引かれて行く羊のさまから[死期が刻々と迫っている]ことのたとえ。[不幸に直面して気力も衰え、悲しみに打ちひしがれているさま]を意味している。また「羊の歩み」も、力のない歩み方をしめしていて、ものの哀れを覚えさせる言葉になっている。

 山羊はどうだろう。
 ウシ科の中形哺乳類で古くから乳、肉、毛、毛皮を目的に飼われてきて品種も多々。世界各地に分布する山羊は、草や樹葉を主食とし強健で放牧に適しているのも飼育上、人間にとってはありがたい。
 沖縄名物の「山羊料理」。多少の臭みがあることから好き、嫌いの2派に分かれる。しかし、その臭みは肉汁の場合、ソーガー〈しょうが〉やコーレーグス〈高麗薬・唐辛子〉、フーチバー〈よもぎの葉〉で消すことができるし、通になるとその独特の臭みを好み、泡盛をたらして食する。1頭つぶしてもまったく無駄がない。肉や臓物一切はもちろんのこと、血は固めた後、ネギやンジャナ〈苦菜〉ヒジキなどと炒める。これを「血いりちー」と称する。中でも珍味なのは睾丸。なにしろ雄山羊1頭から、当たり前だが2個しか取れず、かつては山羊をさばいた人のみが口にするという特権を有した。親しくしている山羊料理屋のおやじは、肉とともに睾丸を仕入れたときなぞ電話をくれる。山羊汁、山羊肉刺身を口に運ぶ合間に、ショウガ醤油で箸をつける。やわかいがコリコリした食感を楽しむうちに、みるみる[男を取り戻した]ような精気が沸いてくる。昔から「ヒィージャー グスイ〈山羊は薬〉」と言われる由縁はここにある。また、地方においては皮は防寒着や三線の張りにも使用。ツノは三線の絃を弾くバチとして現在でも重宝している。
    

 2月14日。陰暦の正月をすませた。
 このころ、基幹産業のサトウキビの収穫と製糖工場への搬入が大方終了する農家では、「WUたい直しー」と称する飲食会を持つ。寒い中、キビ刈りに従事した男たちの慰労会である。酒は泡盛、料理はこの日のために飼ってきた山羊の肉。諸々のスポーツ大会の数日前はクンチジキ〈根気付け〉という栄養会を持ち、ここでも山羊料理。大会の成績はどうであれ、勝てば祝勝会、ふるわなかったら残念会と山羊は都度、人間のスタミナ源として貢献している。
 沖縄の山羊は戦前、20万頭ほど飼育されていたそうだが、戦争で1万頭に激減。しかし、戦後すぐにアジア救済同盟・通称ララから乳用種の贈りものがあり、徐々に数を増やしてきた。メス山羊には繁殖の季節がある。秋から初冬にかけての日照が短くなる時期に発情。妊娠期間は約150日。普通、1~2頭。3頭産むこともある。
 戦争中、乳幼児を抱えた家族には、メス山羊を引き連れて山中を逃避した例もあった。幼児のための乳。いざというときの食料にするためである。いまとなっては笑いばなし風だが、家族の命をまっとうするには山羊の恩恵にすがるしかなかったとも言える。
敗戦と同時にアメリカ兵の目の色を初めて皆、驚愕し恐怖を覚えた。黒いはずの瞳が青い。まるで山羊の目だ。そこで沖縄人は、青い目の彼らを「フィージャー ミー=山羊の目」と言って恐れた。リンガンミー〈茘枝の実のような目〉とも言った。しかし、日本復帰〈1972〉まで間近でつき合い、現在なお米軍基地を有し65年も接しているうちに慣れてしまったのか、彼らに対する「フィージャーミー」「リンガンミー」なる呼称も風化して、沖縄的戦後言葉の中に納まっている。とは言うものの沖縄の今日の状況は、永田町の黒い瞳の羊飼いたちによって左へ右へ追い立てられている。
 沖縄人を「ひつじの屠殺場に赴くが如し」にしてはもらいますまい。