♪霧が流れてむせぶよな波止場 思い出させてよまた泣ける 海を渡ってそれっきり逢えぬ 昔馴染みのこころと心 帰るくる日をただそれだけで 俺はまってるぜ~♪
その日、迷わず選曲したのはこの歌であった。
作詞:石崎正美・作曲:上原賢六 昭和32年(1957)2月発売。石原裕次郎歌。「俺は待ってるぜ」。
その日とはつい最近、浦添市屋富祖通り会(会長真栄田健作)主催の「小さな映画館」が屋富祖公民館で催された10月9日。
国道58号沿いの米軍基地キャンプ・キンザーを目の前にした屋富祖通りは、かつて各種商店、映画館、フィリピン料理店、キャバレー、バー、おでん屋、山羊料理店、演奏と歌詞カードで歌うカラオケハウスなどなどが日夜営業して繁栄をしてきたが、このところ客足が過日よりは薄くなったとして、地域住民の(わが街)再確認と誘客を目論んだ「映画祭」だった。
上映されたのは、昭和32年(1957)10月20日に公開された井上梅次脚本・監督。石原裕次郎、北原三枝主演「嵐を呼ぶ男」。裕次郎23歳の作品である。この映画を筆者が観たのは那覇市の国際通りに平和館と隣接してあったアーニー・パイル・国際劇場だった。因みに筆者は19歳の生意気盛り。
アーニー・パイルは、沖縄戦取材のため従軍、伊江島で戦死した米軍記者・カメラマン。劇場を設立した高良一(たから はじめ)の言葉として風聞かされるのは(米軍支配下の沖縄。米軍関係者の名前を冠に付ければ、建築許可が取り易かった)のだそうな。
映画「嵐を呼ぶ男」は、当時の若者の間に実に(嵐)を呼んだ。(慎太郎刈り)と称されるヘアスタイルがそれである。いまにして思えば富貴家庭の男児がそうであった(坊ちゃん刈り)なのだが、これが裕次郎のトレードマークになり、街の理容館が多忙を極めるほどに流行。街には多少、いや、極端に足の短い(裕次郎)が闊歩していた。煙草の吸い方も、ちょっと煙たそうに片目を細め、吸い殻は右手の親指と中指ではじくように(ポイ捨て)をする裕次郎ばりのしぐさまで流行った。筆者もそのひとり。裕次郎に成り切って(ポイ捨て)をしたいばかりに吸い始めた煙草。今日まで付き合っている。
「嵐を呼ぶ男」が上陸した昭和32年。ソ連の人工衛星第1号打ち上げ成功。本土では、東海村原子力研究所で原子炉火入れ式があった年、沖縄社会はどうだったか
※「真和志市・那覇市に吸収合併」。
戦後間もなくまで(村)だった真和志(まわし)は、やがて(市制)を施くが、昭和29年(1954)、すでに那覇市に合併されていた首里市、小禄村に続いて那覇市に編入されたのである。那覇市を囲むこの3市1村からなる大那覇市をマスコミは(ドーナツ合併)と報じた。因みに、首里市、小禄村の那覇市合併は、昭和29年9月1日。真和志村のそれは昭和32年12月17日である。
※「初の沖縄戦戦没者慰霊祭」。
ハワイの慈光園(山里慈海師)主催により、初の日米合同十三回忌大法要が那覇商業高校校庭で営まれた。西本願寺・大谷光照門主、吉野山官長代理、鳥取蜜明師はじめ、島内やハワイからの関係者約500人が参列した。
※「オリオンビール創業」。
5月。資本金150万ドル(5億4000万日円)で株式会社を創立。同年8月。水質のよい名護市(当時は名護町)に敷地4200坪、5階建て1100坪の工場で操業。日本、アメリカ、ドイツの最新機械を導入、ドイツ産ホップとモルトを輸入して(沖縄産ビール)製造。昭和34年7月から大びん45セントで発売を開始した。日本産は大びん55セントだった。
※「女性弁護士・女性判事誕生」。
司法国家試験8000余人の難関を突破したのは安里光代女史。後に立法院議員、国会議員を歴任する弁護士安里積千代氏の長女。父の母校でもある日本大学法学部法律科出身。昭和7年生。3度目の受験での合格だった。帰郷後、父と共に那覇市で法律・弁護士事務所を開業した。結婚して(大城姓)となる。
昭和32年1月1日。沖縄にも家庭裁判所が開設されているが、昭和43年、初の女性判事に大城光代は任命された。
※「ワシントン・米軍防省との直通電話」。
すでに北中城村瑞慶覧(ずけらん)には、米国防省間を結ぶ通信センターがあった。本土と切り離して、極東の一大基地にするための沖縄の状況は、逐一ワシントンに報告されていた。異民族支配を廃止、1日も早い祖国復帰を願い民族運動、反米運動が大きな民意となっていた当時、モーア米軍司令官は、ワシントンと交信。内容は那覇市長瀬長亀次郎(人民党書記長。後に日本共産党)との土地問題。この交信がなされた翌日、昭和32年11月24日。瀬長亀次郎那覇市長の公職追放のニュースが流れた。
待て待て!
石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の話が、どうしてここまで発展したのか。
映画は殊に旧作は、その時代の顧み、掘り起こして考察する(生きた資料映像)だからであろう。
書斎をはなれて風呂に入る。鼻歌は「俺は待ってるぜ」。なぜ「嵐を呼ぶ男」ではないのか。「嵐を呼ぶ男」はテンポが速く、これではせわしくてシャワーも使えない。風呂にはブルースが似合う。
♪霧が流れてむせぶよな波止場 思い出させてよまた泣ける 海を渡ってそれっきり逢えぬ 昔馴染みのこころと心 帰るくる日をただそれだけで 俺はまってるぜ~♪
その日、迷わず選曲したのはこの歌であった。
作詞:石崎正美・作曲:上原賢六 昭和32年(1957)2月発売。石原裕次郎歌。「俺は待ってるぜ」。
その日とはつい最近、浦添市屋富祖通り会(会長真栄田健作)主催の「小さな映画館」が屋富祖公民館で催された10月9日。
国道58号沿いの米軍基地キャンプ・キンザーを目の前にした屋富祖通りは、かつて各種商店、映画館、フィリピン料理店、キャバレー、バー、おでん屋、山羊料理店、演奏と歌詞カードで歌うカラオケハウスなどなどが日夜営業して繁栄をしてきたが、このところ客足が過日よりは薄くなったとして、地域住民の(わが街)再確認と誘客を目論んだ「映画祭」だった。
上映されたのは、昭和32年(1957)10月20日に公開された井上梅次脚本・監督。石原裕次郎、北原三枝主演「嵐を呼ぶ男」。裕次郎23歳の作品である。この映画を筆者が観たのは那覇市の国際通りに平和館と隣接してあったアーニー・パイル・国際劇場だった。因みに筆者は19歳の生意気盛り。
アーニー・パイルは、沖縄戦取材のため従軍、伊江島で戦死した米軍記者・カメラマン。劇場を設立した高良一(たから はじめ)の言葉として風聞かされるのは(米軍支配下の沖縄。米軍関係者の名前を冠に付ければ、建築許可が取り易かった)のだそうな。
映画「嵐を呼ぶ男」は、当時の若者の間に実に(嵐)を呼んだ。(慎太郎刈り)と称されるヘアスタイルがそれである。いまにして思えば富貴家庭の男児がそうであった(坊ちゃん刈り)なのだが、これが裕次郎のトレードマークになり、街の理容館が多忙を極めるほどに流行。街には多少、いや、極端に足の短い(裕次郎)が闊歩していた。煙草の吸い方も、ちょっと煙たそうに片目を細め、吸い殻は右手の親指と中指ではじくように(ポイ捨て)をする裕次郎ばりのしぐさまで流行った。筆者もそのひとり。裕次郎に成り切って(ポイ捨て)をしたいばかりに吸い始めた煙草。今日まで付き合っている。
「嵐を呼ぶ男」が上陸した昭和32年。ソ連の人工衛星第1号打ち上げ成功。本土では、東海村原子力研究所で原子炉火入れ式があった年、沖縄社会はどうだったか
※「真和志市・那覇市に吸収合併」。
戦後間もなくまで(村)だった真和志(まわし)は、やがて(市制)を施くが、昭和29年(1954)、すでに那覇市に合併されていた首里市、小禄村に続いて那覇市に編入されたのである。那覇市を囲むこの3市1村からなる大那覇市をマスコミは(ドーナツ合併)と報じた。因みに、首里市、小禄村の那覇市合併は、昭和29年9月1日。真和志村のそれは昭和32年12月17日である。
※「初の沖縄戦戦没者慰霊祭」。
ハワイの慈光園(山里慈海師)主催により、初の日米合同十三回忌大法要が那覇商業高校校庭で営まれた。西本願寺・大谷光照門主、吉野山官長代理、鳥取蜜明師はじめ、島内やハワイからの関係者約500人が参列した。
※「オリオンビール創業」。
5月。資本金150万ドル(5億4000万日円)で株式会社を創立。同年8月。水質のよい名護市(当時は名護町)に敷地4200坪、5階建て1100坪の工場で操業。日本、アメリカ、ドイツの最新機械を導入、ドイツ産ホップとモルトを輸入して(沖縄産ビール)製造。昭和34年7月から大びん45セントで発売を開始した。日本産は大びん55セントだった。
※「女性弁護士・女性判事誕生」。
司法国家試験8000余人の難関を突破したのは安里光代女史。後に立法院議員、国会議員を歴任する弁護士安里積千代氏の長女。父の母校でもある日本大学法学部法律科出身。昭和7年生。3度目の受験での合格だった。帰郷後、父と共に那覇市で法律・弁護士事務所を開業した。結婚して(大城姓)となる。
昭和32年1月1日。沖縄にも家庭裁判所が開設されているが、昭和43年、初の女性判事に大城光代は任命された。
※「ワシントン・米軍防省との直通電話」。
すでに北中城村瑞慶覧(ずけらん)には、米国防省間を結ぶ通信センターがあった。本土と切り離して、極東の一大基地にするための沖縄の状況は、逐一ワシントンに報告されていた。異民族支配を廃止、1日も早い祖国復帰を願い民族運動、反米運動が大きな民意となっていた当時、モーア米軍司令官は、ワシントンと交信。内容は那覇市長瀬長亀次郎(人民党書記長。後に日本共産党)との土地問題。この交信がなされた翌日、昭和32年11月24日。瀬長亀次郎那覇市長の公職追放のニュースが流れた。
待て待て!
石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の話が、どうしてここまで発展したのか。
映画は殊に旧作は、その時代の顧み、掘り起こして考察する(生きた資料映像)だからであろう。
書斎をはなれて風呂に入る。鼻歌は「俺は待ってるぜ」。なぜ「嵐を呼ぶ男」ではないのか。「嵐を呼ぶ男」はテンポが速く、これではせわしくてシャワーも使えない。風呂にはブルースが似合う。
♪霧が流れてむせぶよな波止場 思い出させてよまた泣ける 海を渡ってそれっきり逢えぬ 昔馴染みのこころと心 帰るくる日をただそれだけで 俺はまってるぜ~♪