旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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陽残りて、昏るにいまだ遠し

2018-03-20 00:10:00 | ノンジャンル
 柄にもなく口数を少なくしているところへケータイの振動。
 児童文学作家池宮けい女史からである。
 「‟友逝きて窓の景色や春霞”あなたはいつまでも元気で下さい。友人のぶんも・・・」。
 またぞろ鼻の奥がツンと痛くなり、広げた新聞に目を落とす。

 屋良朝春さん死去 78歳画家 タイムス芸術選奨大賞の活字がむなしい。記事はつづく。
 「沖縄やフランスの風景などを描いた沖展会員の画家屋良朝春(やら ちょうしゅん)さんが2月21日午後7時39分、多臓器不全のため、金武町介護老人保健施設で死去した。石川市石川(現・うるま市)出身。告別式は24日午後3~4時、うるま市兼箇段セレモニー中頭で。喪主は長男の学(まなぶ)さん。
 1957年、石川高校2年生の時に沖展に初出品し、初入選を果たした。翌58年に沖展奨励賞受賞。85年に沖展会員となり、フランスの国際美術公募展「ル・サロン」入賞。「日現展」で内閣総理大臣賞受賞。2003年には沖縄タイムス芸術選奨大賞を受賞した。大阪に拠点を置く美術団体「日本現代美術協会」の副会長を務めた。

 年齢は私の1個下。同じ地域、同じ小学校、同じ中学校、高校に通学したせいか、私は彼を(ちょっすん)と呼び、彼は私を(なっこ兄さん)と呼び合っていて、それを終生通していた。中学生のころ、知花俊雄という美術の先生(故人)、そして私と同期の近田洋一(こいつも逝っちまったが・・・後にジャーナリスト、画家)との出逢いが(ちょっすん)を絵画の道へと一気に走らせる。
 高校のころは(私にとっては)ひどかった。彼らふたりして(美術部)を立ち上げたが、なにしろ昭和20年代のこと美術部らしい備品がまるでない。親友同士と称していた手前、私は、名ばかりの美術室に呼び出されては半裸にされ、デッサンのための石膏代わりにされた。夏休みなどには3人してスクラップ(鉄くず)集めに専念。それを売った金を持参して那覇に出、油絵用の絵の具を求めたのも昨日のことのようだが・・・・。それにしても「ちょっすん! 1個とは言え先輩よりも先に逝くとは、卑怯なりっ!。
 ‟友逝きて窓の景色や春霞”

 それより先、多くの行動を共にした役者北島角子が逝った。
 この9月。横浜市を拠点して活動する女性の会主催で「北島角子を偲ぶ会」を催すという。それに向けてのパンフレットに掲載するとやらで筆を執らされた。次の拙文でいいかどうか。

 {追悼・生きている北島角子}

 「完全燃焼」。
 北島角子の他界を友人知人はそう評価して惜別した。その言葉しか見つからなかったのであろう。本人も心のどこかで(自然に燃え尽きた)と是認した物言い用をしていたように思える。けれどもそれは、彼女の性格の1部である(強がり)が言わせたセリフであって、役者人生を現役で歩んできた彼女の本音ではなかった。
 「退院して体力がついたら彦さん(小生のこと)が書いた芝居『辻騒動記・女たちの戦争』を演ろうよ。あれはたった1度しか舞台に掛けてないのよっ!」
 そう攻撃的口調を放ち、別荘に静養しにでも行くように、病院に向かった北島角子。完全燃焼どころか、役者としての情念をメラメラと燃やしながら逝ったのだと私は言い切りたい。
 「看護婦になりたい」。南洋諸島パラオで少女期を過ごし、引き揚げて名護高校就学当時から、そう将来を見つめていた。戦中戦後を通して、医療に苦しむ人びとを目のあたりにした少女に(看護婦志望)が芽生えたのは、必然と言えるかも知れない。北島角子の社会性と優しさ・・・・。が、父君上間昌成(役者)の何気ないひと言(芝居をやってみないか)で、舞台を迷わず踏むことになった。言葉は異なるが「肉体的医療は医術、精神的な癒しは娯楽。看護婦も役者も、そう変わりはない」。こうした正当な理論?のもとに役者北島角子が生まれた。
 時、あたかも沖縄におけるラジオ・テレビの創成期。いち早く放送界に進出することになって、独自の世界を開拓。その意味では彼女、放送が生んだ新しいタイプの(役者)と言える。
 過日、2月4日。北島角子がレギュラー出演した番組は、放送開始55年を刻み、RBCiラジオは「おかげさまで55年・まるごと1日・今日拝なびら」を放送した。この記念すべき生放送に彼女の姿がなかった。実に残念。仕方なく遺影をスタジオに飾って無言の出演をしてもらった。逝った人でも、その人のことを忘れない限り、その人は生きている。「偲ぶ会」の舞台をよ~く観て欲しい。ホラッ!舞台に客席に北島角子が笑顔でいるではないか。

 このところ、親しい人の(送り人)になっている私。かと言って彼らを追うわけにはいかない。しばしは世に憚っていることにする。藤沢周平はその作品「三屋清左衛門目録」に老境をこう書いている。
 「陽残りて、昏るにいまだ遠し」。


飲むか・飲まぬか・酒談義

2018-03-10 00:10:00 | ノンジャンル
 ♪酒は飲め飲め茶釜で沸かせ 御酒あがらぬ神はなし~
 戦前の学生たちが放歌した「デカンショ節」の文句である。なんと説得力がある名歌と思わないか。琉歌にもその趣旨は見える。

 ◇知る人ぬ外に 語ららんむぬや 心慰みる 酒ぬ甘味
 《しるふぃとぅぬ ふかに かたららん むぬや くくる なぐさみる さきぬあまみ
 「酒の旨さ、効果なるものは、下戸に語り聞かせても分かってはもらえないだろう。これ以上、心を癒してくれるモノはない!」。
 上戸はそう肯定し、下戸は否定する。酒、この飲みものは薬にも毒にもなり得る。日常生活でごく身近にあり、和やかに付き合っていながら、一方では〔毒〕扱いされて禁酒会・節酒会が組織される。
 
 金武村(現・町)に「節酒会」ができたのは大正3年(1914)のことである。
 「ハワイ移民で潤った当村とは言え、婦女子まで飲酒し、年間625石・2万5千円を要している。これは成人2050人とみて、一人当たり3斗5合になる。村選出・県会議員及び村長を発起人として、ここに節酒会を設置する」。
 これが主旨で、次のような会則を決めた。
 1.祝祭日及び来客のある場合を除き、昼間の飲酒を禁ず。
 2.模合、親類、近所の集まり、貸借売買、各字の事務所及び売店内での諸後祝いの飲酒を禁ず。
 3.酒は各字事務所及び組合店の専売とする。
 4.酒量は1ヶ月男一人5合。女は2合5酌。
 5.宴会での献盃禁止。ただし、公的の場合は主賓にのみ総代がこれをなし、宴では主人が客に献酒する。
 6.出産祝いは、当日の午後に限り、家屋普請中の晩酌は一人5合以内。
 7.会則実行の監督は、青年会の役員。などなど。
 効果は覿面。1年当たり青年の消費量は以前の約6/1。酒代は3/1にとどまったという。
 が・・・。何時まで続いたかについては記録はない。
 酒なくしては「夜が明けない国」なぞと、どう解釈すればいいか戸惑う日本。県単位で見ても沖縄は、他県に遅れをとってはいない。健康面での障害事例も少なくない。しかし先月、節酒に関する調査結果の発表があった。

 全国健康保険協会沖縄支部は2月17日、県庁で会見し特定保健指導の対象者などに実施した節酒支援の結果、1年後に飲酒量の減少や健康結果の改善など成果が見られたと発表した。対象者の飲酒量や頻度など、飲酒習慣を詳しく調べ、具体的な助言に役立てた。特定保健指導を盛り込むのは全国でも先進的な取り組みだという。
 協会けんぽ加入者のうち、特定保健指導の対象者など3963人に実施。飲酒問題を見つけるテストで、1日当たり純アルコール摂取量など飲酒習慣を調査し、保健指導の際、休肝日の設定など対象者の状態に合わせて助言した。
 指導後も、電話で飲酒習慣の現状の聞き取りなどを不定期に半年間継続した。指導の1年後、追跡できた1530人を再調査。「危険飲酒」や「アルコール依存症疑い」だった532人のうち、1日当たりの飲酒量が減った人は285人で、約半数が節酒に成功していた。危険飲酒でない人たちの平均飲酒量も減少した。また、体重と身長から算出する体格指数や肝機能、中性脂肪値など健診結果も改善された。対象者の調査は継続されるが、県の担当者は「節酒指導の重要性を県全体で認識してもらうため、健康経営の啓発など進めて行く」としている。

 春は花を愛でて飲み、夏は暑気払いで飲み、秋は名月を肴に飲み、冬は暖を求めて盃が唇の間を往復する。酒は神代の昔から、人間と四つ相撲を取り、数えることのできない(水入り)を繰り返しても、まだ、勝負がつかないでいる。
 またぞろ琉歌。

 ♪酒や肝ぬ門ぬ 鎖ぬ子がやゆら 飲みば飲むふどぅに 開らち行ちゅさ
 《さきや チムぬジョぬ サジぬくぁがやゆら ぬみばぬむふどぅに ふぃらち いちゅさ

 *サーシは錠前。サシぬ子は鍵。*ジョウは門。
 歌意=酒は心の門の錠前を開く鍵と言えよう。飲めば飲むほどに心は広くなる。いや、まったく百薬の長じゃわいっ!

 ♪酒ん飲みみしぇら くぬ世居てぃみしょり 祀り滴りぬ あぬ世行ちゅみ
 《さきん ぬみみしぇら くぬゆWUてぃ みしょり まちりしたたりぬ あぬゆ いちゅみ

 歌意=酒も召し上がるなら、生きているうちにお飲みなさい。正月やお盆の祀り事に供える酒は、一滴ほども、あの世には届きませんよ。

 ♪酒は涙か溜息か~心の憂さの捨てどころ~
 いい気持ちで歌う近江俊郎の声が聞こえる。


歌者・山里勇吉さん逝く

2018-03-01 00:00:00 | ノンジャンル
 「今朝、4時28分。勇吉先生が亡くなりました。最後まで生き切りました」。
 2018年2月9日午前7時36分、メールが入った。
 宜野湾市在・佐喜眞美術館学芸員上間かな恵女史からである。かな恵女史は山里勇吉氏の親戚筋にあたる。
 「う~ん・・・・」。唸るよりほかに言葉がなかった。

 山里勇吉=大正14年(1925)4月1日、八重山石垣市白保生れ。
 
 「ゆうサン」。
 年齢差も省みず、そう呼ばせていただいていた。また、そう呼ばせるような人柄だった。
 琉球放送ラジオに「素人のど自慢」なる公開録音番組があり、25歳の上原は(民謡の部)の予選係り及び番組のAD(アシスタントディレクター)を務めていた。那覇~八重山間はまだ、船便が主だったが、白保から所用でやってきたゆうサンは、所用より「のど自慢」を優先して参加。朗々と「とぅばる」を歌い、会場を、後日放送のラジオの向こうの人たちを唸らせた。上原自身(感動)以外の何ものでもなかった。
 以来、すっかり、ゆうサンに恋心?を抱き、白保を後にし、那覇市安里に住居するや、ほとんど日参。寝起きすら共にした。もっともそれは(上原が酔い潰れただけのことだが・・・・)。
 その間、八重山の風土、風俗、習慣、言語。もちろん、それに裏付けされた島うた・ユンタ・ジラバ、アヨーを聞かせてもらい、時に歌わせてもらい、上原は、八重山の歌の深みにはまり、今日にいたっている。

 日本復帰前の当時、NHKの「のど自慢」の沖縄収録は、琉球放送ラジオが代行していたが、沖縄代表として中央大会に出場したのもゆうサン。曲節は言わずもがな「とぅばらーま」。笛=大浜長栄、囃し方(返しともいう)=外間愛子。
 そのための稽古は厳しかった。
 なにしろ、ゆうサンの声量が並はずれて大きい。自宅で稽古すると隣家から苦情がでる。担当ディレクターに昇格?していた上原は、三人を海浜に同行してもらって(海に向かって)連夜の稽古。NHKのど自慢全国大会は3月21日「春分の日」の東京日比谷公会堂。こちらの稽古は沖縄の寒さが底をついている2月。(海に向かって)のそれは辛かった。その中でのゆうサンのつぶやきを上原は、いまでも忘れない。
 『海の向こうは、ばが生り島八重山(我が故郷八重山)。島に向かって歌うと胸が熱くなる』。
 歌者山里勇吉の世情で称する「勇吉ぶし」の信念はそこを起点としていたのだろう。

 白蟻駆除業、沖縄そば屋、パチンコ店主、民謡酒場経営、金融業、学校給食に供出するマーミナ(もやし)栽培、他にも・・・・とかく、貪欲なほどの生活力旺盛。
 『貧乏の中のこれまでだったからね』。
 これも苦労人ゆうサンのつぶやき。

 大正期最後の年に生まれ、長じて東京の軍需工場に召集され、戦争を体験し、人の生きざま、死にざまを目をそらすことなく見てきたゆうサン。日常生活でも、一切の争いごとを拒否する姿勢が(哲学)になっていて、後の社会福祉活動に繋がってくる。
 「福祉男」。これがゆうサンの通り名になった。那覇市社会福祉協議会に参加して、募金活動のチャリティー公演の中心になった。33年もの年月にわたって・・・・。そこでもゆうサンはつぶやく。
 『いままでは、自分が生きていくのに精いっぱいだった。余裕が出たのでは決してなく、後ろを振り返ってみるとき、自分はひとりで生きてきたのではないことに気付く。恩返しという自惚れではなく、今度は自分が持っている歌三線を社会福祉に活用させていただいている』
 単に思いつき、想い入れにとどまらず即、実行するところが、ゆうサンらしくて頭が下がる。

 ゆうサンの歌は沖縄だけには収まらなかった。本土各地のみならず、南米、ハワイ、ヨーロッパに及んだ。各種表彰がそれを示す。
 *1999年(平成11)=県指定無形文化財・八重山古典民謡保持者認定。
 *同年=那覇市政功労者賞受賞。
 *2005年(平成17)=県功労者賞受賞。
 *1980年(昭和55)=第3回NHK日本民謡大賞・西日本大会優勝。
 *1985年(昭和60)=パリ民俗音楽祭・ベルサイユ市長賞。
 *1987年(昭和62)=大韓民国国際文化協会音楽祭・社会教育文化賞受賞。

 葬儀は2月11日に執り行われた。葬儀終盤、展示してあったゆうサン愛用の三線の糸(ミージル・女絃)が突然、プツンッと切れた。
 「会葬、にふぁいゆー(八重山語・ありがとう)」という、ゆうサンの謝辞だったに違いない。