このシリーズも[戦後編]に入る。
米軍の沖縄上陸部隊は、バックナー陸軍中将率いる15万4000人、後方部隊を合わせると45万人。これを日本軍は10万人で迎え撃った。
沖縄諸島における日米両軍の地上作戦と戦闘経緯を「沖縄県史」はこう記録している。
⊿前哨戦=1945年〈昭和20〉3月23日~31日=陸海砲撃により、慶良間諸島占領。
⊿本島上陸作戦=4月1日~6日。無血上陸。軍政府及び捕虜収容所開設。
⊿山岳・島嶼戦=4月5日~20日。北部山岳地帯・伊江島・津堅島。
⊿主力攻防戦=4月7日~5月31日。宜野湾村普天間・嘉数・那覇首里。
⊿島尻洞窟戦=6月初め~6月22日。日本軍の組織的抵抗終わる。
掃討戦=6月23日~7月1日。そして翌2日、米軍作戦終了宣言。
【死者】
◆一般住民=9万4000名。◆沖縄出身軍人・軍属=2万8228名。◆沖縄県外軍人・軍属=6万5908名。◆米軍人1万2502名。合計=20万656名。全体の6割近い12万2229名は沖縄人。その4分の3は一般住民。米軍人を除けば死者の半数を占める。しかし、この数字は1970年前後時点のもので、年々更新されて、平成23年6月23日現在、沖縄県=14万9233名。県外=7万7327名。米国=1万4009名。英国=82名。台湾=34名。朝鮮民主主義人民共和国=82名。大韓民国=365名。合計=24万1132名が「平和の礎」に刻銘されている。
沖縄戦終結と同時に米軍は「占領地政策」を推進するため、沖縄住民に「諮詢委員会」をつくらせた。同委員会の業務は「収容所等を調査し、沖縄再建及び住民生活の安定方法を軍政府に報告する」ことにあった。さらに軍政府は、避難民の各出身地への移動に伴って市町村長を任命し、再建を促した。こうした中、15名構成の沖縄諮詢委員会・志喜屋孝信委員長は「沖縄民政府知事」に任命された。
【沖縄民政府知事】
※志喜屋孝信〈しきや こうしん〉明治17年~昭和30年=1884~1955=。
具志川間切〈現・うるま市〉宮里生まれ。戦後の初代任命知事。
明治41年〈1908〉広島高等師範学校を卒業後、熊本県立鹿本中学校に勤務。明治44年〈1911〉、創立まもない沖縄県立第二中学校〈現・那覇高校〉に転任。大正13年〈1924〉同校校長に就任した。現役時代「ライオン」の異名で恐がられながらも、生徒たちに敬慕された。現在でも、沖縄の教育者を語るとき、筆頭に挙げられる人物。昭和25年〈1950〉、知事辞任とともに琉球大学初代学長に迎えられた。
⊿昭和21年〈1946〉。
◇カナ文字町名「ペリー」。
戦前、那覇市山下町は那覇港の南岸に面し、小禄村〈現・那覇市〉や糸満町〈現・市〉への起点として栄えた地。この年、那覇港が米軍港に指定された際、軍政府政治部長ポスト大佐は「山下」の町名を強制的に「ペリー」に変更させた。
「山下」は大戦中、シンガポールにおいて連合軍バーシバル英国将軍を無条件降伏させ「マレーの虎」と米軍に恐れられた日本海軍比島方面軍司令官・山下奉文〈やました ともゆき=高知県出身。1885~1946〉と同名で、米軍人には最も嫌悪された人名に通じたからだ。そこで「山下町」を廃し、軍政府が付けた町名は「ペリー」。
1854年、日米和親条約と琉米修好条約の締結者であり。那覇にも5度寄港・滞在したロードアイランド出身、米国海軍ペリー提督〈1784~1858〉に因んだ命名だった。しかし、このカナ文字町名は昭和32年〈1957〉2月12日、民政府法務局によって、元の地籍名に戻った。余談ながら私は、山下町に生まれた。
【沖縄群島政府知事】
※平良辰雄〈たいら たつお〉明治25年~昭和44年=1892~1969=。出身地は大宜味村津波。
沖縄県立第一中学校を卒業後、旧制第八高等学校に進んだが中退し沖縄県庁入りした。
会計課長を振り出しに商工水産課長、八重山支庁長。次いで沖縄振興計画課長に抜擢された。戦後は昭和20年〈1945〉9月、旧羽地村・現名護市に在った田井等市市長。さらに琉球農業組合連合会会長、琉球農林省総裁。昭和25年〈1950〉9月、沖縄群島政府知事に就任。同10月、沖縄社会党結成大会において初代委員長に選任された。厳しい軍政下にあったが、終始先頭に立って沖縄の『日本復帰運動』を展開。住民73%の復帰署名を達成した。群島政府は、わずか1年4ヵ月で解消されるが政治はもちろん、金融・産業界で敏腕をふるい、当時の佐藤栄作首相や国会に沖縄の日本復帰を要求するなど終始一貫、復帰運動に献身した。晩年、体調を崩しながらも(沖縄が本土復帰するまでは、絶対に死なない)を口にしていたが、その夢叶わないまま他界。
⊿昭和22年〈1947〉。
◇市外電話開通。
1月15日。那覇市を中心に架設されていたハンドル式の電話が名護町、恩納村、石川市、金武村、宜野座村の各局間に市外電話が開通した。ただし、公用に限られて一般住民には無縁だった。
米軍の沖縄上陸部隊は、バックナー陸軍中将率いる15万4000人、後方部隊を合わせると45万人。これを日本軍は10万人で迎え撃った。
沖縄諸島における日米両軍の地上作戦と戦闘経緯を「沖縄県史」はこう記録している。
⊿前哨戦=1945年〈昭和20〉3月23日~31日=陸海砲撃により、慶良間諸島占領。
⊿本島上陸作戦=4月1日~6日。無血上陸。軍政府及び捕虜収容所開設。
⊿山岳・島嶼戦=4月5日~20日。北部山岳地帯・伊江島・津堅島。
⊿主力攻防戦=4月7日~5月31日。宜野湾村普天間・嘉数・那覇首里。
⊿島尻洞窟戦=6月初め~6月22日。日本軍の組織的抵抗終わる。
掃討戦=6月23日~7月1日。そして翌2日、米軍作戦終了宣言。
【死者】
◆一般住民=9万4000名。◆沖縄出身軍人・軍属=2万8228名。◆沖縄県外軍人・軍属=6万5908名。◆米軍人1万2502名。合計=20万656名。全体の6割近い12万2229名は沖縄人。その4分の3は一般住民。米軍人を除けば死者の半数を占める。しかし、この数字は1970年前後時点のもので、年々更新されて、平成23年6月23日現在、沖縄県=14万9233名。県外=7万7327名。米国=1万4009名。英国=82名。台湾=34名。朝鮮民主主義人民共和国=82名。大韓民国=365名。合計=24万1132名が「平和の礎」に刻銘されている。
沖縄戦終結と同時に米軍は「占領地政策」を推進するため、沖縄住民に「諮詢委員会」をつくらせた。同委員会の業務は「収容所等を調査し、沖縄再建及び住民生活の安定方法を軍政府に報告する」ことにあった。さらに軍政府は、避難民の各出身地への移動に伴って市町村長を任命し、再建を促した。こうした中、15名構成の沖縄諮詢委員会・志喜屋孝信委員長は「沖縄民政府知事」に任命された。
【沖縄民政府知事】
※志喜屋孝信〈しきや こうしん〉明治17年~昭和30年=1884~1955=。
具志川間切〈現・うるま市〉宮里生まれ。戦後の初代任命知事。
明治41年〈1908〉広島高等師範学校を卒業後、熊本県立鹿本中学校に勤務。明治44年〈1911〉、創立まもない沖縄県立第二中学校〈現・那覇高校〉に転任。大正13年〈1924〉同校校長に就任した。現役時代「ライオン」の異名で恐がられながらも、生徒たちに敬慕された。現在でも、沖縄の教育者を語るとき、筆頭に挙げられる人物。昭和25年〈1950〉、知事辞任とともに琉球大学初代学長に迎えられた。
⊿昭和21年〈1946〉。
◇カナ文字町名「ペリー」。
戦前、那覇市山下町は那覇港の南岸に面し、小禄村〈現・那覇市〉や糸満町〈現・市〉への起点として栄えた地。この年、那覇港が米軍港に指定された際、軍政府政治部長ポスト大佐は「山下」の町名を強制的に「ペリー」に変更させた。
「山下」は大戦中、シンガポールにおいて連合軍バーシバル英国将軍を無条件降伏させ「マレーの虎」と米軍に恐れられた日本海軍比島方面軍司令官・山下奉文〈やました ともゆき=高知県出身。1885~1946〉と同名で、米軍人には最も嫌悪された人名に通じたからだ。そこで「山下町」を廃し、軍政府が付けた町名は「ペリー」。
1854年、日米和親条約と琉米修好条約の締結者であり。那覇にも5度寄港・滞在したロードアイランド出身、米国海軍ペリー提督〈1784~1858〉に因んだ命名だった。しかし、このカナ文字町名は昭和32年〈1957〉2月12日、民政府法務局によって、元の地籍名に戻った。余談ながら私は、山下町に生まれた。
【沖縄群島政府知事】
※平良辰雄〈たいら たつお〉明治25年~昭和44年=1892~1969=。出身地は大宜味村津波。
沖縄県立第一中学校を卒業後、旧制第八高等学校に進んだが中退し沖縄県庁入りした。
会計課長を振り出しに商工水産課長、八重山支庁長。次いで沖縄振興計画課長に抜擢された。戦後は昭和20年〈1945〉9月、旧羽地村・現名護市に在った田井等市市長。さらに琉球農業組合連合会会長、琉球農林省総裁。昭和25年〈1950〉9月、沖縄群島政府知事に就任。同10月、沖縄社会党結成大会において初代委員長に選任された。厳しい軍政下にあったが、終始先頭に立って沖縄の『日本復帰運動』を展開。住民73%の復帰署名を達成した。群島政府は、わずか1年4ヵ月で解消されるが政治はもちろん、金融・産業界で敏腕をふるい、当時の佐藤栄作首相や国会に沖縄の日本復帰を要求するなど終始一貫、復帰運動に献身した。晩年、体調を崩しながらも(沖縄が本土復帰するまでは、絶対に死なない)を口にしていたが、その夢叶わないまま他界。
⊿昭和22年〈1947〉。
◇市外電話開通。
1月15日。那覇市を中心に架設されていたハンドル式の電話が名護町、恩納村、石川市、金武村、宜野座村の各局間に市外電話が開通した。ただし、公用に限られて一般住民には無縁だった。