柄にもなく口数を少なくしているところへケータイの振動。
児童文学作家池宮けい女史からである。
「‟友逝きて窓の景色や春霞”あなたはいつまでも元気で下さい。友人のぶんも・・・」。
またぞろ鼻の奥がツンと痛くなり、広げた新聞に目を落とす。
屋良朝春さん死去 78歳画家 タイムス芸術選奨大賞の活字がむなしい。記事はつづく。
「沖縄やフランスの風景などを描いた沖展会員の画家屋良朝春(やら ちょうしゅん)さんが2月21日午後7時39分、多臓器不全のため、金武町介護老人保健施設で死去した。石川市石川(現・うるま市)出身。告別式は24日午後3~4時、うるま市兼箇段セレモニー中頭で。喪主は長男の学(まなぶ)さん。
1957年、石川高校2年生の時に沖展に初出品し、初入選を果たした。翌58年に沖展奨励賞受賞。85年に沖展会員となり、フランスの国際美術公募展「ル・サロン」入賞。「日現展」で内閣総理大臣賞受賞。2003年には沖縄タイムス芸術選奨大賞を受賞した。大阪に拠点を置く美術団体「日本現代美術協会」の副会長を務めた。
年齢は私の1個下。同じ地域、同じ小学校、同じ中学校、高校に通学したせいか、私は彼を(ちょっすん)と呼び、彼は私を(なっこ兄さん)と呼び合っていて、それを終生通していた。中学生のころ、知花俊雄という美術の先生(故人)、そして私と同期の近田洋一(こいつも逝っちまったが・・・後にジャーナリスト、画家)との出逢いが(ちょっすん)を絵画の道へと一気に走らせる。
高校のころは(私にとっては)ひどかった。彼らふたりして(美術部)を立ち上げたが、なにしろ昭和20年代のこと美術部らしい備品がまるでない。親友同士と称していた手前、私は、名ばかりの美術室に呼び出されては半裸にされ、デッサンのための石膏代わりにされた。夏休みなどには3人してスクラップ(鉄くず)集めに専念。それを売った金を持参して那覇に出、油絵用の絵の具を求めたのも昨日のことのようだが・・・・。それにしても「ちょっすん! 1個とは言え先輩よりも先に逝くとは、卑怯なりっ!。
‟友逝きて窓の景色や春霞”
それより先、多くの行動を共にした役者北島角子が逝った。
この9月。横浜市を拠点して活動する女性の会主催で「北島角子を偲ぶ会」を催すという。それに向けてのパンフレットに掲載するとやらで筆を執らされた。次の拙文でいいかどうか。
{追悼・生きている北島角子}
「完全燃焼」。
北島角子の他界を友人知人はそう評価して惜別した。その言葉しか見つからなかったのであろう。本人も心のどこかで(自然に燃え尽きた)と是認した物言い用をしていたように思える。けれどもそれは、彼女の性格の1部である(強がり)が言わせたセリフであって、役者人生を現役で歩んできた彼女の本音ではなかった。
「退院して体力がついたら彦さん(小生のこと)が書いた芝居『辻騒動記・女たちの戦争』を演ろうよ。あれはたった1度しか舞台に掛けてないのよっ!」
そう攻撃的口調を放ち、別荘に静養しにでも行くように、病院に向かった北島角子。完全燃焼どころか、役者としての情念をメラメラと燃やしながら逝ったのだと私は言い切りたい。
「看護婦になりたい」。南洋諸島パラオで少女期を過ごし、引き揚げて名護高校就学当時から、そう将来を見つめていた。戦中戦後を通して、医療に苦しむ人びとを目のあたりにした少女に(看護婦志望)が芽生えたのは、必然と言えるかも知れない。北島角子の社会性と優しさ・・・・。が、父君上間昌成(役者)の何気ないひと言(芝居をやってみないか)で、舞台を迷わず踏むことになった。言葉は異なるが「肉体的医療は医術、精神的な癒しは娯楽。看護婦も役者も、そう変わりはない」。こうした正当な理論?のもとに役者北島角子が生まれた。
時、あたかも沖縄におけるラジオ・テレビの創成期。いち早く放送界に進出することになって、独自の世界を開拓。その意味では彼女、放送が生んだ新しいタイプの(役者)と言える。
過日、2月4日。北島角子がレギュラー出演した番組は、放送開始55年を刻み、RBCiラジオは「おかげさまで55年・まるごと1日・今日拝なびら」を放送した。この記念すべき生放送に彼女の姿がなかった。実に残念。仕方なく遺影をスタジオに飾って無言の出演をしてもらった。逝った人でも、その人のことを忘れない限り、その人は生きている。「偲ぶ会」の舞台をよ~く観て欲しい。ホラッ!舞台に客席に北島角子が笑顔でいるではないか。
このところ、親しい人の(送り人)になっている私。かと言って彼らを追うわけにはいかない。しばしは世に憚っていることにする。藤沢周平はその作品「三屋清左衛門目録」に老境をこう書いている。
「陽残りて、昏るにいまだ遠し」。
児童文学作家池宮けい女史からである。
「‟友逝きて窓の景色や春霞”あなたはいつまでも元気で下さい。友人のぶんも・・・」。
またぞろ鼻の奥がツンと痛くなり、広げた新聞に目を落とす。
屋良朝春さん死去 78歳画家 タイムス芸術選奨大賞の活字がむなしい。記事はつづく。
「沖縄やフランスの風景などを描いた沖展会員の画家屋良朝春(やら ちょうしゅん)さんが2月21日午後7時39分、多臓器不全のため、金武町介護老人保健施設で死去した。石川市石川(現・うるま市)出身。告別式は24日午後3~4時、うるま市兼箇段セレモニー中頭で。喪主は長男の学(まなぶ)さん。
1957年、石川高校2年生の時に沖展に初出品し、初入選を果たした。翌58年に沖展奨励賞受賞。85年に沖展会員となり、フランスの国際美術公募展「ル・サロン」入賞。「日現展」で内閣総理大臣賞受賞。2003年には沖縄タイムス芸術選奨大賞を受賞した。大阪に拠点を置く美術団体「日本現代美術協会」の副会長を務めた。
年齢は私の1個下。同じ地域、同じ小学校、同じ中学校、高校に通学したせいか、私は彼を(ちょっすん)と呼び、彼は私を(なっこ兄さん)と呼び合っていて、それを終生通していた。中学生のころ、知花俊雄という美術の先生(故人)、そして私と同期の近田洋一(こいつも逝っちまったが・・・後にジャーナリスト、画家)との出逢いが(ちょっすん)を絵画の道へと一気に走らせる。
高校のころは(私にとっては)ひどかった。彼らふたりして(美術部)を立ち上げたが、なにしろ昭和20年代のこと美術部らしい備品がまるでない。親友同士と称していた手前、私は、名ばかりの美術室に呼び出されては半裸にされ、デッサンのための石膏代わりにされた。夏休みなどには3人してスクラップ(鉄くず)集めに専念。それを売った金を持参して那覇に出、油絵用の絵の具を求めたのも昨日のことのようだが・・・・。それにしても「ちょっすん! 1個とは言え先輩よりも先に逝くとは、卑怯なりっ!。
‟友逝きて窓の景色や春霞”
それより先、多くの行動を共にした役者北島角子が逝った。
この9月。横浜市を拠点して活動する女性の会主催で「北島角子を偲ぶ会」を催すという。それに向けてのパンフレットに掲載するとやらで筆を執らされた。次の拙文でいいかどうか。
{追悼・生きている北島角子}
「完全燃焼」。
北島角子の他界を友人知人はそう評価して惜別した。その言葉しか見つからなかったのであろう。本人も心のどこかで(自然に燃え尽きた)と是認した物言い用をしていたように思える。けれどもそれは、彼女の性格の1部である(強がり)が言わせたセリフであって、役者人生を現役で歩んできた彼女の本音ではなかった。
「退院して体力がついたら彦さん(小生のこと)が書いた芝居『辻騒動記・女たちの戦争』を演ろうよ。あれはたった1度しか舞台に掛けてないのよっ!」
そう攻撃的口調を放ち、別荘に静養しにでも行くように、病院に向かった北島角子。完全燃焼どころか、役者としての情念をメラメラと燃やしながら逝ったのだと私は言い切りたい。
「看護婦になりたい」。南洋諸島パラオで少女期を過ごし、引き揚げて名護高校就学当時から、そう将来を見つめていた。戦中戦後を通して、医療に苦しむ人びとを目のあたりにした少女に(看護婦志望)が芽生えたのは、必然と言えるかも知れない。北島角子の社会性と優しさ・・・・。が、父君上間昌成(役者)の何気ないひと言(芝居をやってみないか)で、舞台を迷わず踏むことになった。言葉は異なるが「肉体的医療は医術、精神的な癒しは娯楽。看護婦も役者も、そう変わりはない」。こうした正当な理論?のもとに役者北島角子が生まれた。
時、あたかも沖縄におけるラジオ・テレビの創成期。いち早く放送界に進出することになって、独自の世界を開拓。その意味では彼女、放送が生んだ新しいタイプの(役者)と言える。
過日、2月4日。北島角子がレギュラー出演した番組は、放送開始55年を刻み、RBCiラジオは「おかげさまで55年・まるごと1日・今日拝なびら」を放送した。この記念すべき生放送に彼女の姿がなかった。実に残念。仕方なく遺影をスタジオに飾って無言の出演をしてもらった。逝った人でも、その人のことを忘れない限り、その人は生きている。「偲ぶ会」の舞台をよ~く観て欲しい。ホラッ!舞台に客席に北島角子が笑顔でいるではないか。
このところ、親しい人の(送り人)になっている私。かと言って彼らを追うわけにはいかない。しばしは世に憚っていることにする。藤沢周平はその作品「三屋清左衛門目録」に老境をこう書いている。
「陽残りて、昏るにいまだ遠し」。