旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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おきなわの春・さんしんの日

2016-02-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「この時季になると、クスッと笑えるコピーがある。あれはうるま市石川・東恩納の三線製作所の壁に書いてあるね。‟風邪引かずに、さんしんを弾こう”」
 「巷にはマスクをした人を多く見かけるし、健康意識がピークにある季節がら、ピタッとはまったコピーだ。CMとしての効果はあったのだろうか」
 「そのことよ。その三線製作所を訪ねて、儲かっているかと声をかけたら店主、ニタッとしていたそうだから、年明けの商売、繁盛しているのではないかな。こうした経済効果が上乗せされると、仕掛ける我々としても、気合いが入るね」
 RBCiラジオ「さんしんの日事務局」の1室。3月4日に向けて諸準備に余念のないスタッフの忙中閑の会話である。
 「いまひとつ‟日本の春は、三線の音から生まれる”というのがあったね」
 「それは、静岡県清水町在住の染色家城間早苗女史が寄せた手紙にあったね。この一言が‟三線の音が春を連れてやってくる”‟世界中が三線の音色に染まる日”などにまで広がっている」
 「7年前から‟さんしんの日”の番組制作のコンセプトを漢字一字で表してきたが、今回は?」と、1枚の原稿を見る。

 第24回目の1字は「創」。
 これまで和、輪、弾、響、粋、還、燦であった。
 「創」には、はじめる、はじめてつくるなどの意味がある。2字熟語を拾うと独創、創意、創造、創業、創作、創立等々(創るエネルギー)に満々ている。25回の節目ならいざ知らず、そのひとつ前の24回目なぞは、ややもすると(例年通りの内容でよし)なぞと安易になりわしないか。その懸念もあって(初心忘れまじ)をスタッフ一同決意して「創」を選択した。

 「モノ造り屋にとっては‟常に創る”は当たり前のことだが、その基礎にあるは、参加者、聴取者、協力者あってのこと。身が引き締まる。‟創”の1字は書家の手をわずらわせず上原直彦、島袋千恵美とともに総合司会を務める狩俣倫太郎アナウンサーが墨痕鮮やかに書き、舞台に掲げる」
 「狩俣倫太郎は‟さんしんの日”をきっかけに三線の先生につき、琉球舞踊にも通っているそうだが実演を見聞きしたことはあるかい?」
 「ない!司会を務める者としては、いい心得ではないのか」
 「それは誘発されて島袋千恵美は、琉歌詠みに疑っているらしく、その1首を詠ませてもらった。こうだ」
音に惹かさりてぃ三線ゆ取てぃん 思むがままならん我肝あまじ
 「音色に惹かされて三線を取ってみたものの、思い通りにはいかず、あせるばかりであるというのだが、どうだい、詠歌になっているかい」
 「どうだろうね。善し悪しは問わず‟さんしんの日”にかける心意気を買おう。上原直彦はどうだ」
 「んー・・・・。何をどう考えているかオレには分からないが、パンフレット用に{中継者になろう・さんしんの日}なる1文を寄せている。

 自分のこれまでをふり返って見ると、たかだか70年そこいらだが、頼りない(己の歴史)を見ることができる。
 大したそれではなく、時代に流されながら、時に坑いながら、時に挫折し、時に快哉を上げながら刻んだ日々の歴史がある。
 それぞれの歴史は何のためにあるのか。
 歴史は昨日のためにあるのではなく、今日と明日のためにあるのではなかろうか。「ゆかる日まさる日さんしんの日」に的をしぼって言うならば、回数24の中に自分の歴史が見えてくる。もちろん(三線文化)は私有するものではない。また、私有できるものでもない。(私有)そう思い込んだ時点でそれは文化、歴史とは言い難くなる。
 沖縄歌謡の中にどっぷりと身を置いてみると詠歌を三線に乗せて歌う(節歌)は、古くは2、300年、流行り唄でも100年はゆうに越し、新しい歌もつぎつぎに生まれていることに気付く。
 さあ、その(歌たち)を時の経過にまかせ、流して行ってもいいものかどうか。いかにも惜しいのである。されば、沖縄人のひとりとして、これら(歌たち)の中継者になろうと、心ひそかに、しかし強く決意する。もちろん、小生ふぜいが荷えるものではない。三線文化に心惹かれた一人ひとりが、昨日の節歌を今日と明日に中継して行かなければならないと存念する。「さんしんの日」は、そのための(中継日)のひとつにしたいのである。
 古歌にこうある。
 ‟あたら節歌や散りぢりになとれ 三線ぬ糸に貫ちゃい置かな
 (あたら ふしうたや ちりぢりに なとぉれ さんしんぬ いとぅに ぬちゃい うかな
 
 歌意=もったいなくもこの島の歌は、時代に流されて散り散りになりつつある。いまのうちに三線に乗せて大いに歌い、記録をして後世に残し置こうではないか。
 いつの世も、昨日のモノは消えやすい。だからこそ、今日また歌い、明日に橋渡しする中継者にならなければと思う。
 「さんしんの日事務局」の部屋の灯りが消えた。
 スタッフ連も明日のために休養をとるのであろう。
 外はまだ冷たい風だが、それが一瞬止まったとき、心なしか春の香をかぐことができる。



ふたりの人・さんしんの日

2016-02-10 23:04:00 | ノンジャンル
 3月4日は「ゆかる日まさる日さんしんの日」。実施の日は近い。
 RBCiラジオが番組として、午前11時45分から午後9時までの生放送をしてから24年が経つ。主会場は読谷村文化センター鳳ホール。古典音楽、島うた、舞踊を網羅した長時間放送。毎回、県内外からのビッグゲストも入り、インターネットを通じて世界に発信。三線文化を共有することになる。
 今回のゲストの中から(ふたりの人)を紹介しよう。

 ◇ロビン・トンプソン(65歳)
 ロンドン王立音楽アカデミーでファゴット、ピアノ、作曲を修めた後、1975年、日本の伝統音楽研究のため来日。東京芸術大学大学院音楽研究科卒業。その後1982年、琉球古典音楽の研究に着手。1985年から11年間、城間徳太郎(人間国宝)に師事し、沖縄タイムス社伝統芸能選考会の三線、箏曲、胡弓3部門で最高賞を受賞。さらに同社主催芸術選奨賞選考会の三線、胡弓部門のグランプリを受賞。所属する琉球古典音楽野村流保存会(三線・胡弓)の師範免許を取得している。
 こう紹介すると学者肌の(いかめしい外国人)をイメージするかも知れないが、逢ってみると、いたって気さくな人。ちょっと早口ながら熱っぽく琉球音楽を語る。いささかイギリス訛り?の日本語を巧みに操り、しかも琉球音楽論とあっては、沖縄生まれ沖縄育ちの私なぞ(んっ?オレはどこの人間?オレはナニジン?)と首をかしげることもある。
 ロンドンには「沖縄三線会」なるものがあって、ここ7、8年「さんしんの日」の海外中継に付き合ってもらっているが、ここにもまた、ロビン・トンプソンとともにリーダーを務める東京都出身の杉田千秋なる女性がいて、彼女もまた7年間、トンプソンのもとで三線を学び、沖縄タイムス社「芸術選奨三線の部・最高賞を得ている。三線というこの絃楽器、どこまで広がるのだろう。
 ロビン・トンプソンは遂に沖縄に移り住むという。彼は言う。
 「ロンドン大学東洋・アフリカ研究学院(SOAS)立ち上げ当時、イギリスでの沖縄の知名度は低かったが、ロンドン三線会の結成、沖縄県人会の活動が活発になり、イギリスとオキナワの距離が縮まった。沖縄の伝統音楽や芸能は他府県よりも強い生命力を持っている。日本関連のイベントでは、沖縄の存在は強くなってきた。沖縄に住まいを移した後は、本場での演奏、研究、作曲など音楽活動に努める。沖縄文化は日本の一地方の文化だが、その枠をはるかに超えて、世界に通用する普遍的な価値を持つ文化だ」。
 「さんしんの日」ロビン・トンプソンの出演は3時15分ごろになるが、彼に問うてみる。
 「世界にはさまざまな民族楽器がある。その中で(三線)に惹かれたのは何故?」
 答えが楽しみである。なお、同タイムにいまひとり、東京ら大物アーティストが参加する。その人の名は、・・・演出上‟サプライズ”出演と言うことで公表をひかえる。思わせぶりが過ぎるか。乞う容赦。{ふたりの人・さんしんの日}。もうひとりを紹介しよう。
 ◇鈴木正太郎。
 1976年、神奈川県横浜市生れ39歳。国立琉球大学教育学部卒業後、7年間沖縄で小学校教師を勤めた。沖縄在住歴13年。
 その後、横浜に戻り小学校の教壇に立った。けれども、憧れていた海外生活の夢を果たすべく、海外協力隊に応募・合格採用。赴任先はアフリカ・ナミビア共和国。現在、当地の北端の街の小学校でARTS(図工、音楽等)と体育を担当している。
 こうした彼がどう三線と関わったのか。
 沖縄での初任校・名護市の東江小学校の教頭から習い始めたのがきっかけ。2校目が伊江島の西小学校で、そこで地域の方に、週に1回のマンツーマンで教えてもらい、メンバーは教師に限らず、しかもビール夕食付き。言葉通り(歌遊び)を楽しんだ。その解放感に魅せられる日々だった。
 伊江島を離れ横浜に帰省した鈴木正太郎。三線の音忘れがたく、東京都町田市にある「さんしん教室」に出向き、仲間と琉球音楽を楽しんできた。それがいま、アフリカの現地の子たちに三線を教えているのである。自前の三線の持参は忘れなかった。しかし、日本三味線が猫の皮を張るのに対して、琉球三線は蛇皮張り。ニシキヘビのそれを使用する。この蛇皮張りの三線はワシントン条約の規制で海外への持ち出しは禁止品目。彼は人口皮の三線を携帯してアフリカ入りをした。
 現在、かの地の季節は夏。早朝は25度と涼しいが日中は40度前後の猛暑だそうな。その彼にインターネットを駆使してナミビア情報とともに、オンタイムで「かぢゃでぃ風節」を演奏してもらう。ナミビアの子の歌声が聞けることに期待しているのだが・・・・。放送時間は13時前後。

 沖縄人の行くところ、世界中どこにでも三線がある。
 これまでもハワイ、ロスアンゼルス、ロンドン、パリ、南アフリカ、チュニジア、中国北京と等々とラインを結び、海外中継をしてきた。今回はナミビアが加わり(さんしんの音)は、世界を駆け巡る。

  
 

風に乗る・さんしん

2016-02-01 00:10:00 | ノンジャンル
 風はどこまで音を運べるか。
 東京・両国国技館で打つ大相撲のやぐら太鼓の小気味よい音が、千葉・木更津で聞こえたと、関係者がテレビで話していた。東京にも風が通る道があったということだ。もちろん、昔のはなし。今の東京の音はどこまでとどくのだろうか。
 沖縄もまたしかり。沖縄芸能史・風俗史研究家、故崎間麗進氏は述懐していた。
 「戦前の那覇の街は静かだった。西武門(にしんじょう)にあった自声堂蓄音器店の店頭から流れる「浜千鳥節」「カッコーワルツ」が風に乗って2000メートル以上は離れているであろう泉崎の我が家まで聞こえた」。
 ボリュームの調整が、そううまく効かない蓄音器の音がである。
 トーマス・エジソン(1847~1931)が蓄音器を発明し、特許を得てから今年2月19日で138年になる。
 大正末期から昭和初期。沖縄にも蓄音器が入ってきた。当時の人びとは「チクオンキ」という耳慣れない音の出る機械を、人伝てに耳にした音韻で「チコンキ」と呼び、文明の確かなる(足音)を捉えたのである。しかし、チコンキ本体及びチコンキ盤(蓄音器盤)を個人所有できるのは、よほど裕福な家庭に限られていた。新しく用いられた(音を蓄える器・蓄音器)という漢字文字すら初めての人びとは、
 「那覇に、音楽を奏でるヤーマ(仕掛けもの)が現れたそうな。こいつは歌をうたい、物を言う魔法の箱だ」。
 「いやいや、あの箱の中には機械仕掛けの小びとが入っているというぜ」と噂が駆け巡った。地方からは、わざわざチコンキをひと目みようと、弁当持ちで那覇に出てくる勤勉な人もいて、チコンキが発する音楽を「聴きに」ではなく「見に行く」と言い、実際に見た人は村に帰っても、文明を先取りした者として羨望を集めたという。百聞は一見に如かずを実施したことになる。
 琉球民謡昭和の父と称され、独特の「ふくばる節」で知られる歌者普久原朝喜=ふくはらちょうき(1903~1981)は昭和2年(1927)自らの作詞、作曲、歌による「移民小唄」を1曲目として自作品や各地の島うた、流行り歌を蓄音器盤化・製作販売。その功績はのちに「チコンキーふくばる」の尊称で民謡史に名を刻むことになった。

 戦前、染色業、運送業、貸家業などで、一応の財を成した私の祖父・上原直行の隠居部屋には蓄音器があり時折、民謡や古典音楽、歌曲、軽音楽を聴くことができた。通称「ゆりぬはなぁ・百合の花」というラッパ状の拡声器が箱の上にあって、側面に付いたクランクで、動力になるゼンマイを巻き、鉄製の針を盤に下すと音が出るという代物。
 「蓄音器の箱の中には小びとが入っている。ゼンマイが小びとのご飯だ。小びともお腹がすいては、歌はうたえない。気を入れてゼンマイを巻きなさい」。
 祖父にそう言われて、真剣になった5、6歳を覚えている。けれども、どんな音を聴いていたか、とんと記憶にない。と言うより曲名、節名を知らなかったのだ。
 いまになって(あのころ)を調べてみると民謡は、役者多嘉良朝成(たからちょうせい)カナ夫妻、桜屋音子、赤嶺京子(後の普久原朝喜夫人)らの「浜千鳥節」「恋ぬ花節」「谷茶前節」などなど。また、古典音楽家金武良仁=きん りょうじん(1837~1936)が、昭和9年から11年にかけ、コロンビアレコードで吹き込んだ宮廷音楽だったと思われる。洋楽のピアノ、バイオリンソロも、浅草オペラ田谷力三の「恋はやさしい野辺の花よ」、藤原義江の「波浮の港」「鉾をおさめて」などもあったそうだが、私は覚えていない。

 またぞろ昔ばなし。
 小禄村(現・那覇市。那覇港の南の位置)で弾く三線の音が近くの漫湖のマングローブの枝をゆらす川風に乗って、真和志村(現・那覇市)を越えて、古都首里の城下金城村に届いたという。かつての蓄音器は日進月歩。まず「電蓄」に進み、戦後「プレイヤー」という横文字に昇格。蓄音器盤(78回転)も45回転のレコード、通称フォーリーファイブ、さらにLPの33回転へ。さらにカセットテープを経てCDになった。機材も高性能を誇って普及はしているものの、騒音防止法のからみもあってか、特定の条件を満たした場所でしか聴けず、風には乗らなくなった。が、ラジオの電波は別だ。

 3月4日はRBCiラジオ主催「ゆかる日まさる日さんしんの日」である。
 2016年で24回目の春を迎える。三線の音はラジオの風になって「おきなわの空」を翔ぶ。いや、インターネットの風に乗って世界中に鳴り渡る。
 当日は読谷村立文化センター鳳ホールを主会場に午前11時45分から午後9時までの公開生放送になる。古典音楽界、民謡界、舞踊界が総出演する一方、県内各地、県外はもちろんハワイ、ロンドン、パリ、アフリカからの中継をまじえての9時間15分。各時間の時報音を合図に、主会場で弾く祝儀歌「かぢゃでぃ風節」を家庭でも職場でも合唱することが恒例になった。来場者は、自前の三線や胡弓を持参すれば、舞台の演奏に参加することができる。
 この日は沖縄中が三線色に染まるせいか、誰かが言いだした。
 「沖縄の春は三線の音が連れて来る」。
 読者諸氏。三線持参でもよし、手ぶらでもよし、鳳ホールに足を運びませんか。そして「三線文化」を共有しましょう。