旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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イーラーにご用心!

2015-06-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「そうか。もうイーラーの出る季節になったか。プールのない時代はよく刺されたなあ」。
 「俺なぞ1度は、イーラーの群れの中へ頭から飛び込んでね。顔面やら肩、胸、背中が真っ赤に脹れあがり、ひと晩中泣いたことがある。以来、10年余り、海には入らなかった」。
 「このごろのように、ちょっと行けばプールがあるという環境ではなかったからな」。

 幼馴染みで、いかにもウーマク(やんちゃ坊主)であったであろうと想像できるご老体ふたりが、ビール片手に夏を語っている。いま少し、彼らの会話をそれとなく聞いてみよう。

 「イーラーは、台風の接近前に大量発生する。それを親から教えられていても、よくまあ海へ出掛けたなあ。親に怒られるのは、端から承知の上でね」。
 「その注意をいま、俺たちが孫にしている。顧みれば、イーラーに刺されることよりも親たちは、、溺れることを懸念しての注意だった」。
 「中学校で一緒だったKクンがそうだったね。台風模様の海へ泳ぎに行き、波にのまれて・・・・そのままだった・・・・」。
 「実はそのとき、俺も一緒だった・・・・。ひとしきり泳いで浜辺に上がってはじめて、Kがいないのに気付いた・・・・」。
 ふたりは、お代わりをしたビールには手もつけず、ジョッキを見つめながら、遠い日へ思いを馳せているようだ。

 「イーラー」。クラゲの総称だが、彼らがいうそれはハブクラゲのこと。胴体は、ビニールででも作ったかのように透明で、丸みを帯びていて、それが波の色に溶けてきれいなのだが、20~30本と伸びた糸状の蝕手の先端に猛毒を有している。

 この夏。6月1日。県は本格的海水浴シーズンを控えて、ハブクラゲ発生注意報を発令した。
 期間は被害が多発する6~9月。
 県内の被害件数は、過去12年間平均125件で、多い年は200件を超えるなど、毎年多くの被害報告がなされている。遊泳する範囲にはハブクラゲ侵入防止ネットを張り、ネットの内側で泳ぐ防止策や、万一、刺された場合は、直ぐに食酢をかける対処法などを呼び掛けている。
 県によると、1997~98年にかけて6歳と3歳の女児が亡くなった事故を受け、未然防止の対策やその周知徹底などの体制を強化している。
 ハブクラゲは、6月ごろから人体に被害を与える大きさに成長する。
 2003~2014年のまとめによると、被害は81~208件。年間平均125件で推移している。2014年は128件報告され、うち侵入防止ネットの外側や未設置の場所は93件。年間被害の約73%を占めた。
 県は未然防止策として、①ハブクラゲ侵入防止ネットの内側で泳ぐ。②遊泳時の肌の露出をできるだけ避ける。③海に出掛ける際は、食酢を持参する。
 もしも刺された後の対応では、①こすらずに食酢をかけ、肌についたハブクラゲの触手を取り除いた後に氷や冷水で冷やす。②医療機関での治療などを呼び掛けている。

 「俺たちのころは、食酢なぞ貴重だったから持って行けなかった。シーバイ(小便)をかけたね。アルカリ性の中和作用だ。理屈にはかなっている」。
 「俺の場合、岩場から飛び込んだまではカッコよかったが、そこにはハブクラゲが群れていた。あっという間に触手が顔にからみ、激痛が走った。すぐさま浜に上がって、連れ立った仲間が俺の顔面に向けて一斉放尿だ。あのなま暖かさは、激痛の最中でも感じた。そのホースの1本はキミのものではなかったか?」。
 「俺はそんな失礼なことはしない!」。
 「いやいや。その時の行為は(失礼)ではなく、立派な医療行為だよ。ありがとう」。
 ビールのせいか、ホースに刺激があったのか、ひとりはトイレに立った。

 {くらげ}
 改めて辞書を引いてみた。
 *海中をただよう寒天質の生物体。かさ状や下面中央に口がある。かさの縁には多数の触手があり、触手には毒液をみたした刺胞がある。種類多々。エチゼンクラゲ、ビゼンクラゲは食用。漢字=水母。海月。
 *くらげ=定見のない人。
 *水母の骨=あるはずのないもの。または、珍しいもののたとえ。
 *水母雲=クラゲに似た形の雲。雲塊の下に毛状の尾をひく。巻積雲などに現れる。

 「沖縄のイーラーには、いまひとつ俗語があるのを知っているかい」。
 「知らないな」。
 「お主のようなスケベーを指す」。
 「おいおい!それはおたがいさまだ。お~い!ビールをくれ!ふたつ!」。
 ハブクラゲは一変して、青春の日のイーラーばなしに移行するらしい。



踊らせたかった・・・・むんじゅる節

2015-06-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「兄は15歳だった。村遊びの踊り手に選ばれるのが13歳だったと聞いている。昭和14、5年ごろ、日本の戦争は劣勢を極めていたが、そんなことは民間には知らされなかった。むしろ、太平洋各戦線で連戦連勝との報が、朝礼の校長先生からの口から聞かされた。兄たちは、戦局よりも秋の村遊びの踊りのことが頭の中を占めていた。字の区長も長老も“神国ニッポンが、鬼畜のような米英に負けるわけがない”と信じて疑わなかった。その夏も村屋では村遊びの吟味がなされていたくらいだ。それが・・・昭和19年になって、戦局が怪しくなり“今年・・・来年の村遊びは出来るかどうか”と囁かれるようになった。それでも兄は(むんじゅる節)が踊りたくて・・・・」。

 沖縄の舞踊には、各地で演じられた民族舞踊と宮廷でなされた専門家による舞踊。そして明治以降役者連が創作した雑踊(ぞうWUどぅゐ)がある。雑踊とは、宮廷舞踊に対して各地で歌われてきた島うたに振付けされた舞踊を指す。
 ひと節のものもあれば、ふた節を組み合わせたものもあり、さらに3~4節の組み合わせもあって、いずれも華やか。個人的祝事の宴でも気軽に舞われる。
 横道に逸れるが、数曲で舞う演目を2,3記してみよう。

 ※{松竹梅}
 大正元年(1912年)。舞踊家玉城盛重(たまぐすく せいじゅう=1868~1945)構成振付けによって初演。曲順*揚作田節(あぎちくてんぶし・松の踊り)*東里節(あがりじゃとぅふし=竹の踊り)*赤田花風節(あかたはなふうぶし=梅の踊り)。このあとに鶴亀が加わって*夜雨節(ゆあみぶし)総舞踊になって*浮島節(うきしまぶし)。しかし、後年、盛重の甥・玉城盛義(せいぎ=1889~1971)が黒島節(くるしまぶし)下原節(そんばれぶし)加えて一層、華やかな祝儀舞いになった。

 ※{高平良万歳=たかでーらまんざい}
 田里朝直(たさと ちょうちょく=1703~1773)作、組踊「万歳敵討=まんざいてぃちうち」の1場面を独立させた舞踊。曲順*万歳道行口節*万歳こうし*ふんしゃり節*せんする節。
 父の仇を討つ兄弟の物語。遊芸人「京太郎=ちょんだらー」に身をやつしての仇討ちだけに緊迫感があり、遊芸ありで見るものを飽きさせない男踊り。プロはもちろん、芸事の好きなものは、好んで踊っている。
 「村遊びの演目は、組踊も棒術も臼太鼓もすべてそれを演じた先輩に教えてもらう。つまり、後継ぎをするのが慣例。兄は“むんじゅる節”受け継ぎたくて先輩に教授を申し出たが、戦局は(どうやら日本軍の不利)がどこからか漏れ聞こえるようになった。村遊びどころではなくなってくる。それでも兄は“むんじゅる節”が諦められず、先輩の家に通い詰めたことだが・・・・」。

 ※{むんじゅる節}
 明治27年(1894)。玉城盛重の手になる雑踊の代表的な作品。*早作田節で舞台に登場。次いで*むんじゅる節*芋ぬ葉節*月ぬ夜節、もしくは*赤山節からなる。
 「むんじゅる」とは、麦の蔓(つる)のこと。男性用は山形、女性用は俗に言う(まんじゅう笠)で(平笠=ふぃらがさ)の名がある。産地としては那覇の西方に浮かぶ粟国島(あぐにじま)、本部町西方、これまた離島の瀬底島(せそこじま・方言=シーク)が有名。
 踊りは白の襦袢に芭蕉布を纏い、カンプウ髪型に白の鉢巻。手には竹のチーグーシ(短い竹棒)を持ち素足で出羽(んじふぁ・出の踊り)を平笠をかぶり、早作田節を踊る。
 
 ♪若さ一時ぬ通い路ぬ空や 闇ぬさく坂ん車とうばる
 〈わかさ ふぃとぅとぅちぬ かゆいじぬすらや やみぬさくふぃらん くるまとうばる

 歌意=恋をする女童が、思い人と忍んで行く道は、譬え闇夜の悪路であってもなんのその!荷車などが通るような平坦な道同様。足取り軽い。
 踊りはこのひと節でいったん休止。客席を背に笠を取り、片袖を抜いて本踊り「むんじゅる節・一名照喜名節」、入羽「芋ぬ葉節」になる。そして、テンポの早い「月ぬ夜節・もしくは赤山節」になって退場する。

 「戦後この方は、ほとんど女性が踊っているが、戦前の殊に村遊びの折には、美少年が踊っていた。美少年が化粧をしてアングァスガイ(姉さん装束)で登場するのだから、拍手を受けないわけはない。ワシがいうのもなんだが、兄は村の女童から色目を掛けられるほどのイケメン?美少年だったから「むんじゅる節」は、きっと大うけしたと思う。それが・・・・。出羽の早作田節をなんとか習い終おせたときに沖縄戦が始まった。兄は一家の食料である芋を堀りに畑に出ていたらしいが、グラマン機の掃射に合って惨死じてしまった・・・・。
 兄が切望していた「むんじゅる節」は「早作田節」だけで終わった。本踊りまでは届かなかった。少年の憧れの踊りさえ全うさせない戦争って何だろう。
 ワシは60歳すぎてから、歌三線を習った。それも「むんじゅる節」の4曲を集中的に・・・・ワシの歌三線で兄に踊らせみたくてね。以来、夏のお盆には仏壇に向かって、清明祭にはお墓の前で「むんじゅる節」を通しで弾き歌っているよ」。
 兄よりはるかに年上になった弟は目をしばたたせて語った。
 6月23日は、沖縄戦で逝った人びとの「慰霊の日」である。
 外は梅雨。しとしとと沖縄中を濡らしている。


蛍が飛んだ

2015-06-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「ほう。蛍が飛んだか!」
 夕食後、アイスクリームをなめながら、今朝は出勤準備のあわただしさの中、見出しだけを拾い読みした新聞をあらためて聞き見る。
 (夜空に飛ぶホタルショー・末吉公園で観察会・親子連れ楽しむ)の記事が写真入りで目にとまった。
 末吉公園は那覇市首里北側、儀保から大名(おおな)にかけての丘にある。組踊「執心鐘入=一名中城若松」ゆかりの地であり、作者玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん=1684~1734)の生誕地の碑がある。着けている甚兵衛の袖をちょっとまくって記事を2度読みする。

 自然環境の大切さを考えてほしいと、那覇市環境保全課は5月14日、末吉公園でホタルの観察会を開いた。親子連れなど38人が参加。発光して舞う成虫や、地面で光る幼虫を見ながらホタルの生態を学んだ。
 末吉公園では7種類のホタルが確認されているが、夜に飛び、発行するのはクロイワボタルとオキナワスジボタルの2種類。クロイワボタルが点滅しながら飛ぶのに対し、オキナワスジボタルは持続した光を保ちながら飛ぶ。4月中旬から12月ごろまで観察できる。

 日本には、45種ほどの蛍がいて、そのうち15種ほどが光を放つそうな。沖縄では13種が確認されていて10種が光を放つが、中には卵や幼虫のうちは光をもっていても成虫になると、光をあえて消してしまう種類もいるという。それなりの都合で生きているのだろう。
 主な種類はマドボタル、クシヒゲボタル、スジボタル、ミナミボタル、オバボタルなど。普通に見られるのは末吉公園の例のようにオキナワスジボタル、クロイワボタルなどだが、所によってはヤエヤマヒメボタル、オオシママドボタル、サキシママドボタルなどがいるそうな。

 英語では蛍をファイヤーフライというらしい。火の蠅?燃えて飛ぶ虫?(何とも味気ないなぁ)。日本語では別名ホタロ、ナツムシ、クサムシなどがあり、季節を運んでくれるというのに・・・・。
 沖縄語はどうか。
 蛍の直訳で(フタル)だが、古語ではジーナー。幼児語ではジンジンという。
 蛍狩りを歌った童唄♪ホーホー ホタル来い あっちの水は苦いぞ こっちの水は甘いぞ ホーホー ホタル来い♪と、内容を同じくする歌が沖縄にもある。
 ♪ジンジン ジンジン 酒屋の(さかや)ぬ水飲でぃ 落てぃりよー ジンジン 下がりよー ジンジン♪
 これである。「水飲でぃ」を「水喰てぃ」とも歌う。また「酒屋」を「壷屋=ちぶや」に置き換えることもある。酒造りも焼き物も水質がよく、水量豊富な地でしか生産できない。きれいな水を好むホタルが酒屋、壷屋のある湧水を命の場にしたことは理にかなっている。
 一時期。蛍の光がそうそう見られなくなったことがある。生活用水、農薬、開発などで生息地を汚染された結果である。しかし、ここ20年30年ほど間から、各地で清流を蘇生させる努力がなされ、久米島はじめ八重山、宮古、島尻、中頭、国頭の川辺に(蛍の群舞)を見ることができる。失った自然は努力すれば取り戻せるのだ。
 ちなみに蛍の宮古語はピカヤー。八重山語=ジンジンハレー。パーヤー。各地に呼び名があるようだ。

 蛍は、神秘的でありながら、そのか細い光のせいで「はかない」「せつない」ことに例えられる。
 *蛍の恋=成就しそうもない恋。
 *蛍の火=わずかばかり残った火。
 *蛍の命=余命いくばくもないさま。
 いかにも日本的で美しい表現を成している。

 琉歌の中の恋歌にも数多く登場している蛍。

 ◇当てぃん無んむんぬ 飛び回る蛍 露の草陰に宿る苦りしゃ
 〈あてぃんねん むんぬ とぅびまわる ふたる ちゆぬ くさかじに やどぅる くりしゃ

 歌意=(思う人に)逢えるあてもないのに(夜通し)飛び回っている蛍よ。今夜はひとり、露草の陰で夜を明かすのだろう。苦しかろう。せつなかろう・・・・。

 ◇寝屋に入る蛍 恋惑いしちゃみ 蚊帳に入り蛍 共に居らな
 〈にやにいり ふたる くいまどぅい しちゃみ かちゃにいり ふたる とぅむに WUらな

 歌意=我が寝所に入ってきた蛍よ。思う人に逢えず心惑いをしているのか。せつなかろう。私自身も同じだ。さあ、蚊帳の中にお入り。共に居て慰め合おう。
 「そうか。蛍が飛んだか」。
 いま1度つぶやき、新聞を閉じ、すっかり暗くなった庭に下りて、煙草に火を点ける。吸っては吐くたびに煙草の先が淡く点滅する。ホタル族と呼ばれて久しい・・・・。