旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

うちなー口を楽しむ・琉歌百景

2009-01-29 17:13:00 | ノンジャンル
★連載NO.377

 いささか私事になるが、私が担当しているRBCiラジオ番組「民謡で今日拝なびら=ちゅう うがなびら」は、2009年2月1日から開始48年目に入る。その中のコーナーのひとつに「琉歌百景」があって、先人たちが詠み残した八八八六詩形の琉歌を今日的解釈を加えて紹介している。
 これについて聴取者及び週間・浮世真ん中の読者から、ラジオの音声だけでは〔正しく聞き取ることができない。文字化できないか〕という要望があり、このたび琉歌を100首連載することにした。作者がはっきりしている詠歌、詠み人しらずのそれを私がわずかに持ち合わせている琉歌に対する感性と私流の解釈を添えて記してみたい。読者の好きな曲節に乗せて歌っていただけることを希望する。30音に込められた悠久の〔琉球の魂〕が感じ取れるのではなかろうか。そのことを共有したいのである。

 琉歌百景①
 ※初春に出じてぃ 菩薩花見りば 花ん咲ち清らさ 実ん繁じさ 
*詠み人しらず
 <はちはるに んじてぃ ぼさつばな みりば はなん さちじゅらさ ないん しじさ>
 菩薩花は米の異称。転じて五穀をさす。〔実=ない〕は果実から転じて、美称として用いている。ここでは米。
 歌意=初春の候に田園地帯に出て四方を眺めると、稲の穂波が春風になびき、実も繁く成って美しい。今年の豊作を約束してくれている。なんと喜ばしいことかとなる。二毛作の沖縄ならではの歌。
 昨今、移入に頼るあまり減反が進み、美しい田園風景を見ることが少なくなったが、やはり五穀豊穣・作る毛作<ちゅくる むじゅくい。農作物一切>が満作であることが、弥勒世<みるく ゆう。平和の世>の基本であるとする観念と願望が込められているように思える。

 琉歌百景②
 ※先年とぅ変わてぃ 恩納村はじし 道挟さでぃ松ぬ 並どぉる美らさ
*神村親方
 <さちどぅしとぅ かわてぃ うんなむら はじし みちはさでぃ まちぬ などるちゅらさ>
 村はじしは、直訳すれば村はずれだが、この場合は集落沿いの宿道<幹線道路>と解釈すると、より風景が見える。恩納むらは、もちろん現在の恩納村。歌の対象となっている場所を特定すれば、国頭地方<くにがみ>への宿駅のひとつ喜納にあった番所界隈と思われる。神村親方は、国頭巡視の一員として恩納間切に立ち寄った。
 歌意=恩納間切喜名周辺の風景は、数年前とはうって変わった。道を挟むようにつづく松並木がなんとも美しく、平和に治まっている琉球の繁栄を実感する。

松林=座喜味城跡

 琉球王統第2尚氏13代国王・尚敬<しょう けい。1700~1751>時代の宰相具志頭親方蔡温<ぐしちゃん うぇーかた さいおん>は、造林政策を強力に推進実施した。恩納並松<うんな なんまち>をはじめ、宜野湾並松<じのーん>、今帰仁並松<なちじん>の出現は、蔡温の功績である。この造林奨励は本島のみならず、宮古、八重山、久米島、伊是名、伊平屋に島々にも及び、担当役人を常駐させて管理させている。戦前を知る方々の話を聞くと、これら並松は実に美しく、夏は人びとの憩いの場になったという。しかし、これらは戦火がすべて焼き尽くしてしまった。


 琉歌百景③
 ※心浮ちゃがゆる 春ぬ野に出じてぃ 風に袖飛ばち 遊ぶ嬉りしゃ
 <くくる うちゃがゆる はるぬ ぬにんじてぃ かじに すでぃとぅばち あしぶうりしゃ>
 1年を通して1桁の気温を記録するのは2、3度程度の沖縄。それも1月後半から2月いっぱいが冷え込みの時期。3月の声を聞くと日増しに寒波も遠のき、野山の木々もみどりが萌え出す。吹く風も肌に快い。その季節感を心得ると歌意は、自ら伝わってこよう。心浮ちゃがゆる=心が浮く。心うきうきのさま。
 歌意=すぐそこまできた春の足音。野山も明るくなった。家に籠もっておれようか。さあ、野外に出て春風に着物の袖をなびかせて遊ぼう。なんと清々しく、開放感を楽しめるこの嬉しさ。
 陽気が安定すると野生の百合の花が山のみどりに白いアクセントをつける。このロケーションを目の当たりして行動しない者は、よほどのフユーナムン<無精者。なまけもの>呼ばわりされるだろう。
 風に袖を飛ばして遊ぶ光景は、年端もいかない子どものようにとれるが、冬着から春着に衣更えしたミヤラビ<女童。乙女>と解釈したほうが、着物の模様まで見えるようで色彩感も味わえる。

 詠歌も三線に乗せて歌ってみると、情緒もひとしお深く濃くなる。では、どの曲節に乗せて歌おうか。さしあたり本調子の「早作田節=はい ちくてん」か、流行の「梅の香り=作詞作曲新川嘉徳。昭和14年」、「恋の花」を選ぶだろう。
 チョッチョイ<藪鶯。幼鳥>も、里に下りるにはまだ早いが、山の端の木立の中で声の調整を始めている。



次号は2009年2月5日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com



春を連れて・さんしんの日

2009-01-21 22:39:01 | ノンジャンル
★連載NO.376

 「故与那覇朝大という先輩画家の後を受けて、僕なぞが絵筆を取っていいのかなぁ。プレッシャーかかるなぁ」
 画家屋良朝春が、ちょっと腰を引いた。私はすかさず攻めの言葉を掛ける。
 「貴方自身が敬愛しつづけてきた朝大氏を継承することを躊躇する気持ちはよくわかるが、17年前に立ち上げたRBCiラジオの一大イベント・「ゆかる日まさる日さんしんの日」だ。いまや年中行事的認知を得ていることは、貴方も承知しているだろう。しかも、貴方と私は終戦直後の石川市城前小学校、石川中学校、石川高校を共にし、卒業後の道はそれぞれに異なったが、今日まで先輩後輩の縁を深くしてきたではないか。先輩である私が提唱した「さんしんの日」。1個とは言え後輩の貴方が深く関わると思うと、想像してみるだけで愉快この上もない。ぜひ力を貸してほしい」
 一気にまくしたてる口説きに、屋良朝春は答えた。
 「解りました。先輩後輩のロマンの共有ですね。描かせてもらいましょう」
 2009年3月4日、読谷村文化センター・鳳ホールを主会場に実施される第17回「ゆかる日まさる日さんしんの日」のポスターは、こうしてでき上がった。

 屋良朝春は、沖縄タイムス社芸術選奨絵画部門の審査員を勤める沖縄画壇大現役の画家である。そんな彼に先輩風を吹かして、イベントのポスターを描かせたのだから、私はずいぶんの非常識を押しつけたのかも知れない。いや、絵画に関しては立派な門外漢だからこそできた所業だろう。
 青を基調にし、沖縄ならではの海と白波と海岸。向こうには、かならずしも伊江島としなくてもよいが、離島の多い沖縄を象徴して“島”を配している。そして、中央に棹太のがっしりした三線。全体的に明るく〔沖縄の春は、さんしんの音色と共にやってくる〕という主催者側のキャッチフレーズそのままである。

 もう20年は経ったろうか。夏の高校野球甲子園大会、8月15日の試合をテレビ観戦しながら思った。
 「日本の終戦の日。正午には、いかに白熱している試合も中断して、全戦没者への慰霊の黙祷を1分間捧げる。この60秒の間は全国民、主義主張を越えて平和を祈念し、心をひとつにしている。この一体感をラジオで表現できないか。沖縄県民こぞって、このことを共有することはできないか」
 そう考えはじめたとき、目の前にあったのが三線。
 「これだっ。21万余丁の三線を保有する沖縄。なぜ、いままでそのことに気づかなかったのか。特定の日を設定して、沖縄中の三線を一斉に弾いてみよう」
 体中の血が熱くなるのを覚えた。さっそく、当時のラジオ局長中村一夫<現QAB琉球朝日放送社長>に相談。平成5年3月4日、那覇市の中心地にあるパレットくもじ9階の劇場を主会場にスタートしたことではあった。

 2009年3月4日、午前11時45分に放送は開始する。15分間で番組説明とチンダミ<調弦>をする。そして、正午の時報を合図に祝儀歌「かじゃでぃ風=ふう」と「特牛節=くてぃぶし」を大演奏する。これは鳳ホールの舞台に正装で正座した古典音楽団体員50名単位の奏者がリードする。客席はもちろん、ラジオに相呼応して県下各市町村の芸能団体、サークル、職場、家庭、学校現場の子どもたちが、一斉に三線を弾き歌うのである。電波とは実に強力だ。今回は神奈川県川崎、愛知県名古屋、東京、大阪、北海道などに加えてパリ、北京、タイ、ドミニカとの中継もすでに仕込済み。つまりは、沖縄人の行くところ、世界中に三線が同行していると言える。
 9時間15分の生放送。各時報毎に「かじゃでぃ風」「特牛節」は、繰り返し演奏されるがその間、民謡団体の合唱、ベテラン、新人の歌者の熱唱。中には「さんしんの日」に合わせて、祖父から歌三線を教わりはじめた5歳児も登場する。
 沖縄人にとって三線とは何だろうか。
 歌謡の起源は〔民族の魂、祈り〕と位置づけしている私風に言えば、言葉・歌詞、三線の音は命の鼓動であり、沖縄人の血そのものであるとしたい。

 第1回から6年、ポスターを描いてもらった親友与那覇朝大は言った。
 「三線をよくする者は、歌三線で参加する。ならば絵描きのオレは絵で参加しよう」
 実のところ、与那覇朝大も歌三線が好きだった。それどころか、彼の出身地八重山民謡の歌唱力は玄人はだしだった。
 与那覇朝大亡き後を受けてポスターを描いた屋良朝春画伯も自風ながら三線を弾く。「さんしんの日」に触発されたかして、数年前から本格的に教習を受け、某民謡団体が毎年行なっている審査会の新人賞部門を受験しているが、いまだ合格の報は聞いていない。
 
 何ごとも継続すれば輪ができる。1月20日時点で東京、大阪、北海道などから入場整理券の予約申し込みがある。「さんしんの日」に知り合って結婚した人もあれば「さんしんの日」に出産したという夫婦の報告もすでにある。
 ともあれ、さまざまな人たちの思い入れとともに、三線の音色が南の島を染め、春を告げる日は近い。


次号は2009年1月29日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com


師匠の手型・“思ゆらば里前”の掛軸

2009-01-15 19:03:14 | ノンジャンル
★連載NO.375

 箱書き。
 祝喜寿上原直彦様“思ゆらば里前”碑文拓本・東恩納寛惇書。とある。そして、箱蓋内側には〔平成二十年十月二十三日崎間麗進作〕の署名。桐の箱長さ65センチ。幅8センチを開けると、京都松榮堂上品防虫香の香りが気を引き締める。納まっているのは縦196センチ、横50センチの掛軸。
 「我ぁ手型やさ」
 沖縄芸能史及び風俗史研究家崎間麗進先生が、この言葉とともに下さった一幅<一軸>である。
   
掛軸=崎間麗進作
 「お前も七十路に達したか。記念のしるしとしての手型<てぃがた>だ」と称して渡された。ありがたく戴いたものの、わが家には床の間もなく、この一幅を掛けるにふさわしい座敷もない。それでも、敬愛する麗進先生の〔手型〕は、私の生来の怠惰癖を戒める宝ものになり、小さな書斎の大きな存在として目の前にあるが、朝夕目をやるたびに「フユー<手抜き・怠け・怠惰>するなよっ。いま少し勉強しろよ」という先生の声が聞こえてくる。掛軸には、
 “思ゆらは里前 島とまいていもれ 島や中城 花の伊舎堂”の琉歌が白抜きされている。「じっそう節」のひと節の文語。歌う場合には、
 “うむゆらば さとぅめ しまとぅめてぃ いもり しまや なかぐしく はなぬ いしゃどう”と、口語になる。
 沖縄本島中部、東海岸に位置する中城村に生まれた1首。もちろん、琉球王府時代の詠歌であることは言を待たない。15世紀に中山<ちゅざん。王府>の有力な武将護佐丸<ごさまる>が築城した中城城<なかぐしくぐしく>をいただいて栄えた伊舎堂村<いしゃどうむら>をはじめ、城下の村々は他地域の人びとの往来があり、交流を深めていたと思われる。そうした中で他村の男性に声を掛けられた伊舎堂乙女の返事の歌なのだ。
 「ほんとうに私のことを思ってくださるならば貴方、あらためて私の生まれ在所を探しておいでなさい。尋ねておいでなさい。在所は人も自然も花のような伊舎堂村です」
 この伊舎堂乙女を口説いたのは誰だったのだろう。男性を〔里前〕と言い、〔いもり=参りませ〕と敬語を使っていることからすると、中城城の臣下か首里王府から遣わされた役人、もしくは他村のちょっと年上の若者だったのか。昭和34年<1958>3月、琉球政府文化財保護委員会により、地元伊舎堂集落・国道329号沿いに建立された歌碑の前に立って思いを馳せらせてみると、村乙女に声を掛けたのは〔自分〕だったような気がしてくるから不思議だ。ちなみに崎間麗進先生は、当時からの文化保護委員である。

じっそう節の碑=中城村在

 書をしたためた東恩納寛惇翁について記さなければなるまい。
 東恩納寛惇=歴史家。
 明治15年10月14日~昭和38年1月24日<1882~1963>。那覇市東町生まれ。当時、沖縄では幼児死亡率が高かったため、出生届を出すのを遅らせるのが一般的だった。寛惇も実際には、明治14年10月7日・旧暦8月15日生だそうな。漢学者の祖父の影響を受けて成長。那覇尋常高等小学校~沖縄県立中学校~熊本県の第五高等学校1部文学部~東京帝国大学史学科に進み、国学を専攻。史学界の主流が近代ドイツの実証主義史学だったことから、卒業論文は「琉球方面ヨリ見タル島津氏ノ対琉政策」であった。
 卒業後は、東京府立第一中学校教諭~同高等学校教授。その間、文部省及び東京府から派遣されて約1年、東南アジア各国、インドを歴訪。法政大学、拓殖大学、和洋女子大学の講師を経て昭和24年<1949>、拓殖大学教授及び付属図書館長・付属高等学校長を兼務。昭和38年<1963>、東京都世田谷区東玉川の自宅で永眠。享年80歳。翁が60余年かけて収集した蔵書は、郷里那覇市の財団法人「東恩納寛惇文庫」に寄贈され、現在は県立図書館に収蔵されている。
 「東恩納の沖縄研究の業績は、歴史学者としての前近代を中心とする歴史研究はもちろんであるが、そのほかに地名・人名に関するものや医学、工芸、芸能、文学、物産など広い意味での文化に関するものなどがあげられる」
 と、沖縄大百科事典に記されている。

 東恩納寛惇。その名を耳にするだけで私なぞは、頭の中が白化するのだが、翁の書の碑文の拓本が、崎間麗進先生の情愛を込めた〔手型〕として私ごとき、まさに〔ごとき〕者の手元にある。なんと分不相応であることか。
 このことを「じっそう節」を好んで歌っている歌者徳原清文や松田弘一らに話したら何と云う言葉が返ってくるだろう。
 「日ごろ、気にもせず見過ごしている歌碑には、多くの先人たちの想いが刻まれているのですね。心して歌わなければ、歌を次代に繋げることはできませんね」
 そう感想するに違いない。私自身も麗進先生の叱咤を得て「勉強・・・・しよう」と思いつつ、この拙文を書き終えた。そして、掛軸の納まった桐の箱に黙礼をした。

次号は2009年1月22日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com


金のない男は・・・・

2009-01-08 11:29:11 | ノンジャンル
★連載NO.374

 「年末ジャンボ宝くじ。3億円とは言わずとも、いくばくか当たったかい」
 正月早々逢う友人たちに、そう問いかけている自分が可笑しい。なにしろ、自分は1枚も買ってないのだから・・・・。相手は、妙に真顔で決まってこう返事する。
 「宝くじは、大金を当てるために買うのではない。夢だよ!夢。夢を買うのだよ」
 この返事の人は、確実に〔はずれ籤〕を当てた人だ。「夢だよ!夢」と割り切るセリフは、達観したように聞こえるがその実、落胆と悔しさを引きずっているに違いない。そうでも言わないことには、あきらめもつくまい。
 

 世の中、濡れ手に粟の掴み取りができるならば、あくせく働くこともないし、棚からぼた餅が落ちてきて口に入るなら“世の中は寝るより楽はなかりけり 浮世のバカよ起きて働け”を決め込むだろう。
 しかし、幸運不運は裏表。ひょんな拍子に銭の雨が身の上に降らないとも限らない。何の働きも努力もしないのに、すごい金ずるを掴むことを昔人はこう言い当てた。
 「金襴袋んかい 足入ったん=チンランブクルんかい フィサいったん」
 金襴は絹、紗などの地組み織りに金糸などを織り込んだ織物。高僧の袈裟や能衣装、帯地に使われる最高級品だ。その金襴で作られた銭袋は、庶民がふところにぶっ込んだ巾着とはわけが違う。それに足を入れるのだから、並大抵の金ずるではない。一生に一度は足とは言わず、五体どっぷり金襴袋に埋まってみたいものだが、待て!訳もなく金襴袋が目の前に出現するだろうか。出現したとしても、その裏には命と引き替えなければならない何かがうずくまっているんだろう。
 西洋の哲学者は「人間がこの世に存在するのは、金持ちになるためではなく、幸福になるためである」と述べている。私の場合、万が一にも金襴袋に出会うことはなかろう。この言葉を座右の銘にする。
 「借金も財産の内」はどうだろう。なるほど、返済能力のない者には銀行も誰も金は貸さないし、借金は信用を担保にした〔財産〕と言えなくもない。それでも、金の貸し借りはむつかしい。次のような俗語がある。
 「今日十日 明日二十日=ちゅう とぅか あちゃ はちか」
 今夜の内に返済するとの口約束で貸した金銭が返ってくるのは、10日後と思え。明日中には返すという約束が果たされるのは、20日後と思えと教えている。今日返せる、明日返せる人がバタバタと借金するはずがない「口車・甘言」に乗るなということもあわせて説いているようだ。金銭の一件で親兄弟の縁が切れたり、長年の友人との情を失った例は多少聞くはなし。出来得ることなら金銭の貸し借りとは距離を置いたほうがよい。その点、私なぞは〔貸し借り〕とは無縁。何故なら・・・・察しのいい読者には〔言わずもがな〕だろうから理由割愛。
 敬愛する沖縄芸能史及び風俗史研究家崎間麗進氏に教わった言葉に「借てぃ八合 成ち一升=かてぃ はちごう なち いっす」がある。先生の解説。
 「つまりだな。急場しのぎにお隣さんから米八合を借りたとする。おかげで子どもたちの腹を満たすことができた。それを返すときには、感謝を込めて二合を添えて一升を返せるよう心がけよということだ。なにしろ人は、いろいろな形で他人さまのお世話を受けて暮らしている。他人さまのさりげなくもありがたい心遣いに対しては、多少なりとも感謝の意を表すことが大切だという教えだな。それが相手の情に対しての礼儀だし、いい人間関係を保持していく基本だろうよ」
 正月にもかかわらず「金・銭」の話になったのは、10数年前に逢った北村孝一氏が編纂した「世界ことわざ辞典」を読み返したからである。「金銭と貧富」の項目を引用させていただいて、今週号の締めにしよう。フィリピン・アクラノン族のことわざ。
 ※金のない男は羽のない鳥と同じ。
 鳥は羽があってこそ自由に飛ぶことができる。人間も経済的裏付けがあってはじめて自分の意思を通すことができるとしている。確かに生きている限り、金持ちである必要はないにしても最低、必要な金がないのはなんとも情けない。こうした惨めな状態に陥らないための警告であろう。ほかにも、男にとって手厳しいことわざが世界中にある。

 ※金のない男は、歯のない狼=フランス。
 ※金のない男は、屍と同じ=ドイツ。
 ※金のない男は、水のない井戸=スペイン。
 ※金のない男は、帆のない船=オランダ、スウェーデン。
 ※金のない男は、男じゃない=イギリス。
 ※金のない男は、結婚式でも見向きもされない=アルメニア。

 日本にも「金のないのは、首のないのに劣る」という諺があるそうな。どこの国でも男は、男らしく生産に励めという戒めだろう。
 沖縄の狂歌を1首。
 “銭ぬ無ん沙汰や馬ぬ糞心 蹴りば蹴る毎に転るでぃ行ちゅさ”
 <ジンぬねん さたや んまぬくす ぐくる きりば きるぐとぅに くるでぃいちゅさ>

 さあ。丑年。
 歯のない狼。屍と同じ。水のない井。帆のない船。首のない劣り者。馬の糞にならないよう、職分を全うして行こう。

次号は2009年1月15日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com



丑年・特牛・明けた年

2009-01-02 11:34:53 | ノンジャンル
★連載NO.373

 牛がやってた。
 丑は12支の2番目に席を得ている。昔の時刻で〔丑の刻〕は、現在の午前2時及びその前後2時間。くどく書くと、午前1時から3時まで。草木も眠る丑三つ時である。
 沖縄口でいまでも使っている言葉に「いっとぅち=ちょっとの意」がある。今日的に言う2,3分の「ちょっと」ではなく「いっとぅち=いっとぅちゃとも言う」は、一時の語源からすると「2時間ほど」をさすわけで、昔と今の時間観念がうかがえて、ゆったりとした時の流れすら覚える。
 〔日本列島、そんなに急いでどこへ行く〕
 「いっとぅち」「ちょっと」は、2時間ほどでありたいと思うのは、フユー<怠惰>過ぎるだろうか。また、丑の方角は北北東。昔風のカラハーイ<唐針。羅針盤>には、こうした12支を記したものを見かけることがある。
 牛に関する言葉を拾ってみよう。
 ※牛、驚くばかり=牛も驚くほど色が黒いこと。
 ※牛に喰らわる=人にだまされるのたとえ。
 ※牛に汗す=【荷車に乗せ牛に引かせると、牛が汗をかくほどの荷物であるということから】蔵書のたいへん多いことをさすことば。
        四字熟語にすると「汗牛充棟」と書くそうな。
 ※牛の一散=【元来、鈍い牛がむやみにはやることから】思慮の浅い者が調子に乗って無分別な行動に走ること。
 沖縄口の会話にも「牛」は、よく登場する。例えば、集合時間を予め定めてあるにもかかわらず、遅れてきた者に対して、座主は皮肉を込めて言う。
 「牛どぅ乗てぃちー=ずいぶんゆっくりだが、牛に乗って来たのかいッ」
 逆に、そうそう急いで行くこともない場合にはこう言う。
 「牛乗てぃ行かな=牛に乗ってゆっくり行こうよ」

 琉歌の中の牛。
 宮廷音楽<古典音楽>の演奏会やそれなりの宴席の冒頭で歌われる曲がある。
 順番は①かじゃでぃ風。②恩納節。③長伊平屋節。④中城はんた前節。⑤特牛節と歌い継ぐ。」これを「御前風五節=ぐじんふう いちふし」という。かつて、琉球国の祝賀の宴で国王の御前にて演奏されたことから、この呼称がついている。
 この御前風五節の最終曲「特牛節」は文字にも表れているように「牛」が関わる。特牛の方言読みは「くてぃ」。日本の古語では「ことひ。ことゐ」と言い「強大な雄牛」をさし、これに対して大きな雌牛を「うなめ」というと、ものの本にある。
 ♪大北ぬ特牛やナジチ葉どぅ好ちゅる 我した若者や花どぅ好ちゅる
 <うふにしぬクティや ナジチばどぅ しちゅる わしたワカムンや ハナどぅしちゅる>
 歌意=大北の巨牛はハイキビを好んで食う。われわれ若者が好きなのは花である。
 大北<うふにし>は、沖縄本島中西部に位置する現在の読谷村<よみたんそん>。かつての読谷山間切の古称。ナジチ葉=なじちゃら・なじゅちゅらとも言うが、和名ハイキビ。どこでも生えている生命力旺盛な雑草。アスファルトの裂け目からでも芽を出す。
 この場合の「花」は、単にフラワーではなく若者同士、青春精気としたほうが歌は膨らむ。
 さらに、花を「弥勒世。平和の世」に置き換えてみてもいいのではないかと思う。
 しかし現在は、この歌詞ではなく、
 「常磐なる松ぬ変わるくとぅ無さみ 何時ん春来りば色どぅまさる」の歌詞を用いている。この歌詞のほうが祝儀歌としては相応しいとしたのだろう。これに類似する和歌が古今集巻一・春の部にある。
 “ときはなるまつのみどりもはるくれば いまひとしほのいろまさりけり”=源宗千朝臣。
 読谷村の名所のひとつ残波岬にある歌碑には〔大北ぬ特牛や・・・・〕の古歌が刻まれていて、地元の人たちは「御前風五節」を歌う場合には、この古歌を採用しているのは、すばらしい〔こだわり〕だと言い切りたい。


特牛節の碑(読谷村残波)

 ではいま1首、狂歌で締めよう。
 ♪牛ん蝸牛ぬん角ぬ生てぃ居りば 同むんとぅ思むる人ぬ可笑さ
 <ウシんチンナンぬん チヌぬミーてぃうりば ヰヌムンとぅ うむる ふぃとぅぬ うかさ>
 歌意=牛も蝸牛<かたるむり>も角が生えている。したがって同種、同格
    と思い込む人がいる。なんと可笑しいことか。
 総理大臣が陣笠議員に成り下がるのもどうかと思うが、陣笠議員が同じバッジを胸にしているからと言って、総理大臣と同格・・・・<かも知れないが今は>同格ぶって選挙区入りして得意満面になっているさまは、なんとも愛嬌があっていい。

 牛歩とは〔牛のようにのろい歩み。物事が遅々として歩まないこと〕と辞書にあるが、それでもいい。「ゆったり。急がず慌てず」と解釈して、今年は牛歩の1年にしようかと思っている。消極的過ぎるだろうか。
 「急じゅる中 ようんなぁ=急いでいるときこそ、ゆったりゆっくりと」<古諺>



次号は2009年1月8日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com

編集人の都合により、更新が遅れましたことを深くお詫び申し上げます・・・。