旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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歌者・松田弘一

2019-09-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「娘しのぶはじめ弟子たちがボクの73歳のトゥシビー(生年祝い)、記念歌会をしてくれるそうで・・・・。仕掛けてみましょうネ」。
 我が家を訪ねてくれた松田弘一が言ったのは、令和に成り立ての5月中旬のこと。
 「令和元年10月1日午後6時半開幕。場所は我が生り島・北谷町「ちゃたんニライセンターカナイホール。ゲストもいつの間にかふくらんで、ザ・フェーレー(徳原清文、松田末吉、桑江良美)、下地イサム&新良幸人、伊波貞子、伊波久美子姉妹、弟の弘二(ギターリスト)、弘三(ベーシスト)、琉球舞踊家座喜味米子、松絃会会員松田一利、よなは徹が華を添えます。
 松絃会というのは、ボクが大将を務める(島うた勉強会)の名称。昭和22年に生まれ、学校の勉強よりは、当時、流行りのロックにのめり込む傍ら、エイサーの地謡に魅せられて、何の苦もなくこなしている内に、すっかり歌者になってここまできました。ずいぶん無茶もやってきましたが、老年?になって、人さまに好意を持っていただき、記念の歌会を仕込んでもらえるとは・・・・歌者冥利に尽きます」。

 彼の話は歌会を脱線し「北谷エイサー」に及ぶ。
 「今年の北谷エイサーを見て嬉しかったのは、地謡を務めているのは、ほとんど(松絃会)に籍を置いている者、または籍を置いていた者。ボクは地謡の現役を引退しているが、弟子筋がちゃんと伝統芸能を繫いでいるのに接すると、次代に渡したという一種の達成感すら覚えるのは、自惚れでしょうか。後輩たちは古来のエイサー歌に、今風のそれを加えて演じている。
 「時代の新しい(血)を注入することを忘れない」
 松田弘一の熱弁は留まることを知らない。
 彼からの仕入れたばかりの、最近の「北谷エイサー」の節名を記す。

 *北谷村=作詞作曲・松田弘一。*仲順流り。*久高節。*花ぬカジマヤー。*ダイサナジャー=大田屋節。*御先祖=作詞びせ・かつ。作曲よなは徹。*丘の一本松=作詞上原直彦。作曲普久原恒男。*エイサー頭=作詞作曲松田一利。*今帰仁ぬ城。*テンヨー節。*イマサンニン節。*唐船どーい。*ヒヤルガヘイ節。
 エイサー節は地域によって異なることを常とする。

 ところで。
 松田弘一が我が家に餡パンを持ってやってきたのは、どうやら歌会のパンフレットに載せる一文の執筆依頼にあるらしい。が、雑談に終始して用件を失念して彼は帰ったが・・・・。もし、依頼があれば次のような拙文を渡すつもりである。

 歌三線の仲間が寄り合って一杯やる折り、決まって話題にのぼる人物がいる。
 松田弘一がその人。
 ひところは故嘉手刈林昌が話題の中心人物だったが、いまでは松田弘一がその(後継者?)ということになる。
 嘉手刈、松田ともに学術的というか、高尚に(歌は語るように、語りは唄うように)表現し、歌詞や三線の奏法についても真面目に論じ合うことだが、松田弘一の場合、大抵は(色ネタ)になる。
 何処で仕入れてくるのか、実体験なのかその辺の話になるとまさに弘一の独壇場。ウチジフェーシ(返事・合いの手)を入れる隙があらばこそ、もっぱら聞き手にまわらざるを得ない。ボクも色ばなしは嫌いではないから、ノートを出して(メモ)をとることすらある。
 男同士の場合、その色ばなしは常識を重んじる人には聞かせられないほど突っ込んだ(色ネタ)になり、生真面目な女性が同席する場合でも、色ネタをオブラートに包んで語る。女性たちは顔を赤らめ、小声で「イヤさぁもうっ!」と言いながらも聞き耳を立てさせる。要するに話術に長けているのである。 
 そう書くと松田弘一は単なるジビター(品のない人)と勘違いされそうだが・・・・。手振り足ぶり付きは、話の達人の風格?がある。
 「色話のあるところには争いは起きない」。
 これまた彼の持論。座が和やかな雰囲気をかもしだすのも事実。そういう意味では松田弘一の色ネタは上品?なのだろう。
 50年近くの付き合いの中で幾節の歌詞を彼に提供してきたことか。
 そのことから仲間内では「松田弘一は上原の一の子分」という風評があるそうだが、決してそうではない。ボクが彼と付き合うのは、そのことによって、ボクが担当するラジオ番組が聴く人のしばしの癒し、少しの潤いになればいいと、勝手に思っているに過ぎない。むしろ、松田弘一が親分でボクは三下奴なのだ。彼は独自の音楽観を展開しつづけている。
 「通りすがりの者ですが・・・・」。
 彼らしいジョークを発し我が家のチャイムを押す。どういうつもりか食パン、野菜、ピザパイ、時には花束を持って・・・・。これが10年はつづいている。義理堅いことだ。♪義理と人情のこの世界~。人生劇場を地で行っている。
 「ヒロカズよ。生きている間は70パンジャー、80パンジャーで居ようではないかっ」。


戦後・劇場最盛記

2019-09-10 00:10:00 | ノンジャンル
 演劇成立の3つの条件は一に劇場、一に観客、いま一つは演者とされる。
 その中の劇場は、これまで個人経営が大方だったが、ここへきて国立、県立、市町村立のそれに加えて、多目的に使用する市民会館、公民館が設立され(器)には、不自由をすることはなくなった。
 またぞろ、古い話になるが・・・・。
 敗戦直後の昭和20年(1945)12月25日に発足した琉球民政府が管理する「沖縄芸能連盟」の地方公演をきっかけに、それを受け入れるための劇場が各市町村に設立された。
 劇場とはいっても、舞台の上部だけが天幕で客席の上は昼は青空、夜は月の星をいただいての、いわゆる「露天劇場」。それが大小100軒を超えた。
 昭和26、7年になると娯楽は(芝居)に向けられ、劇場は連日大入り満員。劇団も30を下らなかった。各地の劇場名を出来る限り列記してみよう。()内は当時の所在地と経営者名。

 ◇アーニー・パイル記念国際劇場(那覇市・高良 一)。◇中央劇場(那覇市・仲井真元階)。◇那覇劇場(那覇市・宮里孝盛、仲本清智)。沖縄劇場(真和志村・真栄田義朗)。
 ◇首里劇場(首里市・高宮城真福)。
 ◇糸満劇場(糸満町・上原吉亀)。◇うるま劇場(松茂良高太郎)。◇小禄太平劇場(小禄村・平良雄一)。
 ◇堀川劇場(玉城村・前田自福)。
 ◇東風平劇場(東風平村・金城政一)。◇外間の前劇場(東風平村・原国政福)。
 ◇与那原国際劇場(与那原町・高良 一)
 ◇目取真劇場(大里村・名渡山愛彰)。
 ◇平和劇場(具志川村・金城和信)
 ◇浦添劇場(浦添村・宮城三吉)
 ◇宜野湾劇場(宜野湾村・桃原亀郎)
 ◇太平劇場(北谷村・与儀兼和)
 ◇嘉手納劇場(嘉手納村・安森盛雇)。
 ◇共進舘(読谷村・山城源徳)
 ◇胡座自由劇場(コザ市・宜保為貞)。◇胡差中央劇場(コザ市・上里良守)。
 ◇桃原劇場(コザ市・町田宗清)。
 ◇美里劇場(美里村・喜屋武盛実)。
 ◇平良川劇場(具志川村・稲福可信)。◇川田劇場(具志川村・上原上昌)。
 ◇金武湾劇場(具志川村・河田光由)。◇田場劇場(具志川村・島袋 蒲)。
 ◇屋慶名劇場(与那城村・長堂政一)
 ◇勝連劇場(勝連村・前徳秀明)
 ◇渡口劇場(北中城村・宮城盛輝)。◇熱田劇場(北中城村・大城永盛)。
 ◇中城文化劇場(中城村・玉井春吉)
 ◇西原劇場(西原村・宮平勝哉)。

 資料と格闘するのに、いささか眼精疲労・・・・。読者諸氏も(列記)を追うのに、欠伸のふたつほどは出たであろう。濃いめのそれを入れてコーヒーブレイクとしよう。


 さて。もうひと息。劇場史を尋ねるのも楽ではないワイッ。

 ◇石川劇場(石川市・宮平雅夫)。◇新興劇場(石川市・池原長昌)。
 ◇名護文化会館(名護町・小橋川昇貞)。◇名護劇場(名護町・湖城其仁)。
 ◇金武劇場(金武村・当山幸誠)
 ◇宜野座劇場(宜野座村・田端景俊)。
 ◇国頭劇場(国頭村・山川一貫)
 ◇北部劇場(大宜味村・山城善光)。
 ◇羽地劇場(羽地村・新城徳助)
 ◇今帰仁劇場(今帰仁村・長田 房)◇大井川劇場(今帰仁村・我那覇隆足)
 ◇本部劇場(本部村・仲宗根源実)。
 ・・・・・。他にも本島内で書きもらした劇場があるが、資料不足のため、泣く泣く割愛せざるを得ない。勉強不足!乞う容赦。

 かくて沖縄演劇は隆盛を誇った。
 劇団も言葉通り「雨後の筍」のように設立されて、主だった劇団は、各地を巡業、役者衆の(ふところ)も、大いに潤ったという。
[需要を満たすほどの役者がいたか?]
 戦前から名のある役者を座頭とする大劇団の他に、かつて「村芝居」で人気を得た人たちが劇団を組織した例が少なくない。これらは中央では無名だが、ご当地ではなかなかの人気を得ていた。「芸は身を助く」を地で行っていた。
 けれども、それも長くは続かない。
 テレビの登場が(実演)をはばむ。客足をテレビにさらわれては(劇場経営)が成り立たない。廃屋化していく芝居小屋を多く見てきた。それらはパチンコ屋などに変わっていった。何ごとにも時勢があり「栄枯盛衰」はつきものということか・・・・。


八重山・六調節=ろくちょうふし

2019-09-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「簡単に涼風は吹かせまいぞっ」。
 9月の声を聞いても、ティーダ(太陽)は、意地悪さを発揮して沖縄に居座っている。それもそのはず、9月1日は雑節のひとつ、立春から数えて(210日目)、台風の来襲が多い頃とされる「二百十日」。ティーダにも強風にも対抗しなければならない日がつづく。
 こんな折には、明るい(騒ぎ唄)でも唄って暑気払いをしよう。
 ここに「八重山六調節」という共通語でなされる(座唄)がある。「球磨六調子」「薩摩六調子」「奄美六調節」など、九州一円で歌われる節があるところから察すると、奄美大島を経て、沖縄本島を通り越し、八重山に流行ったものと思われる。明治以降「標準語励行」を奨めてきたことが「共通語による歌詞や曲の受け皿になったとされる。
 曲(三線譜)を記載できないのは口惜しいが、にもかくにも歌詞と、後に続く(囃し言葉)を楽しんでいただきたい。

 ♪嬉し嬉しや若松さまよ 枝も栄えて葉も茂る~
 #(囃し)今年豊年年 穂は木に実る 我ら農夫は作で取る
 芸者は芸でとる三味でとる 相撲は手でとる 足でとる お寺の和尚さん お経でとる~

 
 ♪踊り踊れよ品よく踊れ~ 品の良い娘は嫁にとる~
 #貴方にもらったハンカチの 紅葉の模様が気に入らぬ 何故に紅葉が気に入らぬ 紅葉は色づきや 秋(飽き)がくる~

 ♪私しゃあなたに七惚れ八惚れ~ 今度惚れたら命がけ~
 #惚れてくれるはよいけれど 私しゃまだまだ年若い 花の蕾じゃないけれど 色のつくまで 待つとくれ~

 ♪恋路通えば千里も一里~ 逢わず戻れば元の千里~
 #おいおいおナベ なんじゃい太郎さん お前と私と暮らすなら たとえ山中一軒家でも 竹の柱に茅の屋根 手鍋提げてもいとやせぬ~

 祝いの座がいよいよ煮つまってくると、三線をよくする者が唄を出す。すると(囃しをよくする者)が一人、あるいは二人が飛び出して、即興の囃し言葉を付け、手を振り足を振り、拍子よろしく踊って座を盛り上げる。

 ♪むかしこの方変わらぬものは~ 水の流れと恋の道~
 #キンカン ようかん 酒の燗 親の折檻 子は聞かん あなたの云うこと私しゃ聞かん 隣の娘は気が利かん~

 ♪八重の潮路に真帆引き揚げて 千里走るや宝船~
 #島が小さくても頭を使え~ 空の布団に波枕 太平洋~

 ところで。
 「六調」とは何か。
 浅学の身ではまだ定義付けられないが、巷間の節から察するに三線の奏法に特異性があるようだ。その奏法は他の節歌とは異なり、三本の絃を同時に連弾。とは云っても左の指では旋律をちゃんととっていること。掛け弾ち(かきびち)と言って、絃を下から上に(バチを引っ掛ける)ように弾くことを特徴としている。
 三絃を上下に弾くから(六調節という)ともしているが、今少し説得力に欠ける。
 原則として即興歌、即興舞いが付きモノ。沖縄本島の「カチャーシー唄・舞い)と同系と云ってよかろう。
 列記した歌詞は与那国の歌者宮良康正が出したCDを参考にした。したがって、良俗に反しないよう「歌詞・囃し」に気をつかっているが、実際にはもっと色っぽく、いや、下ネタを堂々と歌い上げ、囃し立てたのが多い。ボク個人としては後者が好みなのだが・・・・それはもっと「表現の自由」が確立されてからにする。
 いま少し手元の資料から(わりかし上品?)な歌詞を拾ってみる。

 ♪あの世この世は仮寝の宿よ 三味に合わせて舞い踊れ~
 ♪君と僕とは卵の仲よ 僕は白身で君(黄身)を抱く~
 ♪君と僕には枕は要らぬ 互い違いの枕元~
 ♪入れておくれよかゆくてならぬ わたし一人が蚊帳の外
 ・・・・かくて(六調節)は、延々と唄われる。
 「エイサーの音曲・鳴りモノの音が遠退くころ、秋風が立ち始める」と言われるが、エイサーはいまだ鳴り止むことを知らない。八月十五夜の月はいま(秋風)の製造中なのだろう。