♪唐ぬ世から大和ぬ世 大和ぬ世からアメリカ世 珍らさ替わたる くぬウチナー
終戦から10年ほど経った昭和31、2年頃、風狂の歌者故嘉手苅林昌は、世替わりのさまをこう詠み「花口説・一名花街口説」に乗せて歌った。節名を「時代の流れ」と称する。
「世替わり」とは、外からの力によって沖縄の世の中が変わってしまうことをいう。
大正9年生。兵役で南洋諸島を転戦。奇跡的に生還した嘉手苅。生まれ島越来村仲原(現・沖縄市)は、嘉手納基地化して入れず、基地の街コザの集落を二転三転の暮らしを余儀なくされていた。それだけに戦後の世替わりは、生々しく実感されたのだろう。
歌意=大昔は唐(中国)との親交で栄えた「唐の世」。明治になって日本国の1県になった「大和の世」になり、戦争に負けて今度は「アメリカ世」。なんとも珍しいほどの世替わりを強いられる沖縄。これからどんな世が待ち受けているのか。「珍らさ=みじらさ」を「うすまさ=物凄く」と歌うこともある。
◇唐ぬ世。
琉球方言の「世・ゆう」は、為政者の直接的支配を意味する。南海に位置し、東西への貿易中継地としての有効性に着目した中国は、琉球王国成立以前から琉球を傘下に置く外交政策を推進。これを実現した。
琉球王国第一尚氏初代の尚巴志王(1372~1439)は、中国皇帝から認定を受け、琉球の最高権力者「琉球の世の主」を内外に示した。つまり、歴史上言われるところの「冊封」である。こうした「唐ぬ世」は、中に薩摩の支配下に置かれながらも、明治12年まで続いた。仮に尚巴志時代から数えても600余年。
日本では300年余続いた江戸幕府が倒れ明治政府樹立。それに伴い、廃藩置県の国体を目指し、琉球は「沖縄県」の世替わりへ・・・・。
いわゆる「大和ぬ世」へ替わって行く。
◇大和ぬ世。
琉球国は明治政府によって一時「琉球藩」を名乗り、他県並みの「県」を成立させた。琉球国を沖縄県にするのに12年3ヶ月を費やしているのは、唐ぬ世、薩摩傘下の諸行政を整理するためで、世に言う「琉球処分」である。
沖縄で言う大和(ヤマトゥ)とは、広義には日本本土をさす言葉だが、古くは薩摩のことを言い、江戸時代には幕府をさして大大和(ウフヤマトゥ)と称した。語源は薩摩の国府があった川内地方の山門院(やまといん)によるものという説と朝廷があった近畿地方の大和の国によるという説がある。その名残としている。現在でも、本土に行くことを「ヤマトゥに行く」。本土人を「ヤマトゥんチュ(人)。本土産を「ヤマトゥムン(物)」などなどと普通に言っている。
かくて大和世になり、沖縄県の首長に就いたのは県令心得木梨精一郎。明治12年3月27日から4月4日までのわずか9日間の在任だった。実質的県令初代は鍋島直彬で明治12年4月4日~明治14年5月18日の在任約2年間。5代目大迫貞清は明治19年4月27日~同年7月19日の3ヶ月の在任。しかし大迫貞清は官選知事制となった明治19年7月19日には初代知事として就任するが、これもまた明治20年4月14日までの9ヶ月の在任だった。中には官選されたものの沖縄県赴任を「沖縄行きは都落ち」として拒否。沖縄の地を踏まなかった人物もいた。
県政は県令心得1代。沖縄県令5代。沖縄県知事23代で運営されたが、最後の県知事は島田叡。昭和20年1月12日就任、同年6月の定かでない日、沖縄地上戦で本島南部の定かでない場所で戦死したとされる。ヤマトゥ世の首長はすべて(大和人)。66年にわたる(大和世)だった。そして終戦。沖縄はアメリカ世へ。
◇アメリカ世。
昭和20年6月23日沖縄戦終結。同年8月15日、日米戦争の終結が天皇陛下によって告げられた。米軍統治下のこと、生き残った沖縄人は歓喜した。
「これで元の大和の世になる!」
このことであった。しかし、日本国の独立は、沖縄を本土と切り離し、アメリカの統治下に置くことを条件にした独立であった。この「アメリカ世」は、昭和47年(1972)5月15日、沖縄住民の決死の戦いによって「日本復帰」を勝ち取るまで27年間の長きに及んだのである。
知事・主席も米軍政府の(任命)から、県民投票による(公選)になったことだが、米軍基地は依然として撤去されず、逆に(拡大)の感があるのは読者賢氏が衆知のことだろう。
「アメリカ世」は、まだ続いている。
冒頭の「時代の流れ」に最近、こんな歌詞が付け加えられた。
♪大和ぬ世んでぃ 思むたしが アメリカ世や なま続ち 何処にが流りら くぬウチナー
歌意=日本復帰して純然たる大和世になったと思ったことだが、アメリカ世からの脱却未だ成らず継続。この分だと沖縄はどこへ流されるのだろう。
戦後70年。アメリカ世が始まったあの日も、戦火を免れた木々では、ジージャー(蝉)が騒ぎ鳴く猛暑の日だった。
終戦から10年ほど経った昭和31、2年頃、風狂の歌者故嘉手苅林昌は、世替わりのさまをこう詠み「花口説・一名花街口説」に乗せて歌った。節名を「時代の流れ」と称する。
「世替わり」とは、外からの力によって沖縄の世の中が変わってしまうことをいう。
大正9年生。兵役で南洋諸島を転戦。奇跡的に生還した嘉手苅。生まれ島越来村仲原(現・沖縄市)は、嘉手納基地化して入れず、基地の街コザの集落を二転三転の暮らしを余儀なくされていた。それだけに戦後の世替わりは、生々しく実感されたのだろう。
歌意=大昔は唐(中国)との親交で栄えた「唐の世」。明治になって日本国の1県になった「大和の世」になり、戦争に負けて今度は「アメリカ世」。なんとも珍しいほどの世替わりを強いられる沖縄。これからどんな世が待ち受けているのか。「珍らさ=みじらさ」を「うすまさ=物凄く」と歌うこともある。
◇唐ぬ世。
琉球方言の「世・ゆう」は、為政者の直接的支配を意味する。南海に位置し、東西への貿易中継地としての有効性に着目した中国は、琉球王国成立以前から琉球を傘下に置く外交政策を推進。これを実現した。
琉球王国第一尚氏初代の尚巴志王(1372~1439)は、中国皇帝から認定を受け、琉球の最高権力者「琉球の世の主」を内外に示した。つまり、歴史上言われるところの「冊封」である。こうした「唐ぬ世」は、中に薩摩の支配下に置かれながらも、明治12年まで続いた。仮に尚巴志時代から数えても600余年。
日本では300年余続いた江戸幕府が倒れ明治政府樹立。それに伴い、廃藩置県の国体を目指し、琉球は「沖縄県」の世替わりへ・・・・。
いわゆる「大和ぬ世」へ替わって行く。
◇大和ぬ世。
琉球国は明治政府によって一時「琉球藩」を名乗り、他県並みの「県」を成立させた。琉球国を沖縄県にするのに12年3ヶ月を費やしているのは、唐ぬ世、薩摩傘下の諸行政を整理するためで、世に言う「琉球処分」である。
沖縄で言う大和(ヤマトゥ)とは、広義には日本本土をさす言葉だが、古くは薩摩のことを言い、江戸時代には幕府をさして大大和(ウフヤマトゥ)と称した。語源は薩摩の国府があった川内地方の山門院(やまといん)によるものという説と朝廷があった近畿地方の大和の国によるという説がある。その名残としている。現在でも、本土に行くことを「ヤマトゥに行く」。本土人を「ヤマトゥんチュ(人)。本土産を「ヤマトゥムン(物)」などなどと普通に言っている。
かくて大和世になり、沖縄県の首長に就いたのは県令心得木梨精一郎。明治12年3月27日から4月4日までのわずか9日間の在任だった。実質的県令初代は鍋島直彬で明治12年4月4日~明治14年5月18日の在任約2年間。5代目大迫貞清は明治19年4月27日~同年7月19日の3ヶ月の在任。しかし大迫貞清は官選知事制となった明治19年7月19日には初代知事として就任するが、これもまた明治20年4月14日までの9ヶ月の在任だった。中には官選されたものの沖縄県赴任を「沖縄行きは都落ち」として拒否。沖縄の地を踏まなかった人物もいた。
県政は県令心得1代。沖縄県令5代。沖縄県知事23代で運営されたが、最後の県知事は島田叡。昭和20年1月12日就任、同年6月の定かでない日、沖縄地上戦で本島南部の定かでない場所で戦死したとされる。ヤマトゥ世の首長はすべて(大和人)。66年にわたる(大和世)だった。そして終戦。沖縄はアメリカ世へ。
◇アメリカ世。
昭和20年6月23日沖縄戦終結。同年8月15日、日米戦争の終結が天皇陛下によって告げられた。米軍統治下のこと、生き残った沖縄人は歓喜した。
「これで元の大和の世になる!」
このことであった。しかし、日本国の独立は、沖縄を本土と切り離し、アメリカの統治下に置くことを条件にした独立であった。この「アメリカ世」は、昭和47年(1972)5月15日、沖縄住民の決死の戦いによって「日本復帰」を勝ち取るまで27年間の長きに及んだのである。
知事・主席も米軍政府の(任命)から、県民投票による(公選)になったことだが、米軍基地は依然として撤去されず、逆に(拡大)の感があるのは読者賢氏が衆知のことだろう。
「アメリカ世」は、まだ続いている。
冒頭の「時代の流れ」に最近、こんな歌詞が付け加えられた。
♪大和ぬ世んでぃ 思むたしが アメリカ世や なま続ち 何処にが流りら くぬウチナー
歌意=日本復帰して純然たる大和世になったと思ったことだが、アメリカ世からの脱却未だ成らず継続。この分だと沖縄はどこへ流されるのだろう。
戦後70年。アメリカ世が始まったあの日も、戦火を免れた木々では、ジージャー(蝉)が騒ぎ鳴く猛暑の日だった。