★連載NO.333
「上原です」「んッ?どこの上原さん」「大屋前東小の5男・直彦です」「おおっウフヤーメーガリグァーのね。とみ姉さんも直政さんも元気かい」
那覇市垣花=現・山下町=を同郷とする先輩と久しぶりに逢ったときの挨拶は、このようにして名乗り会話に入る。屋号を言えば、どこの門中、間柄であるかが分かるからだ。
大屋前東小は、わが家の屋号。歌舞伎に関わっていなくても、沖縄は屋号が発達していて、ごく普通の一家にも屋号が付いている。屋号を方言では「ヤーンナー=家ん名」。命名法には、大別してふたつある。ひとつは、居住する地域の地理・地形・地勢。つまり、山、川、土地の高低、家屋の大小、門構えの方角などによるもの。いまひとつは、戸主の職業、役名、身体的特徴、本家か分家かによるものだ。沖縄には、その一族や一門によって拓かれた村落が多く、したがって同姓が多々でヤーンナーの必要性を促進してきた。同一村落に同一屋号も少なくない。そこで、その時代の当主の名や職業を冠に付けて混乱を避けていて、家族や個人の識別に大きな機能を果たしてきたのである。
朝、新聞を開く。死亡広告は念入りに目を通す。例えば、そこに「上原」という文字を発見すると、どこの上原なのか住所と屋号を確認する。そのことで門中、間柄の有無を知り[義理]を果たすべきかどうかを判断することになる。新聞には有名有無を問わず、屋号付きの死亡広告が掲載される。これも沖縄社会の儀礼的特徴と言えるが、本土の人には珍しく思えるらしい。沖縄人はこう考えるのだ。
「人間、ひとりで生きているのではない。多くの人の世話を受けてきた。その返礼を込めて、終焉を知らせることは常識」としているのである。
本島中部に位置するうるま市石川・山城村落は、島茶〈しまぢゃー。沖縄産茶の総称〉でも知られているが、区民1000人足らずのうち、95%が「山城姓」。やましろ。方言では、やまぐしく、もしくは、やまぐすく。同姓同名も少なくない。
この地域を担当している郵便配達人の話によると「山城春子さん」が8人「山城キヨさん」が5人いる。
「宛名が屋号だけの郵便物もあり、戸惑いもあったが、屋号も文化のひとつと考えると家々を訪ねるのが楽しい」
そう郵便配達人は語っているが、それには背景がある。山城区には、屋号付きの電話帳があるからだ。自治会独自の作成・発行の「山城区班別電話帳」を見せてくれた山城靖さんは「DOME建築設計室」を経営する1級建築士だが、屋号は「清仲加=きよし なぁか」である。「ヤスシ」なのになぜ「キヨシ」なのか。本人は語った。
「父親の名前キヨシを受け継いでいるだけのこと。いずれ、ヤスシをかぶせた「仲加」にしたらという勧めもあるが、父親の名前を尊重してキヨシ仲加を通す」
キヨシさんとこのヤスシさんは、親孝行なのである。
同姓だらけの村落。端からみれば、なんと[煩わしい]とする向きもあるだろう。しかし、同姓が多いだけあって人々の結束・団結・協調意識は強い。年々、都市化が進む中にあっても、古来の年中行事、伝統祭事や山城村落独特の神事は、確実に継承されている。
因みに、山城区屋号電話帳から、そのいくつかを抜き出してみよう。
*前門〈めぇ じょう〉。*東門〈あがり じょう〉。*前東門。*池ん根〈いちんにー〉。*前池ん根。*仲池ん根。
本格的な家屋建築を意味する貫木屋〈むちぢ やー〉をそのまま屋号として、その分家の貫木屋小。一信・貫木屋小〈かずのぶは、現戸主〉の山城家は代々、裕福だったようだ。
また、屋号を継ぐ男性がいない女系一家だったのか、隣接する楚南村落〈そなん。すなん〉から住まいを移したのか「楚南和子=すなん かずこ」を屋号とする山城和子さん。さらには「京子」「文子」「芳子」「米子」「信子」の現代的名前を屋号にしている山城さん一家もある。はたまた、王府時代の役名・庫理〈庫理。くり。くゐ〉を存続させた下庫理屋〈しちゃぐゐ やー〉。後下庫理〈くし〉。東下庫理〈あがり〉などなどがあり、先祖がノロ〈祝女。神事を司る女性〉だったのか、前殿内〈めぇ どぅんち〉もあり、歴史を感じさせる。
近くの伊波村落〈いは〉を発祥とする舞踊曲「金細工=かんじぇーくー」を屋号としている山城さんには是非会って、由来を聞いてみたい。
こうした屋号文化は人口移入や今後の時代感覚が作用して「消滅する」の声もあるが、山城村落に移住する人たちは「山城姓」ではなくても、自ら屋号を付けて一家の歴史を刻んでみるのも、いいのではないかと思う・・・・。それは、端の者の甘く勝手な思い入れなのだろうか。
ともあれ、山城村落の新茶が芽吹く夏も、そう日数を待たない。
山城区班別電話帳
次号は2008年4月3日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com
「上原です」「んッ?どこの上原さん」「大屋前東小の5男・直彦です」「おおっウフヤーメーガリグァーのね。とみ姉さんも直政さんも元気かい」
那覇市垣花=現・山下町=を同郷とする先輩と久しぶりに逢ったときの挨拶は、このようにして名乗り会話に入る。屋号を言えば、どこの門中、間柄であるかが分かるからだ。
大屋前東小は、わが家の屋号。歌舞伎に関わっていなくても、沖縄は屋号が発達していて、ごく普通の一家にも屋号が付いている。屋号を方言では「ヤーンナー=家ん名」。命名法には、大別してふたつある。ひとつは、居住する地域の地理・地形・地勢。つまり、山、川、土地の高低、家屋の大小、門構えの方角などによるもの。いまひとつは、戸主の職業、役名、身体的特徴、本家か分家かによるものだ。沖縄には、その一族や一門によって拓かれた村落が多く、したがって同姓が多々でヤーンナーの必要性を促進してきた。同一村落に同一屋号も少なくない。そこで、その時代の当主の名や職業を冠に付けて混乱を避けていて、家族や個人の識別に大きな機能を果たしてきたのである。
朝、新聞を開く。死亡広告は念入りに目を通す。例えば、そこに「上原」という文字を発見すると、どこの上原なのか住所と屋号を確認する。そのことで門中、間柄の有無を知り[義理]を果たすべきかどうかを判断することになる。新聞には有名有無を問わず、屋号付きの死亡広告が掲載される。これも沖縄社会の儀礼的特徴と言えるが、本土の人には珍しく思えるらしい。沖縄人はこう考えるのだ。
「人間、ひとりで生きているのではない。多くの人の世話を受けてきた。その返礼を込めて、終焉を知らせることは常識」としているのである。
本島中部に位置するうるま市石川・山城村落は、島茶〈しまぢゃー。沖縄産茶の総称〉でも知られているが、区民1000人足らずのうち、95%が「山城姓」。やましろ。方言では、やまぐしく、もしくは、やまぐすく。同姓同名も少なくない。
この地域を担当している郵便配達人の話によると「山城春子さん」が8人「山城キヨさん」が5人いる。
「宛名が屋号だけの郵便物もあり、戸惑いもあったが、屋号も文化のひとつと考えると家々を訪ねるのが楽しい」
そう郵便配達人は語っているが、それには背景がある。山城区には、屋号付きの電話帳があるからだ。自治会独自の作成・発行の「山城区班別電話帳」を見せてくれた山城靖さんは「DOME建築設計室」を経営する1級建築士だが、屋号は「清仲加=きよし なぁか」である。「ヤスシ」なのになぜ「キヨシ」なのか。本人は語った。
「父親の名前キヨシを受け継いでいるだけのこと。いずれ、ヤスシをかぶせた「仲加」にしたらという勧めもあるが、父親の名前を尊重してキヨシ仲加を通す」
キヨシさんとこのヤスシさんは、親孝行なのである。
同姓だらけの村落。端からみれば、なんと[煩わしい]とする向きもあるだろう。しかし、同姓が多いだけあって人々の結束・団結・協調意識は強い。年々、都市化が進む中にあっても、古来の年中行事、伝統祭事や山城村落独特の神事は、確実に継承されている。
因みに、山城区屋号電話帳から、そのいくつかを抜き出してみよう。
*前門〈めぇ じょう〉。*東門〈あがり じょう〉。*前東門。*池ん根〈いちんにー〉。*前池ん根。*仲池ん根。
本格的な家屋建築を意味する貫木屋〈むちぢ やー〉をそのまま屋号として、その分家の貫木屋小。一信・貫木屋小〈かずのぶは、現戸主〉の山城家は代々、裕福だったようだ。
また、屋号を継ぐ男性がいない女系一家だったのか、隣接する楚南村落〈そなん。すなん〉から住まいを移したのか「楚南和子=すなん かずこ」を屋号とする山城和子さん。さらには「京子」「文子」「芳子」「米子」「信子」の現代的名前を屋号にしている山城さん一家もある。はたまた、王府時代の役名・庫理〈庫理。くり。くゐ〉を存続させた下庫理屋〈しちゃぐゐ やー〉。後下庫理〈くし〉。東下庫理〈あがり〉などなどがあり、先祖がノロ〈祝女。神事を司る女性〉だったのか、前殿内〈めぇ どぅんち〉もあり、歴史を感じさせる。
近くの伊波村落〈いは〉を発祥とする舞踊曲「金細工=かんじぇーくー」を屋号としている山城さんには是非会って、由来を聞いてみたい。
こうした屋号文化は人口移入や今後の時代感覚が作用して「消滅する」の声もあるが、山城村落に移住する人たちは「山城姓」ではなくても、自ら屋号を付けて一家の歴史を刻んでみるのも、いいのではないかと思う・・・・。それは、端の者の甘く勝手な思い入れなのだろうか。
ともあれ、山城村落の新茶が芽吹く夏も、そう日数を待たない。
山城区班別電話帳
次号は2008年4月3日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com