旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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徳之島の歌・ちゅっきゃり節

2019-12-01 00:10:00 | ノンジャンル
 鹿児島県奄美大島本島には幾度か「歌探しの旅」をしているが、その離島である徳之島には、1度も渡ってない。「徳之島ちゅっきゃり節」という、昔から沖縄では歌劇などにも用いられ、親しまれている(歌)がありながら・・・。かつて琉球の地内であったという親しさで、徳之島への足を後回しにしたような気がする。

 『徳之島』
 沖縄のはるか北部に位置する奄美大島諸島中、2番目に大きい島である。周囲81.1キロ。面積248.25㎢。鹿児島県大島郡に属し、徳之島、伊仙(いせん)、天城(あまぎ)の3町からなっている。島の中央を井之川岳連峰(644.8m)や天城岳連峰(533.00m)が南北にはしり、その周囲を台地が取り巻き、他の島にはない平地と水源を併せ持っている。地質は北部が主に火成岩、南部は琉球石灰岩の隆起サンゴ礁からなる。
 また、山間部にはリュウキュウイノシシやハブ。特別天然記念物アマミノクロウサギなどが生息。ソテツやバショウなどの亜熱帯植物が自生している。基幹産業はサトウキビ栽培。
 歴史的には696年(文武3)「続日本紀」に初めて登場するという。1263年(弘長3)には、琉球北山王に従ったと「琉球王代記」にあり、その時代を「ハナンユ=那覇ぬ世」と称している。しかし、1609年(慶長14)以降は薩摩藩に属し、明治維新を経て今日にいたっている。

 「徳之島ちゅっきゃり節」という流行り唄。歌詞を替えて沖縄でも盛んに唄われてきたひと節がある。

 ♪徳之島ちゅっきゃり節 たっきゃりなさだなや~
  ちゅっきゃりやカナが為 ちゅっきゃり我が為どぅ~と唄い出す。
 

 語意=ちゅっきゃりは数詞で「ひと切れ」の意。
 歌意=我が徳之島のちゅっきゃり節を(たっきゃり=ふた切れ)にできないものだろうか。上の句のひと切れはカナ女のために、下の句のふた切れ目は自分が持ち、ひとつある歌節をふたつにして唄い合いたい。

 ♪我ったり談合小しゅてぃ名瀬かい逃んぎろや
  名瀬や島近かきゃり 鹿児島逃んぎろや


 歌意=好き合っている二人。談合・相談して徳之島から、奄美本島の名瀬に、手に手を取って逃げようか。
 いえいえ!名瀬は海を隔てているとはいえ、島が近いから、いっそ鹿児島に逃げよう。
 男女の掛け歌になっている。
 どうしてこの恋人たち、駆け落ちしようとしたかというと、明治時代の日露戦争の折り、徳之島のある集落のひとりの青年が「徴兵検査」を拒否。上の句を詠んだところ、彼女が下の句を返したというエピソードがある一方、日露戦争の終わりごろ、若者たちの間で即興歌として流行ったという話もある。

 ♪ヨネや拝みんしょうら ぬが夕び参うらんたんちょ
  雨降てぃ風ぬ吹ち 傘小持たらんだな


 歌意=今夜はよく来れましたね。でも、夕べはどうして来なかったの?
雨が降り風が強くて雨傘が差せなかった。

 ♪行けよ鶴嶺丸 また来よ日高丸 今度ぬ下りや我きゃカナ乗せ来よ

 歌意=鶴嶺丸、日高丸。いずれも鹿児島・徳之島間の定期船。「行ってらっしゃい鶴嶺丸!」。「また来てね日高丸」。今度の下り便には、私の愛しい人を乗せてきてね。
 切なく、叫ぶように、また、むせび泣くように唄われるひと節は、聴き応えがある。

 横道にそれるが・・・・。徳之島は「闘牛の島」でもある。
 闘牛は奄美諸島の方言では「ウシトロン」・沖縄口では「ウシオーラシェー」と称する。古くからなされていた農村の伝統的な娯楽のひとつ。ウシナー(牛庭・闘牛場)に2頭の猛牛が登場。男たちが鼻綱を握り「ハーイヤッ」などの矢声(ヤグィ)をかけながら、角を突き合わせて勝負を決める。逃げた牛の負けとなる。双方いずれも退かない場合は(引き分け)の決まり手もある。
 すり鉢状のウシナーができたのは明治18年(1885)ごろとされ、豊年祭など農耕行事の重要な催事であったため、見物は無料だったが、昭和9年(1934)読谷村に県下に名をとどろかせる楚辺アコーという強い牛がいて、これに徳之島の牛・ワナ号が挑戦するとあって前評判が上々。入場料を取ることになった。これが興行としての近代闘牛のさきがけとされている。
 サトウキビの島、闘牛の島、島うたの島・・・・それだけで魅力十分。旅ごころをくすぐる。


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