旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑭

2012-01-20 00:33:00 | ノンジャンル
 このシリーズも[戦後編]に入る。
 米軍の沖縄上陸部隊は、バックナー陸軍中将率いる15万4000人、後方部隊を合わせると45万人。これを日本軍は10万人で迎え撃った。

 沖縄諸島における日米両軍の地上作戦と戦闘経緯を「沖縄県史」はこう記録している。
 ⊿前哨戦=1945年〈昭和20〉3月23日~31日=陸海砲撃により、慶良間諸島占領。
 ⊿本島上陸作戦=4月1日~6日。無血上陸。軍政府及び捕虜収容所開設。
 ⊿山岳・島嶼戦=4月5日~20日。北部山岳地帯・伊江島・津堅島。
 ⊿主力攻防戦=4月7日~5月31日。宜野湾村普天間・嘉数・那覇首里。
 ⊿島尻洞窟戦=6月初め~6月22日。日本軍の組織的抵抗終わる。
 掃討戦=6月23日~7月1日。そして翌2日、米軍作戦終了宣言。
 【死者】
◆一般住民=9万4000名。◆沖縄出身軍人・軍属=2万8228名。◆沖縄県外軍人・軍属=6万5908名。◆米軍人1万2502名。合計=20万656名。全体の6割近い12万2229名は沖縄人。その4分の3は一般住民。米軍人を除けば死者の半数を占める。しかし、この数字は1970年前後時点のもので、年々更新されて、平成23年6月23日現在、沖縄県=14万9233名。県外=7万7327名。米国=1万4009名。英国=82名。台湾=34名。朝鮮民主主義人民共和国=82名。大韓民国=365名。合計=24万1132名が「平和の礎」に刻銘されている。

 沖縄戦終結と同時に米軍は「占領地政策」を推進するため、沖縄住民に「諮詢委員会」をつくらせた。同委員会の業務は「収容所等を調査し、沖縄再建及び住民生活の安定方法を軍政府に報告する」ことにあった。さらに軍政府は、避難民の各出身地への移動に伴って市町村長を任命し、再建を促した。こうした中、15名構成の沖縄諮詢委員会・志喜屋孝信委員長は「沖縄民政府知事」に任命された。

 【沖縄民政府知事】
 ※志喜屋孝信〈しきや こうしん〉明治17年~昭和30年=1884~1955=。
 具志川間切〈現・うるま市〉宮里生まれ。戦後の初代任命知事
 明治41年〈1908〉広島高等師範学校を卒業後、熊本県立鹿本中学校に勤務。明治44年〈1911〉、創立まもない沖縄県立第二中学校〈現・那覇高校〉に転任。大正13年〈1924〉同校校長に就任した。現役時代「ライオン」の異名で恐がられながらも、生徒たちに敬慕された。現在でも、沖縄の教育者を語るとき、筆頭に挙げられる人物。昭和25年〈1950〉、知事辞任とともに琉球大学初代学長に迎えられた。

 ⊿昭和21年〈1946〉。
 ◇カナ文字町名「ペリー」
 戦前、那覇市山下町は那覇港の南岸に面し、小禄村〈現・那覇市〉や糸満町〈現・市〉への起点として栄えた地。この年、那覇港が米軍港に指定された際、軍政府政治部長ポスト大佐は「山下」の町名を強制的に「ペリー」に変更させた。
 「山下」は大戦中、シンガポールにおいて連合軍バーシバル英国将軍を無条件降伏させ「マレーの虎」と米軍に恐れられた日本海軍比島方面軍司令官・山下奉文〈やました ともゆき=高知県出身。1885~1946〉と同名で、米軍人には最も嫌悪された人名に通じたからだ。そこで「山下町」を廃し、軍政府が付けた町名は「ペリー」。
 1854年、日米和親条約と琉米修好条約の締結者であり。那覇にも5度寄港・滞在したロードアイランド出身、米国海軍ペリー提督〈1784~1858〉に因んだ命名だった。しかし、このカナ文字町名は昭和32年〈1957〉2月12日、民政府法務局によって、元の地籍名に戻った。余談ながら私は、山下町に生まれた。

 【沖縄群島政府知事】
 ※平良辰雄〈たいら たつお〉明治25年~昭和44年=1892~1969=。出身地は大宜味村津波。
 沖縄県立第一中学校を卒業後、旧制第八高等学校に進んだが中退し沖縄県庁入りした。
 会計課長を振り出しに商工水産課長、八重山支庁長。次いで沖縄振興計画課長に抜擢された。戦後は昭和20年〈1945〉9月、旧羽地村・現名護市に在った田井等市市長。さらに琉球農業組合連合会会長、琉球農林省総裁。昭和25年〈1950〉9月、沖縄群島政府知事に就任。同10月、沖縄社会党結成大会において初代委員長に選任された。厳しい軍政下にあったが、終始先頭に立って沖縄の『日本復帰運動』を展開。住民73%の復帰署名を達成した。群島政府は、わずか1年4ヵ月で解消されるが政治はもちろん、金融・産業界で敏腕をふるい、当時の佐藤栄作首相や国会に沖縄の日本復帰を要求するなど終始一貫、復帰運動に献身した。晩年、体調を崩しながらも(沖縄が本土復帰するまでは、絶対に死なない)を口にしていたが、その夢叶わないまま他界。

 ⊿昭和22年〈1947〉。
 ◇市外電話開通。
 1月15日。那覇市を中心に架設されていたハンドル式の電話が名護町、恩納村、石川市、金武村、宜野座村の各局間に市外電話が開通した。ただし、公用に限られて一般住民には無縁だった。


沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑬

2012-01-10 00:10:00 | ノンジャンル
 昭和19年〈1944〉
 ◇学童疎開
 7月7日。鹿児島、沖縄両県の知事に政府命令が下された。
 『奄美大島、徳之島、沖縄本島、宮古島、八重山島の5島の老幼婦女子を沖縄からは、本土へ8万人、台湾へ2万人の疎開を7月中に完了せよ』というもの。
 これより先、サイパン島陥落も目前に迫った6月。政府は『一般人の疎開の促進を図るとともに、特に国民学校初等科児童の疎開を強力に推進する』ことを閣議で決議。疎開先に縁故がいない者は集団疎開。それは『保護者の申請による』としていた。
 第1回疎開は8月5日。巡洋艦「長良」で無事、目的地に到着した。第2回目は8月21日夕刻、学童疎開船「対馬丸」「和浦丸」「暁空丸」の3隻が那覇港を出た。しかし、翌8月22日午後10時12分、対馬丸は鹿児島県下トカラ列島に浮かぶ悪石島沖合を航行中、米海軍の潜水艦に撃沈され、1700人の疎開者が海底に沈み、生存者は59人だけだった。この対馬丸事件で疎開業務は一時中止をみるが、10月10日の那覇空襲により情勢は一変。昭和20年までに九州、台湾へ8万人を疎開させた。学童疎開地及び員数は次の通り。
 ⊿宮崎県=学童2643人。関係者477人。計3120人。
 ⊿熊本県=学童341人。関係者48人。計389人。
 ⊿台湾=宮古島、八重山島の学童が疎開しているが、実数は定かでない。

写真提供:対馬丸記念館

 ※昭和19年。
 ◇10・10空襲
 米軍司令官マーク・A・ミッチャー中将率いる大型航空母艦7隻を含む85隻からなる米58機動部隊から艦載機グラマンが沖縄諸島、宮古島、八重山島、大東島などを攻撃。全県下での死者約600人、負傷者約9000人を出した。沖縄本島が主要目標にされ、5回にわたって約1時間ごとの空襲が繰り返された。特に那覇市の中心街は、まるまる2日間燃え続けて、市の90%が廃墟と化した。那覇市だけで死者255人、負傷者358人。これは沖縄全体の死傷者50%を占める多大な被害。空襲が途絶えたこの日の夕刻から那覇には、北部方面への避難命令が出され、市民は夜を徹して避難行についた。
 因みにその日私は、那覇市山下町の生家にいた。年齢は6歳に満たなかった。荷馬車に最低限の衣類、食料を積み、祖父母を乗せ、少年は父親の手にしがみついて那覇を脱出。恩納村山田に向かった。そこにいたのも数日、すぐに恩納岳、石川岳を東に横断した後、現在の金武町の山中に潜んでいるところを捕虜にされた。

 ※【官選知事時代】
 ◆島田叡[しまだ あきら]明治34年~昭和20年=1901~1945=。兵庫県神戸市出身。*第22代沖縄県知事
 東京大学法学部卒業。昭和19年〈1944〉には大阪府内務部長。サイパンは玉砕し、南方での敗戦が濃厚となった時期に島田叡は、昭和20年1月12日に沖縄県知事を発令され、1月31日に着任した。前年の10・10空襲で県庁所在地の那覇市は廃墟と化し、米軍の進攻は時間の問題とされ、しかも前任の泉守紀知事が本土出張中のまま、香川県知事に転出するという最悪の状況下での赴任だった。島田叡知事は着任するや、老幼婦女子の緊急避難と県民の食糧確保という最も困難な問題に着手。2月下旬には自ら台湾に赴き、台湾米確保の折衝を行った。
 3月26日、機能困難な県庁を首里に移し、さらに米軍が上陸した4月1日からは、真和志村繁多川〈現・那覇市〉の避難壕内で県業務をした。5月、首里陥落。島田知事と県職員数名は、現在の糸満市在の大城森から伊敷の通称「轟の壕」などを転々とした。6月3日ごろ、沖縄県後方指導挺身隊や警察警備隊に解散を命じた。6月14日、島田知事との同行を切望する部下に『一般地方人として投降せよ』と同行を拒否して決別した。さらに追いつめられた島田知事は、轟の壕を出て敗走、本島南端の地・摩文仁在の軍医部隊壕に移ったとされる。そして最後は、壕を出て自決とも戦死とも言われているが、詳細は今なお不明。

 ※昭和20年〈1945〉。
 ◇学徒隊の動向
 沖縄決戦体制に突入した師範学校生をはじめとする中学校及び青年学校生は、昭和18年頃〈1943〉から日本軍各部隊に協力して陣地構築、食料運搬など戦力増強に動員された。正規の学業は停止状態。軍事教育と戦闘施設建築作業に連日、従事した。そして、すべての中等科生徒は入隊に備えて待機。女子中学校看護教育を実施。3月20日から各中学校は、軍事訓練をした生徒を中心に各部隊から入隊命令を受け、職員とともに鉄血勤皇隊、通信隊、従軍看護隊に配置された。しかし、そのほとんどが戦死している。

 さて、今号で明治から敗戦までの[官選県令・知事]の歴代符は終わる。県令5代、知事23代に及んだが、私は勝手に同列視して加算して記してきた。その辺りは、乞う容赦、次号から戦後の[任命主席時代]に入る。
 



沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑫

2012-01-01 00:00:00 | ノンジャンル
 辰年が明けた。
 筆者なぞ十二支を6回廻しても、ひとつふたつを加える年齢に達した。
 [辰・しん]は、日柄、日時を表すほか[竜・りゅう]にも変化。十二支中、唯一の架空動物だ。けれども、その生命力からして、東洋では[吉兆]とされるが、西洋では[悪のシンボル]になっている。この際、西洋のドラゴンは無視して、われわれは吉兆の辰・竜に肖り、前向きに1年を行動しよう。

 ※【官選知事時代】
 ◆淵上房太郎〈ふちがみ ふさたろう〉明治26年~昭和51年=1893~1976=。福岡県鞍手郡小竹町出身。*第19代沖縄県知事
 東京帝国大学法学部を卒業して内務省入り。昭和13年〈1938〉から同16年までの約2年半在任。当時、中央政界は近衛・平沼・阿倍・米内内閣と代わり、日中戦争促進のため、諸軍事優先政策が実施されて、国家総動員体制を確立していく時世。
 淵上房太郎は政府の方策に従い、八重山開発計画、満蒙開拓移民隊の派遣、大政翼賛会沖縄県支部の結成発足などを実施。一方、沖縄方言を抑圧。このことは、日本民芸協会の民俗学者柳 宗悦〈やなぎ そうえつ〉らと対立。世に言う「方言論争」が起きた。
 戦後は、福岡県から衆議院議員選挙に出馬して当選。沖縄の土地問題に奔走する傍ら、政府側の立場から沖縄返還運動を喚起した。

 ※昭和13年〈1938〉。
 □方言論争
 淵上県政は、皇民化教育を徹底し、「標準語励行策・方言禁止運動」を強行。学校では、方言を使った生徒に罰札=方言札=を科したほか、方言生活をしている家庭の玄関などに『一家揃って標準語』と書いたビラを貼ったりした。
 このことに反発して、日本の民芸運動の指導者柳 宗悦は『標準語も沖縄語も、ともに日本の[国語]である。これらの二つのものは、常に密接な関係を持ち、国語として尊重しなければならない』と反論。県庁は県庁で『柳 宗悦ら、民芸協会の言語論争に惑わされるな』との学務部長声明で反駁。先祖崇拝の墓のあり方にまで言及。「沖縄のこの旧慣は打破しなければならない」と主張。方言論争は加熱して展開された。
      
        喜宝院蒐集館蔵

 ◆早川 元〈はやかわ はじめ〉。生没・履歴等々の資料が少ない。*第20代沖縄県知事。
 知り得たところでは、昭和16年〈1941〉1月7日、熊本県総務部長からの転出。昭和18年7月1日までの在任。県政を国策に準じて推進する一方、宮古島や大東島を視察するなど、各地の諸行事にも参加した。当時の新聞には「人情知事」「行動知事」として好意的な人物像が書かれているという。また、ロシアのバルチク艦隊の日本海域侵入をいち早く発見して、サバニを漕いで八重山通信隊に知らせた宮古島の「久松五勇士」の生存者にも意識的に面会。その目的は「戦意高揚」にあったと見られている。
 昭和18年〈1943〉7月、大分県知事に転出。翌年、フランス領ボルネオへ海軍司令官として赴任した。

 ◆泉 守紀〈いずみ しゅき〉明治31年~昭和59年=1898~1984=。山梨県北都留郡大原〈現・大月〉生まれ。*第21代沖縄県知事
 東京帝国大学法学部卒業内務省入りして青森県庁に赴任。以後、全国の警察畑を歴任した。北海道内務部長を経て沖縄県知事に発令された。昭和18年〈1943〉7月26日着任。沖縄の文化や歴史に親しむなど県民からは好感を持たれたが、一方では本土との風俗習慣の異なりを批判。「沖縄は新時代に遅れている。ダメな人民だ」なぞと公言するようになった。在任中の出張が多く、在任期間1年半の間に9回の出張をし、3分の1に近い175日を県外で過ごした。
 昭和19年〈1944〉10月10日。米空軍の沖縄空襲の際にも、警備本部や県庁にも姿を見せることなく、知事官舎の防空壕に避難したままだったという証言が後に出た。このこは「県庁放棄」と批判され、政府にも伝わって問題視された。香川県知事に転出。

 ※昭和13年〈1938〉。
 □通訳付き・徴兵検査
 連隊区司令官生田寅雄大佐は八重山、宮古での徴兵検査に立ち会って帰任。次のように語った。
 「八重山の青年は比較的に体格がよい。しかし、宮古は相変わらず短躯が多い。日常の過酷な労働と栄養不足によるものだろう。最も憂慮すべきは、両島とも標準語通訳者が付かないと、徴兵検査が困難なことだ」。

 ※昭和17年〈1942〉
 □竹槍訓練
 日本軍部は全国に「竹槍訓練の実施」を命じて敵の上陸に備えた。「訓練は民間諸団体にも及ぼして指導啓発せよ」との公文書の通達。至上命令とあって各青年学校では、直ちに青竹の武器を作り訓練に専念した。そしてそれは、学校や民間郷土隊にとどまらず、一般人にも強要して行われるようになった。