旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

酷暑見舞い余話

2017-08-20 00:10:00 | ノンジャンル
 卓袱台の上の携帯電話がマナーモードのまま、勢いよくふるえてた。耳に当ててみると野太い塩辛声が飛び込んできた。
 「よう!オレだ。いまキミ宛に猛暑見舞いを書いたところだ。息災のようだね。キミがレギュラーでやっているラジオ番組は、心掛けて聴いているが、たまに生の声を聞きたいと思ってね」。
 車で1時間ちょっとのところに住居している、10代からの古馴染みのKは、一方的に話し掛けてくる。
 「現役を退いて隠居を決め込んだものの‟楽”というわけにもいかず、息子に継がせた家業を手伝いながら、なんとかやっているよ」。
 Kは相変わらず明るく近況を語り(近々、一杯やろう)を約束して電話歓談は終了した。
 だが、待てよ?
 (猛暑見舞いの葉書を出したのだからKのヤツ!電話をすることはなかったのに・・・・)
 いや、葉書にボクの名前を書いたばかりに、電話をする気になったのもかも知れない。どうやら古馴染みとはそうしたものらしい。
 Kの猛暑見舞いが我が家にとどいたのは、それから2日後のことだった。文面、宛名はパソコン文字だが一見、磊落に見えて繊細な性格のKらしく、自分の名は、ひと目で分かる個性ある直筆だった。

 ボク自身、パソコン、携帯メールを操れるようになってからというもの、とんと手紙、葉書に直筆を走らせることが少なくなった、じかに便箋2,3枚を埋めるのが億劫になってきたのである。
 (ほんとうは私信は手書きのほうがいいに決まっている。殊に親しい人からのそれは、ひと筆ごとに癖があり、行間にもその人の心情が呼吸している)
 そうは思いながら、物ぐさなボクはこのところ、パソコン文字で済ませている。改めるべきか。

 月の初め。
 職場を同じくしていたYから手紙が届いた。表書きはペン。文字は少し大きめのパソコン文字。ボクの老眼を気遣ってのことだろう。いわく。

 足元が怪しいことにかこつけて、若い女子職員の肩を借りたとか。羨ましい。ウチアタイする言葉があります。
 退職後の問題は(きょうよう)と(きょういく)。
 1、(きょうよう)=今日、用(用事)がない。
 2、(きょういく)=今日、行く所がない。
 毎日、目の前の大海原を眺めている日々の我が身を反省して、直彦さんに(手紙)を書く(きょう・よう)を作りました。
 高橋和男「めざせ長寿・健康かるた」
 「有為の奥山」の「お」。
 *お年寄り やがて行く道 粗末にするな。

 先日、少し午睡の後に夕食。はて?口の中が何かおかしい?
 確かめると、右上の犬歯がなくなっている。それこそ(はぁ~。歯~)だった。歯が抜けたっ!そして驚いたことに、その抜けた歯がどこにもないのだ(もしかして飲み込んだ?)。それしか考えられない。まったく自覚がないのは、年とった証拠か。病院に行ったら、抜けたのではなく、欠けているのが分かって、少し安心。が、欠けた歯の行方は確認できていない。

 夜も寝苦しい。小さな魔法瓶に水を入れて離れへ。夜中、喉が渇くので魔法瓶に手を伸ばす。コップを持ってこなかったのに気付く。蓋に入れて飲もうとしたが、魔法瓶の蓋は複雑。コップ代わりには使えないので断念。母屋に行くとビデオを見て起きている女房がいた。「そのまま、魔法瓶から直接飲めばいいのに」と言う。何っ!熱いお湯をそのまま飲んだら喉を火傷するっ!と、怒鳴り散らかした。コップで飲んだ。「あれっ?冷たいっ!そうだ。お湯ではなく、水を入れてあったのだと気付いた。これも加齢の出来事。笑えない。
 この前のニュースで「実態のない会社を装って詐欺」というコメントがあった。実態のない会社を装ったから騙されるのでは?実態があるように会社を装うから騙されると思うのだが・・・。
 年を重ねると、色々と経験させてくれます。「もう、いい」と思った時がお終いなのでしょうね、あとしばらく、自然の中で楽しませてもらいます。暑い毎日、どうぞ健康に留意されてご活躍のほどを!(Y)。

 Yも40分ほどのところに住居している。手紙には手紙を。ボクも早速、短い礼状を出した。

 小生はといえば「健康かるた」の「も」を引用。「物忘れしたから何だ!気にするな」を座右の銘にして(のほほん)を決め込んでいる。猛暑を通り越して酷暑の日々。お互い(自愛)を心の片隅に置いておこう。酷暑を凌いだら月見酒でも。お礼まで。奥さまによろしく(直彦)

 立秋も過ぎ、処暑を暦は告げている。旧暦で季節を感じ取る沖縄では、これから7月に入る。「七夕暑さ」「7月(旧盆)ティーダ(太陽)」と言って2度、3度は猛暑を味合わなければならない。(うんざりっ!)なぞと言わずに暑さとつき合おう。あと幾度(盛夏)を経験できるか分からないのだから・・・・。
 

平和メッセージ・今受け継ぐ曾祖母の思い

2017-08-10 00:10:00 | ノンジャンル
 〔平和メッセージ・今受け継ぐ曾祖母の思い〕
      *海邦中学校2年・安谷屋紫月(しづき)

 「母親が死んだ時、涙も出なかったよぉ。すぐに自分も死ぬと思ったからねぇ」。
 那覇市首里赤平町で昔ながらの瓦屋にひっそりと暮らしているのは、沖縄戦を生き延びた私の曾祖母だ。現在85歳の彼女は、4年前に夫を亡くした後もこの家で愛犬と暮らしている。家庭菜園で季節の野菜を育ててはご近所さんや家族にふるまい、週2回のデイサービスでのリハビリや友人とのおしゃべりを楽しみに過ごす平穏な日々。現在の様子からは当時14歳だった曾祖母は想像できない。
 そんな曾祖母が沖縄戦を語り始めたのは「北朝鮮ミサイル発射」というニュースを一緒に見ていた時だった。
「もし、沖縄にミサイルが飛んできたらどうなるだろう」と私が言うと曾祖母な「ならんどぉ!戦争は絶対ならんどぉ!」と、語気を強めた。そして、初めて14歳の頃の自分を語り出したのだ。そこには私の知らない曾祖母の姿があった。
 当時、国民学校を卒業して間もない彼女は、弁ケ岳の旧日本軍壕を掘る手伝いをしていた。掘りだされた土を家庭用のザルを使い、素手でかき集め外へ捨てに行くという作業を1日中、何日も何日も延々と続けた。暑さに大量の汗をかき、全身が泥まみれになりながら、効率の悪い作業を繰り返し「なぜ、自分はこんなことをしているのだろう」という答えのない疑問ばかり頭にあったという。沖縄戦において弁ケ岳は、首里攻防戦の要であった。最も堅固で難攻不落と言われていた防衛陣地だったが、米軍の猛攻撃により(あっ)という間に陥落したという。私の通学路にある弁ケ岳は、14歳の曾祖母が訳もわからず、土をかき出し続けた場所にあり、一瞬で多くの命が尽き果てた場所だったのだ。米軍が首里へ迫る中、曾祖母は家族とともに糸満の父の実家へ向かって逃げた。母と兄と四姉妹で家を出たが途中、兄が「やはり自分は逃げない」と言って離れて行き、それっきりとなった。母は四姉妹の目の前で爆風にやられた。四姉妹は穴を掘り母の亡骸を埋葬した。幼かった妹二人は泣いていたが、姉と曾祖母は涙も出なかった。(自分もすぐに死ぬのだから)という絶望感しかなかったのだ。途中、逃げ込んだガマから軍人によって追い出されたこともあったが、やっとたどりついた実家では、食べ物がほしいと来る痩せ細った軍人に米をわけてやった。そして再び「この家は通信基地にする」と、軍によって家を追われてしまう。行き場をなくした四姉妹は米軍に保護され、終戦を迎え、収容所で生活が始まった。収容所で米兵が妹たちに差し出したチョコレートを曾祖母はあわてて払い落としたという。毒が入っていると思ったそうだ。すると通訳軍人が
「ダイジョウブよ」と言ってチョコレートを食べて見せたという。米兵の恐ろしさばかりを教えられてきたこれまでは、、嘘だったのか。竹槍で米兵の殺し方を習ったあの頃は?素手で土を掘り続けた日々は?いったい何だったのか。なぜ、母は死ななければならなかったのだろうか。疑問ばかりが湧いてくる。でも四姉妹は目の前の今日を生きるために必死で、湧き上がる疑問については、心の奥に封じ込めるしかなかった。
 この話の数日後私は、曾祖母ら四姉妹が逃げまどった南部にあるアブチラガマを訪れた。このガマは、沖縄戦当時、周辺住民の避難所でありながら、旧日本軍の地下陣地であり、南風原陸軍病院の分室でもあった、真っ暗なガマの中には住民と軍が同居するかたちとなり、米軍の攻撃の的になっていた。多くの命が失われた絶望的な状況下で、奇跡的に生き延びた人々もいたという。実際に入ったガマの中で、私が最も印象に残ったのは助かる見込みのない重傷患者が運ばれた部屋だ。治療はもちろん、食事も水さえも与えられないまま、ただ死を待つだけの場所。光も届かないここでは、何度目覚めても闇の中だ。私と同年の少年兵が「お母さん」と叫び、息絶えた場所でもあり、多くの日本兵が故郷や家族を思いながら果てた場所でもある。
 私の母の故郷は宮崎県であるが、その家族の中には沖縄で死んだ若者もおり、その名が平和の礎に刻まれている。72年前の沖縄戦が多くの人の命とともに、多くの悲しみや絶望を飲み込んでいったことは確かだ。なぜ、こんなことになってしまったのか。曾祖母が抱いた「なぜ」という疑問が私の胸にも湧き上がってきた。この疑問に答えられる人は、いったいどこにいるのだろう。
 私は曾祖母の話を聞き、アブチラガマに入ったことで沖縄戦の1部を追体験することができた。それは私の想像を超えていた。それまではまるで他人に起きた出来事かのように受け止めていたのに、身近な人の言葉や自分で体験した闇はリアルだった。
 私は現在14歳。私と同じ年だった曾祖母が体験した戦争は「もう2度と起こしてはならん!」という言葉につながった。尊い命が奪われることがないように。この島の悲しみと絶望で包まれることがないように。そして、私たちは常に世の中の動きに関心を持ち、疑問を抱いたらすぐに「なぜ」の声をあげるべきだ。答えの見えないまま、うねりに巻き込まれていく傍観者に、決してならないために。

 県立平和祈念資料館主催。平成29年度児童生徒の平和メッセージ・作文、詩歌コンクールで中学生の部(作文)優秀賞を受けた安谷屋紫月さんの「今受け継ぐ曾祖母の思い」は、小生の心をいたく揺すぶった。終戦7年前に生まれながら、もう何年も「平和の礎」詣でをしていない。「慰霊の日」に向けての平和行進にも参加していない。かつては日本復帰運動に加わり、赤旗を振り、拳を突き上げた時分なのに、肉親の名が刻銘された平和の礎の前にさえこの身を立たせることを億劫がっている。思いはありながら・・・・。ひょっとして小生は、沖縄戦を風化させてしまったのではないか。恐怖心を覚える。明日にでも戦跡巡りをして(平和ボケ)の自分を鍛え直してこよう。そして、謝罪をせねばなるまい。


平和メッセージ・みるく世がやゆら

2017-08-01 00:10:00 | ノンジャンル
 みるく世がやゆら
 平和を願った 古の琉球人が詠んだ琉歌が私へ訴える
 「戦世や済まち みるく世ややがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」
 七〇年目のあの日と同じように 
 今年もまたせみの鳴き声が梅雨の終わりを告げる
 七〇年目の慰霊の日
 大地の恵み受け 大きく育ったクワディーサーの木々の間を
 夏至南風の 湿った潮風が吹き抜ける
 せみの声は微かに 風の中へと消えてゆく
 クワディーサーの木々に触れ せみの声に耳を澄ます
 みるく世がやゆら
 「今は平和でしょうか」と 私は風に問う

 花を愛し 踊りを愛し 私を孫のように愛してくれた 祖父の姉
 戦後七〇年 再婚をせず戦争未亡人として生き抜いた 祖父の姉
 九十才を超え 彼女の体は折れ曲がり ベッドへと横臥する
 一九四五年 沖縄戦 彼女は愛する夫を失った
 一人 妻と乳飲み子を残し 二十二歳の若い死
 南部の戦跡へと 礎へと
 夫の足跡を 夫のぬくもりを 求め探しまわった
 彼女のもとには 戦死を報せる紙一枚
 亀甲墓に納められた骨壺には 彼女が拾った小さな石
 
 戦後七〇年を前にして 彼女は認知症を患った
 愛する夫のことを 若い夫婦の幸せを奪った あの戦争を
 すべての記憶が 漆黒の闇へと消えてゆくのを前にして 彼女は歌う
 愛する夫と戦争の記憶を呼び止めるかのように
 あなたが笑ってお戻りになられることをお待ちしていますと
 軍人節の歌に込め 何十回 何百回と
 次第に途切れ途切れになる 彼女の歌声
 無慈悲にも自然の摂理は 彼女の記憶を風の中へと消してゆく
 七〇年の時を経て 彼女の哀しみが 刻まれた頬を涙がつたう
 蒼天に飛び立つ鳩を 平和の象徴というのなら
 彼女が戦争の惨めさと 戦争の風化の現状を 私へ物語る
 
 みるく世がやゆら
 彼女の夫の名が 二十四万もの犠牲者の名が
 刻まれた礎に 私は問う
 みるく世がやゆら
 頭上を飛び交う戦闘機 クワディーサーの葉のたゆたい
 六月二十三日の世界に 私は問う
 みるく世がやゆら
 戦争の恐ろしさを知らぬ私に 私は問う
 気が重い 一層 戦争のことは風に流してしまいたい
 しかし忘れてはならぬ 彼女の記憶を 戦争の惨めさを
 伝えねばならぬ 彼女の哀しさを 平和の尊さを

 みるく世がやゆら
 せみよ 大きく鳴け 思うがままに
 クワディーサーよ 大きく育て 燦燦と注ぐ光を浴びて
 古のあの琉歌よ 時を超え今 世界中を駆け巡れ
 今が平和で これからも平和であり続けるために
 みるく世がやゆら
 潮風に吹かれ 私は彼女の記憶を心ぬ留める
 みるく世の素晴らしさを 未来へと繋ぐ

 この平和の詩「みるく世がやゆら」は平成27年、沖縄県平和祈念資料館第25回「児童・生徒の平和メッセージ公募」の高校生の詩部門・最優秀賞に選ばれた当時、与勝高校3年生知念捷君(まさる)の作品。
 戦後70年、節目の「慰霊の日」に会場の糸満市摩文仁の平和祈念公園での沖縄全戦没者追悼式典において本人の朗読で世界に発信された。

 知念捷君の出身地・うるま市具志川では早速、字の慰霊塔改修事業と併せて、この作品を後世に繋ぐ「平和の詩」碑を建立。平成29年6月25日除幕。
 具志川区の慰霊塔は1947年に建立され軍人軍属169人御霊が祀られた。その後1957年、現在地のあしびなーに移設、そして再び回収と共に「平和の詩碑」を併殺した。場所は字の豊年祭はじめ、諸行事を開催する昔からの「遊び庭=あしびなー」。
 式典に合わせて配布されたパンフレットで知念捷君は語っている。
 「慰霊と鎮魂。そして平和希求の思いを込めて書きました。戦争は人間が起すもの。そして平和も人間が築くもの。世界平和は全人類の希望であるとともに、過去から教訓され、実現しなければならない一人ひとりの課題ではないか」。
 知念捷君は現在、東京の東洋大学1年生と聞く。沖縄人にとって戦争という降ろしたくても降ろせない荷物・・・・。
東京でも全国の若者たちに問い、語り合って欲しい。もちろん、老年の私もそうする。そうしてきた。
 日本は「みるく世がやゆら」。
 8月。知念捷君が聞いた蝉は今日も‟みるく世~みるく世~”と鳴いている。