旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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絆の日々・お盆

2018-08-20 00:10:00 | ノンジャンル
 日の出を促すように、昼間はティーダ(太陽)の威力を煽るように、西日になると、それを中天に引き戻すかのように、蝉しぐれが降りしきっている。この23日は旧盆の入り。先祖霊と向き合う3日間だ。
 僕の場合、祖父母、両親、兄姉の霊と向き合うことになる。9人いた兄姉が戦死をはじめ、それぞれの人生を通っていまや、2つ年上の姉とふたり姉弟になってしまった。もちろん、その分、婿、嫁、孫、甥、姪、それに縁する親戚が増えて、何不足ないが・・・・。

 実の姉弟はふたりでも、ここまで来るには快楽も辛酸もともにした友人がいる。いわゆる友兄弟(ドゥシチョーデー)だ。肉親が少なくなるにつれて、友兄弟の存在は(僕の場合)、人生を左右する。

 戦後歌われるようになった歌に「兄弟小節・チョーデーグァ節」がある。
 作詞前川朝昭。作曲屋良朝久。

 ♪逢ちゃたるや兄弟小 逢ちゃたるや友小 寄らてぃ物語 でぃしち遊ば
  *(はやし)逢ちゃたる兄弟 何隔てぃぬあが 語れ遊ば~

 歌意=ようっ!友よ。この出会いは実に久しぶりだ。これも天縁というもの。何を差し置いても、まずは一献かたむけながら、近況を語り合おう。(出逢いは兄弟のはじまり。何の隔て・何の遠慮がいるものか)。

 「兄弟小節」誕生秘話。
 作詞者前川朝昭(ちょうしょう)。那覇市の牧志・国際通りに出た折り、急な大雨に降られ、当時あった国際劇場の入口に雨宿りをした。なかなか止まない雨・・・・。ふと、隣を見ると見たような顔がある。相手も同じだったらしく、視線を送っている。見つめ合うことしばし。相手の顔がぱっと明るくなった。
 「前川朝昭くん?」
 「大城全恒くんかっ。やっぱりっ」
 ふたりは手を取り合った。
 首里出身の大城は戦時中、福岡県小倉歩兵第1連隊で寝食をともにし、のちに大陸戦線に同行した戦友だったのである。敗戦後の引き揚げは別々で以来、お互いに消息を断っていた。偶然とは言え、手を取り合った2人は近くの小料理屋に場所を移し、深更まで語り合た。昭和30年前後の出来事と前川は秘話を明かした。そのことをベースに作詞された「兄弟小節」。

 ♪覚び出すさ昔 なまになてぃみりば 懐かしんゆらてぃ 語れぶさぬ

 歌意=戦線のことなど、いまになって思い出すこと多々。生死の淵にいたにもかかわらず、懐かしく思う。戦場の恐怖も忘れて、さあ、語り合おう。

 ♪戦世ぬ中ん 漕じ渡てぃ互げに また逢ちぇるくとぅん あてる嬉りさ

 歌意=戦中の、いわゆる「戦世」もお互いに漕ぎ渡ってきた。決して容易ではなかったが、明日に望みを託してきたからこそ、今日の出逢いがあったのだ。生きるということは、何と嬉しいことか。

 ♪たまに友逢ちゃてぃ 如何し別りゆが 夜ぬ明きてぃティダぬ 上るまでぃん

 歌意=こうして、稀に出逢ったからには、そうそう別れるわけにはいかない。今宵は夜が明けて太陽が顔を出すまで語り合おう。

 「人生、生きている間にはさまざまな人と出逢う。兄弟のような縁を結ぶ。殊にワシらの年代は、戦世(戦争)を強いられたから、戦友は肉親同様だ。」
 前川朝昭の歌詞に共鳴して歌三線の僚友屋良朝久(ちょうきゅう)は、哀歌を避け、テンポのよい、あくまでも明るい(はやし付き)の節に仕立てた。これが功を奏して、いまや県民歌ほどになって、多くの人の唇に乗っているのである。

 (前川)なぞと敬称抜きに記すとは、僭越この上もない。戦後民謡界の大御所である。普段「前川ぬWUンチュー・おじ貴」と呼ばせていただいていたことによる所業。こう容赦。

 『前川朝昭』
 明治44年6月5日。与那原町に生まれる。与那原尋常高等小学校卒。平成2年7月13日没。昭和38年、琉球民謡協会を設立。会長就任。昭和29年、民謡のレコード制作を開始。それらの活動の功績が認められ、昭和55年、国から表彰された。古典音楽は屋嘉宗勝、幸地亀千代、波平栄武に師事。免許保持者。糸数カメ、船越キヨ、外間愛子、山内昌徳、登川誠仁らを世に出した。戦後民謡界のオヤジ的存在。
 旧盆は出逢いの時。友も遠方からもやってくる。偲ぶ友もいる。猛暑に友と飲むビールはことのほか旨い。それを奨励してくれるのが蝉しぐれ。友が集まってビールに「兄弟小節」を添えてみるか。


100回目の水上運動会・渡名喜島

2018-08-10 00:10:00 | ノンジャンル
 カツオ漁で栄えた島で、泳力のある若者を育てようと始まり、形を変えながら100回目を数えた渡名喜(となき)島で幼稚園児、小中学生の水上運動会が、今年も7月16日に実施された。
 当日は、人口377人の島に島外から約300人の島出身が駆けつけ、節目の島の運動会を応援した。応援席には糸満市の老人ホームから、肉親とともに車椅子に坐ったままの渡口キヨ子さん(84歳)の笑顔も見える。
 「渡名喜島に生まれ育った自分だが、寄る年波には抗し難く4年前にやむなく島を離れた、水上運動会と聞いては、ホームにじっとしているわけにはいかなかったのよ」。
 そう語る渡口キヨ子さん自身、この水上運動会を体験している。当時は水着などはなくブルーマーとシュミーズで競技に参加していたと語り目を細める。さらにキヨ子さんは島の海に目をやりながら記憶を手繰り寄せる。
 「海に生きる島びとだけが編み出した水上運動会。100回目と言わず200回も続けてほしい」とひと夏のしあわせをかみしめる。

 世代を問わず、水上運動会に対する思い入れもさまざま。
 渡名喜中学校3年生南風原駿、渡口成樹両君にとっては、今年が島の生徒として出場する最後の水上運動会になった。2人は島を離れ本島の高校に進学するからだ。
 水上運動会の開会式には、両君揃って選手宣誓の大役を務めたあと、耐久レース(遠永)、騎馬戦など数多い競技のほとんどに出場。島への思いを身体に刻みつけた。
 南風原君談=ボクにとって、島での生活の100回記念大会になったのが嬉しい。悔いのないよう全力を出し切った。
 渡口君談=水泳力が高まっていく姿を毎年、島の人たちに見てもらえるのが嬉しかった。高校に進学しても夏になったら島に戻り参加する。

 この渡名喜島の水上運動会は(知る人ぞ知る)で、島外にもファンがいる。
 那覇市の稲住光裕さん(30歳)は、3年前に島を訪れて水上運動会を知り、100回目には、何が何でも参加しようと計画。今回は友人4人と連れ立って来島。念願を叶えた。
 「とても価値ある催事。もっと島外に発信しては!と思う」と興奮気味。興味を覚えて稲住さんに同行して(島の伝統ある催事)を目の当たりにした上原佳委子さん(29歳)は「こうも人と人が繋がれるイベントはなかなかない」と絶賛している。
 水上運動会だけに(泳ぎ)の達者な大人が島の子どもたちを集めては、勝手知ったる我が家の庭の海で水泳教室などを開いて指導をしているそうな。したがって水上運動会は幼年のころから「自分の行事」としての意識があり、時を経ても会場の設営、掃除、役割分担を島ぐるみで取り組んでいる。その効果は、島びとの団結という形で継承されている。

 渡名喜島について沖縄辞典を参考に記してみよう。
 『となきじま』
 渡名喜村に属する島。沖縄本島那覇の西方約58キロに位置。面積3.79㎢。周囲11.99㎞。最高標高179m。霧島火山帯に属し、北部に火成類から成る。西の森194mがある。南は堆積岩・変成岩からなる大岳(179m)・ラム岳(178.4m)などが台地をつくり、中央部の低地に集落をなしている。1集落で村を構成し、集落周辺の畑は地割制度の名義で短冊形に区画されている。農作物を生産、中でもニンジンは本土にも出荷。もちろん、漁業も盛んである。交通は那覇市・泊港から定期船があり、約3時間の海路。

 古くは首里王府が直轄したとあって、各役職が置かれたが、時代が下るにつれて隣島の座間味(ざまみ)間切の地頭が管轄していた。

 王府時代の影響か、宮廷音楽の中にも渡名喜を詠んだ歌がある。題して「出砂節=いでぃしなぶし」。

 ♪出砂ぬイビや 泉抱ちむてる 思子抱ちむてる渡名喜里之子
 《いでぃしなぬ イビや いじゅんだち むてる うみぐぁだち むてる とぅなち さとぅぬし

 語意=出砂・地名。*イビ=神所。拝所。*むてる=栄える。

 歌意=渡名喜・出砂は神所を守る守っている故に何事もなく栄えている。島びとはその加護のもと、渡名喜役人以下、島びとも子孫繁栄。栄えている。

 殺伐とした集団の中には歌は生まれない。人が人として命を尊重して仕合っているからこそ(結・ゆい)の精神が継続され、今日の「水上運動会」に繋がってきたのではなかろうか。ちょいと無理な結論付けだった・・・かな。もう、50年ほど御無沙汰しているが、やさしく、たくましい人びとが住む渡名喜島へ心は向かっている。


まーるく島うた・山川まゆみ

2018-08-01 00:10:00 | ノンジャンル
 10代は10代の過ごし方。30代は30代の過ごし方がある。
 その年代らしく、溌剌として生きられるかどうか。このことを想念しながら日々を重ねて行く。その年代々々によってキッチャキ・フィッチャキ(障害、挫折)を経験、体験。さらに、そのことをバネにして人は、自分を形成して行くもののようだ。もちろん人生、キッチャキ・フィッチャキだけではない。自分の世界を歩み、その過程で多くのことを身に付け、多くの人と出逢って視界が広がっていく(歓び)を感受する。

 歌者山川まゆみがこの8月26日、「歌の道・30周年記念公演」を開催する。南風原町立中央公民館黄金ホール。
 「ほう。もう30年もつづけてきたか!」
 これがボクの正直な実感である。
 山川まゆみ。1976年8月13日生。
 中学生のセーラー服の少女が緊張した面持ちで三線を抱えていたのを昨日のように思えるのだが・・・・。時の流れは早いものだ。
 やがて彼女は上江州由孝に師事。平成7年(1995)、姉弟子源古尚子、金城美智代、市成洋子らと組んで「ゆいゆいシスターズ」を結成することになる。
 ゆいゆいシスターズ」なるユニット名に、ボクもいささか関わっている。
 山川まゆみは、その明るいキャラクターが買われて当時、フジテレビが放送していた子ども番組「ひらけ!ポンキッキ」に出演。ひと月にわたり坂田英世作詞、知名定男作曲「ユイユイ」を唄い全国的になった。恥ずかしながら作詞坂田英世は当時のボクのペンネーム。そうしなければならなかった裏ばなしは、いずれ語ろう。
 以来、「ユイとは何ぞや?」「ゆいまーるとは?」と、県内はじめ他府県各地の保育園、幼稚園からの問い合わせが殺到。嬉しい悲鳴をあげたものだ。
 では「ゆい・結」「結回る」とは、沖縄大辞典にはこうある。
 『賃金の支払いを伴わない労働交換の慣例。(略)この労働力のやりとりは地縁、血縁で結ばれた数戸の農家同士で行われる(略)。サトウキビの刈入れ、製糖、田植え、もろもろの収穫作業、家屋、墓の普請などを成す』。
 「ゆいゆいシスターズ」の命名にも、新旧の島うたで(結)の精神の輪を!との願いがあってのことだった。それが果たされているかどうかは、島うたを生活の中に置いてくれる人びとが判定するだろう。
 現在のゆいゆいシスターズのメンバーは山川まゆみ。上原唯、宮城マナミ(まゆみの長女)の3人。門下生の幼稚園児、小学生、中学生で構成するユニット「島うた少女テン」があって県内外でのライブをこなしている。
 今回の記念公演に際して、またぞろ寄せ書きを依頼され、次なる拙文を寄せた。

 「十五夜の月よりま~るい」。
 そうたとえた人がいる。
 「いやさーもうっ」
 山川まゆみは笑顔でふくれっ面をつくるが、私はその人を制して言い直す。
 「何ということをっ。十五夜の月に対して失礼なッ。それもいうならチャブン(茶盆)似だろう。おっとまゆみ!拗ねてはいけないよ。丸は円(まる)に通じる」。
 そして私の屁理屈はつづく。
 「丸は縁起がいい。船の名に(ナニナニ丸)と命名するのは、遠くへ出航してもその船は(目的を果たして、ま~るく円を描いて無事、元に戻るということを縁起してのこと。また、日本の通貨を(円)にしたのも(円滑)な流通を意図している。したがって、まゆみの容姿がま~るいのは(福相)この上もなく、金持ちになれる表れである。さらに、人間関係は(円満)に、歌唱は(円熟味)を増す証。ま~るい顔であれ胴体であれ、いいことずくめである。
 まゆみの場合、流行りのダイエットとやらで面長で痩せこけていては、舞台映えが半減するし第一、明るく元気なキャラクターが発揮できなかろう。ものごとは(いいように)解釈したほうがいい。
 もっとまゆみを褒めよう。
 まゆみはリーダーシップに長けている。上江州由孝師匠ゆずりだろうが「芸は礼に始まり、礼に終わる」。このことを会得していて、歌を離れた私生活でも、その生き方を通している。また、そのことは幼年の弟子筋にも徹底して躾けられているらしく、弟子たちは皆、挨拶上手。ときたま団体で来ては、まゆみの躾け通り「おはようございます。こんにちは」を合唱する。これには一瞬、爽やかな風を感じ、私も思わず起立して返礼をせざるを得ない。日頃の学習『家慣(習)れーどぅ、外慣(習)れー』の実践なのである。『芸は礼に始まり、礼に終わる」とはこのこと。
 まゆみ自身がこの道を全うしてきたからこそ、世間に受け入れられ、唄って30年の日を迎えられたと、私は得心している。記念公演にもしも、もしもであるが、出演者のひとりに加えてもらっていたら、歓んでこの歌を唄う用意をしていた。
 ♪出たでた月が ま~るいま~るい まんまるい お盆のような月が~。