旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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唐ぬ世・大和世・アメリカ世

2015-08-20 00:10:00 | ノンジャンル
 ♪唐ぬ世から大和ぬ世 大和ぬ世からアメリカ世 珍らさ替わたる くぬウチナー

 終戦から10年ほど経った昭和31、2年頃、風狂の歌者故嘉手苅林昌は、世替わりのさまをこう詠み「花口説・一名花街口説」に乗せて歌った。節名を「時代の流れ」と称する。
 「世替わり」とは、外からの力によって沖縄の世の中が変わってしまうことをいう。
 大正9年生。兵役で南洋諸島を転戦。奇跡的に生還した嘉手苅。生まれ島越来村仲原(現・沖縄市)は、嘉手納基地化して入れず、基地の街コザの集落を二転三転の暮らしを余儀なくされていた。それだけに戦後の世替わりは、生々しく実感されたのだろう。
 歌意=大昔は唐(中国)との親交で栄えた「唐の世」。明治になって日本国の1県になった「大和の世」になり、戦争に負けて今度は「アメリカ世」。なんとも珍しいほどの世替わりを強いられる沖縄。これからどんな世が待ち受けているのか。「珍らさ=みじらさ」を「うすまさ=物凄く」と歌うこともある。

 ◇唐ぬ世。
 琉球方言の「世・ゆう」は、為政者の直接的支配を意味する。南海に位置し、東西への貿易中継地としての有効性に着目した中国は、琉球王国成立以前から琉球を傘下に置く外交政策を推進。これを実現した。
 琉球王国第一尚氏初代の尚巴志王(1372~1439)は、中国皇帝から認定を受け、琉球の最高権力者「琉球の世の主」を内外に示した。つまり、歴史上言われるところの「冊封」である。こうした「唐ぬ世」は、中に薩摩の支配下に置かれながらも、明治12年まで続いた。仮に尚巴志時代から数えても600余年。
 日本では300年余続いた江戸幕府が倒れ明治政府樹立。それに伴い、廃藩置県の国体を目指し、琉球は「沖縄県」の世替わりへ・・・・。
 いわゆる「大和ぬ世」へ替わって行く。

 ◇大和ぬ世。
 琉球国は明治政府によって一時「琉球藩」を名乗り、他県並みの「県」を成立させた。琉球国を沖縄県にするのに12年3ヶ月を費やしているのは、唐ぬ世、薩摩傘下の諸行政を整理するためで、世に言う「琉球処分」である。
 沖縄で言う大和(ヤマトゥ)とは、広義には日本本土をさす言葉だが、古くは薩摩のことを言い、江戸時代には幕府をさして大大和(ウフヤマトゥ)と称した。語源は薩摩の国府があった川内地方の山門院(やまといん)によるものという説と朝廷があった近畿地方の大和の国によるという説がある。その名残としている。現在でも、本土に行くことを「ヤマトゥに行く」。本土人を「ヤマトゥんチュ(人)。本土産を「ヤマトゥムン(物)」などなどと普通に言っている。
 かくて大和世になり、沖縄県の首長に就いたのは県令心得木梨精一郎。明治12年3月27日から4月4日までのわずか9日間の在任だった。実質的県令初代は鍋島直彬で明治12年4月4日~明治14年5月18日の在任約2年間。5代目大迫貞清は明治19年4月27日~同年7月19日の3ヶ月の在任。しかし大迫貞清は官選知事制となった明治19年7月19日には初代知事として就任するが、これもまた明治20年4月14日までの9ヶ月の在任だった。中には官選されたものの沖縄県赴任を「沖縄行きは都落ち」として拒否。沖縄の地を踏まなかった人物もいた。
県政は県令心得1代。沖縄県令5代。沖縄県知事23代で運営されたが、最後の県知事は島田叡。昭和20年1月12日就任、同年6月の定かでない日、沖縄地上戦で本島南部の定かでない場所で戦死したとされる。ヤマトゥ世の首長はすべて(大和人)。66年にわたる(大和世)だった。そして終戦。沖縄はアメリカ世へ。

 ◇アメリカ世。
 昭和20年6月23日沖縄戦終結。同年8月15日、日米戦争の終結が天皇陛下によって告げられた。米軍統治下のこと、生き残った沖縄人は歓喜した。
 「これで元の大和の世になる!」
 このことであった。しかし、日本国の独立は、沖縄を本土と切り離し、アメリカの統治下に置くことを条件にした独立であった。この「アメリカ世」は、昭和47年(1972)5月15日、沖縄住民の決死の戦いによって「日本復帰」を勝ち取るまで27年間の長きに及んだのである。
 知事・主席も米軍政府の(任命)から、県民投票による(公選)になったことだが、米軍基地は依然として撤去されず、逆に(拡大)の感があるのは読者賢氏が衆知のことだろう。
 「アメリカ世」は、まだ続いている。

 冒頭の「時代の流れ」に最近、こんな歌詞が付け加えられた。

 ♪大和ぬ世んでぃ 思むたしが アメリカ世や なま続ち 何処にが流りら くぬウチナー

 歌意=日本復帰して純然たる大和世になったと思ったことだが、アメリカ世からの脱却未だ成らず継続。この分だと沖縄はどこへ流されるのだろう。

 戦後70年。アメリカ世が始まったあの日も、戦火を免れた木々では、ジージャー(蝉)が騒ぎ鳴く猛暑の日だった。



酒のまわりの話

2015-08-10 00:10:00 | ノンジャンル
 春は花見酒。夏は暑気払い。秋は月見酒。冬は雪見酒。
 まあ、雪の降らない沖縄は、冬は冬でなにかと理屈をつけて盃をまわす。酒を飲む理由の最たるものは(WUタヰのぉしー)だそうな。疲れ直し・疲れ治しだ。かく云う小生からがして、酒飲みイェージュー(酒飲み仲間)に電話してでも、疲れていなくても3日にあけず飲んでいる。理屈と膏薬はどこにでもくっ付くからいい。アルコールが腹にいきわたって出る話は、箸にも棒にもかからない無駄ばなしが主。時には覚えておいて後日、誰かに話したい蘊蓄もある。

 ◇本土の酒造所、それも昔からの酒屋には杜氏たちが歌う“酒造り唄”が多く、京都、神戸などには100節以上のそれが残っているという。
 ◆仕込みは重労働らしいから、歌うことによって、心をいさめたのだろうな。そうした労働唄は、沖縄にもある。いやいや、ロシアの“ボルガの舟唄”も川上へ上げる、舟の両側にロープを繋げ、皆して曳いた“舟曳き唄”だからね。労働唄は世界中、どこにでもあろうよ。
 ◇ところが日本の“酒造り”にはもっと実質的な役割があった。
 ◆ほう~。攪拌(かくはん・掻き混ぜる)するモロミに杜氏の魂を吹き込もうとでも云うのかい。
 ◇それもあろうが、実は歌を時計代わりにした。酒造り唄のひと節の長さが何分かかるか。それによって最良の攪拌時間を割り出したというのだよ。
 ◆なるほど。モロミも生きものだから、短くても長くてもいけない。杜氏の勘による時間を設定したわけだ。
 ◇昔は時計が一般的に使われていたわけではないからね。しかし、歌はすべて同じ長さではない。そこで長い歌短い歌と、それも即興で唇に乗せて歌い、時間調整をした。そこで“酒造り唄”“酒屋唄”にはハイテンポのそれはない。わりかし、話し掛けるような、ゆったりとした歌が多いとされる。
 ◆杜氏は真剣なのだろうが、歌を時計がわりにするなんざぁしゃれているね。そう云えばオレも5分を待つのに八重山の歌“とぅばらーま”を歌うことがある。“とぅばらーま”は、三線の歌持ち(うたむち。前奏・間奏・後奏)や相の手を入れると、1コーラス1分40秒ほどだから、3コーラス歌えば持ち時間が埋まる。歌は長短、テンポ。各種知っていたほうがいいね。

 話を肴にして飲む酒は旨い。が、しくじりも多々ある。そのせいだろう酒に関する金言・諺は多い。
 東京堂出版・北村幸一編「世界のことわざ辞典」の(飲食)の項目に、ブルガリアの諺を見つけた。いわく。
☆酒。1杯目は健康のため、2杯目は喜び、3杯目は心地よさ、4杯目は愚かさのため。
 したりっ!1杯目の酒はお互いの胴頑強さ(どぅ ガンジューさ。健康)を祝して乾杯し、2杯目は何か吉事を喜び合い、3杯目は心もはずみ、いい話し合いをなし、4杯目ともなると酔いが昂じて遇にもつかないことになる。
 このことは小生も経験済みで納得。さらにエチオピアには、
 ☆1杯目は心を燃やし、2杯目は心を冷やし、3杯目はいさかいを生み、6杯目は剣を抜かす。
 これまた、重々納得。いずれも「1杯は人、酒を飲む。2杯目が酒を飲む。3杯は酒、人を飲む」と同様の趣向で、酒の効用を説くとともに飲み過ぎを戒めていると云えよう。

 ◇酒の1杯目の心地よさにつられて、飲み過ぎには(ついつい)がついて回るからね。いかんともしがたい。
 ◆その飲み過ぎを抑制しようと、宮古島ではモノによる適量飲酒宣言をした。新聞報道によるとこうだ。

 適量飲酒を呼び掛け、酒がらみの事件、事故防止を図る「美ら酒飲み=かぎさきぬみ=運動を市民に広く浸透を図ろうと、宮古島署(瑞慶山力署長)が、リストバンドとポスターを制作した。1個100円で発売し、売り上げは宮古島地区防犯協会を通じ、共同推進運動の資金に充てる。リストバンドの売り上げは7月5日時点で1381個に上がっている。同署は現在、運動を推進する市内の団体に宣言文を提出してもらったり、各団体、機関に出向いて講話を開催するなどしている。これまで18団体約600人が(適量飲酒)を宣言した。同署の瑞慶山所長は「息の長い運動を展開し、深酒をしないとういう意識をさらに広めていきたい」と語った。

 ◇酒は飲んでも手首のリストバンドを見て、盃を置く勇気を持とうというわけだな。大した精神力を発揮しなければならないぜ。
 ◆胸にズシッときて賛同するものがあったので、宮古島署の担当者に電話してみたよ。所轄外の者でも、リストバンドは入手可能かとね。電話の向こうからは“どうぞ”の声。電話番号を教えてくれた。問い合わせは宮古島地区防犯協会=0980‐73‐7540番だ。キミもリストバンドを購入して、美ぎ酒飲みになったらどうだい。
 ◇う~ん・・・・。
 なにしろ夕刻になると巷のあちこちに冷えたビールジョッキを染め抜いた幟が“おいで!おいでとはためいている。これを無視して、その前を通り過ぎるのは辛い!されば、酒を飲み、酒に飲まれぬよう心して、疲れ直しの幾杯かを渇いた喉を通過させようか。

 

台風のあとさき

2015-08-01 00:10:00 | ノンジャンル
 近辺の木立で野鳥が鳴き始めた。
 7月。9号・10号・11号と連れだって発生したトリプル台風の内の9号は、まるまる2日間、沖縄全域を弄び北西に去った。暴風域もさることながら、強風域が広く、しかも足がやや遅いとあって往生。トリプル台風は2年ぶりのことだそうだ。
 台風の通り道。台風銀座というありがたくない呼称まであって、毎年夏は(風)と対決しなければならない。
 強風を(風吹ち=かじふち)と言い、暴風を(大風吹ち=うう かじふち)と呼び分けているが、その中から生まれた慣用句・諺も少なくない。

 ◇風ん吹けー返しぇー無に!=カジんふけー けーしぇー ねーに
 直訳すれば「大風が吹けば、返し風はないか!かならずある」。ということになる。台風の目から抜け出すと、いままでの暴風がウソのようにおさまり、太陽が顔を出すこともある。それで、台風が去ったと思ってはならない。その後、風は方向を変えてさらに吹く。つまり、返し風だ。気象条件によっては、この返し風が強い場合がある。「風ん吹けー返しぇー無に」の意味するところはなにか。
 台風に限らず物事全般、成し終えたと思っても、その結果を確認するまでは、気をゆるめてはいけないと教えている。私事に過ぎるが、小生の放送屋家業をしてからがそうだ。台本を書き、素材を揃え、打ち合わせをしてオンエアに入る。「ここまで楽勝!」と、安心したとたんに、機材不都合が生じたり素材が不良だったりと、何が起きるかわからない。放送はエンディングの挨拶をし、次の番組の始まりを確認してはじめて(終了)となる。つまり(返し風)が去ってはじめて台風(仕事)の終息としなければならないのである。台風対策の手抜きから幾度被害を被ったことか。順調な番組の進行に気をゆるめて幾度、不体栽な放送をしたことか。「風ん吹けー返しぇー無に」の教訓を活かしきれなかったことが多々あった。物事には、作用があれば反動がある。

 台風が「行政施設」を移転させた例がある。
 昭和24年(1949)7月23日。沖縄を直撃した台風グロリアは、風速43.8メートルの猛威をふるった。当時、知念村(現・南城市)の高台にあった民政府の庁舎がまるまる吹き飛ばされた。なにしろ、終戦まもなくのこと。庁舎はトタン萱き。総務部、社会事業部、官房関係の重要書類が水浸しになったり、紛失する始末だった。それを契機に民政府庁は那覇市上之山に移転することになった。
 沖縄民政府は石川市東恩納(現・うるま市)に設置されていたが、軍政府の知念村への移転に伴い、民政府も同行、台風被害にあった。
 沖縄側としては「行政の中心は離島との関係上、戦前のように(那覇)にあるべき」と主張していたが、軍政府は受け付けずにいた。そこへグロリア台風である。軍政府はようやく沖縄側の要請を聞き入れ、庁舎の那覇移転に踏み切ったという。
 もし、建物が現在のように強固だったならば、民政府は知念村に存続したやも知れない。いや、現在の県庁も南城市にあり、行政の在り方も異なっていたことだろう。終戦直後の世相を知る貴重な台風余話。
 その詳しい経緯は琉球政府第二代行政主席・当間重剛(とうま じゅうごう=明治28年~昭和46年(1895~1971)=著「当間重剛・回顧録」に記載されている。

 当間重剛。
 那覇市若狭町出身。那覇市長・琉球上訴裁判所主席判事・行政主席を歴任。
 大正2年(1913)沖縄県立第一中学校卒業後、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学に進み、法律を専攻した。戦前は父・重慎(じゅうしん)のあとを継いで那覇市長に。戦時中は大政翼賛会の沖縄県支部長に推挙された。戦後の一時期、公職追放の形で糸満地区に蟄居していたが、その経歴、経験と信望により裁判所判事に起用され、昭和24年12月、沖縄民政府行政法務部長に。ついで米国民政府告第12号「琉球民裁判所制」が施行されると民政長官から琉球上訴裁判所判事に任命された。
 昭和28年(1953)11月、那覇市長又吉康和(またよし こうわ)の急死に伴う市長選挙に出馬して当選。任期中に琉球政府初代行政主席・比嘉秀平(ひが しゅうへい)逝去。第二代目に任命されている。
 米軍が接収した土地問題に取り組む一方、市長時代に那覇・首里・真和志の3市を合併、大那覇市建設を推進。座右の銘は「自尊にして謙譲」。泡盛をこよなく愛したことでも有名。享年75歳。因みに弟重民(じゅうみん)も政界にあり、那覇市長を務めた。那覇市前島に住まいしたことから、その地を一時「重民町」と称した。

 おや?台風ばなしはいずこへ・・・・。
 海鳥が陸地へ飛んでくると(台風接近の兆し)であり、農漁村では気象台の注意報にさきがけて対策を始める。もちろん、海人(うみんちゅ=漁師)は出漁を控える。けれども、他府県からの観光客の中には、海鳥の注意喚起にも気付かず海に入り事故に遭遇する例が多い。
 「海ねぇ慣りり 侮るな!=」「海には慣れ親しめ。決して侮るな」。沖縄人は、このことを知っている。沖縄を愛してくれるあなた。このことを会得して今年の長い夏の海を楽しんでいただきたい。