「娘しのぶはじめ弟子たちがボクの73歳のトゥシビー(生年祝い)、記念歌会をしてくれるそうで・・・・。仕掛けてみましょうネ」。
我が家を訪ねてくれた松田弘一が言ったのは、令和に成り立ての5月中旬のこと。
「令和元年10月1日午後6時半開幕。場所は我が生り島・北谷町「ちゃたんニライセンターカナイホール。ゲストもいつの間にかふくらんで、ザ・フェーレー(徳原清文、松田末吉、桑江良美)、下地イサム&新良幸人、伊波貞子、伊波久美子姉妹、弟の弘二(ギターリスト)、弘三(ベーシスト)、琉球舞踊家座喜味米子、松絃会会員松田一利、よなは徹が華を添えます。
松絃会というのは、ボクが大将を務める(島うた勉強会)の名称。昭和22年に生まれ、学校の勉強よりは、当時、流行りのロックにのめり込む傍ら、エイサーの地謡に魅せられて、何の苦もなくこなしている内に、すっかり歌者になってここまできました。ずいぶん無茶もやってきましたが、老年?になって、人さまに好意を持っていただき、記念の歌会を仕込んでもらえるとは・・・・歌者冥利に尽きます」。
彼の話は歌会を脱線し「北谷エイサー」に及ぶ。
「今年の北谷エイサーを見て嬉しかったのは、地謡を務めているのは、ほとんど(松絃会)に籍を置いている者、または籍を置いていた者。ボクは地謡の現役を引退しているが、弟子筋がちゃんと伝統芸能を繫いでいるのに接すると、次代に渡したという一種の達成感すら覚えるのは、自惚れでしょうか。後輩たちは古来のエイサー歌に、今風のそれを加えて演じている。
「時代の新しい(血)を注入することを忘れない」
松田弘一の熱弁は留まることを知らない。
彼からの仕入れたばかりの、最近の「北谷エイサー」の節名を記す。
*北谷村=作詞作曲・松田弘一。*仲順流り。*久高節。*花ぬカジマヤー。*ダイサナジャー=大田屋節。*御先祖=作詞びせ・かつ。作曲よなは徹。*丘の一本松=作詞上原直彦。作曲普久原恒男。*エイサー頭=作詞作曲松田一利。*今帰仁ぬ城。*テンヨー節。*イマサンニン節。*唐船どーい。*ヒヤルガヘイ節。
エイサー節は地域によって異なることを常とする。
ところで。
松田弘一が我が家に餡パンを持ってやってきたのは、どうやら歌会のパンフレットに載せる一文の執筆依頼にあるらしい。が、雑談に終始して用件を失念して彼は帰ったが・・・・。もし、依頼があれば次のような拙文を渡すつもりである。
歌三線の仲間が寄り合って一杯やる折り、決まって話題にのぼる人物がいる。
松田弘一がその人。
ひところは故嘉手刈林昌が話題の中心人物だったが、いまでは松田弘一がその(後継者?)ということになる。
嘉手刈、松田ともに学術的というか、高尚に(歌は語るように、語りは唄うように)表現し、歌詞や三線の奏法についても真面目に論じ合うことだが、松田弘一の場合、大抵は(色ネタ)になる。
何処で仕入れてくるのか、実体験なのかその辺の話になるとまさに弘一の独壇場。ウチジフェーシ(返事・合いの手)を入れる隙があらばこそ、もっぱら聞き手にまわらざるを得ない。ボクも色ばなしは嫌いではないから、ノートを出して(メモ)をとることすらある。
男同士の場合、その色ばなしは常識を重んじる人には聞かせられないほど突っ込んだ(色ネタ)になり、生真面目な女性が同席する場合でも、色ネタをオブラートに包んで語る。女性たちは顔を赤らめ、小声で「イヤさぁもうっ!」と言いながらも聞き耳を立てさせる。要するに話術に長けているのである。
そう書くと松田弘一は単なるジビター(品のない人)と勘違いされそうだが・・・・。手振り足ぶり付きは、話の達人の風格?がある。
「色話のあるところには争いは起きない」。
これまた彼の持論。座が和やかな雰囲気をかもしだすのも事実。そういう意味では松田弘一の色ネタは上品?なのだろう。
50年近くの付き合いの中で幾節の歌詞を彼に提供してきたことか。
そのことから仲間内では「松田弘一は上原の一の子分」という風評があるそうだが、決してそうではない。ボクが彼と付き合うのは、そのことによって、ボクが担当するラジオ番組が聴く人のしばしの癒し、少しの潤いになればいいと、勝手に思っているに過ぎない。むしろ、松田弘一が親分でボクは三下奴なのだ。彼は独自の音楽観を展開しつづけている。
「通りすがりの者ですが・・・・」。
彼らしいジョークを発し我が家のチャイムを押す。どういうつもりか食パン、野菜、ピザパイ、時には花束を持って・・・・。これが10年はつづいている。義理堅いことだ。♪義理と人情のこの世界~。人生劇場を地で行っている。
「ヒロカズよ。生きている間は70パンジャー、80パンジャーで居ようではないかっ」。
我が家を訪ねてくれた松田弘一が言ったのは、令和に成り立ての5月中旬のこと。
「令和元年10月1日午後6時半開幕。場所は我が生り島・北谷町「ちゃたんニライセンターカナイホール。ゲストもいつの間にかふくらんで、ザ・フェーレー(徳原清文、松田末吉、桑江良美)、下地イサム&新良幸人、伊波貞子、伊波久美子姉妹、弟の弘二(ギターリスト)、弘三(ベーシスト)、琉球舞踊家座喜味米子、松絃会会員松田一利、よなは徹が華を添えます。
松絃会というのは、ボクが大将を務める(島うた勉強会)の名称。昭和22年に生まれ、学校の勉強よりは、当時、流行りのロックにのめり込む傍ら、エイサーの地謡に魅せられて、何の苦もなくこなしている内に、すっかり歌者になってここまできました。ずいぶん無茶もやってきましたが、老年?になって、人さまに好意を持っていただき、記念の歌会を仕込んでもらえるとは・・・・歌者冥利に尽きます」。
彼の話は歌会を脱線し「北谷エイサー」に及ぶ。
「今年の北谷エイサーを見て嬉しかったのは、地謡を務めているのは、ほとんど(松絃会)に籍を置いている者、または籍を置いていた者。ボクは地謡の現役を引退しているが、弟子筋がちゃんと伝統芸能を繫いでいるのに接すると、次代に渡したという一種の達成感すら覚えるのは、自惚れでしょうか。後輩たちは古来のエイサー歌に、今風のそれを加えて演じている。
「時代の新しい(血)を注入することを忘れない」
松田弘一の熱弁は留まることを知らない。
彼からの仕入れたばかりの、最近の「北谷エイサー」の節名を記す。
*北谷村=作詞作曲・松田弘一。*仲順流り。*久高節。*花ぬカジマヤー。*ダイサナジャー=大田屋節。*御先祖=作詞びせ・かつ。作曲よなは徹。*丘の一本松=作詞上原直彦。作曲普久原恒男。*エイサー頭=作詞作曲松田一利。*今帰仁ぬ城。*テンヨー節。*イマサンニン節。*唐船どーい。*ヒヤルガヘイ節。
エイサー節は地域によって異なることを常とする。
ところで。
松田弘一が我が家に餡パンを持ってやってきたのは、どうやら歌会のパンフレットに載せる一文の執筆依頼にあるらしい。が、雑談に終始して用件を失念して彼は帰ったが・・・・。もし、依頼があれば次のような拙文を渡すつもりである。
歌三線の仲間が寄り合って一杯やる折り、決まって話題にのぼる人物がいる。
松田弘一がその人。
ひところは故嘉手刈林昌が話題の中心人物だったが、いまでは松田弘一がその(後継者?)ということになる。
嘉手刈、松田ともに学術的というか、高尚に(歌は語るように、語りは唄うように)表現し、歌詞や三線の奏法についても真面目に論じ合うことだが、松田弘一の場合、大抵は(色ネタ)になる。
何処で仕入れてくるのか、実体験なのかその辺の話になるとまさに弘一の独壇場。ウチジフェーシ(返事・合いの手)を入れる隙があらばこそ、もっぱら聞き手にまわらざるを得ない。ボクも色ばなしは嫌いではないから、ノートを出して(メモ)をとることすらある。
男同士の場合、その色ばなしは常識を重んじる人には聞かせられないほど突っ込んだ(色ネタ)になり、生真面目な女性が同席する場合でも、色ネタをオブラートに包んで語る。女性たちは顔を赤らめ、小声で「イヤさぁもうっ!」と言いながらも聞き耳を立てさせる。要するに話術に長けているのである。
そう書くと松田弘一は単なるジビター(品のない人)と勘違いされそうだが・・・・。手振り足ぶり付きは、話の達人の風格?がある。
「色話のあるところには争いは起きない」。
これまた彼の持論。座が和やかな雰囲気をかもしだすのも事実。そういう意味では松田弘一の色ネタは上品?なのだろう。
50年近くの付き合いの中で幾節の歌詞を彼に提供してきたことか。
そのことから仲間内では「松田弘一は上原の一の子分」という風評があるそうだが、決してそうではない。ボクが彼と付き合うのは、そのことによって、ボクが担当するラジオ番組が聴く人のしばしの癒し、少しの潤いになればいいと、勝手に思っているに過ぎない。むしろ、松田弘一が親分でボクは三下奴なのだ。彼は独自の音楽観を展開しつづけている。
「通りすがりの者ですが・・・・」。
彼らしいジョークを発し我が家のチャイムを押す。どういうつもりか食パン、野菜、ピザパイ、時には花束を持って・・・・。これが10年はつづいている。義理堅いことだ。♪義理と人情のこの世界~。人生劇場を地で行っている。
「ヒロカズよ。生きている間は70パンジャー、80パンジャーで居ようではないかっ」。