旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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俺は待ってるぜ・昭和のあの日

2014-10-31 21:16:00 | ノンジャンル
 ♪霧が流れてむせぶよな波止場 思い出させてよまた泣ける 海を渡ってそれっきり逢えぬ 昔馴染みのこころと心 帰るくる日をただそれだけで 俺はまってるぜ~♪
 
 その日、迷わず選曲したのはこの歌であった。
 作詞:石崎正美・作曲:上原賢六 昭和32年(1957)2月発売。石原裕次郎歌。「俺は待ってるぜ」。
 その日とはつい最近、浦添市屋富祖通り会(会長真栄田健作)主催の「小さな映画館」が屋富祖公民館で催された10月9日。
 国道58号沿いの米軍基地キャンプ・キンザーを目の前にした屋富祖通りは、かつて各種商店、映画館、フィリピン料理店、キャバレー、バー、おでん屋、山羊料理店、演奏と歌詞カードで歌うカラオケハウスなどなどが日夜営業して繁栄をしてきたが、このところ客足が過日よりは薄くなったとして、地域住民の(わが街)再確認と誘客を目論んだ「映画祭」だった。
 上映されたのは、昭和32年(1957)10月20日に公開された井上梅次脚本・監督。石原裕次郎、北原三枝主演「嵐を呼ぶ男」。裕次郎23歳の作品である。この映画を筆者が観たのは那覇市の国際通りに平和館と隣接してあったアーニー・パイル・国際劇場だった。因みに筆者は19歳の生意気盛り。
 アーニー・パイルは、沖縄戦取材のため従軍、伊江島で戦死した米軍記者・カメラマン。劇場を設立した高良一(たから はじめ)の言葉として風聞かされるのは(米軍支配下の沖縄。米軍関係者の名前を冠に付ければ、建築許可が取り易かった)のだそうな。
 映画「嵐を呼ぶ男」は、当時の若者の間に実に(嵐)を呼んだ。(慎太郎刈り)と称されるヘアスタイルがそれである。いまにして思えば富貴家庭の男児がそうであった(坊ちゃん刈り)なのだが、これが裕次郎のトレードマークになり、街の理容館が多忙を極めるほどに流行。街には多少、いや、極端に足の短い(裕次郎)が闊歩していた。煙草の吸い方も、ちょっと煙たそうに片目を細め、吸い殻は右手の親指と中指ではじくように(ポイ捨て)をする裕次郎ばりのしぐさまで流行った。筆者もそのひとり。裕次郎に成り切って(ポイ捨て)をしたいばかりに吸い始めた煙草。今日まで付き合っている。
 「嵐を呼ぶ男」が上陸した昭和32年。ソ連の人工衛星第1号打ち上げ成功。本土では、東海村原子力研究所で原子炉火入れ式があった年、沖縄社会はどうだったか

 ※「真和志市・那覇市に吸収合併」。
 戦後間もなくまで(村)だった真和志(まわし)は、やがて(市制)を施くが、昭和29年(1954)、すでに那覇市に合併されていた首里市、小禄村に続いて那覇市に編入されたのである。那覇市を囲むこの3市1村からなる大那覇市をマスコミは(ドーナツ合併)と報じた。因みに、首里市、小禄村の那覇市合併は、昭和29年9月1日。真和志村のそれは昭和32年12月17日である。

 ※「初の沖縄戦戦没者慰霊祭」。
 ハワイの慈光園(山里慈海師)主催により、初の日米合同十三回忌大法要が那覇商業高校校庭で営まれた。西本願寺・大谷光照門主、吉野山官長代理、鳥取蜜明師はじめ、島内やハワイからの関係者約500人が参列した。

 ※「オリオンビール創業」。
 5月。資本金150万ドル(5億4000万日円)で株式会社を創立。同年8月。水質のよい名護市(当時は名護町)に敷地4200坪、5階建て1100坪の工場で操業。日本、アメリカ、ドイツの最新機械を導入、ドイツ産ホップとモルトを輸入して(沖縄産ビール)製造。昭和34年7月から大びん45セントで発売を開始した。日本産は大びん55セントだった。

 ※「女性弁護士・女性判事誕生」。
 司法国家試験8000余人の難関を突破したのは安里光代女史。後に立法院議員、国会議員を歴任する弁護士安里積千代氏の長女。父の母校でもある日本大学法学部法律科出身。昭和7年生。3度目の受験での合格だった。帰郷後、父と共に那覇市で法律・弁護士事務所を開業した。結婚して(大城姓)となる。
 昭和32年1月1日。沖縄にも家庭裁判所が開設されているが、昭和43年、初の女性判事に大城光代は任命された。

 ※「ワシントン・米軍防省との直通電話」。
 すでに北中城村瑞慶覧(ずけらん)には、米国防省間を結ぶ通信センターがあった。本土と切り離して、極東の一大基地にするための沖縄の状況は、逐一ワシントンに報告されていた。異民族支配を廃止、1日も早い祖国復帰を願い民族運動、反米運動が大きな民意となっていた当時、モーア米軍司令官は、ワシントンと交信。内容は那覇市長瀬長亀次郎(人民党書記長。後に日本共産党)との土地問題。この交信がなされた翌日、昭和32年11月24日。瀬長亀次郎那覇市長の公職追放のニュースが流れた。
 待て待て!
 石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の話が、どうしてここまで発展したのか。
 映画は殊に旧作は、その時代の顧み、掘り起こして考察する(生きた資料映像)だからであろう。
 書斎をはなれて風呂に入る。鼻歌は「俺は待ってるぜ」。なぜ「嵐を呼ぶ男」ではないのか。「嵐を呼ぶ男」はテンポが速く、これではせわしくてシャワーも使えない。風呂にはブルースが似合う。
 ♪霧が流れてむせぶよな波止場 思い出させてよまた泣ける 海を渡ってそれっきり逢えぬ 昔馴染みのこころと心 帰るくる日をただそれだけで 俺はまってるぜ~♪




史跡・景勝地・旧沖縄八景

2014-10-20 00:45:00 | ノンジャンル
 「2度目です。ジンベーザメをいま一度見たくて」
 「首里城も行きました」
 東京からの観光客は、沖縄旅を満喫したようだ。
 また、広島からのグループは、
 「基地設置に揺れる辺野古の現場。普天間基地、嘉手納基地。もちろん、平和の礎にも参拝した。嘉手納基地周辺に基地の見える丘があって、若い人たちが、ピースポーズでシャッターを切っていた。基地も観光景勝地?なのですね・・・・」。
 彼らは観光旅行よりも、平和学習旅行であることが感じ取れた。

 旅は国内国外への旅行シーズン。沖縄からも各地へそれぞれの目的を持った人びとで那覇空港は賑わっている。
 観光立県。
 沖縄県文化観光スポーツ部観光政策課が平成26年4月に発表した、平成25年度(沖縄観光)入域者は、658万300人。沖縄県の総人口はこの時点で約142万人。その約5倍が沖縄を訪れたことになる。
 その内訳を見てみよう。もちろん、平成25年度の数字。

 {外国人観光客}
 *台湾=25万4100人。*香港=9万2400人。*中国=6万8700人。*韓国=9万8400人。その他=11万3600人。総計約63万人。
 *観光収入=約4479億円

 いきなり昭和27年(1952)。62年前にタイムスリップする。
 この年、琉球新報社は「沖縄八景」を選出している。島全体が焦土と化した、終戦から7年目の公募であったことを承知しておかなければならない。
 {沖縄八景}
 ◇伊江城(いえぐすく)からの眺望。
 伊江島にある通称伊江島タッチューからの眺望。島の中央に位置する172.2メートルの丘。中腹には島の守護神を祀り、航海の安全と島びとの健康を祈願する御嶽・蔡場がある。頂上からは本島の国頭村や恩納村の遠山、そして、周辺に点在する島々が望める。

 ◇茅打ちバンタ(かやうち バンタ)。
 国頭村宜名真(くにがみそん ぎなま)にある断崖。高さ80.7メートルのハンタ(突出崖)。ここから眼下の海に束ねた茅を投げ込むと吹き上げる海風にあおられてバラバラになって舞い上がることからの命名。珊瑚礁の海と山原の山なみは絶景。晴天には奄美大島の離島与論島が望め「日本復帰の碑」がある。

 ◇慶良間海峡(けらま)。
 那覇の西。座間味村、渡嘉敷村に広がる海。夕陽は絶景。現在は(クジラ海峡)と呼称され、ダイビングスポットとしても知られる。

 ◇羽地内海(はねぢ)。
 名護市羽地地区と屋我地島に囲まれた海域。沖縄の瀬戸内海とも言われる。沖縄海岸公園、鳥獣保護区などに指定されている。

 ◇塩屋湾(しおや)。
 大宜味村にある入江。湾の奥には大保川(たいほ)。湾口部には宮城島があり、この島から湾の奥に向かって砂嘴(さし)が伸びている。北岸中央部には、国指定天然記念物{田港御嶽=たみなと うたき=の植物群落}あり。塩屋集落は古くから製塩が盛んで、琉球芸能・組踊「花売の縁。一名森川の子=むりかわぬしー」の舞台になっている。

 ◇比謝川河畔(ひじゃがわ)。
 嘉手納町にある流域。沖縄市仲宗根に端を発し、与那原川~長田川が合流して比謝川となり、東シナ海に注ぐ。流路延長17.5km。沖縄市、嘉手納町、読谷村など5市町村に接する流域は、本島では最大の流域面積。しかし、大半は米軍基地。嘉手納町と読谷村に架かる比謝橋は有名で、多くの琉歌に詠まれている。

 ◇伊波城跡(いは)。
 現うるま市伊波の高台にある城跡。群雄割拠時代(1322年)、北山城(今帰仁在)の攻防に敗れた今帰仁王子が、後の美里間切(みさと まじり)伊波のこの地に難を逃れ、伊波按司(いはあんじ・為政者)となり築城。城は1373坪の野面積み。後年、多くの土器や貝塚が発掘された。現在は、昔日の面影はほとんどない。

 ◇山巓毛(さんてぃんもう)。
 糸満市糸満のほぼ中央に位置する標高30メートルの岩丘。古代の航海の航行目標になった。頂上には航海安全、豊漁祈願をする御嶽がある。東に与座岳、西に慶良間諸島を望む。糸満漁民の信仰の場であり、旧暦5月4日に行われる糸満名物ハーレー行事の到来を告げる鐘を打ち鳴らすのもこの場所。

 観光立県。
 県は平成26年度の達成目標を次のように立てている。
 *観光収入=4970億円。*入域観光客数=690万人。
 平成33年度達成目標を観光収入1兆円。入域観光客数1000万人。

 さて、はなしは戻る・・・。
 前記の「沖縄八景」。現在の沖縄観光・名所旧跡、景勝地ガイドブックに掲載されているだろうか。島は焦土と化し、日本国に置き去られても「沖縄此処にあり!」を自主表現した真情を感受して(時代)を忘却してはなるまい。

 

さらば夏・来たれ秋

2014-10-10 00:10:00 | ノンジャンル
 風がやわらかくなってきた。
 日によって{別り暑さ・わかりあちさ。残暑の名残}はあるものの、口にだし、眉を寄せるほどの暑さはなくなった。ひと月もすると南風は北風にかわるだろう。
 その風にも(名)がある。 
 もっとも、地域によって異なりはある。ここに記するのは、海ん人(うみんちゅ・漁師)の町として、沖縄を語るにははずせない糸満市、それも合併前のイチマン・イクマン・糸満方言によるものである。なお、出漁に使用するのはサバニという内海用の小舟。動力は専らウェーク(櫂・かい)による人力であること、月名は旧暦をしめすことをお忘れなく。

 {風の名}
 ◇フサギ=4月に吹く風。突如、天候が急変して台風並みになり、荒波を生む。
 ◇南風吹ち〈ふぇーぶち〉=5月に吹く。風上はそうでもないが、風下の殊に島影寄りでは波が高くなる。
 ◇跳び波〈とぅびなみ〉=10月に吹く。風は弱いが波は高い。
 ◇風回ゐ〈かじまーい〉=霜月、師走、正月の風。このころは風向きが変わり易く、出漁を控える日が続く。
 ◇南ぇ吹ち〈ふぇーぶち。はえの風〉=夏場の風。殊に夏至のころのそれをカーチーペー(夏至南風)という。これに対して冬場の北風をニシブチ・ニシブチャーと称する。擬態語を用いるならばニシブチャーは、いかにも乾燥した風で小枝をも折るようにパチパチと吹き、フェーブチはヤファヤファと表現する。パチパチには、木枯らしの意があり、ヤファヤファには、台風がないようにという祈願が込められていて、五風十雨を切望する人びとの心の内が読み取れる。
 沖縄の風は霜月中ごろ北風になるが、その年の初めての北風をミーニシ(新北風)あるいはハチニシ(初北風)という。
 ちなみに、風向きには欠かせない東西南北の名称。
 *東=あがり。太陽の上がる方向。
 *西=いり。太陽が入る方角。
 *南=ふぇー。南は日本語の「はえ」の転語。万葉語にもみられ、山口県下関のフグの揚る港町に(南風泊)がある。「はえ」のつく地名は、九州各地にあるようだ。
 *北=ニシ。夏の長い沖縄では南風の吹く日が多く、したがって風の生まれる方角を(風の根)とし、それの流れていく方角を風の(いにし方・行く方)「ニシ」と呼称したと言われる。古語「いにし方」の「ニシ」とするのが通説。

 ※風に関する慣用句。
 ◇風、枝を鳴らさず=世の中が穏やかであることのたとえ。
 ◇風が吹けば桶屋が儲かる=風による砂ぼこりで盲人が増え、盲人の使う三味線に張る猫の皮が必要なため、猫が減り、そのため鼠が増えて桶をかじるので桶屋が繁盛するということから、予想もしなかった結果になること。また、当てにならない期待をすることのたとえ。
 ◇風吹けども山は動かず=混乱した状態にあっても、少しも動じないたとえ。
 ◇風を吸い露を飲む=食を断っている仙人の暮らし。現実離れしたさま。

 ※風に関する慣用句。
 ◇風ぬ物云うん〈カジぬムヌいん〉。風聞。風が噂を広めるさま。
 ◇南ない北ない〈ふぇーない にしない〉。南と思えば、北になる風のように、言動がころころ変わることのたとえ。
 ◇悪風〈やなかじ〉。流行り病は「やなかじ・悪い風」がもたらすと考えたことから出た言葉。すべての禍は悪風の成せる業。マジムン(悪霊・魔物)も悪風が生む。 
 ◇風喰てぃん 生ちかりーみ〈かじ くぁてぃん いちかりーみ〉前記の「風を吸い露を飲む」に類似するがさにあらず。人間、風を喰らっては生きられない!まともに働け!と、叱咤・激励を飛ばす場合につかう。
 ◇風ん吹けー 返しぬあん〈かじん ふけー けーしぬあん〉。台風にも返し風があるように、物ごとにはその反動がある。油断してはならない。結論を急いではならないの意。

 さてさて。
 ことのついでに琉歌を1首。

 ♪雲流がす風に心有てぃさらみ 胸内ぬ端ゆ知らさやしが
 〈くむぬながすかじに くくるあてぃ さらみ んにうちぬはしゆ しらさやしが

 歌意=雲を流す風に心があるならば、彼女を恋慕う胸内の端々でもいい!知らせたいものだが・・・・風は雲を動かすことはできても、我が思いの一片も届けてはくれない。けれども、他人に代理してもらうわけにはいかないこのせつなさ・・・・。風よ!頼りになるのはお前だけ・・・・。

 鼻歌♪風の便りに聞く君は いで湯の町の人の妻~
 んっ?今夜のボクは、どうしてこの歌が口をついて出たのだろう?
 とかく秋風は懐かしいことなぞを思い出させる・・・・。



デング熱騒動記

2014-10-01 00:10:00 | ノンジャンル
 病院には聞き覚えがある。が、ちゃんとした知識をもたないまま、ニュースに接してきた。
 東京・代々木公園に始まり、全国16県で発症者が出て、この夏は気が休まらなかった。遅まきながら、手元の辞典を引いてみる。
 デング熱=熱帯、亜熱帯に多い急性熱病。病原体はデング熱ウィールスで蚊が媒介する。日本では稀れ。感染すると急に高い熱が出て、からだ中が痛み、3~4日後から赤く発疹する。死にいたることがある。
 東京は熱帯でも亜熱帯でもないのに「どうしてデング熱が発生したのか」「これは地球温暖化による異常気象によるものだ」「いやいや、御願不足(うぐぁん ぶすく=願掛け・祈祷附則)だよ」。
 遂には迷信事まで聞こえてくる始末である。

 亜熱帯の沖縄では、かつてデング熱が発生する。
 はっきりと(デング熱)とされる初の発病は明治36年(1903)の7~8月。県資料によると*那覇区=3677名。*首里区=58名。*島尻郡=3561名。*中頭郡=36名。*国頭郡=10名。*宮古郡=3万849名。*八重山郡=2万3710名。その内16名が死亡。
 「えっ?この数字は何だ!間違いではないのか?」。
 資料を確認したことだが、数字はそうなっている。
 
 年号が大正になって4年の8月下旬。デング熱は八重山地方で再び発生、那覇区をはじめ各地に広がり、12月に収まっているが、県庁の調べによると、
 ◇八重山郡=人口2万5740中、患者=1万5740名。
 ◇宮古郡=人口4万9047中、患者=4940名。
 ◇那覇区=人口5万0087中、患者=5004名。
 那覇区では珍事が起きた。
 これと云った特効薬もないまま、家族全員が発病し、親類縁者までが感染?を恐れて訪問看病を敬遠気味。そうなると患者宅では、三度の食事もままならない。そこで登場した商売があった。
 「ウケーメー売り=御粥飯売り」。
 これである。
 ターグ(桶)いっぱいに炊きたてのウケーメーを入れ、天秤棒で担ぎ、「ウケーメーやちゃーでーびるがやー~熱さましに、要ったむんやいびんどぉ~」。
 (お粥はいかが~熱さましに最適ですよ~)。
 そう呼びまわったり直接、患者宅への訪問販売をした。「予約受付」まであったそうな。
 「人の弱みに付け込んだ感心できない商売!」とする批判もあったが、一家総倒れの家庭では(ありがたく)、一概に悪徳商売とも言い切れなかったのではあるまいか。実際に流行中は、師範学校でも9割の学生が発病し首里、那覇の小学校、中学校が(休校)に追い込まれた。

 さらにさらに。
 昭和6年(1931)夏。旧盆の最中にデング熱が流行った。
 旧盆は、旧正月と並んで重要な年中行事である。
 古諺にも「七月・正月すんでぃる 唐ん大和ん歩っちゅる=しちぐぁち・そうぐぁち すんでぃる とうん やまとぅん あっちゅる」。
 (七月・お盆・正月をちゃんとやるためにこそ日常、遠い遠い中国や大和に渡る危険も顧みず、懸命に働くのだ)。
 と、あるように、デング熱で先祖供養を怠るわけにはいかない。高熱をやしないながらも旧盆行事をこなした結果、疲労が高熱を長引かせて亡くなった人もあった。実際に葬儀屋は臨時に人手を増やしたという。決して笑えない現象も起きた。
 顔を見せたのが民間療法。
 「ミミジャー(みみず)の体内の土を取り除き、これを煎じて飲めば、いかなる高熱もたちどころにさがる」。
 こうした迷信がまことしやかに広まり、患者の家族は野に畑に出掛けて(ミミジャー狩り)をした例もあった。まさにワラにもすがる、いや、ミミジャーにもすがりたい切羽詰まった状況だった。医学が発達した現代では(ばかなっ!)と、一笑に伏すところだが、80余年前のこと。これまた笑い話にするわけにはいくまい。
 因みに明治時代の「諸病治療法」を記してみよう。
 
 ◇皮膚病=蟻の中でも赤黒く大きいのを焼いて塗ると、一時的には広がるように見えるが2、3日で治る。また、デキものは、ナーベーラー(へちま)の古根とゲーン(すすき・尾花)を同時に燃やし、その灰に菜種油を加えて塗る。
 ◇火傷=ナンクヮー(南瓜・かぼちゃ)の花とクーガ(たまご)の白身を混ぜて塗る。
 ◇下痢=ベンシルー・バンシルー(グァバ)の葉とンジャナ(苦菜)の根をサトウキビの葉で煎じて飲む。フス(臍・へそ)を中心に周辺1寸の箇所にヤーチュー(お灸)をすえる。
 ◇解熱=クーイユ(鯉)をさばかず、まるごと煎じて服用。鯉は得難いため、ターイユ(田魚・鮒・ふな)を代用してもよし。
 などなど。

 我が国は、世界に誇る(水の国)。そうである限り、ガジャンとの生存競争は永遠に続くだろう。溜り水はガジャンを育て、流行り病を誘発するようなもの。水の処理に留意し「ガジャン撲滅」を心掛けよう。