旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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屋号・ヤーンナー・山城村落

2008-03-27 13:46:16 | ノンジャンル
★連載NO.333

 「上原です」「んッ?どこの上原さん」「大屋前東小の5男・直彦です」「おおっウフヤーメーガリグァーのね。とみ姉さんも直政さんも元気かい」
 那覇市垣花=現・山下町=を同郷とする先輩と久しぶりに逢ったときの挨拶は、このようにして名乗り会話に入る。屋号を言えば、どこの門中、間柄であるかが分かるからだ。
 大屋前東小は、わが家の屋号。歌舞伎に関わっていなくても、沖縄は屋号が発達していて、ごく普通の一家にも屋号が付いている。屋号を方言では「ヤーンナー=家ん名」。命名法には、大別してふたつある。ひとつは、居住する地域の地理・地形・地勢。つまり、山、川、土地の高低、家屋の大小、門構えの方角などによるもの。いまひとつは、戸主の職業、役名、身体的特徴、本家か分家かによるものだ。沖縄には、その一族や一門によって拓かれた村落が多く、したがって同姓が多々でヤーンナーの必要性を促進してきた。同一村落に同一屋号も少なくない。そこで、その時代の当主の名や職業を冠に付けて混乱を避けていて、家族や個人の識別に大きな機能を果たしてきたのである。
 朝、新聞を開く。死亡広告は念入りに目を通す。例えば、そこに「上原」という文字を発見すると、どこの上原なのか住所と屋号を確認する。そのことで門中、間柄の有無を知り[義理]を果たすべきかどうかを判断することになる。新聞には有名有無を問わず、屋号付きの死亡広告が掲載される。これも沖縄社会の儀礼的特徴と言えるが、本土の人には珍しく思えるらしい。沖縄人はこう考えるのだ。
 「人間、ひとりで生きているのではない。多くの人の世話を受けてきた。その返礼を込めて、終焉を知らせることは常識」としているのである。

 本島中部に位置するうるま市石川・山城村落は、島茶〈しまぢゃー。沖縄産茶の総称〉でも知られているが、区民1000人足らずのうち、95%が「山城姓」。やましろ。方言では、やまぐしく、もしくは、やまぐすく。同姓同名も少なくない。
 この地域を担当している郵便配達人の話によると「山城春子さん」が8人「山城キヨさん」が5人いる。
 「宛名が屋号だけの郵便物もあり、戸惑いもあったが、屋号も文化のひとつと考えると家々を訪ねるのが楽しい」
 そう郵便配達人は語っているが、それには背景がある。山城区には、屋号付きの電話帳があるからだ。自治会独自の作成・発行の「山城区班別電話帳」を見せてくれた山城靖さんは「DOME建築設計室」を経営する1級建築士だが、屋号は「清仲加=きよし なぁか」である。「ヤスシ」なのになぜ「キヨシ」なのか。本人は語った。
 「父親の名前キヨシを受け継いでいるだけのこと。いずれ、ヤスシをかぶせた「仲加」にしたらという勧めもあるが、父親の名前を尊重してキヨシ仲加を通す」
 キヨシさんとこのヤスシさんは、親孝行なのである。
 同姓だらけの村落。端からみれば、なんと[煩わしい]とする向きもあるだろう。しかし、同姓が多いだけあって人々の結束・団結・協調意識は強い。年々、都市化が進む中にあっても、古来の年中行事、伝統祭事や山城村落独特の神事は、確実に継承されている。

 因みに、山城区屋号電話帳から、そのいくつかを抜き出してみよう。
 *前門〈めぇ じょう〉。*東門〈あがり じょう〉。*前東門。*池ん根〈いちんにー〉。*前池ん根。*仲池ん根。
 本格的な家屋建築を意味する貫木屋〈むちぢ やー〉をそのまま屋号として、その分家の貫木屋小。一信・貫木屋小〈かずのぶは、現戸主〉の山城家は代々、裕福だったようだ。
 また、屋号を継ぐ男性がいない女系一家だったのか、隣接する楚南村落〈そなん。すなん〉から住まいを移したのか「楚南和子=すなん かずこ」を屋号とする山城和子さん。さらには「京子」「文子」「芳子」「米子」「信子」の現代的名前を屋号にしている山城さん一家もある。はたまた、王府時代の役名・庫理〈庫理。くり。くゐ〉を存続させた下庫理屋〈しちゃぐゐ やー〉。後下庫理〈くし〉。東下庫理〈あがり〉などなどがあり、先祖がノロ〈祝女。神事を司る女性〉だったのか、前殿内〈めぇ どぅんち〉もあり、歴史を感じさせる。
 近くの伊波村落〈いは〉を発祥とする舞踊曲「金細工=かんじぇーくー」を屋号としている山城さんには是非会って、由来を聞いてみたい。

 こうした屋号文化は人口移入や今後の時代感覚が作用して「消滅する」の声もあるが、山城村落に移住する人たちは「山城姓」ではなくても、自ら屋号を付けて一家の歴史を刻んでみるのも、いいのではないかと思う・・・・。それは、端の者の甘く勝手な思い入れなのだろうか。
 ともあれ、山城村落の新茶が芽吹く夏も、そう日数を待たない。

 
山城区班別電話帳

次号は2008年4月3日発刊です!

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春から夏へ・おきなわ

2008-03-20 12:44:35 | ノンジャンル
★連載NO.332

 ♪深山鶯ぬ節や知らにどぅん 梅ぬ匂ゐしちどぅ春や知ゆる
 〈みやま うぐゐしぬ しちや しらにどぅん んみぬ にうぃしちどぅ はるや しゆる〉
 歌意=奥山の木立ちの中で孵化した今年の鶯。暦を知るよしなく、冬・春の推移は知らないはずだが、あたりに梅の香りがただよいはじめたことで春の到来を察知。里へ下りる支度をする。
 名曲「揚作田節=あぎちくてんぶし」に用いられる1首。しかし、いまごろ深山にいる鶯は成鳥ではなく幼鳥、藪鶯だ。したがって「ホーホケキョ」とは未だ鳴けず「チョッ!チョッ」もしくは「キョッ!キョッ」で「ホーホケッ!」が発声できない。この藪鶯を沖縄口では、鳴き声・ささ鳴きからして「チョッチョー」もしくは「チョッチョィ」と称している。
 これらチョッチョーは、高くは飛べないのか、あるいは護身の術を本能的に心得ているのか、木の下枝あたりを飛び渡っている。それが4月になるまでには一段、また一段と上枝へ上がるようになり、そこで初めて「ホーホケキョ!」の美声を発揮するようになる。
 沖縄芸能史及び風俗史研究家崎間麗進先生の庭木の多い自宅における観察によると成鳥の鶯は、朝の太陽から生まれたかのように東方から5羽、7羽と群れをなして飛んできて毎日、決まった木の枝でしばし遊び、昼頃南の方角に飛んでいくそうな。そして、赤太陽〈あかてぃだ・夕日〉の残っているうちに帰ってきて、朝に止まった木の枝を同じように渡った後、東方へ飛び去るという。おそらく、マーキング行為だろうということだ。

崎間麗進先生

 藪鶯を例にした言葉がある。
 ◇「ぶりチョッチョィしんか」
 「ぶり」は群れ。「ぶり星=ぶし。ふし」「むり星」「むりか星」なる言葉もあるように「群れ」を意味し「しんか」は、家来、家臣を意味する「臣下」が転じて、仲間、グループ、気の合う者同士を指す。「仕事しんか」「酒飲みしんか」などなどと広く用いられる言葉で、いまでも日常語の中に生きている。したがって[ブリチョッチョィしんか]は、成鳥になりきっていない藪鶯同様、まとまりのない、大勢の人の寄り集まりを意味する烏合の衆のこと。
 ◇「チョッチョィわらばぁ」
 「わらばぁ・わらび」は童。経験の浅い若者が、実力を伴わない理屈を口角泡を飛ばしている場合に大人が投げかける言葉。ホーホケキョと鳴けないチョッチョィ同様としているのだ。因みに「わらばぁ」には、若者を見下した言葉のニュアンスがある。子ども・童は「わらび」と使ったほうがよろしかろう。
 チョッチョィも、やがて成鳥になりホーホケキョと春を歌う。人間の「チョッチョィわらばぁ」も、長じて立派な大人になる。その春を待って会話を重ねるのは、親と周辺の大人ということになろうか。


チョッチョィとは関係ないが、死語になった「ぶり屋敷。やしち」がある。
 粟石囲いの屋敷ではなく、庶民が借りて住んだ謂わば長屋群を「ぶり屋敷」と称した。ぶり屋敷人〈やしちんちゅ〉と言われるのがイヤで彼らは「早く儲けて一戸建ての家屋・屋敷に住もう」。これが殊に、首里那覇のぶり屋敷に住む人たちの夢であった。終戦直後は沖縄中が皆、ぶり屋敷の暮らしだったことを覚えている。
 いまのアパートやマンションは、ぶり屋敷が近代化した住居なのかも知れないが、昔のぶり屋敷の暮らしを支えていたものは、隣人同士の[義理・人情]だったと聞く。現代のそれは[隣の人は何をする人ぞ]らしいがどうか。

♪鶯の外に知る人やねさみ 奥山に咲ちゅる梅ぬ色香
 〈うぐゐすぬ ふかに しるふぃとぅや ねさみ うくやまに さちゅる んみぬ いるか〉
 歌意=早春の奥山に咲く梅の美しさ・色香をいち早く知るのは鶯以外にはなかろう。それを鶯とともに知ることができないのは、いかにも残念。
 この1首を人間界に当てはめてみよう。
 街方の梅〈女性〉は、メイク・ファッションに長けていて美しく色香を放
っている。それはそれでよし。一方、地方の梅は、とり立てて着飾ることはしないが、自然美を日常として、楚々とした色香を誇っている。いずれが[善し悪し]ではなく、それぞれの梅の香りを放ってくれるほうが鶯〈男性〉としては嬉しい。
 

 春の彼岸に入り、そして明ける。風もすっかり南に回り、太陽も気温を24、5度に上げている。慶良間島〈けらま〉の海を回遊している鯨も、もうすぐ北の海へ旅立つ。海開きも声も聞こえ、野山の色も日1日濃さを増して、うるじんの侯。沖縄の春は短く、夏に向かってまっしぐらである。

次号は2008年3月27日発刊です!

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さんしんの日・余話

2008-03-13 15:59:46 | ノンジャンル
★連載NO.331

 沖縄県内のさんしん保有数・推定25万丁〈2007年調べ〉。
 「希望的数字だが、今年は10万丁が一斉に名曲“かじゃでぃ風”を奏でたのではないか」。そう噂されている。
 2008年3月4日。RBCiラジオ主催「第16回ゆかる日まさる日さんしんの日」は、読谷村文化センター鳳ホールを主会場にして、国内外を電波で結び、午前11時45分から午後9時までの生放送を終えた。出演者だけでも300人強。その周辺にはさまざまな話題が生まれた。



◇人間国宝。
学校のクラブ活動でさんしんを修練している小学生に「将来の夢」を聞いた。「さんしんで明るい家庭を築きたい」「まず、新人賞を取る」「上手になって、踊り好きなおばあちゃんを踊らせたい」など、さまざまだった。その中でスケールが大きく感動的だったのは、ある少年の夢。「将来、名人と呼ばれ、人間国宝になる」。
 例年通り会場ロビーの一角では、一般の方々が持ち寄った「さんしん鑑定」を行っていた。個人所有のそれの制作年代、素材、型等々を見てもらおうというものだ。「隠れた名器」が見つかるかも知れない」この期待もあった。鑑定士は、資格を有し県指定無形文化財・古典音楽技能保持者島袋政雄、岸本吉雄、新垣万善、花城康栄の4氏。殊に島袋政雄氏は、重要無形文化財保持者〔人間国宝〕である。
 件の少年の夢実現の一助になればと放送中、コメントをいただくべくスタッフを島袋政雄氏のもとに走らせた。
 Q・どうすれば、人間国宝になれますか。
 島袋政雄氏は快く、少年が理解しやすいように答えて下さった。
 A・大好きなことをがむしゃらに、夢に向かって努力すること。この世界に天才、秀才はいない。努力に勝る天才なし。
 ちなみに。
 沖縄の〔人間国宝〕は、次の10氏。
* 金城次郎〈陶芸。故人〉*玉那覇有公〈紅型〉*宮平初子〈首里織物〉*与那嶺 貞〈読谷花織。故人〉*平良敏子〈芭蕉布〉*島袋政雄〈古典音楽〉*照喜名朝一〈古典音楽〉*島袋光史〈琉球太鼓。故人〉*城間徳太郎〈古典音楽〉*宮城能鳳〈組踊立方〉。
 
◇さんしん留学。
 この14、5年、県外から「さんしん術」を取得するためにやってくる若者が多くなった。彼らは、職を得て沖縄に定住。団体や研究所に属して修行している。目的、目標がはっきりしている分、上達は速く、地元の者も目を見張っている。その「さんしん留学生」の出演を1時間設けた。
* 伊藤孝太〈東京都〉は、沖縄国際大学大学院生・琉球古典文学専攻。
共演で「山原ゆんた」「安里屋」を歌った竹谷麻耶は山口県出身。八重山民謡の歌者大工哲弘に私事している。オリジナル曲「十五夜ぬ思い」を歌った東京都出身のKIKOは、民謡クラブに出演しているプロ。英語教師の資格を活かして高知県からやってきた山本 藍は、かつて「とぅばらーま」を歌って民謡日本一になった歌者宮良康正の門下生。昨年、沖縄青年と結婚、沖縄人のなったことを喜んでいる。八重山の子守唄「あがろうざ」を披露した。
竹谷麻耶の場合、両親の反対を押し切って来沖しているが、師匠大工哲弘が親元にさんしんや教則本工工四、CDを送り付けて両親を説得。ついに今回は、父親がさんしん持参で駆けつけ、娘の晴れ舞台を許してよかった。沖縄でよかった。さんしんの取り持つ縁。沖縄が近くなった」
 これが父親の感想だった。吉田松陰以来「進取の精神」に長けた、さすが山口県である。


伊藤孝太、竹谷麻耶


宮良康正、山本藍

◇中継及びレポート、活動団体。
 県内=読谷村・赤犬子宮。糸満市・沖縄平和祈念堂。本部町・ベルビーチゴルフ場さんしん倶楽部。うるま市与那城・中央公民館。那覇市・世界遺産識名園御殿の間。宜野座村がらまんホール。那覇市・宮城自治会会館。他に、那覇市・デパート・パレットくもじイベント広場。同市首里公民館。同市仲井間ハイツ。同市壺屋焼物博物館。沖縄市嘉間良公民館。石垣市・八島小学校体育館。与那国町交流センター。宮古島市・ジロウホール等々。
 県外=兵庫県神戸市・琉球ワールド沖縄宝島。大阪府梅田・島うたライブ琉球。同中央区・中央青年センター。神奈川県川崎市・沖縄労働文化会館。愛知県名古屋市・芸術創造センター。長野県長野市・沖縄風時空間太陽家イノー等々からの生中継及び電話FAXレポート。

 海外=ハワイ沖縄県人会。移民100周年に因んで、ブラジル・サンパウロ沖縄県人会館。在フランス県人会のさんしんパーティー。オリンピックイヤー・北京等々からの電話、レポートは圧巻だった。

 そして。
 行事などの開催日までの残日板が掲示されるのは普通、100日前を目途とするが、RBCiラジオのスタジオには、3月5日から来年「第17回ゆかる日まさる日さんしんの日」まで〔あと○○○日〕と記したパネルが、3桁の残日を刻んでいる。

次号は2008年3月20日発刊です!

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さんしんの日・あとさき記

2008-03-06 14:25:38 | ノンジャンル
★連載NO.330

 2008年3月4日。
 RBCiラジオ企画・第16回「ゆかる日まさる日さんしんの日」は、沖縄中のさんしんが春を呼ぶかのように祝儀歌「かじゃでぃ風」を一斉に奏で、9時間15分の放送を終えた。
 3部構成。2度の入れ替え制にもかかわらず、主会場・読谷村文化センター鳳ホールは超満員。フランス、北京、ブラジル、ハワイをはじめ、神奈川県川崎、愛知県名古屋、北海道札幌からの中継を入れ込んで[オキナワンスピリッツ]が、ひとつになった1日であった。県内各地でも、この企画に相呼応して独自の演奏会を開くのは、もう恒例になっている。また、主会場の客席も、琉球音楽に抱くそれぞれの[想い]が熱気をもって綾なした。会場に持参したのは、さんしんだけではない。
 うるま市石川の石川実さんは、胡弓を持って参加。舞台上の奏者のそれに合わせて弾き、楽しんでいた。
 胡弓の沖縄名称は「クーチョー」。
 さんしんと殆ど同時に中国から伝来したとされる。長さ約70㎝。棹はさんしんと同じく黒檀〈黒木。クルチ〉。共鳴板の胴部分は椰子の実などをくり抜いた直径11、2㎝の半球形の丸胴。これに蛇皮を張る。弦は3本。弓には馬の尾毛をつける。演奏する場合は、棹を垂直に立て二胡やチェロのように弓を駆使して音を出す。本来、弦は3本だったが近年、音域を広くするため、名工又吉真栄氏によって4弦胡弓が考案されて、広く普及していて、琉球宮廷音楽には欠かせない楽器である。
 音色は[むせび泣くような]と一般には表されるが、透き通ったそれは、意外に遠くまで通る。距離をおいて、風に乗って聞こえてくるクーチョーの音は何とも情緒的で心洗われる。
 合奏の組合わせは、さんしん5丁に対して胡弓1丁・琴1面〈張〉がよいとされる。現在は、伴奏楽器に落ち着いているが、かつては地方に下がったクーチョーは野遊び・毛遊びの主役を張り、それをよくする者は女童たちにモテたそうな。

石川さん

 石母田竜二の手紙が届いたのは、2月中旬のことである。東京は葛飾区に住み、地下鉄東京駅勤務35才。
「“ゆかる日まさる日さんしんの日”を東京で知り、この4年鳳ホールに参加しています。毎年3月4日が近づくと、さんしんを持って近くの公園でひとり稽古をしています。今年も例にもれず、琉球音階の音色を楽しんでいると、声をかけてきた女性がいました。植村順子と名乗り、いろいろ話しているうちに、彼女が興味を示した訳が分かりました。植村順子さんはフルート奏者でした。彼女の感性がさんしんの音をとらえたのです。すぐに親しくなり後日、私は琉球笛を取り寄せて彼女にプレゼントをしました。以来、昨年のラジオ放送を録音したテープを手本に[ふたりだけの演奏会]を開催しています。今年は連れ立って参加し、客席で舞台の演奏に合わせて弾き歌い、また笛を吹きたいのですが、よろしいでしょうか」
 およそこのような文面。主催側に“否”があるはずがない。大歓迎の意を伝えた。
 そして3月4日。読谷村文化センター鳳ホールには、石母田竜二、植村順子両人の姿があった。
 笛の沖縄口は[ファンソウ・横笙]である。洒落で「ピー」とも言う。
 古くは管笙〈クァンショウ〉、洞笙、半笙、笛、横笛〈ファンテ〉と種類多々。王府時代の宮廷儀式音楽「御座楽・うざがく。うじゃがく」の主要楽器。中には縦笛も含まれている。
 現在、一般的に用いられているのは、中国・明時代の六孔の横笛で「明笛・みんてき」の名称もあって、長さも各種。節曲によって効果的に使い分けられる。沖縄産の竹はもちろん、本土産の竹でも制作しているが、中にはあくまでもファンソー・明笛にこだわり、中国から取り寄せたり、発注する奏者もいる。また、奏者の間では「八重山・小浜島に産し潮風に鍛えられた竹が最もよい音を出す」とする声もある。言われてみれば八重山歌謡の「とぅばらーま」「しょんかね」「小浜節」「月ぬ間昼間」などなどの二揚節は、ファンソーが歌情をいやが上にも高揚させるのは、誰もが認めるところであろう。

植村さん・石母田さん
 音楽はすばらしい。
 人と人の繋がりを濃密にして、絆を深めていく。[オキナワン・スピリッツ]を標榜して実施している「さんしんの日」。何の面識もない同士が、さんしん・胡弓・笛・太鼓・琴を共有、共鳴し会って親密になる。このことだけでも「さんしんの日」を評価したいと感じ入るのは、主者側の我田引水に過ぎるだろうか。


 さんしんの音に目を覚ました沖縄の春は、ツツジやコスモス諸々の花を引き連れて、そこいらまで来ている。

次号は2008年3月13日発刊です!

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