「ヒコ・・・・。貧乏の哀れはなんとか切り抜けられたが、病の哀れはどうにもならないなぁ・・・・」
彼と交わした最後の会話。沖縄口で切れ切れに語った。沖縄市内の病院のベッドに横たわってのことだ。内臓がすっかりガンに侵されていた。それから十日ほどして彼は逝った。
彼、嘉手苅林昌。昭和、平成を三線一丁で駆け抜けた風狂の歌者である。
「沖縄の島うたは、単に声を発するだけのものではない。語りかけなのだ。歌い込まれた言葉が聞く人の心に届いてはじめて[うた]になる」。
このことを信条に歌い続けた人物。
大正九年〈1920〉七月四日。沖縄市が越来村だったころ、いまの米軍嘉手納飛行場の東端にあった仲原に生まれた。「生りジマがそうなら、軍用地料も大枚入りますネ」。そう持ちかけると「それならいいのが、ウチは代々貧農でネ。11、2歳のころから村の富農に頼み込んで農耕させてもらったり、
アカラー牛小〈乳離れした子〉を預かって成牛にしては、手間賃を得て家計を助けていた。歌は、歌好きだった
アンマー〈母親〉のそれを
フチュクル〈ふところ〉にいたころから聞き覚えた。三線は、近くにいたひとつ年上の小浜守栄兄〈歌者。故人〉に手解きを受けた。学校?尋常小学校三年までは行った。四年生に上がるというとき、
アンマーが言ったんだ『ジルー〈童名。愛称〉。お前は学力優秀につき、勉強は三年まででよしと、校長先生が言っていた』。
アンマーの言葉に偽りはあるまいと、素直に聞き入れて自発的に卒業した。以来、三線片手の山学校さ。独学だね」。
彼の話はさらにづづく。
「キミたちが出た学校は六三三制。大学も四年生で都合十六年だ。ワシが通った山学校は
サンパチルク〈八八八六の琉歌体〉の三十年制だから、学歴はキミよりもワシが上だッ」。
ぽつぽつと、しかも中頭訛りの沖縄口で話すのだが、話題の組み立てが絶妙この上もなく、相手を飽かせない。
『沖縄モンのくせに“嘉手苅林昌”なぞと、読みにくい名前を名乗るなッ』甲種合格で兵役にはついたものの、南方戦線行く先々で[名前がむつかしい]と、上官に精神棒で殴られた。彼は予知した。『この戦争は日本の負けだッ!敵国人ではなく、味方の部下を殴るようでは戦には勝てない』。
その通りになった。
復員後は、これという定職には就かず、小金の入る仕事は何でもした。その方が三線三昧で暮らせる自由があった。おかがで芝居の地謡、ラジオ出演、蓄音器盤、レコード。そしてCD、DVD。CM、テレビ、映画に出るようになり、歌者嘉手苅林昌の名は定着。さらに本土各地でのライブをこなすにいたって不動となる。日本復帰後の本土の週刊誌なぞは、彼を『沖縄・島うたのカリスマ』と紹介した。
「カリスマって何だ?」「あなたは、沖縄の歌の神様だそうです」と説明すると、「新興宗教じゃあるまいし、生きていて“神様”にされてたまるかッ」ときた。
名人上手には、こうした逸話がついてまわる。島うたに心魅かされる者が四、五人揃うと、いつの間にか嘉手苅ばなしになり、それが延々と続く。彼の歌唱表現の影響を受けた現役の歌者は数知れず。皆『嘉手苅林昌のことなら、自分が一番知っている』と公言してはばからないから、彼の奇行、名言、謎言は2、3冊の本になる。が、すべてが[沖縄口の妙]で成されたもので、共通語で記述するのはむつかしい。
歌三線は、すでに骨肉の一部であった。三線を手にしない合間には、酒を愛し煙草を手放さず、こよなくパチンコに親しむ日々だった。
ある日「ワシは煙草をやめるッ」と、突然の宣言をした。理由を問えば「吸いすぎると胃の腑がおかしくなる」と言う。それでいて酒は盛んに飲んでいる。思えば、そのころから胃や肺に違和感があったのだろう。事実、胃の半分を切り取る手術を受けた。それでいてポケットには百円ライターを携帯していて、逢う愛煙者からの〈もらい煙草〉を欠かさない。
「ワシの禁煙は、買ってまでは吸わないということだ」・
理屈のつけ方も、あくまで嘉手苅琉。私なぞも世間に恥じないヘビースモーカー。彼にも喜んで〈もらい煙草〉を提供していたものだが、彼が席を立ったあと、私の煙草が箱ごと彼のポケットに納まったことに気付いたこと再三。つまり、都合のいい(お持ち帰り)だったわけだ。それにも嫌気ひとつ感じなかったのは、彼の人徳?に惚れ、毒されていたのかも知れない。四季折々に吹く風のごとく、ごく自然体に吹き抜けて逝った嘉手苅林昌が、ある意味で羨ましいのは何故だろう・・・・。
酒を飲み合った画家・陶芸家の故與那覇朝大は「彼から三線を取り上げたら、ただのオヤジ以下」と、親愛の情をもって評し、また、彼の最大の理解者故照屋林助は「友人知人にはしたいが、兄弟にはなりたくない」と言い切った。
2012年10月9日。十三年忌を迎える嘉手苅林昌。これで名実とともに“カリスマ”になり、あの世で得意の遊び歌を歌っているにちがいない。
沖縄タイムス 2012年9月2日
「沖縄・人ばなし」掲載。