旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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家系・家柄・名門

2018-01-20 00:10:00 | ノンジャンル
 *家系=家の系統。血統。家柄。
 *血統=血筋。血つづき。
 *名門=由緒ある家柄。名家。
 *末裔=子孫。

 日常会話で交わす言葉でも「平明に説明せよ」と求めると、窮して、どう言葉をつらねればよいのか戸惑うことはないか。そんな場合、手元にある「日本語大辞典」を引くことにしているが、これがまた1行足らずの説明に纏められていて、説明に出てくる言葉の意味を知りたくて結局、しばらくは(辞典)と遊ぶことになる。

 過日。
 「こんな話はどうだ」と、友人Kが新聞の切り抜きをくれた。そこには「厳かなニービチ歴史薫る北山王末裔・並里さん。今帰仁城跡で」の見出しが躍っている。内容を紹介する前に、北山王統について記しておこう。

 *北山王統=沖縄本島北部(北山)を支配した王統。今帰仁按司(なきじんあじ)から最後の城主・攀安知(はんあんち)まで名称を異にしながら、1300年代に始まり、当初は恩納、金武、久志、名護、羽地、本部、今帰仁、大宜味、国頭の9間切り(まぢり・今の市町村)を支配していたという。
 琉球は未だ治まらず、群雄割拠の時代。北に北山城、南に南山城(城主・他魯毎=たろまい)、そして首里、浦添を中山(ちゅうざん)と称し、いわゆる(三山時代)があった。しかし、中山按司尚巴志の武力による(三山統一)が成され、北山は1416年落ちることになる。(筆者注=ハイライトが過ぎた。詳しくは琉球史を一読ください)。

 さて。沖縄タイムス・友寄隆央通信員はこう報じている。

 {今帰仁}北山王の末裔で満名上殿内(まんな うんどぅんち)の次男、並里康次郎(29)と有貴(29)の人前結婚式が12月16日、今帰仁城跡で行われた。本部町並里に約700年の歴史がある満名上殿内の並里家。初代の北山王の次男に当たる。北山王が着用したとされる赤地に龍や鳳凰などの豪華な刺繍が入った琉球装束で新郎新婦が登場すると、感嘆の声が漏れた。
 康次郎さんは北山王の末裔として先祖にも感謝の意を伝えたいと思い、並里家のルーツでもある今帰仁城跡での挙式を考えたという。
 挙式前の(祈願式)が、今帰仁9代目ノロ(祝女)の仲尾次(なこうし)ヨジ子さん(84)によって今帰仁ノロ殿内で執り行われた。城跡での挙式は何度か行われているが、ノロによる祈願式はあまりない。満名上殿内と北山王とのつながりを知る仲尾次さんは、祝ってあげたいと思っていて実現できた。
 祭壇には代々のノロによって継承されてきた簪(かんざし)と勾玉(まがたま)が並べられ、式は厳かに実施。康次郎さんは「先祖からのつながりの重みを感じることができた。また、感謝を伝えることもできた」と満足そうに話した。
 朝からの雨にも、母哲子さんは「ご先祖様も喜んで、700年分の嬉し泣きの雨だと思う」と感慨深げだった。

 名家の縁結びは、本人たちにとっても意味深いこと。ここからまた、新しい{家柄}の歴史が始まるということか。
 下世話風には「夫ぬ分どぅ刀自ぬ分=WUとぅぬぶんどぅ トゥジぬぶん=刀自ぬ分どぅ夫ぬ分=トゥジぬぶんどぅ WUとぅぬぶん」と言い、夫の人徳、品位が妻のそれであり、その逆もあり得るとし、お互い慈しみ合うことを言いあてている。

 ある男。名家の女性に恋をした。けれども、自分は百姓。身分不相応で所詮は(叶わぬ恋)と知り涙の日々。彼の胸中を知らず(なぜ泣くの)と問うた友人に対して、男は琉歌で訳をした。

 ♪似ぇーとぅけとぅやりば 何故んでぃ我ね泣ちゅが 無蔵が丈勝ゐ やてぃどぅ泣ちゅる
 <ねぇーとぅけーとぅ やりば ぬんでぃわね なちゅが ンゾが たきまさゐ やてぃどぅ なちゅる

 語意*ねーとぅけーとぅ=似合い。*ンゾ=彼女。*たきまさい=優れているさま。
 歌意=彼女とオレ。身分や家柄のつり合いがつ取れているのならば何でオレは泣くものか。オレは百姓、彼女は名家の娘。貧富、家柄、すべて彼女が勝っている。つり合わぬは不縁の中・・・。それでオレは泣いているのだ。

 私はと言えば、那覇垣花の染物職人の家系。昔は町百姓の身分。民主主義の御蔭をもって恋も結婚も自由にしてきた。本音を吐けば政治家を除く大金持ち娘を口説き(逆玉の輿)に乗る野望があったが、現実はそう甘くなく、そこらにある縁で我慢、納得?している。
 スペインの諺に曰く。
 「誰と飯を喰うかであって、誰の所に生まれたかではない」。


長寿ばんざい・・・か?

2018-01-10 00:10:00 | ノンジャンル
 戌年は夜中の排尿ばなしに始まった。
 古馴染みの友人Kとの(初飲み)をしたことだが、彼が2度目のトイレに立ち、洗った手が渇かないうちに切り出してきた。
 「キミはどうかね?」
 「何が?」
 「シーバイ(排尿)だよ。就寝後オレは毎晩2度は起こされる」
 「それはボクも同様だ。まったくうんざりするね。なんとかならないかな」
 「いまでなんともならないのだから、諦めることだ」
 さあ、元の席につき泡盛をぐっと飲みほし、そこからKの「老いと排尿」に関するご高説を承ることになった。
 「60歳までは、どんな水分摂取をしても就寝前に排尿すれば翌朝まで深い眠りが得られたが、いつごろか夜中に1度尿意に起床警報を発せられようになった。それがいまではレギュラーで2度。満足を通り過ぎてアルコール及び水分過多になると女房に(また夜中に起きるわヨ)と指摘される場合は3度、ときには4度になることもある。そのときにシーバイをしながら、こう考えることにしている」
 K先生は、ぐいっとグラスを空にしてから高説の本旨に入る。
 「若いころより勢いが失速している行為を認識しながらも(ああ、今日もオレは生きている。高齢になったからと言って、尿意にも反応せず、寝具を濡らすようではもうおしまいだ。尿意に意識が啓発されて、夜中に起き出すことができる!ここに生きている歓びを感応できなければだめだ。(煩わしい)なぞと眉をしかめては、本モノの老人になるぞ。夜中の放尿は(生きていること)の証明だ」。
 Kの「尿意生存論」は、無茶苦茶な屁理屈論と知りながらも、どこか納得してしまうボクがいる。

 「高齢化社会」「長寿日本」なぞという文字が毎日の新聞に躍っている。年末の新聞に(平均寿命・沖縄の女性は7位。男性は36位・伸び幅小さく順位後退)という見出しを見つけた。

 「厚生労働省は12月13日に発表した2015年の都道府県別平均寿命で、沖縄の女性は、前回の調査から0.42歳延び、87.44歳。沖縄男性は0.87歳延び80.27歳となってた。男性は初めて80歳代に到達した。都道府県別の順位は前回調査で3位だった沖縄女性は7位にに、30位だった沖縄男性は36位に後退。男女ともに平均寿命は延びたが、伸び幅が他県に比べて小さく、低下に歯止めがかからなかった。
 2040年に平均寿命日本一を目標に掲げ、健康長寿ブランドの再構築をめざす沖縄にとって厳しい順位となった。
 沖縄は65歳未満の働き盛り世代の死亡率が男女とも全国ワーストで、平均寿命の延びを抑制する要因となった。
 全国より多い飲酒量や脂肪分の多い食事、運動不足などに起因する生活習慣病の肝疾患や糖尿病、喫煙が要因の慢性閉塞性肺疾患などの死亡率は全国に比べて高水準にある。男性は大腸ガン、女性は子宮ガンによる死亡率が高い。
 県保健医療部の砂川靖部長は「結果的に平均寿命が延びたのはいいが、20歳から64歳の死亡率が悪い要因を分析し、対策を立てなければいけない。地域コミニュティーで健康づくりに取り組む人材の育成支援に力を入れたい」と話している。 
 全国平均は女性が87.77歳。男性は80.77歳。女性は長野県が87.67歳で2回連続でトップで、男性は滋賀県が81.78歳で初の首位となった。最下位は男女ともに青森県で男性78.67歳。女性85.93歳だった。

 「来年の桜を見ることができるだろうか」
 いい歳になると明けた年よりも、来年の春を気にする。逝き急ぎはしないが、やはり余命を考えるようになる。ボクも例外ではない。まして「尿意健康論」を展開するKも、本音のところでは(残り時間)を感じている。尿意健康論は、単にKの強がり、いや、生への執着とみているが・・・。
 いつのころからかKとボクの共通して好んで口に乗せる琉歌がある。
 
 ♪年寄たん思むてぃ徒に居るな 一事どぅんすりば為どぅ成ゆる
 <とぅしゆたん とぅむてぃ いたじらに WUるな ちゅくとぅどぅん すりば たみどぅなゆる

 歌意=もう歳だと自らを放棄し、無駄に時を過ごしてはならない。幾つになっても、自分にできる(ひと事)を成せば、大層なことではなくても、周囲の人の役にも立つし、自分に命を永らえることにもなる。

 さて。
 Kの人生論?はまだつづく。
 「最近開拓したのだが、道向こうに小粋な小料理屋をみつけた。齢のころは50をひとつふたつ出た、いける女がひとりでやっている。キミ好みだ。これから行くかい?男は色気!色気だよ!譬え実践力はなくても、他所見ができないようでは、なんの人生!」
 ますます意気盛んなK。いつもより泡盛と口元の距離が短くなっている。このぶんだと帰宅後、就寝しても明日の朝までに4回はトイレ行きの持論を実践することになるだろう。
 長寿ばんざい!としておこう。


松・竹・梅の如く戌年

2018-01-01 00:10:00 | ノンジャンル
 謹賀新年
 ‟一年のまた始まりし何やかや
 俳人高浜虚子の句である。
 十二支を5回以上回した小生は実際のところ‟正月や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし”(与謝野蕪村)の心境だが、子や孫から、また、友人知人からの年賀を受けると(多くのことはできまいが、いまの自分に成し得ることを気張らずこなしていくか)と身を奮い立たせる力が正月にはある。

 お向かいの家の門に、我が家のそれよりも立派な門松が誇らしく立っている。松と竹が新春の空を指している。梅は家内の床の間に活けられているのだろう。

 松竹梅=めでたいもののしるしとして使われ「歳寒の三友」とされる。俗に三つのものの等級を示す符丁語でもあり(松)を最上位としている。大きさによる等級語だろうが、竹と梅を加えなければ(三友)には成り得ない。やはり三位一体で嘉例なムン(かりー・縁起もの)の代表と言えよう。
 大和芸能の中にも松竹梅を主題とした演目は多い。沖縄も例外ではない。言葉通り「松竹梅」と称する打ち組踊り(複数で演ずる踊り)がある。
 舞踊「松竹梅」は、大正元年(1912)。舞踊家玉城盛重(たまぐすく せいじゅう=1868~1945)によって振り付けられた。踊り手3人が頭に松・竹・梅を表す被りものをあしらって踊る。

 *松の踊り=曲は「揚作田節=あぎちくてんぶし」。

  歌詞=二葉から出じてぃ 幾年が経たら 巌抱ち松ぬむてい栄い
  <ふたふぁから んじてぃ いくとぅしが ふぃたら いわうだち まちぬ むていさかい

 歌意=針のように細い二つの葉が命を持ち、もう何年経ったのだろう。三百年か、いや、千年か。いまでは巌を抱いて盤石の大木を誇っている。年毎に春が来ればみどりの新芽を成す。この生命力と容姿に肖ろう。

 *竹の踊り=「東里節=あがりじゃとぅふし

  歌詞=肝ぬむてぃなしや 竹ぬ如とぅ直く 義理ぬ節々や 中に込みてぃ
  <ちむぬむてぃなしや だきぬぐとぅ しぐく じりぬ ふしぶしや なかに くみてぃ

 歌意=人間、心のありようは竹のように真っ直ぐであれ。そして、そのことは表に出してふるまうものではなく、竹の節と節の間に密かに込めて、ただただ実行あるのみ。人生の基本としよう。
 竹はイメ科イネ亜科植物。節と節の間は空胴。観賞用とする他、容器、生活用具などさまざまに加工されるのはご存知の通り。世界には約600種ほどあり、東洋諸国に豊富で西洋では東洋の国々を「竹の国」と称するそうな。したがって、竹を用いた慣用句も多々。
 *竹に油を塗る=(もともと表面の滑りがいい竹に油を塗って、さらになめらかにすることから)言い方、論じ方の巧みなさま。
 *竹を割った様=竹は縦にナタなど刃物を入れると(一直線に裂くことができることから)屈託、屈折、わだかまりがないことの形容。

 *梅の踊り=「赤田花風節=あかたはなふうぶし

  歌詞=梅でんし雪に ちみらりてぃ後どぅ 花ん匂い増しゅる 浮世でむぬ
  <んみでんし ゆちに ちみらりてぃあとどぅ はなん にうぃましゅる うちゆでむぬ

 歌意=梅の花は香り美しさを如何にして身につけたのか。それは冬の間、風雪に耐えて生きてきたからである。まし艱難辛苦を乗り越えてこそ、人としての花を咲かせることができるのだ。それが浮世と知るべきである。
 ‟梅は咲いたか桜はまだかいな~”という俗謡があるが、沖縄では桜(寒緋桜)が先で、少し遅れて梅が咲く。気象的風土のせいだろう。
 余談=「梅一輪一輪程の暖かさ」。服部嵐雪の句と聞く・(梅の花が一輪、また一輪と咲くにつれ、少しづつ暖かくなっていくさまを詠んでいるが、沖縄は平成30年1月1日現在、旧暦は霜月15日。冬に入ったばかりで、梅の便りにはまだまだ・・・・・。

 舞踊「松竹梅」は当初、三人の踊りだったが、意味合いを持つ歌と華やかな所作が評判をよくし、観客に受け入れられた。これに気をよくした舞踊家、舞台人たちは、さらに(おめでたい)鶴と亀を登場させて構成。玉城盛重の型は「揚作田節」「東里節」「赤田花風節」そして鶴亀が加わっての「夜雨節」「浮島節」であったが後年、盛重の甥・玉城盛義(1889~1971)が「黒島節」「そんばれ節<下原節>」に振付。現在の型になっている。
 この演目は大いに普及。いまでも村芝居や祝賀会などに披露される。松竹梅、鶴亀揃っての「扇づくしの場」は見どころのひとつ。日本舞踊の所作を取り入れたとされるが、大向こうからの喝采を欲しいままにする。

 年は明けた。
 ‟一年のまた始まりし何やかや
 人並みに1首をと思い立ったことだが、ビールの泡のせいか愚にもつかない狂歌となった。ご笑読あれ。

 ♪齢足らじ足らじ 恋足らじ足らじ 我身や世ぬ中ぬ 遊び足らじ

 歌意=人生というには年齢もまだまだ満足ではない。恋の数もまだまだ不足。せっかく生きた人の世でオレは、まだまだ遊び足りないワイ!お粗末。