旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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チャメ!チャメ!おきなわ!ビバ!ビバ!ボリビア!

2014-11-19 22:05:00 | ノンジャンル
 黄色いイペーの花は、県内各地でみられる。
 イペーはノウゼンカズラ科。高さ30メートルにも達するブラジル原産の落葉高木。ブラジルの国花にもなっている。サッカーのブラジルチームのユニフォームが黄色なのは(国花イペー)い因んだものではないかと思われるがどうか。
 一世紀以上前に、沖縄からブラジルはじめ、南米各地に移民した県系人との交流は、ほとんど成されていなかったが戦後、それが復活。それらの経済、文化交流の中で県と地元企業オリオンビール(株)らによって移入されたイペー。いまでは、沖縄の青い空に溶け込んで、昔からそこに咲いていたかのように見る人の心を癒している。
 「交流地から持ち帰る記念物は、特定の場所にしか設置できないが、植物は一度根を下ろしたら永久に命をつなぐ。イペーの花が傍にある限り、沖縄人は南米各地に移住している(兄弟たち)を失念しない」。
 イペーを移入植栽した関係者の弁である。

 南米移民地。
 ボリビアもそのひとつである。
 「ボリビアとひと言で言ってのけているが、かの国はいかなる成り立ちなのだろうか」。
 ふと思い立ち、またぞろ牧英夫編者「世界地名・ルーツ辞典」を開いて見る。
 {ボリビア}
 南アメリカの共和国。1535年、スペイン人ピサロに征服されてから、スペイン植民地となり(上部ペルー植民地)と呼ばれていた。19世紀にはいると、スペインからの独立運動が強まり、コロンビア共和国から革命運動家が誕生し「新共和国ボリビア」と名付けられた。
 「ボリビア」は、この独立運動の指導者シモン・ボリバルの名に、地名接辞イア(ir=地方・国)を付けて国名にしたものである。独立後、ボリバルは名誉大統領になった。

 ボリビアへの移民はどう始まったのか。
 手元の資料に頼る。
 記録に残る最初に日本人は、明治32年(1899)ソレタ地区へペルーなどから転住した91人。県人では、1910年、リベラルタ地区に転住した首里出身・八木宣貞ら30人であった。
 日本からの直接の移民は、大正5年(1916)の(呼寄移民)に始まり、計画的な集団移民は、昭和29年(1954)6月、那覇港出発の第1次ボリビア移民を初めとしている。これはボリビア居住の県出身者移民の発案と復帰前の琉球政府及びボリビア政府の協力、米国政府の支援を得て実現。募集は同年3月に開始されたが、募集要項には次のような条件が付いていた。
 ◇希望者は心身ともに健全であること。
 ◇家族移民は2人以上で労働能力を有すること。
 ◇単独移民は16歳から40歳とし、沖縄に残る家族が生計に支障をきたさず、当分の間は別居し得る農業者であること。
 ◇いずれも5年以上、移住地に定着し得ること。
 選考は出身市町村と海外移民送出計画審議会が実施。約4000人が応募した。渡航費の負担が困難な者には[移民金庫]から融資を受けた。
 ところが、(うるま移住地)と名付けられた最初の地域は、まったく手つかずのジャングル。河川の氾濫による水害、熱病の発生。死者も出、近隣地へ再三の移動を余儀なくされた。
 「われわれは琉球政府、移民会社に見捨てられた!遠国に放り出された。これが実感だった。中には単独でこの地を逃亡。いまもって消息が知れない者もいる」。
 これは当時の移民者の回顧談。こうした生死を繰り返しながらも初期のボリビア移民はようやく現在のオキナワ第1移住地に定着。その後も移民の入植は続き、第2、第3オキナワを創設するに至っている。集団移民は、1964年の第19次までに計3221人を数え、それ以降は{呼寄移民}が多く、県系人に限って言えば「第2の沖縄・もうひとつの沖縄」と、誇らしく呼称している。

 話は、いきなり身近になるが・・・・。
 現在、嘉手納小学校教師の金城睦治君は、小生共々、北村三郎芝居塾「ばん」なる集団で沖縄語、日本語等の「ことばの勉強会」の仲間である。
 彼は自ら志願して平成24年4月から1年間、ボリビアサンタクルス県のオキナワ移住地第二地域のヌエバ・エスペランサ小中日本人学校へ県派遣教師として教鞭を執ってきた。彼の赴任の折り、勉強会の仲間たちは、かの地の県系の生徒たちへ(土産)を託することにした。これはモノにあらず。新作「チャメ!チャメ!おきなわ・ビバ!ビバ!ボリビア!」と題する(島うた)。三線による軽快な歌に仕上がった。作詞金城睦治。作曲大城貴幸(南風原高校勤務)。合唱及び振付け「ばん」メンバー。すぐにDVD化して(土産)とした。
 今年に入って勤務を終えて帰沖した金城睦治のもとへ、1本のDVDが届いた。それにはボリビア日本人学校の学芸会で土産の歌を、沖縄から取り寄せた三線や手作りの三線を弾き、踊りを付けて披露している子どもたちの姿が収録されていた。

 ブラジルから移入したイペーは、沖縄に根付き、沖縄内の遊び心でできた歌は、ボリビアの子どたちの唇に乗っている。イペーの花を見るたびに南米に生きる県系人に思いを馳せ、金城睦治と逢うたびにボリビアの子どもたちや父兄の暮らしぶりを語り合う・・・・。花も歌も人と人の絆に成り得る。そう自己満足している昨日今日である。

「チャメ!チャメ!おきなわ・ビバ!ビバ!ボリビア!」
 
 一、沖縄(うちなー)離(はな)りやい 苦労(くろう)また凌(しぬ)じ 
   今(なま)やボリビアに 花(はな)ゆ咲(さ)かち
 ※チャメ!チャメ!おきなわ ビバ!ビバ!ボリビア!

 二、一(ちゅ)鍬(くぇー)から二(た)鍬(くぇー) 拓(ひら)ちちゃる故(ゆい)に
   OKINAWAぬ呼(ゆ)び名(な) 地図(ちず)に残(ぬく)ち
    ※チャメ!チャメ!おきなわ ビバ!ビバ!ボリビア!

 三、唄(うた)や三(さん)線(しん)に 沖縄(うちなー)誇(ふく)やびら
   愛(かな)さする心(くくる) 世界(しけ)や一(ふぃとぅ)ち
    ※チャメ!チャメ!おきなわ ビバ!ビバ!ボリビア!

 四、幾年(いくとぅし)ゆ経(ひ)てぃん 変(か)わるなよ心(くくる)
   元祖(ぐぁんす)拝(あが)みとてぃ 世(ゆ)果報(がふ)願(にが)ら
    ※チャメ!チャメ!おきなわ ビバ!ビバ!ボリビア!

 


髭の変遷・その効用

2014-11-10 00:10:00 | ノンジャンル
 髭を剃ることから1日がはじまる。
 けれども、外出をする必要がない土曜日、日曜日は伸びるままにしている。いや、あえて剃らない。と言うのも6人いる孫のうち、11月6日に晴れて満1歳になった男児の孫が顔を見せるからだ。何にでも興味を示す彼が我が家に入ると同時に爺の膝に這いあがり、小さな手のひらで無精ひげをなぞるのを楽しみにしている様子だからだ。ひとしきりなぞらせた後、彼の頬に髭面を寄せて軽く頬ずりをしてやる。すると、くすぐったいのだろう、期待通り奇声をあげて笑う。爺にはその笑い声がたまらなく嬉しく、至福の時を過ごすのである。
 そもそも(髭)とは何か。
 辞典には「顔の下半分にはえる毛」とあり、その形と効用は時代によって変遷があるようだ。日本では古くは生えるに任せてたくわえてたが、仏教が伝来してから(髭を剃る)習慣が広まったとされる。なるほど、髭を生やした仏様は1体もない?しかし、その後の世の中のありようによっても髭の流行には盛衰があった。戦国時代の男たちは剛健と権威を誇示するために、こぞって髭を蓄え「出世の条件」のひとつに挙げられたという。つまり、髭の生えない男は出世をしないとまで言われたそうな。それも天下が統一された江戸時代になると、上も下も髭を剃るようになるが、藩政を廃止、県政を置く明治時代になると、再び復活。欧州にならって政府高官が髭を伸ばし、それは上流社会や軍人、文人、教育者にまで及び、社会的活動をする男は大方、髭を伸ばした。知事、議員、市町村長、校長、警察署長、社長・・・・。その名残りは戦後まで見られた。因みに、私の祖父も父親も特別職にあったわけではないが、ちょび髭を蓄えていた。

 髭を蓄える。
 それは琉球王府時代も変わりはなかったようだ。
 御主加那志(うしゅがなしい・琉球国王)以下、政治の表舞台にある方々は、皆と言っていいほど髭(沖縄語ではフィジ・ひじ)を生やしていた。いまに残る肖像画や似顔を見るとそれがわかる。それにも階級と身分の上下があって、時代によって異なるが、まず、14,5歳になって王府に出仕する士族の子弟は、二十歳になるのを持って、鼻の下に(八の字髭)を形よく生やし、それを右に(一髭・ちゅふぃじ)左に(二髭・たふぃじ)と数えた。
 やがて昇進して、現在の政府高官に相当する職位、筑登之(ちくどぅん)、その上の親雲上(ぺーちん)の官位になると、二髭に加えて顎髭を伸ばす。これで髭の数は三髭(みふぃじ)。さらに出世して国王の側近となり直接、国政に携わる親方(うぇーかた・大臣級)になると、左右のもみあげの下部に円形に近い髭を残した。これで五髭(ぐふぃじ)。国王も五髭である。しかも「三司官・さんしかん」という親方の中でも最高職位に就いたものは、堂々たる五髭を権威ある実力者であることを示した。
 「髭の生えない男は出世しない」とまでいわれ、高職にありながらもフィジモー(無毛体質)の者は、城内でもいささか劣等感を養ったという。それを裏付ける狂歌を1首。
 
 ◇花ぬ御話や 御城内御免 髭ぬ御話や 天下法度
 〈はなぬ うはなしや ぐしくうち ぐみん フィジぬ うはなしや てぃんが はっとぅ

 花はフラワーにあらず。女性を示す。したがって、その話しとは(色恋ばなし)。
 歌意=厳粛をもって成す宮廷内においても色恋ばなし、艶ばなしは大いにやってよし。しかし、髭の話はやってはいけない。天下の法度ごとである。なぜなら上役の中には無毛の御方がいる。髭の話をして、その上役の機嫌を損なうと、己の出世にも支障をきたす。くわばら!くわばら!

 いま1首。
 
 ◇面やくぁんくぁんとぅ 髭やただ三筋 三筋ある髭や 慶良間向かてぃ
 〈ちらや くぁんくぁんとぅ フィジやただミシジ ミシジあるフィジや キラマんかてぃ

 *くぁんくぁん=堂々としたの擬態語。*ミシジ=極端に少ないの意。*キラマ=首里那覇の西に位置する離島慶良間島。
 歌意=その男。面構えは実に堂々たるものだが、フィジモーなのに、無理して髭を生やしている。その髭たるや、薄い上に細く少ない。そのせいで風が吹いても、そよとなびいて慶良間の方向に流れている。なんとおかしな態であることか。
 意地悪な上役を皮肉ったものか。実力もないのに空威張りをしている御仁を笑い飛ばしたのか。とかく愉快な狂歌である。虐げられた庶民のささやかな抵抗の歌ともとれる。

 読者諸賢がこれから沖縄芝居、殊に史劇を感激する場合、登場人物の髭の有り様を数えてみるがいい。その人物の階級・官位が容易に把握できるであろう。

 さてさて。
 昨今、髭を生やした若者が多く見受けられる。彼らは何を主張しているのか。何を体現しているのか。理由を聞いてみたい。それぞれの思惑を聞くことができるに違いない。
 爺は孫が奇声をあげる笑顔を心待ちにして「早く来い!来い!土曜日、日曜日」と、即興のメロディーを口ずさみながら、顎をなでている。