旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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粋に色ばなし

2012-09-20 00:03:00 | ノンジャンル
 都々逸。
横にねかせて 枕をさせて 指で楽しむ ××の××

さあ。
あなたは<××の××>に、どんな言葉を当てはめるだろうか。
上の句からして、ちょいと色っぽいことを連想する方もあろうし 「まあッいやだッ!」と、筆者の人格と品性に嫌悪を覚える方もあるだろう。いずれの見方も正しい。
<××の××>は、こうである。
横にねかせて 枕をさせて 指で楽しむ 琴の糸
 若いころ。
先輩に「物明かしぇ=むぬ あかしぇ=」を出題された。<ものの理を解明すること。なぞなぞ>である。
 曰く。
 「倒ち まん抱ち ハンチ 楽しみ。何やが=とぉち まんだち ハンチ たぬしみぬうやが?=<倒して抱いて、はじいて楽しむモノ。なあんだッ!>
生来、潔癖症の直彦青年。一瞬、嫌な顔をしたのだろう。先輩は「したりッ」とばかりに正解を言った。
 「さんしん=三絃=」
なるほど。サンシンは、横に倒してひツしと抱いて弾いて楽しむものである。
 「倒す」「抱く」「はじく」には、どうも禁断の果実の香りがあって、人生経験が希薄な あれから四十年。
人の世の裏表を垣間見てき、いまでは、こうした言葉遊びを大いに楽しんでいる。
 そこで。
あなたに<物明かしぇ>を一題。
 「倒ち 寝んしてぃ 立てぃ 舐みてぃ 入ってぃ ハンチ 楽しみ。何やが?=とぉち にんしてぃ たてぃてぃ なみてぃ いってぃ はんち たぬしみ ぬうやが=<倒して寝かせて立てて舐めて入れて弾いて楽しむモノ。なあんだツ>
 あなた。ファイナル・アンサー?
それは「琴」
琴はまず、横に倒して寝かせる。そして、駒を立て、指を舐めて爪を入れ、おもむろに糸を弾いて楽しむ。
ひところまでは、こうした言葉遊びを男女揃い、大口開けて笑いながら楽しんだものだが、近頃は、殊に教養のある女性の前で口にしようものなら、セクシャル・ハラスメントで、訴えられる。
浮世。固い話ばかりでは肩がこり、儲かるのはその向きの薬品メーカーだけ。罪のない色ばなしも、豊かな感性で包み込んで自由に交わせる<男女平等>の浮世であってほしいのだが・・・。無理か。
沖縄口<うちなぁぐち>を駆使したこの種のネタは多々ある。よろしければ掲載するし、下品に過ぎるなら遠慮する。
とは言っても、いまでも「好き者同志」集まっては、粋に色ばなしをしているのだが・・・・。<仲間募集中>



あけぼの劇場界隈

2012-09-10 00:15:00 | ノンジャンル
 2002年9月13日。
歌者古謝美佐子と福岡空港に降りたふたりは、すぐに高速バスに乗り換えて小倉へ向かった。ちょっとしたライブをやるためだ。
結構な時間を考える事柄もなく、後ろへ走る風景や街並みをながめていた。バスが高速道路を下りて小倉の手前の三荻野にさしかかると、そこは市街地。道路は車の数が多くなって渋滞気味。疲れで古謝美佐子は爆睡している。それにつられて私の目も重くなる。その時、道路沿いのある店の看板を見て、眠気が瞬間吹っ飛んだ。
味処・とり料理。と、あるのだが、店名がいい。
「くればわかる」
なんと豪気なことか。赤ちょうちんに赤のれん。ライブがなければ、降りて入っているところだった。
店主は、腕に自信のある<こだわりの職人>に違いない。そして、こう宣言しているのではなかろうか。
「素人は、寿司はあの店、鍋はこの店なぞと、テヘッ!、分かったようなことを言うが、店構えで味を云々しちゃあイケンとよッ。殊に鳥料理なんてぇのは包丁人の五感が味よッ。なにッ。アンタんとこの鳥料理は旨いかってッ。ナンバ言うとるとッ。店に来て食べてミンシャイ。旨いか不味いか<くればわかる>たいッ」
勝手な推察。が、その通りであるような気がして嬉しくなった。嬉しさを共有したくて、古謝美佐子を起こして見せたのだが、彼女はチラリッ目を向けただけで、すぐに夢の第二部の世界へ入って行った。

三荻野の鳥料理店は「くればわかる」だが、那覇市三原にある居酒屋は、もっとインパクトのある看板を出している。
「くるな」
語感通り「来るなッ」なのか、青物に<くる>という<菜>があるのか。わざわざにでも行って、いっぱいやりながら確認したいのだが、なにしろ「くるな」だから、一見の私がのれんを押し上げたとたん、偏屈そうな大将に「来るなッ」と、怒鳴られそうで気おくれしている。

 那覇市三原界隈は、住宅街なのだが、通りは4、5人入れば満席になりそうな飲み屋が100軒ちかくはある。いまはもうないが、ここには劇場があって芝居を常打ちしていたし、しばらくして、その斜め向かいに那覇市真和志支所が設置されて、人の往来で賑わっていたからだろう。
劇場名「あけぼの劇場」は、定員200ほどであったが、多くの役者がその舞台を踏んでいる。
 昭和28年<1953年>3月。奄美大島出身と聞いているが、増田 実が開設した娯楽の殿堂。座長松茂良興栄<故人>一行”みつわ座”の柿落とし公演で沖縄芝居の歴史を刻んできた。娯楽が少なかった時代。興行に関する法的定員200人のキャパシティーなのに500人を収容することも珍しくなかった。その後、テレビの登場。芝居では観客動員がむつかしくなり、映画館に転じたが、いつの間にか閉鎖してしまった。沖縄各地にあった芝居劇場が同じ運命をたどったのは言うまでもない。

 三原界隈は、庶民の憩いの場であることは、いまでも変わりはないが、先日、所用で通りかかった際、これまた、感動的な看板に出会った。ピンクのプラスティック板に文字が慎ましやかに浮かんでいる。
スナック「母子家庭」
目頭が熱くなった。人生いろいろ、女もいろいろ。浮世の波風にもまれながらも、それでも負けずに一生懸命生きている母と子が経営しているのだろう。ここは、役者北村三郎と連れだって是非、行ってみたい。決して裕福ではないが、母と子は深い絆で結ばれ、心だけは豊かに生きている・・・・・。
北村三郎得意の人情劇が一本書けるかも知れない。タイトルはこうだ。
「しあわせの母子花」
 



唱え・呪文

2012-09-01 00:59:00 | ノンジャンル
 思わぬことに遭遇する。それが、未経験あるいは、命に関わる場合、大人でも一瞬茫然自失に陥る。幼年のころ、急に驚愕してげんなりすると「まぶい うてぃ そぉん=魂、生気を落とした=」として、ことに母親、祖母はその現場に本人を連れて行き「まぶやぁ まぶやぁ あんまぁ ふちゅくる 入りよぉ まぶやぁッ=魂よ、魂よッ。おっかさんの懐に入れッ。戻れッ=」と、唱えた。そして、あんまぁは、呼び戻した<まぶい>を握った手で、我が子の頭をなでたり、抱きしめたりすることによって入魂をした。あんまぁは、我が子の命を幾度でも産むことができる。護ることができるのだ。
唱え。呪文は誠にありがたい。
鼻ふぃーん=くしゃみをする。
「はくしょんッ」ときたら、風邪薬三錠を飲む前に、間髪入れず「くす くぇッ!」と唱える。つまり「くそ食らえッ」である。くしゃみは、悪霊のなせる業と考えられていて、汚い言葉を投げつけることで悪霊払いをするのである。所によっては「くすくえッ」の後に「もうきてぃ めぇ くぇッ=儲けて米飯食えッ」を付け足している。これは、悪霊への唱えではなく、芋を主食としていた昔の庶民の<米の飯>に対する願望だったのではなかろうか。

かんない=雷。
雷に対しては「くわぁぎぬ しちゃ でぇびるッ=桑の木の下ですッ=」と唱える。かつて、雷が人家ではなく裏山の桑の木に落ちて人命が救われたという故事にならった呪文だ。

ねぇ=地震。
地震の場合は「ちょうちかッちょうちかッ」と唱えるがいい。
昔、浦添間切<現・浦添市>は、再三再四襲う地震に恐れおののいていた。このことを憂慮したのは、金武観音寺を開いた日秀上人。上人は村人とともに、この地に塚を造って霊験あらたかな経文を納め地震を封じた。「経文塚」に因んでこの地を「経塚」と呼称。大地がゆれると「ここは、神仏が加護する経塚だぞッ」と、沖縄中で唱えるようになった。「ちょうちか」は、経塚の方言読みである。
くしゃみに対しては、アメリカ、ヨーロッパでも「お達者でッ」とか「神の加護をッ」と、相槌を打つそうな。
自然現象の猛威の前では人間、手も足も出ず、呪文を唱えて厄を払い、神仏の力を頼みにするよりほかに術はないのだ。

*風巻ち=かじまち。竜巻。
竜巻が起きたとする。伊江島では「いゆ いゆッん めぇ めぇッん くぇーよぉッ」と唱える。神仏の心を穏やかならしめるために、供え物をするのと同じ理屈で「魚も米飯も捧げます。お静まり下さい」と、祈ったのである。また、具志川市方面では、竜巻や地震があると合掌して「うーとぉーとぅ。さき いっす」と唱える。「御神酒あがらぬ神はなし」で、人間の力ではどうにもならない自然現象の難を避けるためには神仏にすがる。
「神様ッ仏様ッ。酒を一升差し上げます。竜巻、地震をどうぞ鎮めて下さい」と、お願いしたのだ。
 21世紀。人間は科学にまるまるおんぶされて、神仏には頼らなくなった。かと思うとそうでもない。ハイテクの粋を結集した官庁、企業の最新ビルディングを建築するにも、まずは、地鎮祭に始まる。そして「かしこみかしこみ」工事の安全を神仏に願い奉った後も、建築の過程において欠かさず御祓いや祈りを捧げている。
借金苦や失恋の場合、人はおのれの努力不足を棚に上げて「ちくしょうッ!この世に神も仏もあるものかッ」なぞと暴言を吐くが待てッ。神仏と人間は一体であった方が世の中は平和である。
しかしまあ。神の成せる業か、人間の思い上がりのせいか。こうも世の中、不景気風の止む気配がない。新興宗教でも興して自ら神仏になってみようかと本気で思うのだが、人それぞれ、いまを何とか凌ぐために<神仏>さえ見向かなくなっている。
御神加那志。ちゃあ あたれぇ しまびぃがやぁッ」<神様ッ。どうすればいいのでしょうかッ>