旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

盛夏・ガジャンの季節

2010-07-29 00:24:00 | ノンジャンル
 「オレは40歳、独身。したがって子はない。しかし、これは本能というべきか、自分のDNAを何らかの形で残したい。そこで、この夏から蚊を飼うようになった。ベランダの空きプランターに水を入れて放置した。やがて蚊が卵を産み、すぐにそれはボウフラになり、間もなく立派な蚊になって部屋に羽音を立てて入ってくる。オレは蚊に喰われることになる。腕などに止まり必死になって血を吸うさまを目の当たりに見ていると、愛しくなるんだナ。血を吸うのは雌蚊だけで、見る見る腹部がオレの血で赤くなる。蚊はオレの血を命を繋ぐ栄養として産卵。ぼうふらを経て成虫なる。ああ、オレの血統書付のDNAは確実に蚊に遺伝されたッと思うと、これは感動以外の何ものでもない。また、刺された後のかゆみッ。これがまた快感!。蚊との一体感を覚える」。
 男は恍惚の面持ちで話す。世の中には変態としか言いようのない感動の仕方、快感の覚え方をする人間もいるものだ。
    

 蚊は、ハエ目カ科の昆虫の総称。世界には約2000種。日本に約100種。吸血するのはメス蚊。日本脳炎などを媒介する害虫だ。イエカ類は夜間に暗躍するのに対して、ヤブカ類は昼間に活動する。
 人間は、蚊とのつき合いを長くしていて、日本語の中にも生きている。
 ※蚊の食うほども思わない。
 *痛くも痒くもないと同意。何とも思わない。何も困らないの例え。
 ※蚊のスネ。
 *やせ細ったスネ。頼りにならないことの例え。
 ※蚊の鳴くような声。
 *非常に微かな声。
 ※蚊の涙。
 *数や量が少ないことの例え。雀の涙に同じ。

 沖縄方言で「蚊」は、ガジャン。ガザン、ガザミという地域もある。
 ハマダラカ・オオカ・チビカ・ヤブカ・イエカなど約60種が分布。日常の吸血害はもちろんのことマラリア、デング熱、日本脳炎などを媒介する衛生害虫〔ガジャン〕は、昔から天下の嫌われものだが、言葉の面では別の意味を持つ場合もある。
 童女が14、5歳にもなって色気づいてくると大人たちは、
 「男を意識するようになったら、蚊もその色気にあてられて刺すのを遠慮するようになる」
 などと冷やかしとも、成長の歓びとも取れる言葉を掛けた。「ガジャンぬん喰うらんさ」がそれである。しかし逆に、美形とはほど遠い女性や人情味のないそれには「ガジャンぬん向からん」つまり、蚊でさえ見向きもしない面相というひどい表現もする。この言葉は男にも投げ掛ける。あまりにも根性が曲がり切っていて協調性に欠ける野郎のことをそう言い切る。意味するところは蚊も「嫌がる・無視する・相手にするに値しない・食欲を示さない血の持ち主!」と決めつけられるのだから、もう救いようがない。この夏、すでに1度でも刺された人は安心するがいい。蚊も周囲の人たちも、決して見捨ててはいない証なんだから。
 「ガジャンぬ喰え=くぇ!」なる言葉がある。蚊に刺された痕跡・赤い湿疹のこと。これにも別の使い方がある。まずは琉歌を1首。

 symbol7首筋に残る赤豆ぬアジャや ガジャン喰えぬ跡とぅ 与所ね言りよ
  <くびすじに ぬくる あかまみぬ アジャや
    ガジャン喰えぬ あとぅとぅ ゆすね いりよ


 年ごろになって色気で蚊を遠ざけていた童女も、その色気が熟するにつれ女童<みやらび。若い女性>に変身する。恋をするのも自然の成り行きだろう。恋人たちは人目を忍んで愛の交歓に身を焦がす。気づいてみれば彼女の首筋に若者の唇の愛の印が、赤い豆のような鮮やかなアザ<痣>になって残っている。それほど激しい愛の交歓だったのだ。帰路で若者は言った。
 「首筋の赤いのは何だ。どうしたのだと聞かれたら、何でもないワ。先ほどヤブ蚊に刺されたのヨ。単なるガジャンぬ喰えーよッと、返事するんだよ。親兄弟に問われても、そう言い通すんだよッ」と。
 ここでは蚊も、忍び逢いの言い訳の役に立っている。マラリア・デング熱・日本脳炎のみならず〔愛の媒介・仲介〕もなしていると言えよう。
 蚊の多くは、梅雨明けに出来る水溜りや人間が放置した器に溜まった少量の水にも産卵する。それがアミジャー<ぼうふら>になり、そして一人前の蚊になって、人間や動物の生血を吸い、植物の樹液、葉液を糧として繁殖。その一生は30日足らずだが、その間に4~5回は産卵すると言われている。道理で殺虫剤や蚊取り線香が売れるわけだ。
 蚊の飛行高度は18~20メートルと言われているが、それ以上の高さのビルのオフィスに蚊が出現した例がある。半袖や胸元の開いた着衣の上に猛暑・酷暑の中に働く人の汗に誘われて、エレベーターに乗り込んだのではないかと噂されている。蚊も現代を生き抜くために学習をしているのだろう。また、最近の情報によると、日本の蚊の分布の北限は関東までとされていたが近年、東北地方まで拡大しているという。これも地球温暖化に関わっていると思われる。

 冒頭の男のように、蚊に己のDNAを託し感動・快感を覚えることもないが、出来るだけ蚊とのつき合いは回避して、長い夏を乗り切りたい。
 蛇足ながら、ぼうふらの感じは〔孑孑〕と書くそうな。
 “孑孑に月がさすなり手水鉢” 高濱虚子
 
  

風化させまい・6月の空

2010-07-21 23:38:00 | ノンジャンル
 昭和34年<1959>6月30日
 そこは地獄だった。
 午前10時36分。石川市<現・うるま市>に、テスト飛行のため嘉手納基地を離陸した米空軍F100D機の2機のうち1機が、エンジントラブルで火を吹き、市街地約100メートルの民家25棟をなめ尽くすように墜落。高度300メートル、時速463キロの同機は、減速することなくその先の宮森小学校の校舎をぶち抜き、エンジン部分はさらに先の田地に落ちた。
 2時間目の授業が終り〔楽しいミルク給食〕のひとときだった。学校には約1000人の児童と職員がいた。楽しい給食は一変して地獄と化す。市民はもちろん、沖縄地上戦をぎりぎり凌いで生き延び、明日にかすかな曙光を見出しつつあった大人たちは〔またも戦争かッ〕と驚愕し、子どもたちは〔何がなんだか分からない〕ままの一瞬の惨事である。
 この惨事で児童11人。一般人6人が死亡。負傷者数児童156人。一般人54人。校舎3棟、民家27棟が全焼。校舎2棟、民家8棟が半焼している。
    
     「仲良し地蔵」の碑(宮森小学校中庭)

 私は21歳。琉球新報社会部の記者で空港や港湾を担当していた。
 午前11時ごろだったか、那覇市泊港の取材をしていたところ、港前を北へ伸びる軍用道路1号線<現・国道58号線>をサイレンもけたたましく、数代のパトカーが異様に疾走する。戦時中から聞き慣れたサイレンだが、この日のそれは尋常ではない。すぐさま本社デスクに電話を入れて〔石川市に米軍ジェット機が墜落した〕ことを知る。
 私には那覇市の大空襲、すなわち昭和19年<1944>10月10日、俗に言う10・10空襲を受け、中部の山地を避難行、金武村<現・町>の山中で捕虜になり、捕虜収容地のひとつだった石川市に小中高校の12年間を過ごした経験がある。
 「ベテラン記者たちが取材に向かっている。キミは行くに及ばないッ」
 デスクの制止も聞かばこそ、1号線の中央に飛び出し、折しも猛スピードでやってきたパトカーをどう止めたものか、同乗することを得た。石川市には友人や親戚もいる。
 現場は米軍及び民間の消防隊、救急車や米軍人、警察官、そして児童の父兄、市民が右往左往。あたりにはまだ、残煙が目や鼻につく。いましも、収容された児童がいる。黒焦げた遺体。単なる肉塊となり、人相さえ判別できない顔から白い歯だけが見える。そこはまさに地獄だった。
     
       「平和の鐘の塔」(宮森小学校中庭)

 ここに「6月の空・June Sky・宮森630」と題する1冊の絵本がある。
 絵・磯崎主佳。英訳・中村ヒューバーケン。文は、宮森小学校ジェット機墜落事件を風化させまいとするハーフセンチュリー宮森という15人のメンバーによるもの。監修池宮城けい。
    
   
 小学校2年生の琉少年の夢の中の出来事と、あの惨事で愛児を失った実の祖父母との心のふれ合いを通して描いた平和のメッセージとしている。絵本ではあるが、子を持つ若い親たちに読んでほしい一編だ。
 小学校6年生の孫とその両親に渡す前にと、まずは読んだ。心やさしい表現ながらも事件はいや、戦争とは何か戦後とは何か、平和とは何かを考えないわけにはいかなかった。その夜は眠れなかった。
 件のジェット機のパイロットのジョン・シュミッツ中尉は、エンジンのトラブルを知るや、搭載していた12.5キロの爆弾4発を嘉手納基地南西の海に投棄。自らはパラシュートで脱出して無傷だった。
 当時「墜落の原因は、エンジントラブルによる不可抗力の事故」と米軍は発表しているが、事件から40年後の1999年6月、琉球朝日放送の取材により、事故原因は〔米軍の整備不良〕だったことが明らかになった。それでも米軍当局は、現在に至るもそれを正式には発表していない。

 風化とは何だろうか。
 取材を共にし、現在もジャーナリストとして戦争責任を糾弾、平和を希求し続けている森口豁、昨年急逝したジャーナリスト近田洋一とは、常々語り合ったことだが、歳月とは残酷なもので私の中でも風化は進んでいる。
 大惨事の中で九死に一生を得た少女がいた。少女は事件のひと月ほど後に「全琉学校音楽コンクール・器楽の部」に、宮森小学校代表としてバイオリンで出場することになっていた。しかし、少女は両手骨折の重傷を負い、出場を断念せざるを得なかった。生き延びた者もまた、夢や希望を打ち砕かれて二重の苦しみを背負ったのである。
 事件後、この少女のことを記事にしたことだが50年経ったいま、私はその少女の名前を忘却している上に、消息も皆目知らないでいる。
 〔忘れてはならないッ〕
 そう心に刻み込んだにもかかわらず、少女の名前を思い出せない自分・・・・。これも平和ボケが成せる〔風化〕の進行だろう。
 絵本「6月の空」を読んで決意した。
 「風化は己の中で進行している。そのことに気づいただけでも、まだ風化に歯止めを掛けることが出来るかもしれない。10・10空襲のこと・戦時中の避難行のこと・終戦直後の暮らしのこと・諸々の米軍事件のこと・朝鮮戦争、ベトナム戦争のこと・祖国復帰運動のこと・・・・。いま一度、体験の記憶を呼び戻し、文献を参考にして“語部”になろう」と。
 受け入れられるかどうか自信はない。しかし、それが私のできる反戦平和運動と心得るからである。

   
  ※「絵本・6月の空」=日英語朗読CD付=問い合わせ先
    なんよう文庫  TEL:098-885-0866
 
    

激動の中の比嘉秀平

2010-07-15 02:36:00 | ノンジャンル
 「久しぶりッ。近くまできたのでキミの顔がみたくなってね」
 6月始め、知人のYがやってきた。社内のカフェでコーヒーを飲むこと小1時間。これと言った言葉を交わすでもなく、ごく世間ばなしをした後Yは、次の日程とやらで慌ただしく帰って行った。その間、Yの携帯電話は2度3度鳴った。相変わらず分刻みで立ち回っているらしい。私は予感した。
 「大きな選挙があるな」。
 知人Yの挙動からそれを感知したのである。Yは建設会社の社長。青年のころから選挙への関心度は並ではなく〔選挙〕と聞いただけで血が騒ぐのだそうな。その血に動かされてYは国、県、市町村の各選挙に顔を出し、最近では特定の政党を支持。強力な支援者のひとりと目されている。ならば、自ら立候補すればよいものをと思うのだが、Yの思惑は別のところにある。
 「いやいや。政治は表舞台よりも役者を引き立てる裏方のほうが面白い。例え成っても武田信玄の参謀山本勘助でありたいのだよ」
 さまざまな生き方がある。
 仲間内ではYのことを〔海鳥〕と別称している。海鳥は、気象台よりも早く台風発生を感じ取り、陸地に避難してくる。昔の民間天気予報にも「海鳥が山に向かって飛ぶと海は時化、あるいは台風がやってくる」と言われてきた。つまり、政界はさざ波程度でもYが「キミに逢いたくてネ」なぞと1年ぶり2年ぶりに顔を見せると〔選挙が近い〕と噂しはじめるのである。
 案の定。2010年7月11日。第22回参議院議員選挙は、慌ただしく投票・開票がなされ与野党逆転の結果となった。
    
 知人Y風に言うべきか、寄席の講談風にいえば輸入依存国日本はいま、剣聖宮本武蔵の生き方を選択せざるを得ないようだ。右手に武力大国アメリカ、左手に急成長を遂げた経済大国中国という大刀小刀を持ち、いや、持たされて世界に立ち向かおうとしている。この二刀流の奥義を極めることができるかどうか。漫画本の見てくれだけの宮本武蔵に終わるか。国民はそれを見極めることすらできない現状にある。

 大きな選挙のたびに思い出す人物がいる。
 アメリカ統治下にあった昭和26年<1951>に琉球臨時中央政府、翌年琉球政府が成立して、初代行政主席に任命された比嘉秀平氏<ひが しゅうへい>である。私はまだ13、4歳だったが、父や兄や周囲の大人たちが石油ランプの灯を囲んで話す沖縄の現状と将来などなどを意味も理解できないまま、それでも胸を高鳴らせて聞いていたころ〔比嘉秀平〕の名は三再四出ていて耳の底から離れないでいた。なにしろ沖縄地上戦は終わったものの、占領軍アメリカは赤狩りを強行して反米思想の一掃に躍起となった時代。大人たちの声を殺した熱っぽいヒソヒソばなしは、少年を緊張させ、興奮させるに十分だった。

 比嘉秀平。
 明治34年<1901>6月7日。読谷村大木の貧農の子に生れた。小学校のころ、家計を助けるために就労した製糖工場のサトウキビ圧搾機に右腕を取られた。しかし、少年は苦学力行。早稲田大学英文科に進学・卒業。高野山中学校の教壇に立ったあと帰郷。沖縄県第二中学校教諭を経て第三中学校の主任になり多くの英才を育てた。戦後、語学をかわれて沖縄民政府翻訳課長、同政府官房長を歴任。当時の志喜屋孝信知事<しきや こうしん>を大いに助け、全琉統合政府の設立に手腕を発揮した。その功績が評価されて、琉球政府初代行政主席に任命されたのである。選挙ではなく、アメリカの任命というところに戦後沖縄の実態を見ることができる。
 【任命】官職・役に任ずること。役に就くことの命令。
 辞書にあるように沖縄は、終戦から27年間、自分たちの首長を自ら選ぶことも許されず、米民政府の〔役に就くことの命令〕のままの主席の下にあったのである。もちろん、沖縄人民の本意とするところではない。それは比嘉秀平氏も変わらなかった。しかし、誰かが沖縄側の先頭に立たなければならない。比嘉秀平氏は苦難覚悟で引き受けた。
 沖縄人民もアメリカの軍政に唯々諾々追従したわけではない。まもなく、大きな政治問題なった〔軍用地問題〕では比嘉秀平氏は、人民から「米軍のイヌ」「アメリカの手先」などと突き上げられ、人民と米軍の板挟みに苦悩しながらも職務を遂行した。そして、島ぐるみ反米闘争の渦中、心痛心労がたたったのか昭和31年<1956>10月25日、急逝することになる。55歳の働き盛りだった。
      
       写真:比嘉秀平氏(ウィキペディアHP写真より)

 比嘉秀平氏は任命主席在任中、重大な問題が発生すると、常に英文タイプした辞表を懐にして、米民政府との折衝に臨んだ。実際にその辞表を叩き付けること7回に及んだ。心身は常時、人民とともにあったからだろう。
 沖縄受難の時代、しかも人民からは批判の声、米軍からは一方的な命令を受けながらも4年間、非合理を承知で沖縄の将来を見つめて行政に専念したのだ。
 今日、この4年間で日本国の総理大臣が幾度替わったことか。時代が異なるとは言え、いや、過剰平和のせいか、上に立つ者のスタンスが甘いような気がする。すぐに砕ける足腰しか持ち合わせていないような気がする。
 「総理大臣は、誰がなっても世の中は変わらない」
 国民の中に広がるこの観念がそれを物語っている。国民は、政府に対していかなる辞表を突きつければよいか。政治家の言動・政治の動向を注視しなければ、日本はどこへ流されるか知れたものではない。

      

愚弟賢兄

2010-07-08 00:20:00 | ノンジャンル
 その日、新潟県六日町にいた。
 仲間内の温泉小旅行の初日だ。3月半ばの越後は雪の中。時おり吹雪が見られ、雪との付き合いのない沖縄人にとっては貴重な体験で「注文通りのウァーチチ<天気>だわい」と、地元の人にはわけが分からないであろうはしゃぎ方を楽しんでいた。

新潟県六日町にて

 夜、寒さに疲れた躰を名湯で癒やし、それでも思いっきり冷やしたビールと、逆に越後の名手の熱燗で乾杯した。すると、馴染みの役者北村三郎<本名高宮城実政>が、丹前の懐から茶封筒を出して、そっと私に見せた。
 「持ちつけない現金か。大枚らしいな」
 「うん。実は・・・」
 その年生まれの北村三郎は満72歳。数え73のトゥシビー祝儀をすべき丑年だ。しかし北村は、老人になったことを自認するのに、いささか抵抗があって「生まれ年祝い」をする気はなかった。新暦の年が明け、26日遅れでやってきた旧暦の〔丑年〕の初め、兄の高宮城実から電話があった。例によって(囲碁の相手をせよ)ぐらいの用件だろうと、気軽に兄宅へ行ってみると案の定、基盤が待っている。ともあれ、二盤、三盤ほど打ち終えたとき、兄は立ち上がり、仏壇に置いてあった茶封筒を取り、弟実政に手渡して言った。
 「お前も丑年を六回りさせたんだな。躰をいとえよ。温泉でも入ってくるがいい」

 「うん。実は兄がそう言って僕にくれたんだ10万円。兄から見れば弟は、いつまでたっても未熟なんだなハハハハ」
 北村はそう話して笑ったが、目は濡れていた。高宮城実氏は私も存じ上げているが、そのとき御年80。八つ年下とは言え、80歳の兄が72歳の弟に(躰をいとえよ)と、10万円の気遣いをする。
 「まさに愚弟賢兄だね」と、馴染みの兄弟ばなしを茶化してはみたものの、なぜか胸が熱くなっていた。丑年の越後の酒が旨かったこと。ふたりして酔うた。
     
        写真:北村三郎氏

 兄弟ばなしはアメリカにもあった。脚本家マイケル・V・ガッツオの作品「帽子いっぱいの雨」は、父親がからんだ兄弟ばなしだ。西部の大牧場主の父親は、兄を英才教育し、思惑通り大都会ニューヨークの一流企業に就職できるまでにした。一方、弟には牧場を継がせる算段があって(学問をするに及ばず)の育て方をする。しかし弟は、好きなジャズトランペッターを目指して家出。ニューヨークの兄と同居する。弟の行為に怒った父親は、弟を叱咤すべく遠路、息子二人を訪ねる。理想通りのエリートを堅持しているらしい兄に満足、得心の笑みを見せるが、弟のミュージシャン暮らしには猛反発。兄と弟の生き方の格差に、怒りは弟にのみ向けられる。
 しかし、現実はそうではなかった兄は父親の期待とエリートであり続けるという重圧に抗しきれず、麻薬に依存してすっかり重症。弟が兄を立ち直らせるために尽力してくれたのである。まあ、ざっとこのような物語。愚弟賢兄か愚兄賢弟かいずれとしようか。この脚本は昭30年代、ドン・マレー主演の映画「夜を逃れて」になり、那覇市の国映館で見て感動したものだ。

映画と言えば、私も兄と見た映画がある。
  黒澤明監督、昭和25年の作品「羅生門」がそれである。1年遅れで旧石川市の映画館新興劇場に掛かった「羅生門」を見に行ったわけだが当時、兄直政は23歳、弟直彦は13歳。兄には黒澤映画のよさは理解できたであろうが、映画はチャンバラものにしか興味を覚えなかった弟には、内容なぞまるでチンプンカンプン。ただ、 目を剥き歯を剥いて太刀を振り回す三船敏郎だけが見どころ。退屈この上もなかった。
 映画がハネて兄弟は家路につく。ふたりの下駄の音が星月夜に響いていた。兄は道々語ってくれた。
 「芥川龍之介という作家の原作だ。藪の中で惨劇が起きたのだろう。それを数人の人が見聞していて証言するが、一人ひとりのそれが微妙に食い違っている。つまりだな、人の世の真実か判断しかねる。この考え方も芥川龍之介の仏教的思想のひとつだろう」
 そう解説されても13歳には、またぞろチンプンカンプン。ただひとつ覚えたのは(日本には芥川龍之介という偉い作家がいる。それにしても月形龍之介同様、時代劇俳優みたいな名前だなぁ)。このことであった。
 私の場合、確かに兄直政は(賢)であった。何ひとつ頭の上がることはない。(ない)と言うよりも、その賢兄直正が去年逝ってしまってどうしようもない。ひと言だけでも褒め言葉を掛けられたかったと痛感するのだが、末弟の愚弟はついに(愚)を通していかなければならない。残念なり無念なり。

 ところで。
 上原直實・カマドのこと。
 長男直勝を筆頭に長女とみ・直繁・直喜・直政・愛子・由子・春子、そして私を生み育てた両親である。しかし、長男は上海沖、次男はビルマ戦線で戦死。これが両親には耐えられない心痛であった。両親もすでに逝き、加えて三男四男、さらに長女も三女も親・祖父母のもとへ行った。残るのは次女と四女の姉ふたりとウッチラー<末っ子>の私のみ。私自身には子、孫がいて幸福をかみしめている。母カマドはそうでもないが父直實は嫁も婿も知らず、まして孫、曾孫の顔も見ず早逝している。子としてはこのことが悔しい。戦世を恨まなければならない。
 この連載の最終章に両親を登場させて(あなたたちの子に生まれてよかった)と結ぶのは、浪花節に過ぎる。しかし、自分が歳を重ねるにつけ、ますますそのことを実感するのである。

  ※琉球新報「巷ばなし 筆先三昧」2010年6月3日掲載を転写




なぜか嘉手刈林昌・名言珍言

2010-07-01 00:45:00 | ノンジャンル
 「くぬ三線のぉ あんすか 鳴らんさぁ
 素人の域を出、歌者仲間のうちでも一応の名を知られている御仁。最近、大枚で手に入れた三線を弾きながらそう言った。
 「この三線(値段の割には)いい音色が出ないなぁ」
 その座には数人の歌者が顔を揃えている。
 三線の所有者自身にそう言われて面々は、三線の鑑定士のような面持ちになり、その三線を回し弾きした。
 「張りが甘いのではないか」「ンマ<駒>が、ちょっと低いせいかな」「歌口が高いようだぜ」「チーガ<共鳴板>のせいだね」などなど。持主に同情するかのように、いや、持主の鑑定眼を支持して(よくは鳴らない三線)にしてしまっている。すると、それまで黙って彼らの鑑定談を聞いていた風狂の歌者嘉手苅林昌<かでかる りんしょう>が、おもむろにボソリと話に加わった。
 「んだんだ。ちゃぬあたい鳴らんが」
 と、件の三線を受け取り弾き始めた。歌詞の付かない三線のみの曲「渡りぞう節」の後は、渋い歌声を乗せて「揚作田節=あぎ ちくてん」など2、3曲。
 「どれどれ(よくは鳴らない音色の三線とは)どのくらい鳴らないのかな」
 嘉手苅林昌は、確かめに入ったのである。彼の手に掛かった三線は、リズムよく歯切れよく、めりはりの利いた音色を座いっぱいに響かせた。しばし聴き入った一座の誰にともなく嘉手苅林昌は、はたまたボソリと言った。
 「ゆう鳴とぉーしぇ。いい三線どぉ=よく鳴るではないか。いい三線だよ」
 座には得心の沈黙の間があった。
     

 歌者の間に言われている言葉がある。
 「三線のぉ 好かち弾き=さんしのぉ しかちふぃき
 三線は、子どもを好かすように、彼女を好かすように。惚れ込む心情をもって弾くことをよしとしているのである。それだけの思い入れがあれば三線は、それに応えて〔いい音色〕を出すとしている言葉だ。嘉手苅林昌は、件の三線の持主と同座の後輩たちに、このことを実演で立証してみせた。三線は、値段やあれこれの能書を並べて弾くものではない。自分の意志で購入し、縁あって手元にやってきた三線は、まず所有したことを歓び〔惚れなさい〕〔心をあづけなさい〕と、言いたかったのではないか。まさに「三線のぉ 好かち弾き」である。

 嘉手苅林昌。
 大正9年<1920>7月4日。越来村仲原<ごえくそん なかばる。現沖縄市>に生れた。
 「アメリカとの戦争で遠く南洋諸島を転戦。3度も死に損ねたワシがアメリカの独立記念日に生れている。徴兵されて3ヵ月も経たず、鉄砲の引き金も引かず、敵国のアメリカ兵の顔も1度も見ないうちに(この戦争は日本の負け)というのがワシには分かった。なぜと言って、戦争とは敵兵を殺すことだが日本軍は、大和魂を叩き込む!とかで、上官が新兵のワシたちを精神棒で骨折するほど殴るんだものな。ワシも滅私奉公!天皇陛下の御為にいい兵隊になろうと決意していたのにサ。“キサマッ!沖縄モンのくせしてカデカルリンショウ?なぞと訳の分からない漢字の姓名とはけしからんッ!”と、殴るんだ。敵を殺すべき戦争で味方を殺しにかかっては勝てるわけがなかろう」
 嘉手苅林昌は貧農の子に生れた。越来尋常小学校中退。篤農家の小作人になり家計を助けながら、歌好きの母親の影響で7歳から隣家のオジさんの三線を貸してもらって弾いていた。農業・馬方・日本帝国軍人。戦後は東京に引揚げ、東京~神奈川方面往復のヤミ商売。帰郷して軍雇用員・コザ市室川の区長1期。巡業芝居の地謡など職歴多々。以降は三線ひと筋。
 「嘉手苅林昌の歌唱は、沖縄そのものを語っている」
 これが彼に対する沖縄人の評価。のちに親交を結ぶ評論家故竹中 労・作家長部日出雄をして「北の高橋竹山、南の嘉手苅林昌」と言わしめ、両者の共演を企画した。しかし、対面は果たしたものの、共演は実現に至らなかった。
 昭和47年<1972>5月15日の沖縄の日本復帰以前、以後を通して本土各地や海外でも、乞われるままに〔沖縄を歌い続けた功績〕が評価されて平成6年<1994>沖縄県文化功労賞を受賞している。受賞後の言葉も彼らしかった。
 「表彰状の紙は妙に厚ぼったくて、弁当は包めないし折り紙にも適さない。どうせ紙をくれるなら、使いでのある紙の現金がありがたかったのになぁ」
 テレ隠し。嘉手苅林昌も平成11年<1999>10月9日。癌に負けて逝った。享年満79歳。私のことを〔ヒコ〕と呼んでくれた。
 「ヒコ。金銭には縁がなく、フィンスー<貧乏>を通してきた。フィンスーはなれると苦にもならない。しかし、ヤンメー<病>の苦しさは耐えられないなぁ」
 入院先の病床での言葉が、私が聞いた嘉手苅林昌最後の肉声だった。
 名人上手ゆえの奇行や名言・珍言はつきものだが、三線1丁を抱いて大正・昭和・平成の時代を駆け抜けて行った嘉手苅林昌。出版された名唱のレコード・CDは、ほかの歌者のそれを圧して最も多く、いまもって人びとに愛されている。
 待て。
  
    〈故嘉手刈林昌〉

 なぜいま時〔嘉手苅ばなし〕なのか。
 沖縄における日米の地上戦終結から65年経った6月23日「慰霊の日」。ラジオ・テレビの正午の時報を合図に沖縄全県民は一斉に黙祷をした。私の脳裏を戦死した肉親の顔や縁者のそれがよぎった。その中になぜか彼の顔もあった。
 戦中でも戦後でも行った人びとの冥福を祈ることは、その人びとを忘れないためだ。そして、忘れないでいれば歴史を語ることができる。一人ひとりの沖縄人はもちろん、島うたにも戦前、戦中、戦後は確かな形であったのだから。