旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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としよりの日・老人の日・敬老の日

2008-09-25 14:08:44 | ノンジャンル
★連載No.359

 「いくつから年寄りと自覚すればよいのか」。多少迷っていたが、日本という国がズバリ答えを出してくれた。
 65歳以上「前期高齢者」。75歳以上「後期高齢者」これである。
 おかげで私は立派な「前期高齢者」を自覚できたし、6年もすれば「後期高齢者」の資格を誇りをもって取得できる。なんとも喜ばしい。テレビの殊に女性アナウンサーが、高齢者がらみのニュースを伝えるとき、いままでは顔をしかめた「65歳のお年より」云々というコメントも得心して聞けるようになった。〔前期・後期高齢者〕なる行政用語は大した説得力をもって年寄りを落ち着かせた。造語した役人には、国民栄誉賞をやらざぁなるまい。
 ある粋人は“老いぬれば頭は禿げて目はくぼみ 腰は曲がりて足はひょろひょろ”と、重ねた年齢を狂歌にしている。またある粋人は自分の光り輝く頭に物珍しそうな視線を送る若者に対して「ハゲとかチャビンなどと言ってもらいますまい。ユル・ブリンナーヘッドと称していただきたいっ」と提言した。ただ、その若者たちが肝心のユル・ブリンナーを知らなかったのは残念だった。粋人がかつて感動した「王様と私」「荒野の七人」などのユル・ブリンナーの名演技を見ていなかったのは、ゼネレーションギャップとしか言いようがない。

 “君は百歳我しゃ九十九まで ともに白髪のはえるまで”
 理想的な長寿の歌。厚生労働省の調査による「人口10万人当たりの百歳以上の高齢者数」を都道府県別にみると、沖縄県は36年連続トップを維持している。沖縄における百歳以上の長寿者が多い市長村は、上位から那覇市160人。うるま市86人。名護市と南城市各45人。また、厚生労働省調査によると今年の全国の百歳以上は3万6276人。内訳は男性5063人。女性3万1213人。驚異的なこの差はどこからくるのだろうか。とは言っても、女性の最高年齢者113歳はウチナーオバーなのは嬉しい。
 「敬老の日」。この日にも変遷がある。
 昭和26年<1951>9月15日から1週間を老人福祉週間と定め「としよりの日」が始まった。しかし、この命名は60歳以下の現役の発想。〔としより〕自身は、長生きはしたいが〔としより〕とは呼ばれたくないのが本音である。実際に各界から「再考すべし」の声が上がった。しからばと、それでも12年、再考の時をかけ昭和38年<1963>、老人福祉法が制定されるや「老人の日」に改称している。しかし、しかし〔としより〕と〔老人〕は、仮名を漢字に変えただけで観念は五十歩百歩。老人該当者は、またぞろ得心がいかない。「差別用語に等しいっ」と、言ったかどうかは別として、さらに再考がなされ、3年後の昭和41年<1996>「多年にわたって社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」と定義して「敬老の日」に落ち着いている。だが、これもここへきて国の財政逼迫の建て直しを称して医療、年金に皺寄せがきた。老人の皺をこれ以上増やしてどうするつもりだろうか。ちなみに「心配」の方言は「シワ」。この際、高齢化社会到来記念に「前期高齢者の日」「後期高齢者の日」を制定して国民の祝日にしてはどうだろうか。いつの世も「親死に子死に孫死に」が順序。子や孫が親より先に逝くような国家であってはならない。親の介護に疲れて死を選ぶ子や孫がいかに多いことか・・・。

 沖縄には、生まれた年毎に「命を祝う」行事がある。ンバギーと称する出産祝いを始めとして13歳・25歳・37歳・49歳・61歳・73歳・85歳・97歳と続く。いまでは13歳から61歳の祝いは割愛されているが73歳と85歳、加えて大和風に88歳の米寿を祝い、97歳は「カジマヤー」と称して殊の外盛大に行う。いずれも「トゥシビー=生まれ年祝い」の内だ。
 カジマヤーは〔風車〕を意味する。97歳からは「童に還る」とする考え方があって、該当者は色鮮やかな紅型衣装に身を包み、戦前は駕籠や馬車、いまはオープンカーに乗り込んで集落中をパレードする。そして、自宅や公民館あるいはホテルの宴会場に家族、親戚縁者、友人知人を招待して華やかな宴を張る。招待されなくても出向く人もいる。これは長寿をあやかり、徳を授かるためで主催者はむしろ歓迎。出席者の多さを誇りとするくらいだ。そのときの来賓祝辞、乾杯の発声は地域選出の県会議員か市町村長の役目。これを断ったばかりに次の選挙に落選した例も少なくない。
 〔敬老〕とは、そうしたものではなかろうか。
 カジマヤーは、97歳に因んで旧暦9月7日に挙行されるが、今年は都合よく新暦10月5日日曜日にあたる。







次号は2008年10月2日発刊です!

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神の授けもの・ハジチ物語

2008-09-18 00:39:14 | ノンジャンル
★連載NO.358

 那覇市歴史博物館は、パレットくもじ4階にある。
 8月15日から10月1日の期間、比嘉清眞写真展「ハジチのある風景」が開催されているが、見応えのある貴重な写真を感動をもって拝観した。

那覇市歴史博物館

 ハジチは、近年まで奄美大島をふくむ南西諸島全域にあった〔入墨〕の風習。女性の人生儀礼風俗で両の手の甲に施す。紋様は時代によって異なるが、針突細工<ハジチジェーク>あるいはハジチャーと称する専業人がいて、指の部位に応じて縫針を3本から20本余を束ね、泡盛で摺った墨を用い、あらかじめ下描きをした紋様を突いて入墨をした。
 1719年、琉球国王尚敬の冊封副使として来琉した中国人徐葆光〈じょほこう〉は、その著書「中山伝言録」に〔15歳までにハジチを完成する。このことで来世の安楽が約束されるという琉球人の永世観念の風習〕といった意味合いのことを記している。しかし、それも時代と共に悪習と見なされ「ハジチ廃止」が詮議されたが実施に至らず、沖縄県誕生後の1899年<明治32年>10月20日、おりからの風俗改良運動と連動して「入墨禁止令」が出されている。ところがこれも建前、昭和初期までハジチ施術はひそかになされていた。
 それを立証するように比嘉清眞氏のカメラにおさまったのは、1971年〈昭和51年〉から1983年〈昭和58年〉にかけて県下各地で撮影したハンシー<老婆>たちのハジチである。9月20日は、写真展会場で比嘉清眞氏のギャラリートークがある。モノクロ写真35枚には、いきいきとしたハンシーたちの顔とハジチが生きていて、いっそう説得力のある講話になるにちがいない。

比嘉清眞写真展より

 ところで、こんなハジチばなしはいかが。

 むかしむかし。
 あるところに村がありました。村人は芋や米、粟を作り家畜を飼い、近くの海で漁をして暮らしていました。決して豊かではありませんが、かと言って衣食住に困るほどではありません。しかし、どうしたことか男たちは皆、働き者なのに女たちは適当に家事をするだけで、1日のほとんどをムラガー<村井戸。共同井戸>に集まり、洗い物は口実でユンタク<おしゃべり>するか、家でフィンニ<昼寝>をして過ごしています。
 「朝寝フィンスー、昼寝ヤンメー」という古諺も説いているように〔朝寝を常とする者は貧乏なり、昼寝をむさぼる者は病をつくる〕道理です。そのありさまを憂慮した天の神さまは、村の女たちを集めて言いました。
 「このままでは、村が滅びてしまう。男たちの働きに甘えて、女のやるべき職分を忘れてはいけない。男も女もそれぞれの職分を果たしてこそ、村の繁栄は望めるのだ。おまえたちに、申し付けることがある」
 神さまは、女たちひとりひとりに松の木の苗を3本づつ渡して言いました。
 「松の苗を見事、成木に育てよ。もし、1本でも枯らそうものならきつい天罰を下すであろう。その代わり、松の木を育ててこの村をミドリ豊かにしたならば、褒美をやろう」
 女たちは皆、恐れ入りました。なにしろ、神さまの申し付けとあっては逆らえません。ユンタクするヒマもフィンニするヒマもありません。村を囲むように松の苗を植え水をやり草を取り、朝に夕に見回って入念に育てることにしました。そうすると女たちは体を動かすこと、つまり〔働くこと〕に喜びを見出したのです。植物はすべて正直です。女たちの丹精に応えて、すくすくと成長しました。何年かして、松の木が村をミドリに囲んだころには、女たちは男たちに劣らない働き者になっていました。村が栄えていったことは言うまでもありません。神さまは再び女たちを集めて言いました。
 「よくぞやった。それでこそ、村のみならず琉球は暮らしよい国になるのだ。約束通りに褒美を授けよう。ひとりひとり両手の甲を差し出しなさい」
 神さまが、女たちの手の甲に施したのは入墨です。それは、この村の女たちが皆、働き者であるという〔証〕の入墨だったのです。
 このことが、たちまち琉球中に聞こえ、嫁入り前の娘たちはすすんで入墨をし、働き者であることを誇りにしました。これが「ハジチ」の始まりということです。
 これは、明治29年生まれのおふくろに聞いた話。おふくろの手の甲にも、形ばかりのハジチがありました。慶応3年生まれの祖母のそれは見事なものでした。
 「だから、ハジチはアシバー<遊び人>が彫っている刺青と同じに考えてはいけない。あくまでも、御神加那志に賜った褒美なのだからね」
 私はいまでも、このおふくろの「針突起源説」を支持している。なんと素直のいい子であることか。
 繁華街には、ギリシャ神話に出てくるような図柄や花模様のタトゥをした若者が闊歩している。彼たち彼女たちは、それなりの誇りや証をもってのタトゥに違いない。刷り消しは自在らしい。「カッコいいっ!」と共感して、私も真似してみようと思うのだが、もう肌が許さないだろう。仮に県魚グルクン<フエダイ科タカサゴ属>を二の腕にあしらったにしても、この歳の肌では活きのいいグルクンの色鮮やかさは出ず、すぐに3日前に塩煮したグルクンになってしまうに違いない。タトゥは若者にまかせて、老体は親からもらった無傷の肉体を死守することにする。

次号は2008年9月25日発刊です!

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フェンサーの立場・ホートゥーの立場

2008-09-10 20:26:13 | ノンジャンル
★連載NO.357

「ゲリラ豪雨とは、よく言い当てたものだ」
 そう感心してはいられない豪雨が本土各地に被害をもたらしている。降り方が東北と思えば九州、九州に気をとられていると中部地方、近畿そして関東。ミクロの観測可能な気象台の科学力をも振り回し、予想もつかないことから、どこで起きるか分からないゲリラ戦術になぞらえて、マスコミが付けた気象用語が「ゲリラ豪雨」。
 死者が出る豪雨にみまわれた九州、本州各地の方々に対して誠に不謹慎極まりない思いだが「半分でも沖縄に降ってくれたらいいのになぁ」と、私などはついつい口にしてしまう。と言うのも梅雨明けこの方、テレビのお天気情報画面には連日〔太陽マーク〕が並ぶ沖縄地方だからだ。それはもろに水事情に影響。県渇水対策連絡協議会は早々〔節水〕を呼びかけるにいたっている。
 十五夜遊びをはじめ、秋祭りを楽しみにしているものにとっては、連日の太陽マークは歓迎するところ。一方雨が少なく、思うような収穫が期待できない農家は「今からでもいいから、ひと雨ふた雨をもたらす傘マークが見たい」と切望している。人間はなるだけ自分の立場や都合のいいようにものごとを解釈して、納得するようにできているらしい。
 「胴ぬ前んかい スルバンはんちゅん」。古諺である。商い用語だが「人は皆、有利なように、手前に算盤をはじく」としている。しかし、これは商い用語を越えて今でも日常に生きている観念ではなかろうか。そのことで多少〔困る〕人があったにしても、それに気づいたにしても算盤はやはり〔胴ぬ前〕にはじき続けるもののようだ。

 むかしむかし。山を隔てた村に、ふたりの男が住んでいました。ひとりはフェンサー〈猛禽類鷹の1種〉のヒナを飼っていて「丈夫に育てて成鳥になったら大空を飛ばしてやろう」という夢を描いていました。もう一方の男はホートゥー〈鳩〉のヒナを飼い「成鳥になって、村の上空の柔らかい風に乗せて飛ばしたら、きっとこの村にミルクユー〈弥勒世。平和世〉をもたらしてくれるだろう」と、念入りに育てていました。月日が経ち、フェンサーもホートゥもふたりの男の期待通りに成鳥になりました。フェンサーもホートゥもまた、育ての親のもとをわが家として棲み着いています。
 ある晴れた秋の日。山の向こうの男はフェンサーを空に放ち、その飛翔を見て大いに満足していました。また、山のこちらの男もホートゥを空に放ち、羽で心地よく秋風をそよがせている様を飽きずに見入っていました。しかし、偶然にもフェンサーとホートゥは村と村と分かつ山の上空で出会ったのです。すると、フェンサーは、そこは本能というものでしょう。ホートゥを格好のエサとして捕食行動に出ました。ホートゥはホートゥで天敵の攻撃を察知して逃げにかかりました。しかし、両者には飛ぶ速さに差があります。ホートゥはたちまちフェンサーの嘴にかかり、あえなく捕食されてしまいました。

 飼い主の男たちは、その様をそれぞれの立場で目撃していました。フェンサーの男は歓喜の声を上げました。
 「シタイッ!〈したりっ!〉。さすがオレが育てたフェンサーだッ。見事にホートゥをしとめた。愛を込めて育てた甲斐があったッ!」
 しかし、ホートゥの男は悲鳴を上げました。あのきれいな羽を食い千切られて散らしていく様は、なんと悲惨極まりない。
 「せっかく愛を尽くして育てた甲斐もなく、これからというときにフェンサーの餌食になるとは・・・・。なんと哀れなことか」と、嘆き悲しみました。
 男ふたりは、山ひとつ隔てて逢ったことも話したこともありません。それなのにひとりは歓喜し、ひとりは悲嘆にくれたということです。
 この話。沖縄県民が総決起して金武町の国道越えの実弾演習を中止撤去させて「県民の平和運動の勝利」としたものの、実弾演習場は大分県に移設されたに過ぎず、大分県民は不安を囲う結果になった事実と重なりはしないか。

 「因果はめぐる小車の・・・」。芝居のセリフを持ち出すには不真面目過ぎるが、池波正太郎の時代小説「仕掛人・藤枝梅安」の1話にこんなシーンがある。金で人殺しを請け負う仕掛人・鍼医者梅安と楊枝職人彦次郎の家に、近くの寺の生くさ坊主が魚のアンコウを下げてきて早速「鍋」にする。そして、酒を前に三人してそれをつつきながら、およそ次のような会話をする。
 「このアンコウは、小魚を食って大きくなったが結局、鍋になって三人の胃袋におさまる。この三人はどうなるのかね和尚」と梅安。和尚は持った箸のせわしい鍋と口との往復を止めずに言う。
 「同じようなものさ。小魚を食ったアンコウは、こうして人間に食われる。それで命を繋いだ人間は、いずれ死ぬと土に埋められてウジ虫に食われる。自然の摂理というものよナムアミダブツ、南無阿弥陀仏ッ」
 待て。
 なぜこんな話になったのだろう。そうか、ようやく、微かに感じられる秋風が私をセンチにしたのだろう。いや、きっとそうに違いない。



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夏の夜のお話

2008-09-04 12:31:21 | ノンジャンル
★連載NO.356

 処暑も二百十日も過ぎて、北国からは秋の気配の便りもあるが、沖縄の酷暑はまだまだ続く。
 9月7日は旧暦8月8日「トーカチ」の日に当たる。鹿児島でも盛んに行われると聞く〔米寿・斗搔き祝い〕同様、沖縄では大きな祝事儀式のひとつでもある。親のトーカチ祝いは、借金してでも挙げるとされ、親が80歳を数えたころから子は男女問わず談合を重ねて、祝儀の宴の資金造りを心掛ける。
 しかし今年は暦のいたずらか、祝儀のトーカチと役祓い・魔除けの行事「ヨーカビー」が日を同じくしている。ヨーカビーは「八日火」とも「妖怪火」とも書くが、8月は旧盆の後のせいか人間界のモノではない紛れモノ「マジムン」「タマガイ」の跳梁の月間と信じられてきた。正体は定かではない。それだからマジムンなのだが、とかくタマガイ・フィーダマ〈火の玉。鬼火〉を多く見ることができたそうな。いまは、生きている人間のほうが恐ろしく、彼らも出にくくなっているらしい。

 殊に旧暦8月1日から15日の中間にあたるヨーカ〈8日〉には、各村落で厄祓い・魔除けの行事をした。一般的にはマジムン・タマガイを村落内に入れないよう、村落が見渡せる高台に青年たちが登って監視したり、ホーチャク〈爆竹〉を派手に打ち鳴らしマジムンどもを追っ払った。また、村落の入口では青年たちを中心に法螺貝を吹き、島太鼓をたたき棒術、空手を演じ、獅子を踊らせて悪霊の浸入を許さなかった。タマガイが人家の上に認められた場合は、すぐにユタ〈女の霊能者〉を招いて御祓いをしたが、タマガイが地面すれすれに認められると、その家には近々〔子が授かる〕前兆ともされているから、ヨーカビーは必ずしも不吉事ばかりではないようだ。これらは今風に言う〔納涼行事〕の要素もあったかのように思われる。
 いずれにしても夏の夜には、妖怪・幽霊・マジムンばなしがよく似合う。「恐るさむんぬ 見-ぶさむん=恐ろしいけれども見たいもの」。この恐いもの見たさの心理が妖怪変化を生んだと考えられるが、これらを祓うのにもっとも有効なのは「マース=塩」。これは全国共通の観念だろう。主成分の塩化ナトリウムは、単に調味料だけではなく工業用としても大きな役割を果たしていることは、門外漢の小生の知識の中にもある。では、葬儀の際の浄め塩、水商売の盛り塩には邪気を祓う効力があるか。また、その起こりはどうか。

むかしむかし。
 マース〈食塩〉を袋に詰めて売り歩くことを生業にしている男がいた。
 「海浜近くの村より、山村のほうが商売になるやも知れない」
 そう思い立った男は、ひとつふたつ山を越えた山村にたどり着いた。しかし、人家はポツリポツリと点在するのみ。〔まずい所にきたもんだ。こう人家が少なくて商売になるかな〕と懸念しながらも、決して裕福には見えない、いや、一目で貧しいと分かる茅ぶきの1軒家を訪ねた。戸を開けて中に入ると大きな箱を前にした老婆がひとり坐っている。白髪をなでつけた様子もなく、身に着けている着物も、もう何日も替えてないように思われる。しかも来意を告げても言葉を返すでもない。伏し目がちの表情がなんとも暗い。痩身はほとんど精気を発しない。それでも塩売りの男は商売を忘れず、独り言のように声を掛け続けた。すると、たったいま男に気づいたかのように顔を上げると老婆はポツリと言った。
 「ウチだけで塩を買っても仕方がない。隣家にも声を掛けてやる。待っているがいい。ただし、この箱を開けてはならない。中を見てはいけない。きっとだぞぇ」
 そう蚊の鳴くような声を残して老婆は出て行った。一合でも二合でも塩を売りたい男は言われるままに待つことにしたのだが、決して「見てはいけない」と念押しされると見たくなるのが人情。〔老婆の足ではすぐには戻って来まい〕と勝手に決めた男は、件の大きな箱を開けてみた。そこに見たのは老婆の連れ合いか!生きているとも死んでいるとも定めがたい老爺が横たわっている。白髪は乱れ目はくぼみ、はだけた胸の骨は浮き上がって、ほとんど骨と皮。息をのんだ塩売りの男が箱のフタを閉めようとしたまさにその時、箱の中の老爺がくぼんだ目をカッと開け、ガバッと跳ね起き、かすれた声で言った。
 「見たなぁ~!」
 塩売りの男はギャーと悲鳴をあげると、それでも商売物の塩袋は忘れずに担いで逃げた。ふりかえると件の老爺が生臭い風に乗ったかのようにフワリフワリと追ってくる。男は逃げる!命がけで逃げる!老爺は追ってくる!仰天のあまり担ぎ方が悪かったのか塩袋の結び目がほどけて、塩はこぼれっぱなし。難を逃れるためとはいえ人間、全力疾走にも限度がある。恐怖で息が切れた男は「も、もう、ここまでっ!」とあきらめて目をつぶり、その場にへたり込んでしまった。しかし、追ってきたはずの老爺の気配がない。おそるおそる目を開けて振り返ると、逃げてきた道には塩袋からこぼれた白い塩が散乱しているだけで老爺の姿は煙のように消えていた。そこで塩売りの男は悟ったのである。
 「およそ幽霊、悪霊、妖怪、マジムンの類は塩を恐れるのだ。塩に弱いんだ。塩には浄めの効力があるのだ」
 この話が時と共に沖縄中に聞こえ広がり以来、厄祓い・魔除けには塩を用いるようになったそうな。
 しかし、件の老爺老婆がこの世のものだったかどうか。また、その山中とはどこだったのか。21世紀の今日まで明らかにはされていない。




シバサシ


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