旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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値上げ・ブルータスお前もか!

2011-01-20 00:30:00 | ノンジャンル
 ♪やさしい風を頬に受け 空に向かって走り出す
  今日は楽しい お出かけ日和
  足どり軽く ウキウキ!心もおどる ドキドキ!
  新しい夢が 夢が広がる 笑顔を運ぶ ゆいレール


 2003年8月10日“道の日”に、新軌道系交通機関「ゆいレール」が誕生した。
 「ゆいレール」は、始点の那覇空港駅と終点首里駅を15駅、全長12.9キロを走っている。冒頭の歌「お出かけ日和」は、全国的公募作品の中から選出された藤原美弥子の作詞を普久原垣男が作曲。編曲山城功、うた伊波智恵子で発表。各駅構内に入ると1日中流れている。「ゆいレール」の「ゆい」は、日本各地の農村に発達した相互扶助の精神「結・ゆい」を冠にした命名だ。
 2両編成の車両に乗ると、各駅ごとに10秒の沖縄メロディーが流れる。木琴の音が快い。また、改札口前には、アートグラス壁画を見ることができる。停車駅を告知するアナウンス前の沖縄メロディーの曲名と提示されているアートグラス壁画を紹介しよう。

①那覇空港駅=曲・谷茶前節。壁画・紅型衣装に花笠の四つ竹踊りの図。②赤嶺駅=曲・      童唄花ぬカジマヤー。壁画・平和の礎。③小禄駅=曲・小禄豊見城節。壁画・即興踊りカチャーシーの図。④奥武山公園駅=曲・童唄ジンジン<蛍の幼児語>。壁画・空手の図。⑤壺川駅=曲・唐船どーい。壁画・ハーリー舟。⑥旭橋駅=曲・海ぬチンボーラー<巻貝の1種>。壁画・那覇大綱挽の図。⑦県庁前駅=曲・てぃんさぐぬ花節。壁画・万国津梁の図。⑧美栄橋駅=曲・ちんぬくじゅうしい。壁画・海洋レジャーの図。⑨牧志駅=曲・いちゅび小節<野いちごの意>。壁画・盆踊りエイサーの図。⑩安里駅=曲・八重山民謡安里ゆんた。壁画・壺屋の窯の図。⑪おもろまち駅=曲・船送り唄だんじゅかりゆし。壁画・組踊執心鐘入の図。⑫古島駅=曲・八重山民謡月ぬかいしゃ。壁画・シーサーと赤瓦屋根の図。⑬市立病院前駅=曲・宮古島民謡クイチャー。壁画・末吉の獅子舞の図。⑭儀保駅=曲・芭蕉布。壁画・首里城の図。⑮首里駅=童唄赤田首里殿内。壁画=王朝文化の図。


 ゆいレールの運賃は初乗り3区間までは200円。3キロごとに30円加算。那覇空港駅~首里駅間は290円。運行時間は午前6時から午後11時30分。2両1編成の定員は165人・座席数65。1駅での停車時間は20秒。路線バスのように乗降客の多・少による停車時間のクッションがなく、電車に慣れていない沖縄人は当初、いささか戸惑ったが、今ではすっかり20秒を余裕をもってこなしている。その地方の気象条件によって運行・運休の判断は異なるのは当然。夏場に台風の多い沖縄では、毎秒の風速が20メートルの場合は徐行運転。風速25メートル以上になると運休する。モノレール自体は、風速70メートルに耐えられる構造になっている。

 ♪デイゴの花が咲き誇り 笑顔の花も咲くでしょう
  今日は楽しい お出かけ日和
  足どり軽く ウキウキ!心もおどる ドキドキ
  新しい出会いの予感 思いを結ぶ ゆいレール


 ところで。
 卯年早々、ゆいレールの運賃値上げが報じられた。〔沖縄タイムス・1月12日付〕
 『沖縄都市モノレール(比嘉良雄社長)は、2月1日から「ゆいレール」の運賃を大人片道で20~30円引き上げる。距離に応じて4段階ある運賃のうち、初乗りは200円から220円に、残りは30円ずつ引き上げる。赤字を抱える同社の経営改善が目的で2003年の開業以来初の運賃改定となる。平均引き上げ率は11.1%で、那覇市内の路線バス運賃(220円)などに比較して決定した。新たなサービスとして、①隣駅まで片道100円。②普通回数券の有効期限廃止。③フリー乗車券の使用期間24時間化。④定期券利用者の同伴者の休日割引などを2月1日から導入する。
 11日会見した比嘉社長は「財務状況がすぐに好転するわけではないが、受益者にも協力をお願いしたい」と述べた。〔略〕運賃改定で約2億5000万円の増収を見込むが改定だけで黒字化するのは厳しい状況となっている』

 毎日、ゆいレールを利用し、朝な夕な車窓から沿線の風景を楽しみながら通勤している私の出費も往復で1日、60円増となる。ここ数10年、諸々の“値上げ”を強いられてきたせいか、ゆいレールの運賃値上げにも、眉を曇らせるだけで「勝手におしっ!」の心境である。値上げ報道に接してからというもの、車窓から見る那覇の市街地や夕陽が美しい西の海までが灰色に見えるのは、今年の異常気象のなせる色なのか。心の中で遂につぶやいた。
 「ブルータス!お前もかっ!」

 ♪あいつの心サンシンと 歌声ひびく愛のまち
  今日は嬉しいお出かけ日和
  足どり軽く ウキウキ!心もおどる ドキドキ!
  明日へ続く ゆいレール 明日へ続く ゆいレール


 イメージソング「お出かけ日和」は、希望に満ちた言葉でつづられ、始業から終業まで各駅構内にエンドレスで流れているが、赤字と値上げが同乗するせいか、むなしく聞こえてならない。





卯年・凧たこ上がれ!

2011-01-10 00:31:00 | ノンジャンル
 “もういくつねるとお正月 お正月には凧上げて
   こまを回して遊びましょう はやくこいこいお正月”
 「お正月」の歌は、作詞=東くめ<明治10年~昭和44年=1877~1969>・作曲=滝廉太郎<明治12年~明治36年=1879~1903>による作品。幼稚園唱歌に登場している。
 “もういくつねるとお正月 お正月にはマリついて
   追い羽根ついて遊びましょう はやくこいこいお正月”


 寅年の師走。“はやくこいこい”と囃し立てているうちに卯年はやってきて、慌ただしく中旬に入った。しかし、唱歌のようにはいかず、凧揚げをしている子どもたちは、ついぞ見かけなかった。まして、コマ回しや追い羽根つきなぞ、正月風景からその姿を消してから幾十年たっただろうか。十二支の巡りも新年がやってくるのも古来変わらないが、正月祝いも子どもたちの遊びの様式も、すっかり変わってしまった。これも時の流れというもの。また、変わらなければならないことなのだろう。モノのない時代は、大人も小人もチエを出して新年を寿いだが、昨今はチエを出さなくても金さえ出せば、年越しができるようになっている。

 凧は、平安時代<延暦13年(794)~建久3年(1192)>の初期、中国から伝わったとされていて、中国では「紙鳶=しえん」「紙老鴟=しろうし」と呼称されていたそうな。〔鳶〕も〔鴟〕もタカ科の大形のタカ「とび・とんび」のこと。しかし〔鴟〕は「ふくろう」の意もあるようだ。ちなみに〔鴟尾=しび〕は宮殿・仏殿の棟の両端に取り付けられる飾りの意があり、文字としては「鴟」が「鵄」になって「金鵄勲章」にも用いられている。鳶・鴟・鵄は霊鳥の扱いをされていたのだろう。したがって中国では、凧は勢いよく大空を飛翔するタカになぞえて、子どもたちの無病息災と心身ともに健全に育つようにとの願いを込めて、新年の遊びに取り入れられたと考えられる。
 沖縄の凧は、年代は定かではないが中国・日本からの移入とされる。方言では「マッタクー・マタクー=真凧」が一般的。コウモリにも似ているところから「カーブヤー=こうもりの意」の別称もある。種類もマッタクー・マタクー・カーブヤーの他にブーブーダクハッカクー<八角>があって、地域により名称を異にしている。
 基本形のマッタクーは四角形。シチガラー<敷瓦模様>が多く、色紙のシチガラーを凧の表に貼ったものを「錦マッタクー」・裏に貼ったそれを「ウッチャキター=打ち掛けもの」と区別している。ハッカクーは星形で、東北方面では同形の八角が主流と聞いているがどうか。
ブーブーダクも面白い。凧の両端を弓なりに作り、さらに糸に〔結び紙〕を付ける。結び紙は、上空の風を受けて“ブーブー”と音を発する。ブーブー凧は、その音からついた名称。
 風騨<ふうたん>は、琉球王府時代に中国からもたらされた高級の凧遊びである。凧本体とは別に蝶々を形どった仕掛けをほどこし、凧が上がった後、手元の揚げ糸に貫いて放つと、スルスルと糸をたどって上昇し、あらかじめ凧の手前に仕掛けた結び目まで達すると、それまで開いていた蝶々の羽がひとりでに閉じられて、手元に戻ってくるようになっている。また、紙片や軽い木の葉に小さな穴を開け、揚げ糸に通して放てば、紙片や木の葉は空の凧まで達する。糸電話からの発想なのか、この仕掛けを「デンポウグァ」と称している。「電報」なる言葉を用いたことから察するに「デンポウグゥ・電報小」は、明治のころに、風騨を応用して考案されたものだろう。しかし、小人が操作するには難しく風騨も電報小も愛好家の中でも、上級者の凧遊びであることは言をまたない。また、マッタクーオーラシェー<凧合戦>やマッタクーカキエー<真凧掛合>は、上げた凧と凧をぶつけ合うだけでなく、お互いマッタクージュー<凧の尾っぽ>に小さな刃物を付け、相手の凧の糸を切って勝敗を決める遊びもあったそうだが、私の経験にはそれはない。
 ちなみに凧の方言名称は、宮古島=カブトゥイ<紙鳥>。八重山=ピキター。アヨー。本島南部地域=カババイと言い、愛好家や行政が主催する「カババイ大会」がある。他にも方言名はあろうが、今回は私の調査不足。乞う容赦。

 人間は古代から天を仰ぎ、神との一体化を願望。また、神に近付くために大空を飛翔する鳥に憧れ、夢をふくらませてきた。その発想から遂に飛行機を生み出した!とするのは突拍子に過ぎるか。

制作:黒島良信

 余談。
 正月を人一倍喜んでいる人物がいる。那覇市首里石嶺に住む黒島良信さん<56歳>
 松がとれると、友人知人の家庭をまわり、役目を終えた門松の孟宗竹を手に入れることができるからだ。凧作りの材料である。趣味で真凧や発覚を作りつづけて50年。年間2410枚は作る。それらは知り合いや学校に贈っていて、私も寅年は100余枚を預かった。もちろん、担当するラジオ番組の視聴者プレゼントにしたり、保育園、幼稚園、小学校に届けている。今年も2月に入ったころ、黒島良信手作りの束になった凧30枚ほどが郵送されてくるに違いない。黒島作品の内の2枚は、この原稿を書いている私の部屋のインテリアになっている。筆を置いて目をやると、凧が声をかけてきた。
 「部屋に置かれては窮屈この上ない。初春の大空の空を胴体いっぱいに受けさせてはくれまいか」



卯年。なに見て跳ねる

2011-01-01 01:07:00 | ノンジャンル
 “明雲とぅ連りてぃ ふきる鶯ぬ 声に初春ぬ 夢や覚みてぃ
 〔あきぐむとぅ ちりてぃ ふきる うぐゐしぬ くぃーに はちはるぬ いみや さみてぃ

 歌意=春眠暁を覚えず。深い快眠の中にあったことだが、外は朱に染まる東雲と連れ立って、庭の木々に鶯の声しきり。その声で初春の夢から覚めた。ああ、いい1年のはじまりである。
 鳥の鳴き声は「歌う」の他に「ふける=沖縄語ではフキーン」がある。琉球箏曲の〔歌もの〕と称される3節の中のひとつ「船頭節」では“殿の屋形<館>に鶉<うずら>がふける 何とふけるか立ち寄り聞けば 御世は永かれ世もよかる”と歌われている。
 「ふける」は、ひとつのことに夢中になって心を奪われる・熱中するを意味する〔耽る〕の転語ではないかと思われる。冒頭の琉歌の「ふきる」に、この語意を当てはめると、鶯が春到来に歓喜・夢中して、声を発しているさまが見えてくる。庭の木々は、間違いなく梅の木だろう。詠みびとは、今帰仁王子朝敷<なきじんおうじ ちょうしき>。琉球王統第2尚氏18代・尚育王<1813~1847>の第3子。のちに王位を継ぎ、琉球最後の国王となる尚泰<しょう たい=1843~1901>の弟にあたる。王家直系の王子の館〔御殿=うどぅん〕であってみれば、一般的な庭ではなく、春夏秋冬・花鳥風月をめでる背景が整った立派な庭園だったことは、容易に理解できる。

 さて、巡り来た卯年。
 ウサギはほぼ世界的に分布しているそうな。ノウサギ類とアナウサギ類に分けられ、日本に生息する野生のウサギは6種類ほど。しかし、沖縄・宮古・八重山には野生のウサギは生息しない。移入された時代も定かではないという。けれども、お隣の鹿児島県奄美大島と徳之島には〔アマミクロウサギ〕が生息していて、現存するウサギ科の中でもっとも原始的とされる。学術上も貴重な種で天然記念物に指定されているが、樹皮や若木を好んで食するため、有害視されたこともある。自然と共存するのは並ではないということか。
 ウサギ・卯年は言うまでもなく十二支の4番目。昔の時刻の〔卯の刻〕は、今の午前5時から7時までの2時間。方角は東をさしている。ゲンをかついで言えば、今年卯年は、日本が暗く長い低迷の時から、さわやかな午前5時、東方から明雲を染めて昇る旭日の如く蘇る、いわば〔日本の夜明け〕を予祝するものがある。
 独白=そうでも思わなければ365日、暮らしては行けない。


 ウサギを用いた慣用句に「ウサギの耳」がある。他人の秘密などをよく聞き出してくる人のこと。しかし、長いうさぎの耳も立て様次第。世の中の表ばなしも裏ばなしも、きっちりと聴取したい。そして、取捨選択を誤らず、参考にして行動したい。
 独白=そう決意しなければ、明日に夢が結べない。

 私には、ウサギにまつわるせつない思い出がある。
 昭和24、5年に小学校4、5年生だったころ、当時の少年たちすべてがそうだった例にもれず、私もウサギを飼っていた。学校帰りには、ウサギの好む苦菜類やたんぽぽなどなど。あるいは、ひと様の畑に無断侵入して、芋やその葉カンダバー<かずらの葉>やチデークニー<黄大根=にんじん>などを引っこ抜いて持ち帰っていた。もちろん、うしろめたさはあったが、家で待つウサギのことを思うとその罪悪感はすぐに薄らいだ。また、畑の持ち主も〔ウサギを飼う少年〕の純真を察してかどうか、収穫がすんでも芋・にんじん・大根畑の畔沿いのそれらは残して置いてくれた。かつての大人たちは、少年やウサギに気遣いをする“やさしさ”を持ち合わせていたように思える。
 そんなある日。カンダバーチデークニーを抱えて帰宅し、親父手作りのウサギ小屋を覗いて見ると、2匹いるはずの1匹がいない。残された1匹は寂しくて泣いていたのか目が赤い。慌てふためいて、そこら中を探し回ったが見つからない。〔散歩に出たのだろう。お腹がすいたら帰ってくるさ〕。少年は、ウサギを信じ愛していた。
 そのうち日が暮れて、家族が揃って食卓につく。久しぶりに肉汁が出た。食べ盛りの少年は、嬉々としておかわりを2度した。しかし、馳走を前にしても父も母も、兄や姉たちまでが妙に黙りっこく箸を使っている。いつもは談笑しながらの夕食なのに・・・・。
 翌朝、いつもより早起きして小屋を見やったが、散歩に出たに違いないウサギは帰っていなかった。そして、それっきり行方不明になった。少年のあの日のウサギは、どこへ行ってしまったやら・・・・。北朝鮮に拉致されたのか・・・・。他の肉汁とは異なる〔美味〕の食感を胃袋だけが記録している。

 “ウサギ ウサギ なに見てはねる 十五夜お月さま 見てはねる”
 明治25年<1892>『小学唱歌第二巻』で学校唱歌として認められた作詞作曲不詳の「うさぎ」の1節である。
 ウサギは、十五夜お月さまを見て跳ねる。しからば私は、相変わらずではあるが〔わがウチナー〕と向き合い見つめあい、脚力の限り飛び跳ねることにする。