旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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受験の季節・祈合格

2007-01-25 16:30:44 | ノンジャンル
★連載 NO.273

 「人事を尽くして天命を待つ=できるだけのことをして、その上はあせることなく、運命にまかせる」
 通常は「したりッ」と、納得できる論語も、大学・高校受験を目前にした当人たちにとっては、かえってプレッシャーになる一言なのかも知れない。むしろ、困難に直面したときに、頼りにならないものにまで救いを求めようとする(藁にも縋る)心境ではなかろうか。
 山形県の神社では、野球の投手や重量挙げの選手が、手のひらや指につける白い粉・ロジン<野球用語ロージンバッグ>を入れた受験生のためのお守りを用意した。「すべり止め」の御利益があるという。
 ロジン=<rosin>「松脂<まつやに>を蒸留して得られるロジン酸を主成分とする樹脂」と、百科事典にある。印刷インキ・塗料・接着剤・蝿取り紙・チューインガムベースなどに用いられるが、バイオリンなど弦楽器の弓への塗布もロジンだそうな。
 何かを握る場合、ペッ!ペッと、チンペー<唾・つば>をして(すべり止め)にするのは、いまでもやっているが、受験生にとってはロジンもチンペーもツバも、効果があるならば、頼りにしたいところだろう。

 「ゲン=験=を担ぐ」「忌み慎む」
 これらは「迷信」と片づけられがちだが、あながちそうでもない。その奥には儒教的教訓がかくれている。
※ 夜、人が通る道を背にして立っている者に、声をかけてはならない。それは常人にあらず、あの世のモノ。道連れにされる。
 これは(人間、世間に背を向けることなく、常に表を見、胸を張って堂々と生きよ)との教えであり、加えて、子弟の夜遊びを牽制した俗語のように思える。
 しかし、最近は(あの世)が軽んじられているのか、ユーリー<幽霊>・マジムン<化けモノ>の立場が、まったくもって無視されてしまった。通りを背にしていようが表向きだろうが、若者たちは気軽に声を掛け合って、すぐに仲良く語らっているようだ。だが、それらは突然、フェーレー<追い剥ぎ>にも、狼にも変身しないでもない。あの世のモノより、この世のモノの方が信じられない現代である。悲しいことだ。
※ お茶は、チュチャワン<一茶碗>だけ飲んではならない。タチャワン<二茶碗>以上飲め。お代わりをせず、チュチャワン飲みをするのは、仏壇に上がった人。
 仏壇を有する家庭では、月の1日<チータチ>・15日<ジュウグニチ>、仏壇にウチャトウ<御茶湯・お茶を供えること>をする。丁寧な家庭ならば、いまでも朝のおつとめとして、毎日やっている。しかし、仏壇の方はお代わりをしない。したがって沖縄人は、この世に生きている証として、二茶碗・三茶碗<ミチャワン>を飲むのである。おどおどしい風習とおっしゃいますな。
 「茶とぅ煙草しぇ 蔵ぁ建たん=チャーとぅ タバクしぇ クラぁ たたん」
 お茶代、煙草代を倹約、もしくはケチったとしても、それでは金蔵は建たないという俗語がある。どんなに貧しくても多忙でも二茶碗、三茶碗を楽しみ、一服する心の余裕を持てという生活哲学だ。暮らしに追われていても、ほんの一時の癒しの重要性を茶・煙草を例にして説いている。「急いては事を仕損じる」「果報は寝て待て」が、見え隠れしないでもないが、おおらかでいい。
 訪問先で出されたお茶を一茶碗飲みして、あたふたと座を立つのは、考えてみれば、失礼に当たるほど、落ち着きのない行為ではなかろうか。
 去る日、古典音楽研究家・故宮城嗣周翁宅を訪問し、玄関先で用件を済まそうとした私を戒めて、嗣周翁は言った。
 「座敷に上がりもせず、お茶も飲まない者には金は貸さないよッ」

 受験生のゲン担ぎから、話は随分横道にそれたが・・・・。
 この時期、大学受験や校長先生宅の表札がなくなるそうな。これも、尊敬する先生にあやかって「合格したい」という受験生のゲン担ぎ。これが窃盗騒ぎになった例は、聞かない。教授も校長も、むしろ誇りにしているのだろう。わが家の表札がなくなったためしはない。御利益なぞ、決してないことを承知しているからだ。
 受験生諸君。ロジンのお守りにも、表札にも、管公にも力を貸してもらうがいい。私も念じよう。祈合格。


次号は2007年2月1日発刊です!

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優しい大人・優しいことば

2007-01-18 15:29:51 | ノンジャンル
★連載 NO.272

 古馴染みの友人。
 娘は、アメリカ人と結婚して渡米。6月には母親になるという。この朗報に沖縄の爺婆は、英会話教室に通いはじめた。
 「いつか孫に逢ったとき、多少は英語で話しかけたいと思ってネ」
 まだ生まれてもいないのに、このグランパ・グランマは孫に話しかけることば探しを楽しんでいる。
 親と子・爺婆と孫の間には、かつて、ごく普通に(優しいことば)のかけ合いがあったが、いまはどうだろうか。胎児に、幼児に直接語りかけることをしているだろうか。専門家が制作した胎児教育用のCD・DVDに任せて、よしとしてはいないだろうか。

 いまでは、ベビーベッドという重宝なモノがあって、タタン<畳>やムシル<筵>の上に、アカングァ<赤子>を寝かせている風景は、あまり見かけないが、しばらく前はそれが普通にあった。そこに(優しい大人)の(優しいことば・俗語)が生まれた。
 「アカングァぬチブル<頭>ぬ上からぁ 歩っくな」
 (寝ている赤子の頭の辺りからは、歩くな)と、戒めたことばだ。この俗語は、不注意で寝た子の頭部を蹴ったり、物を落としたりする危険防止のみを意味してはいない。意思表示もままならない赤子も、長じて(世のため、人のため)につくす賢人になるかも知れない。つまりは、人格を尊重した(優しいことば)と言えよう。そして、「アカングァなかいや、童神<わらびがみ>ぬ宿みそぉちょーん=赤子には、純真と善を司る神が宿っている」としている。
 インドやミャンマーなどの仏教国にも、類似した考え方がある。
 われわれの習慣の中では、幼児に接すると(まあ!かわいいッ)と、その子の頭をなでるのが常である。しかし、仏教国においては法度だそうな。仏は人間の頭に宿ると信じられているからだ。頭に手を触れることは、沖縄では赤子・幼児への優しさの行為であっても、仏教国では神仏が対象。このことは、知っておかなければなるまい。

 また、ことばを持たないアカングァがムシルの上に寝ていたとする。その部屋などを片付けるため、寝位置を移動させる場合、殊に赤子がスヤスヤと深い眠りにある場合は、ムシルをソーッと引きながら、小さな声で唱える。
 「ムシル引―ち・・・・・ムシルびーち・・・・・」
 (ちょっと、動かしますよ。でも、ネー<地震>ではないよ。筵を引いているだけだから、驚かないでね。泣いちゃダメだよ)と、ことばをかける。この親や大人の優しい心情は、赤子に通じて、スヤスヤの寝息が乱れることはない。
 さらに、赤子が起きていても寝ていても、おんぶや抱っこを代わる場合、受取る人は、
 「アンマーとぅ!アンマーとぅ」と、声を発したものだ。
 (アナタを抱いたり、おんぶするのは余人にあらず。母さんだよ。母さん同様のわたしと一緒だよ)という、安心させるための唱えである。この(優しさ)も確かな温もりをもって伝わったにちがいない。

 最近「優しいことば」のかけ合いが、親子間に欠如しているように思える。大人も若者も、コミュニケーションのとり方が下手というか、知らないまま実生活をしているのではないか。親が子を子が親を無造作にあやめてしまう事件の頻発・・・・。なんと悲しいことか。
 イスラエルの企業が、犬の鳴き声で不審者を見張る警報システムを開発したそうな。犬は嗅覚や聴覚などが優れていることは知られているが、危険を察知して警戒する能力は、ほとんど活用されていないのに目をつけ、犬の350通りの吠え方を分析。脅威を感じた際に吠える声は、種類にかかわらず同じであることを突き止めた。警報システムでは、番犬がただ吠えているだけなのか、危険を察知して吠えているのかを聞き分けて、見張りに使うという。
 昨今の物騒な世の中では、犬の鳴き声を分析して警報とするのもいいが、その前に赤子や幼児、青少年がいま、どんな警報を鳴らしているか、どんなSOSを発しているのかを知るのが先ではなかろうか。

 「ムシル引―ち!ムシルびーち」
 「アンマーとぅ!アンマーとぅ」
 昔の「優しい大人」の「優しいことば」に、学ぶべきことはないか。子守唄からはじめるのもいいかも知れない。
 アメリカで生まれる孫を待つ件の爺婆が、どんな子守唄を歌うのか聞いてみたい。


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民謡番組・46年目の初春

2007-01-11 12:01:56 | ノンジャンル
★連載 NO.271

 琉球放送ラジオ。午後3時になると「ウシウシ節」のサンシンの音に乗って「民謡で今日拝なびら」が始まる。
 「今日拝なびら=ちゅう うがなびら」は、「こんにちは」「ご機嫌いかが」程度の挨拶言葉である。1万曲をはるかに越すであろう(島うた)で、聴取者のご機嫌を伺う1時間番組。
 沖縄発の民間放送として琉球放送(RBC)がラジオ放送(現在はテレビ兼営局)を開始したのは、昭和29年<1954>10月1日。その中で「民謡で今日拝なびら=当初は“お国言葉で・・・・”」は今年、46年目に入る。つまり、昭和36年<1961>に生まれた番組ということになる。
 昨年は45周年の節目に当たり、12月11日=名護市を皮切りに連日、宮古島市、石垣市、宜野湾市、豊見城市で各2時間。そして、RBCホールでは総まとめの3時間と、それぞれ生放送をして、聴取者への感謝の意を表した。






 このことについては、沖縄芸能史及び風俗史研究家であり、これまた、琉球放送創立と同時に始まった「ふるさとの古典=当初は“ふるさとの歌”。現在、日曜日朝6時放送」の3代目解説者である崎間麗進氏は、12月26日付け沖縄タイムス朝刊に、次のような論評を寄せている。

*   *   *   *   *

 琉球放送のラジオ番組「民謡で今日拝なびら」が放送四十五周年を迎えた。約半世紀にわたるこの長寿番組は、現在も多くの聴取者の心を癒してくれる。ラジオからは、毎日多くの民謡が流れ、多くの県民にさまざまな曲が愛唱されている。放送関係者は、県民はじめ聴取者の精神的な面のやすらぎを背負っているといえよう。
 昭和初期ごろ、琉球民謡を広めた媒体にレコード<蓄音機盤>があった。
 普久原朝喜の「マルフクレコード」などの琉球民謡レコードは、県内ばかりではなく関西方面や海外で働く県人の間にも広くゆきわたり、内外に情報を広める大きな役割を果たした。だが経済的なゆとりがある人々が主に聞いていたレコードとは別に、多くの大衆に支持されていたのは芝居やラジオなどの娯楽であり、そこで聞くことができる沖縄民謡だった。
 そのころ、婦女子の職業としてパナマ帽編みの仕事や古くから伝わる絣織りが新しくおこり盛んになった。手に職を持つ婦人たちは、自由に使える小金を持ち芝居や歌劇の大ファンになって、夜になるとよく芝居見物をした。
 芝居を通して民謡が愛唱されるようになり、恋愛に通ずるような歌劇の「泊阿嘉」「奥山の牡丹」などが好んで歌われた。人々に口ずさまれる歌は、芝居の歌劇から出て愛唱歌となり、民謡の歌詞として自らの思いと重ねて同情し得心されたであろう。そして、今日のように民謡ブームになったのであろう。
 昔の沖縄は貧しい生活の中でも一生懸命に働かなければならなかった。そういう生活では人々の中には常に欲求不満がたまり安らぎを求める。その時に心の支えになるのは、大衆の心を癒してくれる沖縄民謡である。
 沖縄人なら言葉の意味が分からなくても、小さいころから民謡のリズムやメロディーを感じ、心に安らぎを感じる。沖縄民謡には人々の心に訴える魅力があり、それがラジオ放送にかかると大きな力になるのである。
 自分の聞きたい沖縄民謡を聞いてほしいと思い、共に楽しみながら沖縄の庶民に勇気や元気をあたえる。番組がこれだけ長年続いている理由は、そのような聴取者の期待に関係者が応え続けてきたからだと思う。
 また、いろいろな曲をリクエストして放送することと平行して、民謡歌手や作詞・作曲家が新曲を歌ったり、作ったりして大衆に支持されている。歌手や作詞・作曲家が一人歩きしているのではなく、その曲を広く伝え宣伝する番組があるから、人々がそれを知ることができるのである。番組が大衆的に育っている裾野の広さを感じる。
 長年、番組の司会をしてきた上原直彦氏は、民謡界の先輩も後輩も長年お付き合いを重ねて多くの経験があり、人をよく知っている。
 琉球放送では、上原氏と一緒に私も古典音楽の番組「ふるさとの古典」の司会を約十五年つとめている。彼は物知り博学で、何を話してもすぐ反応が返ってくるので話がしやすい。事前にきちんと資料を集め情報収集をして勉強熱心であり、代わりになれる人はいないと思う。県民のみならず全国的な民謡の伝承者でもある。今年五月に上原氏が受賞した「第五回放送人グランプリ」がそれを証明する。
 社会もどんどん環境が変わり、物騒な世の中になってきている。苦労していろいろな歴史を経験してきた沖縄には、心を癒してくれる番組が必要だ。関係者にはこれからも時代に沿いながら、先頭に立ち番組をつくり続けてほしい。



*   *   *   *   *

 現在、月・水北島角子。火・木八木政男を軸に上原が担当。金曜日は一般の方々をゲストに放送している。島うたは、ハガキによるリクエストに応えているが、昨年間の採用ハガキは3044枚。放送するには、ちょっと適当でなく<没>にしたそれを加えると4000枚以上になる。
 正月1日、2日は特別構成の録音放送、3日からレギュラー生放送の初興しー<はちうくしー。仕事始め>は、人間国宝城間徳太郎氏が同門の嘉数善昭、新垣仁輝、金城栄五郎(琴城間安子)各氏が歌う「かじゃでぃ風」を1曲目としてスタートした。沖縄方言を8割、共通語を2割のトーク。
 「気負わず、あせらず。ただ淡々と沖縄の昨日・今日・明日を語ろう」
 八木、北島ご両人と、そう確認しあった年頭である。


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亥年雑感

2007-01-04 18:14:27 | ノンジャンル
★連載 NO.270

 年が明けて亥年である。

 ♪新玉ぬ年や誰ん喜びぬ 目眉打ち開ち遊ぶ嬉りしゃ
 <あらたまぬ とぅしや たるん ゆるくびぬ みまゆ うちふぃらち あしぶうりしゃ>
 歌意=もの皆、玉のように生まれ変わる正月は、身分や貧富の差なく喜びを享受する。目を輝かせ、眉を開いて語り遊ぶさまは、なんとも平和。そのことが喜ばしい。

 ♪何時ん新玉ぬ如あらな 嬉し事びけい言ちゃい聞ちゃい
 <いちん あらたまぬ とぅしぬぐとぅ あらな うりしごとぅ びけい いちゃいちちゃい>
 歌意=正月だけと言わず、何時も年の始めのように、にこやかでいたい。この1年、嬉しいこと、喜ばしいことだけを言ったり、聞いたりしよう。

 正月は縁起をかついで、不吉なことを口にせず、また、怒ったり泣いたりを慎むよう教えられて育ってきた。
 「年の始めに怒ると1年中、おこりん坊になる」
 「正月に泣くと1年中、泣ちぶさー<泣きみそ>でいなければならない」
 親にそう言われつづけて、この月だけは作り笑いをしてでも、穏やかに過ごしたものである。しかし、沖縄の場合、これらの琉歌も縁起も新暦の正月がなされるようになったのは、明治後期のこと。
 いまでも新暦正月を「大和正月=やまとぅ そうぐゎち」、旧暦正月を「沖縄正月=うちなぁ そうぐゎち」と言い、2度新年を寿ぐ。サトーキビ農家では今朝も、ひと月前に刈り入れ開始。県下の製糖工場は昼夜フル操業、いまが1番忙しい。台湾や本土から援農隊も入っている。農漁村では沖縄正月、都市部は勤め人を中心に大和正月と、その割合は5分5分。つまり、亜熱帯の農業、漁業は旧暦の気象に合わせているのだ。因みに、亥年を迎える沖縄正月は、新暦2月18日・日曜日。


 亥・猪。
 猪突猛進。向こう見ず。猪武者などの言葉が表すように、いささか(短慮)とされているが古来、人間はその肉で脂肪を補給してきた。
 江戸時代「生類憐れみの令」が出され、四つ足の生きものを食することを禁じられた際は「山鯨」と称して猪肉を腹に納め、馬肉(サクラ)に対して(ボタン)の美称をつけて、口に運んでいる。
 沖縄では猪を「ヤマシシ」と言う。豚肉を代表として肉全般を「シシ」。古語では「アッタミ」と称しているが、猪肉は「山アッタミ」。また、牛など角のある動物の肉を「チヌ<角>アッタミ」と、使い分けていたようだ。
 宮古民謡の歌者国吉源次さんに問うてみた。
 「八重山方言では猪をウムザというが、宮古方言では?」
 「うーん・・・・。宮古島には猪が棲めるほどの山がないから猪はいない。だから方言名もない」
 明快であっさりとした返事をもらった。


 佐賀県生まれで「高安犬物語=こうやすいぬ」「牙王物語=がおう」などを書き、動物文学を確立したとされる小説家戸川幸夫は、八重山・西表島を舞台に、駄犬数頭を調教して猪狩りをする猟師の執念と犬・猪の生態を描いた作品を世に出している。確か「白い牙」だったと記するが・・・・。亥年中に捜し出して、いま1度読んでみたい。どなたかの本棚に納まっていないだろうか。

 沖縄本島北部・国頭村のパイン畑には、いまでも猪が出没。猪垣をめぐらしてはあるものの、被害があると聞く。それがまた、観光コース「猪垣めぐり」になって、旅行者を喜ばせている。
 時折、八重山や国頭の友人は、
 「ヤマシシをしとめた。鍋にするが来ないか」
 と、誘ってくれるのが、なにしろ遠隔の地。「話くぁちー=話だけの馳走」をしている。

 待て。
 めでたい亥年の始めなのに(ヤマシシを食う)ことに夢中になってしまった。もしや今年は「食うか喰われるか」の1年になるのだろうか。愛嬌と勢いだけは、彼にあやかりたい。


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