連れて逃げてよ ついておいでよ 夕暮れの雨が降る 矢切の渡し
ラジオから小ぶしの利いた細川たかしの歌が流れている。いつもは、さりげなく聞いている演歌だが、今日ばかりは感慨深い。関わりのあるニュースに接したからだ。
千葉県と東京都の境を流れる江戸川の渡し船「矢切の渡し」の船頭だった杉浦正雄さんが、10月20日午前、老衰のため亡くなった。85歳だった。この日付の共同通信ニュースによると、杉浦さんは江戸時代から続く「矢切の渡し」を受け継いで2004年まで活躍。1999年には、千葉県松戸市民栄誉賞を受賞。映画「男はつらいよ」の舞台にもなり、歌謡曲「矢切の渡し」が話題になった。
沖縄の地名に多い「渡口」は、文字通り「渡し口」で渡し場だったといわれている。小島が多い沖縄のこと、手に取れるような向こう岸へは船が設置されて、人々の暮らしを支えてきた。本部町の瀬底渡し船・現名護市の屋我地渡し船・伊江島渡し船・久高渡し船・津堅渡し船などなど、島うたにも詠まれて言葉は生きている。もちろん船頭がいて、朝夕の賑わいを見せていた。川幅の狭い所では、両岸に縄を張り、小舟に乗った人自らが縄を手操って舟を操った地域もある。
私ごとながら、わが故郷那覇市垣花と向かいの通堂、つまり那覇港の南岸と北岸を往復する渡し船は「わたんぢゃー」と称し、明治橋は架かっていても、庶民の重要な交通手段だった。明治橋の通行料より安かったからだろう。昭和18、19年頃の渡し賃は大人2厘だったそうで、そのころ母に連れられて乗船し、西町へ行ったことを微かに覚えいる。地名渡地〈わたんぢ〉は北岸にあって、マーラン船の商い船が出入り・停泊。宿屋や商店、そして大小の料亭・小料理屋が立ち並び、琉球一の遊郭「辻〈ちーじ〉」と競う花街として繁盛。数々の艶ばなしや歌を今に伝えている。
「矢切の渡し」からの連想で、少年のころによく歌った童謡「船頭さん」を口ずさんでみた。作詞武内俊子・作曲河村光陽。昭和17年発表。作詞の武内俊子は、広島県三原市の沼田川近くに生まれた。作曲の河村光陽も幼いころに育った福岡県北部を流れる遠賀川の風景をイメージして曲をつけたという。
村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん 年は取っても船漕ぐときは 元気いっぱい櫓がしなう それ ぎっちらぎっちらぎっちらこ。
RBCのレコードライブラリーにある「たのしい童謡名曲全集」に癒されながら聞いていたことだが、どうも“今年六十のお爺さん”に引っ掛かった。戦国時代・江戸時代は「人生50年」と謡われ、70歳は古来希とされていた。そして、戦前までは60歳まではきっちり「爺」だったことを思い知らされたしだい。いまどき、現役を退いて間もない御仁を爺扱いした日には、どやされるのがオチだし第一、世の中は稼働しなくなるだろう。まして、60歳の女性を「婆」呼ばわりしようものならセクシャルハラスメントとやらで訴えられるに違いない。
50年ほど前「うちの婆さんは今年60歳。還暦祝いが人生最後の生まれ年祝いトゥシビーになる」として、盛大な祝宴を張った例を知っている。いま、85歳のトゥシビー、88歳のユニぬ御祝い「米寿」、97歳のカジマヤーのように、ホテルを借り切って60歳の還暦祝いをする方がいるだろうか。つまり、年齢の観念は時代によって異なるということだろう。
話を童謡「船頭さん」に戻す。
雨の降る日も岸から岸へ 濡れて船漕ぐお爺さん 今朝も可愛い子馬を二匹 向こう岸まで乗せてった。
原作はこうだが日米戦争の戦局危うくなると、国民の戦意高揚を意図して改作されている。
雨の降る日も岸から岸へ 濡れて船漕ぐお爺さん 今日も渡しでお馬が通る あれは戦地へ行くお馬
村の御用やお国の御用 みんな急ぎの人ばかり 西へ東へ船頭さんは 休むひまなく船を漕ぐ
童謡中からも、その時代の国のあり方を汲み取ることができる。年齢しかり。無理やり、前期高齢者・後期高齢者に区分けされ、高齢化社会の弊害や不景気まで「爺・婆にあり」と押しつけられては、たまったものではない。いや、不条理だ。「長生きはしたいが、年寄りとは呼ばれたくないッ」。これが爺婆の本音なのである。いまの60歳70歳は「矢切の渡し」を実践できる。女性に「連れて逃げてよ」と言われれば「ついておいでよ」と、応えることができる。
※琉球新報 2009年11月9日付「巷ばなし 筆先三昧」より転写。
ラジオから小ぶしの利いた細川たかしの歌が流れている。いつもは、さりげなく聞いている演歌だが、今日ばかりは感慨深い。関わりのあるニュースに接したからだ。
千葉県と東京都の境を流れる江戸川の渡し船「矢切の渡し」の船頭だった杉浦正雄さんが、10月20日午前、老衰のため亡くなった。85歳だった。この日付の共同通信ニュースによると、杉浦さんは江戸時代から続く「矢切の渡し」を受け継いで2004年まで活躍。1999年には、千葉県松戸市民栄誉賞を受賞。映画「男はつらいよ」の舞台にもなり、歌謡曲「矢切の渡し」が話題になった。
沖縄の地名に多い「渡口」は、文字通り「渡し口」で渡し場だったといわれている。小島が多い沖縄のこと、手に取れるような向こう岸へは船が設置されて、人々の暮らしを支えてきた。本部町の瀬底渡し船・現名護市の屋我地渡し船・伊江島渡し船・久高渡し船・津堅渡し船などなど、島うたにも詠まれて言葉は生きている。もちろん船頭がいて、朝夕の賑わいを見せていた。川幅の狭い所では、両岸に縄を張り、小舟に乗った人自らが縄を手操って舟を操った地域もある。
私ごとながら、わが故郷那覇市垣花と向かいの通堂、つまり那覇港の南岸と北岸を往復する渡し船は「わたんぢゃー」と称し、明治橋は架かっていても、庶民の重要な交通手段だった。明治橋の通行料より安かったからだろう。昭和18、19年頃の渡し賃は大人2厘だったそうで、そのころ母に連れられて乗船し、西町へ行ったことを微かに覚えいる。地名渡地〈わたんぢ〉は北岸にあって、マーラン船の商い船が出入り・停泊。宿屋や商店、そして大小の料亭・小料理屋が立ち並び、琉球一の遊郭「辻〈ちーじ〉」と競う花街として繁盛。数々の艶ばなしや歌を今に伝えている。
「矢切の渡し」からの連想で、少年のころによく歌った童謡「船頭さん」を口ずさんでみた。作詞武内俊子・作曲河村光陽。昭和17年発表。作詞の武内俊子は、広島県三原市の沼田川近くに生まれた。作曲の河村光陽も幼いころに育った福岡県北部を流れる遠賀川の風景をイメージして曲をつけたという。
村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん 年は取っても船漕ぐときは 元気いっぱい櫓がしなう それ ぎっちらぎっちらぎっちらこ。
RBCのレコードライブラリーにある「たのしい童謡名曲全集」に癒されながら聞いていたことだが、どうも“今年六十のお爺さん”に引っ掛かった。戦国時代・江戸時代は「人生50年」と謡われ、70歳は古来希とされていた。そして、戦前までは60歳まではきっちり「爺」だったことを思い知らされたしだい。いまどき、現役を退いて間もない御仁を爺扱いした日には、どやされるのがオチだし第一、世の中は稼働しなくなるだろう。まして、60歳の女性を「婆」呼ばわりしようものならセクシャルハラスメントとやらで訴えられるに違いない。
50年ほど前「うちの婆さんは今年60歳。還暦祝いが人生最後の生まれ年祝いトゥシビーになる」として、盛大な祝宴を張った例を知っている。いま、85歳のトゥシビー、88歳のユニぬ御祝い「米寿」、97歳のカジマヤーのように、ホテルを借り切って60歳の還暦祝いをする方がいるだろうか。つまり、年齢の観念は時代によって異なるということだろう。
話を童謡「船頭さん」に戻す。
雨の降る日も岸から岸へ 濡れて船漕ぐお爺さん 今朝も可愛い子馬を二匹 向こう岸まで乗せてった。
原作はこうだが日米戦争の戦局危うくなると、国民の戦意高揚を意図して改作されている。
雨の降る日も岸から岸へ 濡れて船漕ぐお爺さん 今日も渡しでお馬が通る あれは戦地へ行くお馬
村の御用やお国の御用 みんな急ぎの人ばかり 西へ東へ船頭さんは 休むひまなく船を漕ぐ
童謡中からも、その時代の国のあり方を汲み取ることができる。年齢しかり。無理やり、前期高齢者・後期高齢者に区分けされ、高齢化社会の弊害や不景気まで「爺・婆にあり」と押しつけられては、たまったものではない。いや、不条理だ。「長生きはしたいが、年寄りとは呼ばれたくないッ」。これが爺婆の本音なのである。いまの60歳70歳は「矢切の渡し」を実践できる。女性に「連れて逃げてよ」と言われれば「ついておいでよ」と、応えることができる。
※琉球新報 2009年11月9日付「巷ばなし 筆先三昧」より転写。