旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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琉歌百景・歌三線研究要領

2009-06-25 00:35:00 | ノンジャンル
 琉歌百景80

 symbol7あねる木ややてぃん 心有てぃ三味や 寄る辺ねん我身ぬ 命ぬ泉
 〈あねる木や やてぃん くくるあてぃ サミや ゆるびねん わみぬ ぬちぬ いじゅん〉

 語意*あねる=大したモノではない。たかだかのモノ・コト。日常語では「あんねーる」と言い、使い物にならないとか、安易なことをさす場合によく使う。
 歌意=三線は、たかだか木で造ったモノではあるが、三筋の糸を掛けて弾くと、まるでそれ自体に心・命が宿っているかのように思える。さらに歌詞を乗せて歌うと孤独を囲う寄る辺ない自分に生きる力をあたえてくれる。歌三線は、命の泉というべき存在。

 琉歌百景81

symbol7生ちちょりば親に 我歌思み聞かち 慰みん伽ん すたらやしが
 〈いちちょりば うやに わうた うみちかち なぐさみん とぅじん すたらやしが〉

 語意*思み聞かち=思みは「聞かす」にかかる美語。
 詠みびとは、初老になったのだろう。ふと周囲に気をやると両親ともすでに逝っている。
 歌意=両親が健在だったならば、自分が歌いこなせる節々を弾き聞かせたかった。そうすれば、労苦に耐えてきた両親にひと時の安らぎ、ひと時の慰めを共にすることができたものを・・・・。孝行をしたい時には親はなし。

 古典音楽安冨祖流の系譜に伊志嶺朝功〈いしみね ちょうこう。1856~1928〉の名を見ることができる。首里儀保の名家伊志嶺殿内〈とぅんち〉の三男として生まれている。伊志嶺朝功師は、安冨祖流の後継者安室朝持〈あむろ ちょうじ。1841~1916〉を姉婿としたこともあって、幼くして安室師に師事。長じて当流のいや、琉球古典音楽史にその名を刻む多くの名人たちを育成している。
 その伊志嶺朝功師が、常に心得としていた「琉球音楽の研究要領」を後年、弟子筋がまとめて木版にしたものがある。いわく。

 琉球音楽の研究要領

 1 姿勢。胸を張り腹を出し尻を後方に引き、目はその高さの前方を静視して軽く正座する。

 2 楽器。取扱方は實地に習得する。

 3 研究心得
 ① 歌持【前奏】は、其の節の情を絃音にて表わすものなり。
 ② 舞踊は腰で歌は腹で扱ふ。
 ③ 歌の意味をよく理解し、其の情を肝に念じて歌ふ事が肝要である。
 ④ 練習の時眼は師の指運を見、耳は節を聴き、手と喉は師に真似て習得する。
 ⑤ 發音は常に正確に發する。
 ⑥ 曲節を覚える迄は、節の聲より梢々細く、梢々自信付いた時には師の聲も圧する程に声量を出して歌ひ、確信付いた時は進んで独唱して師の批判を受ける。
 ⑦ 打出の「カナ」は軽く付け、力の取り處及聲の切り替る處に注意深く研究する。
 ⑧ 歌の道中は小舟で大洋を行くが如く、大波小波をうまく乗り越えて進行するが如し。
 ⑨ 二時間宛の一日越しの勉強より、1時間宛の毎日勉強は三倍の進歩を見る。急がず根張りを要する。
 ⑩ 歌は性情を養ふのが目的で酒色に染めば必然邪曲となるに付、心身の鍛練修養を怠らぬ事。
 ⑪ 他人の歌の良否を聞分ける様に、自分の歌の正否を悟れたら昇進の途上にして有望である。
 ⑫ 發聲法を研究し聲の鍛錬をなすと共に、曲節の完成を計ること。肉魚と云えど調理悪ければ美味しく食べられぬと同じ。
 ⑬ 絃の走みの原則を悟り、楽曲に應用すれば曲節の悟りも早い。
 ⑭ 曲節は、一絃毎に完全に取扱って行く事が肝要で、一絃が完結してから他の絃に移す様にすれば自然に、正しい曲節が出来上がる。      
 (安冨祖流故石嶺先生言)



野村流松村統絃会3代目師範故宮城嗣周師は常々、弟子にはこう伝えた。
 「およそ芸能なるものは、己の人格・品格を磨くため、言い換えれば【いい人】になるために成すものだ。芸能界に身を置いたばかりに他人と争ったり、侮蔑するような【わるい人】になってはいけない。他人を侮蔑し奢った時点で芸能に関わる資格を失う」。

 琉歌百景82

 symbol7歌ぬ節々ぬ 流行る世の中や 遊び楽しみぬ 果てぃやねらん
 〈うたぬ ふしぶしぬ はやる ゆぬなかや あしびたぬしみぬ はてぃやねらん〉

 歌意=古謡はもちろんのこと祭祀歌、労働歌、祭り歌、情歌、遊び歌。そして時代を映して創作される新歌謡までさまざまな歌が生まれ、人びとの唇に乗る世の中。なんと平和なことか。巷間に歌が流行り歌い継がれ、人びとの遊び楽しみ〈平穏な暮らし〉のある時代は幸せだ。いつまでも続いてほしい。

 ドイツの諺「歌っている所に腰をおろせ。悪人は歌わない」「歌を好む人びとのいる所に暮らせ。悪人はうたわない」。




琉歌百景・箏曲歌物三節

2009-06-18 08:30:00 | ノンジャンル
 コト[琴・箏]は、東洋の撥弦楽器の総称で平安時代には「箏=そうのコト」「琴=きんのコト」「琵琶=びわのコト」などと言い、形や大きさも様々であった。また、弦を支えるコマを動かして調弦するものを「箏」、コマはそうそう動かさず、弦を固定した箇所の音締めで調弦するものを「琴」としたようだが、現在では箏・琴とも[こと]と称している。
 四季を問わず、夜のしじまや月影には、琴の調べがよく似合う。



 琉歌百景74

 symbol7庭の松ぬ葉に 騒ぐ夜嵐ぬ 音ん静みゆる 琴ぬ調べ
 〈にわぬ まちぬふぁに さわぐ ゆあらしぬ うとぅん しじみゆる くとぅぬ しらべ〉

 「庭の松の葉に騒ぐ夜嵐」というからには庶民の住まいではなく、首里士族の広い庭園のある立派なお屋敷だったに違いない。三線の音ならいざ知らず、専門家を除く家庭からは、いまでも琴の音なぞ聞こえない。それほど琴は、一般的ではないということか。
 歌意=外は夜の強い風。庭の琉球松の枝が騒いでいる。しかし、琴の音はそれを鎮めるように流れ聞こえる。諸々の浮世のしがらみの中で揺れて定まらない私の心をも癒してくれる。

 琉歌百景75

symbol7誰が宿がやゆら 月影に染まてぃ 風頼ゆてぃ聞ちゅる 琴ぬ音色
 〈たがやどぅが やゆら ちちかじん すまてぃ かじたゆてぃ ちちゅる くとぅぬ にいる〉

 歌意=どなたのお屋敷だろう。美しい月影をさらに清かに染めて、琴の音が聞こえる。風を頼りに耳にしているが、その音色は聞く者の心をとらえてやまない。

 琉球箏曲は、尚貞王代の1702年、稲福盛淳〈いなふく せいじゅん。生没不明〉が王命を受けて薩摩に渡り、服部清左衛門政真父子に師事して八橋流を学び、これを琉球音楽と融合させて広めた。つまり、稲福盛淳は琉球箏曲の祖と言える。伝来の曲は[段のもの]と言われる声楽のない演奏のみの7曲。これらは「管撹・すががち」と称している。
 すなわち①滝落管撹〈たちうとぅし〉。②地管撹〈ぢ〉。③江戸管撹。④拍子管撹。⑤佐武也管撹〈さんや〉。⑥六段管撹。⑦七段管撹の7曲。そして[歌物]という歌詞付きの3曲の都合10曲である。歌物3曲は、薩摩で修得したにもかかわらず現在、大和には節名、歌詞、旋律など原曲とするものが見当たらずにいるという。そうなると、歌物3節は、沖縄にのみ現存することになる。しからば[琉歌」と位置付けて記す。

 琉歌百景76〈歌物その①船頭節〉

 symbol7殿の屋形に鶉がふける なんとふけるか立ちより聞けば 御世は永かれ世もよかる

 屋形は〈館〉の文字も見える。鶉〈うずら〉は沖縄語でウジラ。ふけるは、フキーンと言い、鶯などの美声に用い、鳥類の鳴く、歌うとともに詠歌や日常語に生きている。替え歌に“吉野山路尋ねて行けば 顔に桜が散りかかる・・・・・”があるようだが、ほとんどが歌われていない。

 琉歌百景77〈歌物その②対馬節〉

 symbol7われは対馬の鍛冶屋の娘 鎖作りて君つなぐ
 
 替え歌“君は浮舟儚い錨 縁の綱かや切りかねる”

 琉歌百景78〈歌物その③源氏節〉

 symbol7源氏狭衣伊勢物語 数の書冊の恋の文

 替え歌“会えた見たさや飛び立つばかり かごの鳥かやままならぬ”

 箏が三線音楽の伴奏楽器として公式に登用された年代は明確ではない。しかし、伊江親方朝睦〈いゐ うぇーかた ちょうぼく〉が三司官〈大臣〉在職中の1784年から1816年まで記した「日日記=ひにっき」の1808年の2月、さらに2年後の2月、6月の日記には、在番奉行や国賓のもてなしに「三絃、琴などいたさせ」云々の記述があるそうだ。そのことから推察すると、そのころすでに[箏]は定着していたと思われる。
 王府時代、男性奏者によって発達してきた[箏]は、大正時代中期には仲里陽史子〈1892~1946〉、又吉静子らの女性継承者を輩出。しだいに女性の手に移ることになる。昭和15年〈1940〉に「琉球箏曲興陽会」、昭和32年〈1957〉「琉球箏曲保存会」が設立されて今日に至っている。両会の会員の99パーセントは女性と目され、毎年9月10日を「ことの日」として野外演奏会を開催している。

 琉歌百景79

 symbol7琴や三線の心預じきやい 浮世なだやしく渡てぃ行かな
 〈くとぅや さんしんに くくる あじきやい うちゆ なだやしく わたてぃ いかな〉

 語意*なだやしく=おだやかに。
 歌意=たかだか100年の人生。何をくよくよしようぞ。琴や三線に心を預けて、穏やかに浮世を渡って行こうではないか。
 やはり、歌・三線・琴・鳴物などの音楽は、沖縄人の精神文化と深く関わっている。



琉歌百景・二揚五節その⑤

2009-06-11 00:13:00 | ノンジャンル
 琉歌百景71【二揚五節その⑤述懐=しゅっくぇ。すっくぇ】

 辞書を引いてみると【述懐・じゅっかい】は、過去のことについて、思いを述べること。その内容。愚痴を言うこととあるが、節名のそれは意味を異にしているようだ。
 古典音楽家・故宮城嗣周師は「名残り惜しいを意味する沖縄語“シクェーシュン・シクェースン”に漢字を当てたもの」としている。確かに述懐節に適した歌詞として記録されている50首近くの詠歌は、数首除くほとんどが「惜別」を内容としている。「仲風・述懐」と合わせ読みされるように「仲風」を恋人に逢いに行く、つまり「忍び=しぬび」の歌とし「述懐節」を逢瀬の後の「惜別」を表すものと位置付けをされている。中には、過去のことについて、思いを述べた詠歌がないわけではない。しかし、多くは惜別やそれ以前の恋人に逢えない心情など、恋情の様々な形が詠まれている。

 symbol7さらば立ち別から 与所目無んうちに やがてぃ暁ぬ 鶏ん鳴ちゅら
 〈さらば たちわから ゆすみ ねんうちに やがてぃ あかちちぬ とぅいん なちゅら〉

 歌意=ふたりだけの夜を語り合ったことだが、さあ、今日は世間が起き出して人目につかないうちに別れよう。もうすぐ暁を告げる一番鶏が鳴く時刻だから。



 琉歌百景72

 symbol7朝夕さん御側 拝み馴り染みてぃ 里や旅しみてぃ 如何し待ちゅが
 〈あさゆさん うすば WUがみ なりすみてぃ さとぅや たびしみてぃ いちゅし まちゅが〉

 歌意=朝な夕な片時も離れず、貴方の顔を拝し睦ましく過ごしているのに、こん度貴方は長い船旅にお出でになる。帰省するまで1年か2年か。その間、私はどう過ごせばよいのか。愛が深い分、寂しさ、切なさは増すばかり。
 この1首は、舞踊「花風=はなふう」の入羽〈いりふぁ〉に「下出し述懐節=さぎ んじゃし」として歌われている。ただ、舞踊の内容からするとこの男女は、夫婦ではなく遊女と里〈さとぅ。夫も意味するがこの場合は彼〉の惜別の情と解釈したほうがよい。その証に「花風節」には「ジュリ小風。遊女風」との別名がある。
 仲風・述懐は、組踊や芝居に多く用いられているため、一般に広く普及。狂歌にも登場する。



 琉歌百景73

 symbol7正月ぬ御酒 飲み過ぎてぃからに 酔ゐ泣ちぬ合間や 仲風述懐
 〈そぉぐぁちぬ うじゃき ぬみすぎてぃからに WUゐなちぬ まどぅや なかふう・しゅっくぇ〉

 歌意=めでたい正月の祝宴というのに泣き上戸の御仁は、酒を飲み過ぎて泣き癖を発揮しながらも、泣き合間々々に仲風、述懐を弾き歌って新年を寿いでいる。なんと奇妙でおかしい正月風景であることか。

古典音楽界に「仲風止まゐ・述懐止まゐ」という言葉がある。「なかふう どぅまゐ しゅっくぇー どぅまゐ」。
 歌三線の道に入る場合、師匠によっても異なるだろうが、まず「工工四」上巻の最初にある「かぢゃでぃ風節」から手解きを受ける。本調子の同節の歌持ち〈うたむち。前奏〉は、三線音楽の基本音とされているからだろう。それから順を追ってひと節ひと節を修得して二揚ぎ節にも達するのだが「干瀬節」「子持節」「散山節」「仲風節」「述懐節」を一応弾き歌うことが出来るようになると、古典曲すべてを修得した気になりがち。その自惚れが表に出て、歌三線の稽古が怠慢になったり、それ以上の研鑽を放棄する者もいる。このことから、中途半端な修得の仕方やその者を指して「仲風止まゐ・述懐止まゐ」と言い当てている。また、その一方では、音楽の道は遠く長く広く深いことを覚悟し、その先は、あらゆることに適応するのではなかろうか。
 私の場合もしかり。放送屋という職業のおかげで先輩方の経験談を聞き得、また多くの名人とうたわれる方々の生演奏に接し、その上お付き合いさせていただいたおかげで、この「琉歌百景」を書かせてもらっている。
 盛敏著「琉歌集」などなど。他には「琉歌百控」「沖縄古語大辞典」「沖縄文化史辞典」「沖縄大百科事典」を参考にして、僭越承知で私なりの解釈を試みたしだい。このことは諸先輩方の長年の研究による定説を否定するものでは決してない。
 いわば、「仲風止まゐ・述懐止まゐ」の成せるわざ。反省し初心に返り、まだまだ先を勉強しようと固く決意することを得た。




琉歌百景・二揚五節その④

2009-06-04 00:11:00 | ノンジャンル
 琉歌百景66[二揚五節その④仲風節=なかふうぶし]

 まず節名に触れておかなければならない。
 歌詞の成り立ちは、琉歌の基本形八八八六の30音ではなく五五八六の24音、もしくは七五八六の26音から成っている。そして上句は和語を併用した和歌調、下句は琉球語の和琉折衷になっている句が多い。このことから[中間的詩型]として「仲風」としたとされている。また、一方には、歌詞が男女の仲を詠んだものが多いため「仲風」の節名が付いたという俗説もあり、話としては面白い。三線に乗せる場合は、本調子と二揚があって、それぞれの味わいがある。

 symbol7語ゐたや 語ゐたや 月ぬ山ぬ端に かかるまでぃん
 〈かたゐたや かたゐたや ちちぬ やまぬふぁに かかるまでぃん〉

 歌意=恋する二人の語らいは、月の出の夕刻に始まったが、ふと気づくと月は中天を過ぎて、すでに西に傾いている。それでも、なお語りたい。月が山の端にかかることがあっても語り合いたい。思いは尽きない。
 この歌詞は「本調子仲風節」「今風節」にも用いられている。

 

 琉歌百景67

 symbol7花ぬ木陰に 住み慣りてぃ いちゃしなちかしゃぬ 別てぃ行ちゅが
 〈はなぬくかじに しみなりてぃ いちゃしなちかしゃぬ わかてぃいちゅが〉

 平屋敷朝敏〈ふぃしちゃ ちょうびん。1700~1736〉作・組踊「手水ぬ縁=てぃみじぬ ゐん」の中で初めて「仲風節」が挿入されたとされる。
 語意*花=女性の美称。*木陰=彼女の居場所。住い所。*いちゃし=どのように。
 歌意=愛する貴女の側で時を過ごすことに、すっかり慣れてしまった。一体、いかにして深い情愛を振り切って、別れて行くことができようか。離れたくない。
 本人同士の約束はあっても、公認されていない恋人間の心情である。また、妻子ある男と花街の女の衣々の別れと解釈する向きもあるが、組踊「手水ぬ縁」の内容から推察すると、下世話の詠歌とは思えない。
 明治以降、大衆演劇が誕生し加速度的に発展した沖縄芝居の恋愛ものでは、男が人目を避けて女のもとへ忍んで行く場面の歌詞は次の1首。これが「手水ぬ縁」では歌われている。

 琉歌百景68

 symbol7暮らさらん 忍でぃちゃる 御門に出じみしょり 思い語ら
 〈くらさらん しぬでぃちゃる うじょうに んじみしょり うむゐ かたら〉

 歌意=昼となく夜となく貴女のことが思われて、片時も暮らせません。人目を忍んで参りました。屋敷の門外に出てきて下さい。思いのたけを語り合いましょう。
 「仲風節」の歌詞は100首以上残されていて、ほとんどが恋歌なのだが、中に1首だけ異色の詠歌がある。

 琉歌百景69

 symbol7誠一ちぬ 浮世さみ 何故でぃ云言葉ぬ 合わんうちゅが
 〈まくとぅ ふぃとぅちぬ うちゆさみ ぬゆでぃ いくとぅばぬ あわんうちゅが〉

 歌意=平和の世、万民が平穏に暮らす上で最も重要なのは誠意・誠実を持って成す人間関係である。このことをもってすれば、身分の上下や主義主張は異にしても、合意を導き出せないわけはない。人間には言葉がある。常に真実を話していれば恐れるものはない。
 宮廷音楽家野村安趙〈のむら あんちょう。1805~1871〉は、琉球最後の国王尚泰〈しょう たい。1835~1869〉の命を受けて、三線譜「野村工工四」の編纂を着手、完成した。出来上がったそれは当然、尚泰王の目にもとまるし、国王自らお歌いになることもある。その際、他の節歌はよしてとて「仲風節」の歌詞は「恋歌であってよいものかどうか」御則仕連の間で議論がなされた。そこで[国王の権威を損ねない為]恋歌を避けて教訓的、訓辞的歌詞の採用に至ったという。言葉の有り様も身分によって考慮しなければならなかった。“時代”が窺える。
 歌者は二揚ぎ・同下出し〈さぎ んじゃし〉・本調子ともども好みの歌詞を選択して歌うことを常としている。私なぞ、自己流の三線を楽しむ程度で「仲風節」など及ぶところではないが、次の1首は好きだ。

 琉歌百景70

 symbol7仕情けぬ忘らりみ 浮世云言葉ぬ 朽たん間や
 〈しなさきぬ わしらりみ うちゆ いくとぅばぬ くたんえだや〉

 *仕は情に、云は言葉にかかる接頭語。
 歌意=愛する人と交わした言葉は、ひとつひとつ心に刻んで終生忘れることはない。この世において人間が持っている“
言葉”が朽ち果てない限り、それは変わらない。
 「言葉は人間の財産であり、文字は人間の最大の発明である」とは、このことだろう。