旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

お知らせ

2012-10-20 00:04:00 | ノンジャンル
 旬刊・上原直彦「浮世真ん中」をご覧いただきまして、ありがとうございます。

 旬刊「浮世真ん中」をしばらく小休止させていただき、11月1日から「うちなぁ日々記」をスタートさせます。

 お楽しみにお待ちください。

 

空手・その道

2012-10-10 00:15:00 | ノンジャンル
 所は東京。新宿のゴールデン街の一角。友人が経営するスナック。肩を並べて座った静岡県出身の青年。初対面ながら意気投合。いつの間にかお互い<ふるさと自慢>になった。青年は幾度か沖縄を旅しているが、私はまだ、静岡に降り立ったことがない。そのハンディキャップが<ふるさと自慢>の引き金になったようだ。やがて、青年が言った。
「上原さんは、空手は何段ですか」
サアフウフウ<ほろ酔い>の私は、マチ藁<板に藁を巻き、庭などに立てて空手の突きの稽古をする>の真似事の経験しかないのに「三段だッ」と、答えてしまった。青年はのってきた。
「ボクは清水の生まれ。任侠の人山本長五郎ッ。人呼んで清水の次郎長の度胸ッ気が五体に流れている。もしも、もしもですよ仮の話。上原さんを黒駒の勝蔵と見立てて、ドスを突き入れたらどうしますッ」
私が最も苦手とする話題になったが、そこは「三段ッ」を公言した手前、言わざるを得なかった。
「ドスなどと物騒な話はよそうよ。しかし、もしも、もしもだよ借りの話。そうした事態になったとしても、キミのドスがキラリッと光った瞬間、私の左足はキミの顎を蹴り上げているだろうよ」
もちろん、しばし後。私の空手は大ぼらであったことを明かし、静岡と沖縄の友好は、うまい酒とともに続いた。
 武道の世界には、いい話がある。
全沖縄古武道連盟の会長職にあった故又吉真豊先生<またよし しんぽう>。結婚40年の間、奥さんと同じフトンで就寝したのは、後にも先にも新婚初夜のみであった。と言うのも、若くして空手の道に入り、寝ても覚めても空手漬け。年ごろになって、結婚はしたものの、初夜の寝屋で見た夢も空手であった。熟睡の中で「相手に攻撃をかける夢」を見て、本能的に蹴りを入れた。
「ギャアッ!」。悲痛な新妻の叫び。翌朝、新妻の太股は青あざでふくれあがっていた。以来、寝室を共にすることはなかった。
「武道家はさびしいものだよ。ひとり寝をしなければならない。いつまでも、たまには孫と一緒に寝たいのは山々だが、夢とは言え手が出たり、足を飛ばしたりしはしないか。それが心配で可愛い孫と寝ることも叶わない。不幸なことだ」
はじめは「さもありなん」と、聞いていたのだが、この話には矛盾と疑問が残る。そこで、真豊先生に問うた。
「先生。お孫さんがいるということは、当然、お子さんがあるということですよネ。新婚初夜以来、奥さんとは別々の就寝なのに、よくぞお子さんが出来ましたネ」先生はニッコリ。悪戯っぽい目を細めて答えた。
「お前さんはブシジョウ者<無粋者>だな。ソノ作業は熟睡中でヤル技ではあるまい。幾部屋離れていようとも、ヤルべきことは目を開き、呼吸を整え、相手を見据えてヤルッ。これまた、武道の極意よッ」
私の冷やかし半分の突っ込みをも、嫌な顔ひとつせず切り返して会話を楽しむ。武道家の練られた精神のなせる業と思える。
私もひとつのことを悟った。
空手のみならず、その道にある人物の前では、その道を茶化したり、面白がりだけをしてはいけない。いかなる道も、その道を歩む人にとっては<人生>そのものだからだ。
私の「空手三段ほらばなし」も、後に武道家の友人の諌めを受けた。
「話としては面白いが、空手ばなしは殊に、酒の座でやるものではない。武道家にとっては愉快ではないし、素人同士の場合、沖縄人は皆、心得だけはあるし、誇りにしている空手。逆なでしてトラブルのもとになりかねない」
「人様の道に土足で踏み入るべからず」これまた、人生の極意。

 


風狂の歌者・嘉手苅林昌の私生活

2012-10-01 00:28:00 | ノンジャンル
 「ヒコ・・・・。貧乏の哀れはなんとか切り抜けられたが、病の哀れはどうにもならないなぁ・・・・」
 彼と交わした最後の会話。沖縄口で切れ切れに語った。沖縄市内の病院のベッドに横たわってのことだ。内臓がすっかりガンに侵されていた。それから十日ほどして彼は逝った。
 彼、嘉手苅林昌。昭和、平成を三線一丁で駆け抜けた風狂の歌者である。
 「沖縄の島うたは、単に声を発するだけのものではない。語りかけなのだ。歌い込まれた言葉が聞く人の心に届いてはじめて[うた]になる」。
このことを信条に歌い続けた人物。
    
 大正九年〈1920〉七月四日。沖縄市が越来村だったころ、いまの米軍嘉手納飛行場の東端にあった仲原に生まれた。「生りジマがそうなら、軍用地料も大枚入りますネ」。そう持ちかけると「それならいいのが、ウチは代々貧農でネ。11、2歳のころから村の富農に頼み込んで農耕させてもらったり、アカラー牛小〈乳離れした子〉を預かって成牛にしては、手間賃を得て家計を助けていた。歌は、歌好きだったアンマー〈母親〉のそれをフチュクル〈ふところ〉にいたころから聞き覚えた。三線は、近くにいたひとつ年上の小浜守栄兄〈歌者。故人〉に手解きを受けた。学校?尋常小学校三年までは行った。四年生に上がるというとき、アンマーが言ったんだ『ジルー〈童名。愛称〉。お前は学力優秀につき、勉強は三年まででよしと、校長先生が言っていた』。アンマーの言葉に偽りはあるまいと、素直に聞き入れて自発的に卒業した。以来、三線片手の山学校さ。独学だね」。
 彼の話はさらにづづく。
 「キミたちが出た学校は六三三制。大学も四年生で都合十六年だ。ワシが通った山学校はサンパチルク〈八八八六の琉歌体〉の三十年制だから、学歴はキミよりもワシが上だッ」。
 ぽつぽつと、しかも中頭訛りの沖縄口で話すのだが、話題の組み立てが絶妙この上もなく、相手を飽かせない。
 『沖縄モンのくせに“嘉手苅林昌”なぞと、読みにくい名前を名乗るなッ』甲種合格で兵役にはついたものの、南方戦線行く先々で[名前がむつかしい]と、上官に精神棒で殴られた。彼は予知した。『この戦争は日本の負けだッ!敵国人ではなく、味方の部下を殴るようでは戦には勝てない』。
その通りになった。
 復員後は、これという定職には就かず、小金の入る仕事は何でもした。その方が三線三昧で暮らせる自由があった。おかがで芝居の地謡、ラジオ出演、蓄音器盤、レコード。そしてCD、DVD。CM、テレビ、映画に出るようになり、歌者嘉手苅林昌の名は定着。さらに本土各地でのライブをこなすにいたって不動となる。日本復帰後の本土の週刊誌なぞは、彼を『沖縄・島うたのカリスマ』と紹介した。
 「カリスマって何だ?」「あなたは、沖縄の歌の神様だそうです」と説明すると、「新興宗教じゃあるまいし、生きていて“神様”にされてたまるかッ」ときた。
 名人上手には、こうした逸話がついてまわる。島うたに心魅かされる者が四、五人揃うと、いつの間にか嘉手苅ばなしになり、それが延々と続く。彼の歌唱表現の影響を受けた現役の歌者は数知れず。皆『嘉手苅林昌のことなら、自分が一番知っている』と公言してはばからないから、彼の奇行、名言、謎言は2、3冊の本になる。が、すべてが[沖縄口の妙]で成されたもので、共通語で記述するのはむつかしい。
 歌三線は、すでに骨肉の一部であった。三線を手にしない合間には、酒を愛し煙草を手放さず、こよなくパチンコに親しむ日々だった。
 ある日「ワシは煙草をやめるッ」と、突然の宣言をした。理由を問えば「吸いすぎると胃の腑がおかしくなる」と言う。それでいて酒は盛んに飲んでいる。思えば、そのころから胃や肺に違和感があったのだろう。事実、胃の半分を切り取る手術を受けた。それでいてポケットには百円ライターを携帯していて、逢う愛煙者からの〈もらい煙草〉を欠かさない。
 「ワシの禁煙は、買ってまでは吸わないということだ」・
 理屈のつけ方も、あくまで嘉手苅琉。私なぞも世間に恥じないヘビースモーカー。彼にも喜んで〈もらい煙草〉を提供していたものだが、彼が席を立ったあと、私の煙草が箱ごと彼のポケットに納まったことに気付いたこと再三。つまり、都合のいい(お持ち帰り)だったわけだ。それにも嫌気ひとつ感じなかったのは、彼の人徳?に惚れ、毒されていたのかも知れない。四季折々に吹く風のごとく、ごく自然体に吹き抜けて逝った嘉手苅林昌が、ある意味で羨ましいのは何故だろう・・・・。
 酒を飲み合った画家・陶芸家の故與那覇朝大は「彼から三線を取り上げたら、ただのオヤジ以下」と、親愛の情をもって評し、また、彼の最大の理解者故照屋林助は「友人知人にはしたいが、兄弟にはなりたくない」と言い切った。
 2012年10月9日。十三年忌を迎える嘉手苅林昌。これで名実とともに“カリスマ”になり、あの世で得意の遊び歌を歌っているにちがいない。

         沖縄タイムス 2012年9月2日
         「沖縄・人ばなし」掲載。