旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

時代の中の年齢観念

2009-12-31 00:24:00 | ノンジャンル
 symbol7連れて逃げてよ ついておいでよ 夕暮れの雨が降る 矢切の渡し
 ラジオから小ぶしの利いた細川たかしの歌が流れている。いつもは、さりげなく聞いている演歌だが、今日ばかりは感慨深い。関わりのあるニュースに接したからだ。
 千葉県と東京都の境を流れる江戸川の渡し船「矢切の渡し」の船頭だった杉浦正雄さんが、10月20日午前、老衰のため亡くなった。85歳だった。この日付の共同通信ニュースによると、杉浦さんは江戸時代から続く「矢切の渡し」を受け継いで2004年まで活躍。1999年には、千葉県松戸市民栄誉賞を受賞。映画「男はつらいよ」の舞台にもなり、歌謡曲「矢切の渡し」が話題になった。
   
 沖縄の地名に多い「渡口」は、文字通り「渡し口」で渡し場だったといわれている。小島が多い沖縄のこと、手に取れるような向こう岸へは船が設置されて、人々の暮らしを支えてきた。本部町の瀬底渡し船・現名護市の屋我地渡し船・伊江島渡し船・久高渡し船・津堅渡し船などなど、島うたにも詠まれて言葉は生きている。もちろん船頭がいて、朝夕の賑わいを見せていた。川幅の狭い所では、両岸に縄を張り、小舟に乗った人自らが縄を手操って舟を操った地域もある。
 私ごとながら、わが故郷那覇市垣花と向かいの通堂、つまり那覇港の南岸と北岸を往復する渡し船は「わたんぢゃー」と称し、明治橋は架かっていても、庶民の重要な交通手段だった。明治橋の通行料より安かったからだろう。昭和18、19年頃の渡し賃は大人2厘だったそうで、そのころ母に連れられて乗船し、西町へ行ったことを微かに覚えいる。地名渡地〈わたんぢ〉は北岸にあって、マーラン船の商い船が出入り・停泊。宿屋や商店、そして大小の料亭・小料理屋が立ち並び、琉球一の遊郭「辻〈ちーじ〉」と競う花街として繁盛。数々の艶ばなしや歌を今に伝えている。

 「矢切の渡し」からの連想で、少年のころによく歌った童謡「船頭さん」を口ずさんでみた。作詞武内俊子・作曲河村光陽。昭和17年発表。作詞の武内俊子は、広島県三原市の沼田川近くに生まれた。作曲の河村光陽も幼いころに育った福岡県北部を流れる遠賀川の風景をイメージして曲をつけたという。
 symbol7村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん 年は取っても船漕ぐときは 元気いっぱい櫓がしなう それ ぎっちらぎっちらぎっちらこ。
   
 RBCのレコードライブラリーにある「たのしい童謡名曲全集」に癒されながら聞いていたことだが、どうも“今年六十のお爺さん”に引っ掛かった。戦国時代・江戸時代は「人生50年」と謡われ、70歳は古来希とされていた。そして、戦前までは60歳まではきっちり「爺」だったことを思い知らされたしだい。いまどき、現役を退いて間もない御仁を爺扱いした日には、どやされるのがオチだし第一、世の中は稼働しなくなるだろう。まして、60歳の女性を「婆」呼ばわりしようものならセクシャルハラスメントとやらで訴えられるに違いない。
 50年ほど前「うちの婆さんは今年60歳。還暦祝いが人生最後の生まれ年祝いトゥシビーになる」として、盛大な祝宴を張った例を知っている。いま、85歳のトゥシビー、88歳のユニぬ御祝い「米寿」、97歳のカジマヤーのように、ホテルを借り切って60歳の還暦祝いをする方がいるだろうか。つまり、年齢の観念は時代によって異なるということだろう。
 話を童謡「船頭さん」に戻す。
 symbol7雨の降る日も岸から岸へ 濡れて船漕ぐお爺さん 今朝も可愛い子馬を二匹 向こう岸まで乗せてった。
 原作はこうだが日米戦争の戦局危うくなると、国民の戦意高揚を意図して改作されている。
 symbol7雨の降る日も岸から岸へ 濡れて船漕ぐお爺さん 今日も渡しでお馬が通る あれは戦地へ行くお馬
 symbol7村の御用やお国の御用 みんな急ぎの人ばかり 西へ東へ船頭さんは 休むひまなく船を漕ぐ
    
 
 童謡中からも、その時代の国のあり方を汲み取ることができる。年齢しかり。無理やり、前期高齢者・後期高齢者に区分けされ、高齢化社会の弊害や不景気まで「爺・婆にあり」と押しつけられては、たまったものではない。いや、不条理だ。「長生きはしたいが、年寄りとは呼ばれたくないッ」。これが爺婆の本音なのである。いまの60歳70歳は「矢切の渡し」を実践できる。女性に「連れて逃げてよ」と言われれば「ついておいでよ」と、応えることができる。


 ※琉球新報 2009年11月9日付「巷ばなし 筆先三昧」より転写。

    

   

地方語が泣いている

2009-12-24 00:20:00 | ノンジャンル
 「言葉はよく聞こえるが、意味が分からないだけだよ」
 風狂の歌者故嘉手苅林昌大兄の迷?名言である。
 イギリス人の民族音楽研究者と歓談した際、嘉手苅林昌大兄があまりにも笑顔でイギリス人と歌ばなしをしているのを離れた席で見ていた私は、歓談後に問うてみた。
 「通訳付きとは言え、英語がよく聞き取れましたね」
 これに答えたのが冒頭の名言だ。つまり、林昌大兄はこう照れ隠しをしたのだ。
 「ワシは耳は達者だから英語だろうがロシア語だろうと中国語、ドイツ語、フランス語と、どこの国の言葉でもはっきり耳に入ってくる。ただ、意味が理解できないだけサ」。
 もちろん、林昌大兄一流のジョークである。しかし、昨今は「音声はよく聞こえるが、意味が分からない」という現象がジョークでは聞き流せなくなった。しかも、外国語が対象ではなく、沖縄人が沖縄語を[言葉は聞こえるが、意味が分からない]になってしまいつつある。
 大きく分けて戦前生まれの人は、いくぶん方言を使いこなし、相手のそれも理解して方言の会話を成立させているが、戦後生まれの殊に日本復帰後の世代は、沖縄方言を話せない、聞けないのが現状。どうやら戦争は、言葉をも消滅させてしまったようだ。
 地方語の消滅は沖縄だけではない。各都道府県に起きている。東京を中心とした国の動きは、共通語だけで十分稼働するとしているからだろう。言葉は文化の根源と考えるならば、地方語の消滅は地方の伝統文化を道連れに、じんわりと失い去ることになると考えられるがどうだろうか。
     
     写真提供:豊見城市文化協会
 世界的にはどうか。
 全世界に6000前後あるとされる言語の内、約2500語が消滅の危機にあるという調査結果に接した。これはユネスコ=国連教育科学文化機構=が2009年2月19日に発表したもの。実際に538言語が最も消滅の危機にあり[極めて深刻]に分類され、502語が[重大な危機]、632語[危険]、607語[脆弱]と報告している。また、1950年以降消滅した言語が219語あって、2008年には米アラスカ州のイヤック語が、1人残っていた言者が死亡して完全に途絶えたという。
 日本では、アイヌ語の話し手が15人とされ[極めて深刻]と評価。沖縄語も例外ではない。殊に八重山語、与那国語が[重大な危機]、沖縄語、国頭語、宮古語が[危険]と分類された。

 沖縄に生まれ育ち、沖縄人を一生通していく私には、沖縄語が日に日に痩せ衰えていく現実は寂しすぎてならない。と言って、これと言う歯止め策は持ち合わせていないが、沖縄語消滅防止・復活に微力は尽くしている。ラジオを通して方言番組を制作し、仲間と語らって「ことば塾」を開いて9年。挨拶語、慣用語、諺、俗語。それに古来の歌謡、沖縄芝居の脚本等々を用いて勉強をしている。失われた言葉は一朝一夕では蘇らないが、それでも続けていくことを仲間内で確認し、必要性を認識している。
 また、県が沖縄語復活を意図した「しまくとぅばの日=島言葉の日=9月18日」を制定したことによって、各地に方言研究会やサークルができて活動しているのは頼もしい。ただ、このことは興味本位に成されてはならない。当初は遊び心でも、その遊び心を継続しなければ復活効果は得られないだろう。
    
      写真提供:豊見城市文化協会

 ラトビアのバルト海沿岸の漁村のリボニア語も、ユネスコが2月の発表した調査には[消滅にさらされている言語]に分類されている。しかし、自分たちの言語を絶やしてはならないと、努力している女性がいる。ユルギ・ステルテさんは両親はもとより祖父から、海の民リボニア人が宝とする船の話、世界の始まりの神話、民族が生んだ偉人の逸話などを聞きながら育ってきた。そして母となったいまは、幼い長男と長女にリボニア語で日常会話を実践しているという。

 幸いと言うべきだろうが、沖縄には日常的に歌・三線が生きている。歌詞の中には沖縄語たちがいきいきと踊って詰まっている。1語1語は、文字にすると当て字が多くなり、意味の的を外す事例もあるが、唇に乗せて歌い続けることを怠らなければ、言語そのものも後世に伝えることができる。音声に欠ける文字では成せない伝承方法ひとつと言えるだろう。
 過日、友人の紹介で歓談した福島県大沼郡昭和村の管家博昭氏〈50歳〉も「会津弁が消えかかっている。いまのうちに方言に対する認識を喚起して日常に取り入れなければ、われわれ世代は後世に何も渡せないことになる」と、熱っぽく語っていた。
 消滅に向かっている言葉や諸々の伝統文化は「100人中1人が関心を示して行動すれば、そのモノは100年は維持できる」とする専門家の講演を聴いたことがある。しかしもの凄い速さで世相が変化する今日において、そんな悠長なことも言っておれないような気がする。
   
     写真提供:豊見城市文化協会 
 
 共通語だけでも国は成り立つが、地方語の彩りがあれば、さらに心豊かな国になれるのではなかろうか。


  

100年後に弾きたい・三線

2009-12-17 00:20:00 | ノンジャンル
 “思み立ちぬ有らば 直ぐに仕掛きゆし 明日からぬ明日や 明後日なゆさ”
 〈うみたちぬ あらば しぐに しかきゆし あちゃからぬ あちゃや あさてぃ なゆさ
歌意=物事を始めようと思い立ったならば、すぐに実行に移すがよい。明日から始めようなぞと高を括ると、その明日になるとまたぞろ「明日から」になり、今日からすると明後日になってしまう。つまりは、その物事は思い立ちのみにとどまり、一生達成できない。
 思い当たることはないだろうか。
 テレビが盛んに誘っているダイエット法に誘発されて「よし!わたしもッ!」と思い立ってはみたものの、目の前に出された馳走を見ると「明日からはダイエットに取り組むことだし、とりあえず今日はおいしく食べておこう」になった経験はないか。決心は、その時点で不変にしなければ、決心ではなくなる。

 読谷村座喜味城跡公園に、3年計画でクロキ2400本を植えようと、2008年に立ち上げた事業がある。読谷村黒木の杜づくり推進協議会が、地元紙沖縄タイムス社の共催を得て始めた植樹事業。初年度は12月に740本。今年は11月22日に810本を植えた。20~30センチの苗木である。寒さに向かう年末にしたのは、黒木はこれから2月にかけての時期が根付きやすいということだ。



 クロキは、山地に育成するハイノキ科の常緑小高木。樹皮が黒色なことから名付けられた呼称。一般的にはクルボーというそうだが、クルチのほうが通りはいい。木質は硬く、材は小用材、器具材、薪住材などに使用。近畿以西から琉球列島に生成し台湾、韓国、東南アジアに分布している。庭園樹としてもよく見かけ、わが家にも1本、34歳の黒木が立っている。黒檀の1種。

クルチは庭木や器具材などというよりも、三線の棹の材料と言い切った方が理解しやすいだろう。このこともあって、植樹には読谷村安田慶造村長を先頭に、野村流古典音楽保存会国吉正康会長ほか会員、村民が参加した。殊に国吉正康会長は「昨年植えた苗木も順調に育っている。100年の大計で座喜味城跡を黒木で囲みたい。その中から三線の棹に適した黒木が何本採れるか。自分の手で植えた黒木で造った三線を弾いてみたい。もっとも、それまで生きていればの話だが」と、目を輝かせていた。じつに「100年ロマン」の第一歩。今日始めなければ10年も50年も100年もない。
 沖縄全域において、三線の棹に成り得る黒木は極端に少ない。戦前は、県内産で十分間に合っていたが、戦禍でそのほとんどが焼失した。他の樹木も同様の運命をたどったことは言うまでもない。中でもクルチの場合、苗木を植え育て、成木になり、切り出して型どりをし、十二分に乾燥させて三線の棹を造るまでには100年を要する。したがって、県内産のクルチの三線で音を出すためには「明日」と言わず「今日」植樹をしなければならない。昭和20年4月1日に日米の沖縄地上戦が奪ったクルチを元通りにするには、これから100年の歳月を要する。破壊は瞬時だが復元はただごとではない。
 では現在、沖縄における三線材料はどうしているか。100%近く輸入に頼っている。
 沖縄地区税関の資料によると輸入先はベトナム86%、台湾6%、中国5%、フィリピン3%。その数量は、平成17年度7,516キロ。同18年度10,068キロ、同19年度18,244キロと毎年増加傾向にあるようだ。もちろん、黒木以外のユシギと俗称されるクスノキなども含まれている。


黒木の植樹地(座喜味城跡公園内)

 読谷村が座喜味城跡公園を黒木の植樹地にしたのには理由がある。
 まずは読谷村楚辺は、琉球歌謡及び三線音楽の始祖赤犬子〈あかいんこ。あかんくー〉の生誕地であり、そこから近い座喜味城は琉球歴史にその名を特記される名将護佐丸〈ごさまる〉の居城だったからだ。15世紀初期に築城。座喜味集落の北端に位置し、標高127メートル。琉球国西海岸の砦の役割を果たした名城のひとつである。第2次世界大戦中は、日本軍の高射砲陣地となり、戦後も米軍の通信基地に使用されていたが、昭和49年10月に解放されている。
護佐丸は名城の主であると同時に、築城家としての評価も高く、座喜味城築城の前には山田城を、後に東海岸の中城間切に名城「中城城=なかぐしく ぐしく」を築いている。
 座喜味城築城の際は近隣の人民のみならず、遠く奄美大島の喜界島などからも人夫が参集したと言い「仁政を施した徳の高い人物であった」と伝えられる護佐丸ではある。つまりは、読谷村民にとって座喜味城跡は歴史文化の象徴であり、心の拠所のひとつなのだ。
 その座喜味城跡に、いま植えられた黒木たち。自然と人に抱かれて、やがて名城を包むことになる。このことを殊更歓びとするのは、護佐丸公かも知れない。そして、一年一年と黒木の成長を見守りながら「このクルチで打った三線を弾きたい」とする人は、少なくないだろう。


座喜味城跡

 余談ながら、毎年3月4日に開催しているRBCiラジオ主催「ゆかる日まさる日さんしんの日」も、来春は18回目。この日は沖縄は言うに及ばず県内外の三線たちが一斉に祝儀歌「かじゃでぃ風節」を奏でる。
 わが家のクルチで造る三線を3月4日に弾くのには後66年。座喜味城跡のそれならば後97、98年先だ。それまで腕を鍛えながら生きていよう。たかが三線だが、夢を膨らませてくれる「命の泉」と位置づけるのは、ひとりよがりの思い込みだろうか。




(無題)

2009-12-10 00:20:00 | ノンジャンル
大人はいつまで経っても大人だが、子どもはいつかは大人になる。この課程をごく自然に通過して、私も大人になった。
 ごく自然にとは云うものの、いつの時代も青少年が健やかに育つための環境は完璧ではない。その時代の価値観や観念・通念に揉まれながら、かつての子どもは大人になってきたようだ。

 沖縄県宜野座村漢那を訪ねる機会があった。用向きを果たした後も、まだ時間的余裕があったことを幸いに集落内を散策。漢那公民館に近づくと、いくつかの立て看板や張り紙、チラシを見ることができた。
 宜野座村青少年健全育成協議会は「6:30運動」キャンペーンの一環として、漢那区のみならず村内の要所に看板を立て掛けてある。【6:30運動】=児童・生徒の皆さんは、午前6時30分起床。午後6時30分帰宅を心がけましょう=の鮮やかな文字。本土では「午後6時30分の帰宅は“遅い”」かも知れないが、そこは沖縄。冬場は暮色に包まれても夏場の太陽はその時間、まだまだ十分の明るさを誇っている。しかも、遊び盛りの子どもたちの帰宅を「6時30分」と限定したのには理由がある。宜野座村は、北は名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワーブ、南は金武町のキャンプ・ハンセンに通ずる国道沿いに位置。相次ぐ米兵・外人絡みの事件、事故を警戒して6時30分以前の帰宅を促しているのだ。
  

 さらに、宜野座村学力向上対策委員会・家庭教育部会の張り紙を見つけた。
 [しっかりした生活習慣や学力習慣を毎日の生活の中で身につけよう]の書き出しに次いで[わたしの5つの約束]が明記されている。その約束とはこうだ。
 ①早や寝早起き、朝ごはんの習慣をつける。②ノーテレビ、ノーゲームの日をつくる=携帯・インターネットを含む=③前の日に〈明日の〉準備をする。④家庭学習を毎日する。⑤家族とたくさん話をする。
 すべての漢字にふりがながなされているのは、低学年生への気遣いだろう。
   

 大人は子どもたちに決めごとを奨励しているが、大人のそれはないのか。
 漢那区事務所に「みんなで守ろう よりよい生活を!」と表題したチラシがあった。
 ★冠婚葬祭を簡素化し、お返しのやり取りをなくしましょう。
     [推進事項]
 【年末・年始・旧盆】
 *お歳暮・お年賀・お中元は、1,000円以内の金品にしましょう。*お年玉は、1,000円以内にしましょう。
 【祝い事】
 *新一年生入学・合格祝いの祝儀は、1,000円封筒を活用し、お返しは廃止しましょう。家庭まわりは自粛しましょう。*出産祝いの祝儀は、2,000円封筒を活用し、お返しは廃止しましょう。招待客の範囲を自粛しましょう。*生年祝いの祝儀は、2,000円封筒を活用し、お返しは廃止しましょう。
 ※案内状には、生活改善に趣旨により『祝儀の額』と『お返しの廃止』を明記しよう。
 【告別式・法事】
 *告別式の香典料は、1,000円封筒を活用し、会葬礼状及び香典返しは廃止しましょう(区の生活改善用立て看板を活用しましょう)。*告別式の供花は自粛しましょう。*初七日・四十九日・十六日祭・年忌法事は、1,000円封筒を活用し、身内以外は自粛しましょう。*法事での接客は茶菓子等で行い、ビール・酒類は控えましょう。*育英会への香典返しは、廃止しましょう。
 ※(区常備の)テント、テーブルの借用は、告別式の当日のみとします。
 指定封筒は「漢那区事務所」と明記されたものを使用する。
 沖縄の殊に都市地域の結婚式や生まれ年を祝う「トゥシビー スージ」の接待客は、2~300人が普通。4~500人も珍しくはない。それも一流ホテルの会場を借り切ってのことだから、経費もかさむ。告別式にいたっては、葬儀日程や場所の告知を新聞に掲載。県内2紙を利用するため、朝刊の1面、多いときには2面いっぱいが埋まる。子、孫を含む肉親・親戚代表・友人代表・所属団体、企業代表者名がずらり並ぶ。一般人がこうだから著名人の死亡広告は、2段3段抜きになる。宜野座村では、こうした華美になりがちな慣例を改善しようとしているのである。
   

 漢那公民館に入ってみる。
 緞帳付きの立派な舞台。フロアは腰掛けを並べると500人は収容できるだろう。区の行事はすべてここで行われる。受付カウンターに目をやると、昨日今日設置したであろう新しい手作りの[お手紙箱]がある。誰から誰へのお手紙を入れるのか。女性事務員に聞いてみた。
 「この冬休み。区内の中学生たちは修学旅行に出かけます。往復飛行機で九州一円に学びます。お手紙ですか?親御さんから旅行する子どもへ宛てたものです。それを事前に区事務所のお手紙箱に投函してもらい、引率の先生が持参。宿泊先のホテルでの夕食時、一斉に子どもたちに配達するのです。このことは、生徒たちには内緒。手にした子どもたちにとっては、親が何と書いてあるのか、ちょっとしたサプライズでしょう。きっと」
   

 帰路の車中。宜野座村の小さな集落[漢那]の人たちの大きな[絆]にふれた思いが、心に温もりをもって広がっていた。区民同士、親と子の生真面目な向き合いが嬉しかったのだ。




 

座間味村・3つの石像

2009-12-03 00:20:00 | ノンジャンル
 阿嘉島、慶留間島、外地島、安室島、安慶名敷島、嘉比島、久場島、屋嘉比島からなる座間味村へは、高速艇クィーンざまみで行く。
 那覇市から西へ40キロの海上に浮ぶ慶良間諸島のひとつ座間味村は、11月30日現在、人口1,063人の美しい島だ。毎年1月から3月の鯨の回遊時には、ザトウクジラを遊覧船の上から間近に見ることができる。
 那覇市泊港北岸から座間味港までの所要時間は約50分。定員200名の高速艇クィーンざまみの片道料金は大人3,140円。往復料金5,970円。自然が造り出した見どころを楽しむうちに、3つの記念碑に関心を寄せた。

   
     慶良間諸島

 その①【安里積千代像=あさと つみちよ】
 安里積千代氏は、明治36年〈1903〉8月22日、この島に生まれた。昭和3年〈1928〉、日本大学法学部を卒業。3年後には台湾へ渡り昭和10年、台南市議会議員に当選。これが政界への第一歩である。戦後、台湾を引き揚げるや昭和25年〈1950〉八重山郡島知事に選出されている。その2年後、アメリカ統治下にあえぐ混乱の中で八重山郡島政府が廃止されて、琉球政府が成立する。そして安里積千代氏は、第1回立法院議員総選挙に沖縄社会大衆党公認で出馬して当選。以後6期を務めた。
 時、まさに日本復帰運動の台頭期で、沖縄中が熱く燃えていた、私なぞも少年ながら運動に関心を示し、先頭に立った瀬長亀次郎氏、兼次佐一氏、もちろん安里積千代氏らの街頭や住民集会での演説を、血が逆流する思いで聞き入っていた。
 安里積千代氏の中央政界への出馬は、昭和40年〈1965〉の参議院選挙。無所属で全国区に出馬して沖縄の日本復帰を訴えたが、当選は叶わなかった。次いで昭和45年〈1970〉の国政参加選挙に沖縄社会大衆党公認で出馬。衆議院議員に当選した。しかし、2期半ばに民主社会党に移籍している。昭和47年〈1972〉、自らも先頭に立った運動で勝ち取った悲願の「日本復帰」から4年後に行われた沖縄県知事選挙に、自由民主党、民主社会党推薦で出馬。相手は、自らが委員長時代の書記長で革新系が推した平良幸一氏。保守転身がわざわいしたのか平良幸一氏に敗れた。ともあれ安里積千代氏は、戦後沖縄の政治的指導者の一人だったことに変わりはない。

     
         安里積千代像

 その②【松田和三郎像=まつだ わさぶろう】
 松田和三郎は、嘉永6年〈1853〉4月8日に生まれている。琉球国最後の国王尚泰〈しょう たい。第2尚氏19代目〉の時代だ。長じて村の掟〈うっち。番所役人の役名〉、首里大屋子〈すい うふやくう。王府直属の役な〉を経て44歳には、座間味間切長〈まじりちょう。村長〉に就任。17年間、自治行政に卓越した手腕を発揮して、多大な業績を残している。殊に鰹漁の振興は特筆すべきだろう。
 沖縄県の誕生から11年目の明治23年〈1980〉、鹿児島県枕崎の漁業者は、慶良間諸島近海で鰹漁を成し、巨利を得ていることに注目した松田和三郎。鰹船の漁労長が島に上陸した際、近海での漁業料を半減することを条件に、鰹の漁業技術を「指導していただきたい」と申し入れ、受け入れられた。
松田和三郎は早速、島の若者数名を鰹船に送り込んで実地研修をさせた。それと並行して島びと30名で漁業組合を組織している。鰹漁の将来性を見越してのことだ。しかし、島には鰹漁に適した船がなく苦慮していたところ静岡県伊豆の漁船が島に到着。松田和三郎は、これを買い取って鰹船に改修。そして、操業を開始するやその収益は村経済の一端を担うようになった。さらに、青壮年を鹿児島県や宮崎県に派遣して「鰹節」の製造法を習得させている。以来、座間味村の鰹節は【キラマガチュウ。慶良間産鰹節】の名を馳せ、いまでも優良鰹節の代名詞になっている。

   
      松田和三郎像

 安里積千代・松田和三郎の像は、座間味小中学校の正門近くに建っていて、島の子どもたちを見守っている。それ以上に・・・・と言ってはいささかはばかるが、島の子どもたちが自慢して止まないのは、シロとマリリンという犬の恋物語と記念像だ。

 その③【犬の像
 阿嘉島で民宿を営む仲村利一さんの飼犬で雄のシロは、3キロ離れた座間味村にいる恋犬マリリンに逢うため
、海を泳ぎ切って愛を育んでいた。この一大ロマンスが全国的に報道されるや1988年、すずき・じゅんいち監督のメガホンにより映画「マリリンに逢いたい」が製作、公開された。しかし、マリリンは映画化前の1987年に死亡。シロもまた、人間で云えば80余歳の長寿をして、2000年11月に逝った。そして2匹の愛の奇跡を人間も忘れまいと石像を製作。シロの像は阿嘉港待合所前に、マリリンの像は座間味村から阿嘉島の見える場所に建っていて、物語とともに「愛の尊さ」を語りかけている。

  
     マリリン像

 島の子どもたちは安里・松田両偉人の石像を朝夕、尊敬の念を込めて眺めているが、それ以上にシロとマリリンの石像建立ばなしになると、一段と目を輝かせる。二人の、いや2匹の一途な愛の物語に感動して育った彼ら。島の偉人を知るとともに、愛のある生き方を会得するに違いない。諸々の像は、単なる記念、顕彰のそれでは終わらないということだろう。