旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
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ゲン担ぎ・縁起付け

2007-11-29 11:57:13 | ノンジャンル
★連載NO.316

 「ほんとうに私、走るのが遅いんです。生まれつきとあきらめていたのですが、実は足の遅さには、思いあたるフシがあるのです。それは・・・・」
 真顔で話したのは、RBCiラジオ「ゆかる日まさる日さんしんの日」<毎年3月4日実施。2008年は第16回目>及び情報センター・スタッフ森根尚美さん<38才>。
 小学校のころ、運動会の「かけっこ」はいつもビリ。落ち込む少女を見かねて祖父長濱昌吉は、ある秘伝を授けた。
 「尚美。昔からンマヌクスー<馬糞>を踏んだら、足が速くなると言われている。走る前日には、それを踏んでおくがいい」
 幸い少女が生まれ育ったうるま市与那城屋慶名は農漁村。ユマングィ<夕暮れ>になると、農道を家路に向かう牛や馬がいる。祖父の教えの通り少女は農道に出て、それらしきモノを右足で踏んだ。もちろん、素足でなければ効果はない。感触はあまりよくなかったが、確かな手応え、いや、足応えがあった。
 「右足だけ早くなってはバランスがとれない」
 賢くもそう判断した少女は、さらに2メートルほど先のモノを左足で踏んだ。まだ、生あたたかい。両足には、みるみる踏ん張り力がついた実感を覚える。闘志も湧いてくる。自信を得た少女は(どんな馬の糞だろう)と、農道の先を見ると、前方を行くのは野良帰りの馬ならぬ牛であった。
 「サラブレッドの足になるつもりが、いつかの国会の投票戦術の牛歩の足になってしまい、小学校・中学校を通して、運動会のビリの地位を他に譲ることはありませんでした」




 こうしたゲン担ぎ・縁起付けは民間には多々ある。
 「蟻を噛むと、声がよくなる」
 蟻の沖縄口はアイコー。所によってはアンタの名もあるようだ。世界には4000種以上が分布。沖縄にも110種余が確認されているそうな。その中でも(美声の素)は赤アリとされている。少年のころ、学芸会で何時も独唱をする当山みさ子という少女がいた。奇しくも美空ひばりと年齢を同じくしていて(みさチャンは朝夕、赤アリを3,4匹噛んでいる)と噂されていた。
 歌うことが好きな直彦少年も、同級生の誰よりも上を行きたくて、密かに赤アリの常食を始めた。確かに効果はあった。と言うのもその年のクリスマス、近くの教会の聖歌隊に入れたのが何よりの証拠である。

 「家の中に野鳥が迷い込むと厄」。
 風の中を自由に飛び回っている野鳥が、人間の住む家屋内に迷い込むのは、いかにも不自然。そのことから(厄)とする観念が生まれたと思われる。
 田里朝直<たさと ちょうちょく。1703~1773>作・組踊「万歳敵討=まんざい てぃちうち」にも、この例は用いられている。
 (あらすじ)=士族高平良<たかでーら>は、同輩大謝名<うふじゃな>の乗馬用の持ち馬が名馬の誉れ高いのに羨望の念がつのり、譲り受けを申し出るが断られる。その「馬遺恨=んま いくん」が動機になって高平良は、大謝名を刀にかける。武家社会の慣習として、肉親を討たれた者は仇討ちをしなければならない。大謝名の跡目を継いだ嫡男謝名子<じゃなぬしー>は、仏門に入っていた弟慶運<ちーうん>と共に仇討ちの機会を窺っていた。
 一方の高平良は、家に籠もる日々を過ごしているが、家内に迷い込んだ山鳥が2日間も仏壇を離れようとしない。これを(不吉・厄)とした高平良は、家人・家来を伴って小湾浜<くわんばま。現浦添市>に出て宴を張る。京太郎<ちょんだらー。門付芸人>に身を変えて高平良の動向を探っていた謝名兄弟は、ここぞ千戴一遇とばかり、宴の場に乗り込み、本懐を遂げる。
 物語は5段から成っているが4段目に、謝名兄弟が小湾浜に向かう道行の場は後に抜粋されて舞踊「高平良万歳」として現在でも都度、演じられている。

 ゲン担ぎ・縁起付け。
 ほかにもある。夜、わけもなく犬が怯えた立ち鳴ち<たちなち。遠吠え>をするのは、ヤナムン<悪い物の怪。魔物>が徘徊している知らせとしている。そんな場合は、昔はどこの家庭でも大抵は家ぬ後ぃ<やーぬ くしー。家の裏手>に飼っていた豚を棒で叩き起こして悲鳴を上げさせる。豚の悲鳴がヤナムンを払うとされた。
 これらは迷信には違いないが、科学万能の世の中ではあっても、ちょっとだけ信じてみるのも(心の温もり)としてよいのではないかと思うが・・・・如何。

 余談。
 若者たちの会話に「勝負パンツ」なる言葉を聞いた。昨今、水泳でも流行っているのだろうか。勝負パンツも「蟻を噛む」「馬糞を踏む」同様、何かのゲン担ぎ・縁起付けなのか。要研究。

次号は2007年12月6日発刊です!

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ニービチ♡いま・むかし

2007-11-22 12:41:05 | ノンジャンル
★連載NO.315

 涼しくなったせいか、結婚披露宴に出席する機会が多くなった。10月中旬からこの方4回も馳走にあずかっている。
 沖縄の結婚披露宴の招待者は、平均して200人強。街方ではホテル、地方では公民館等が利用される。お祝儀は、縁者は別として通常1万円也。大和では3万円から5万円と聞くが(勤め人には負担だろうなあ)と、人ごとながら気にしている。

 沖縄本島では、嫁入りの総称を「ニービチ」という。民族学者柳田国男は「メビキ=女引き=の転語ではないか」としていて、宮古・多良間島では嫁入りを「メガピキ=女引き」と言う例もある。また一方には、男女の独立を稲の株分けに例えて「根引き=ニービチ」とする説もあり、根分けによる(新しい命の継承)を意味しているようだ。
 ひところの披露宴の開会は、メンデルスゾーンやワグナーの「結婚行進曲」に乗って新郎新婦が神妙な面持ちで入場して始まったが、最近は楽聖の曲に代わって、なんとも賑やかなディスコ調のサウンドを用い、目に痛いほどの照明の中を入場してくる。新郎新婦も有名タレントに成り切り、表情はきっちりテレビの中のそれだ。
 司会者の両家の紹介。媒酌人、来賓、職場、友人。それぞれの祝辞の合間は余興だ。面白いのは、ディスコサウンドで入場して新郎新婦が雛壇着席してすぐに鳴り出すのはサンシン。祝賀歌「かじゃでぃ風」の歌と踊りを座開きにしている。これは、いかにも沖縄的で何の違和感もない。そして、友人たちのアチラソングにダンス。コチラソング<民謡>に舞踊。果ては寸劇やお盆の念仏踊りエイサー、地域の民族芸能があって、プログラムは総出で踊るカチャーシー<即興舞>でしめる。司会者がよっぽどうまく進行しないと、3時間を超えることになる。

 因みに、沖縄の結婚披露宴に(司会者)が登場したのは、終戦間もない昭和22、3年ごろ、石川市<現・うるま市>の村屋<集会所>におけるそれであると言われる。司会役をつとめたのは当時、同市内で歯科医院を開業していた小那覇全孝氏<おなはぜんこう=1897~1969>。小那覇氏は芸名ウナファ舞天<ブーテン>と称し、敗戦で失意の底で暮らしていた人々を漫談やサンシン片手の自作自演の芸で慰問・慰労してまわった人物。結婚披露宴、敬老会、各種祝賀会の(司会業)は、舞天さんに始まるとされる。

 戦前。首里那覇のウェーキンチュ<金持ち>や地方のそれはともかく、庶民の披露宴は簡単なものであった。
 男方の仏前に両家の親兄弟、親類縁者が揃う。まず仲人の口上。次いで一族の長老格のパーパー<老女。ハンシーとも言う>が一同の前に出て「水寄れぇ=みじ ゆれぇ」の儀式を行う。これは、男方の屋敷の井戸から汲んだ水をミームーク<新婿>・ミーユミ<新嫁>の額に撫でつける。水は(一族の命の源)とし、水寄れぇをすることによって、二人はもちろん、両家の深い縁結びを確固たるものにしたのである。
 それがすむと、あとは両家で作った馳走を前にしての祝宴・酒宴になる。ここでも祝歌「かじゃでぃ風」を弾き歌い踊って新婿新嫁の前途に徳をつけ、両家の繁栄を祝う。歌・サンシン、舞踊、舞方<めーかた。空手舞>などなど、心得のある者がつぎつぎに登場して演じる。友人知人が多く座敷に収容できない場合は、庭に筵を敷いてそこが宴席であり舞台になる。
 月が中天より西に寄っても続いた祝宴がすんでも、新婿新嫁は解放されない。新婿の男友だちが隣家に「婿宿=むーく やどぅ」と称する座敷をあらかじめ借り置き、新婿を中心に朝まで酒盛りをする。今風に言えば2次会だ。
新嫁もまた、その夜は「手引ち友小=てぃーふぃち どぅしぐぁ」、つまり、お手てつないで遊んだ幼友だちや祝宴の準備かれこれの手伝いをしてくれた女友だちと、ニービチばなしをして朝を迎える。それだけでも終わらない。2日目の夜もまた、手引ち友小に親戚の年ごろの女童たちが加わり「着物見しー=ちん みしー」をする。ニービチするにあたって、自ら縫った着物を披露する儀式だ。大抵は2,3枚。多くても5,6枚だったようだが、多ければその自慢もする。披露された友だちは枚数を羨ましがり、未婚の女童なぞは、自分のニービチの参考にした。したがって、新婿新嫁が水入らずの(ふたりだけ)になれるのは、3日目の夜ということになった。

 私事。
 12月にもお呼ばれがある。招待状に、
 「ご出席の皆さまの中からベストドレッサーを選出、(賞)を授与致します。彩り華やかな装いでのお越しをお待ちしています」
 とある。せいぜいスガッて<めかして>出席することにしよう。

次号は2007年11月29日発刊です!

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みかん・かまぼこ・秋の風

2007-11-15 12:16:18 | ノンジャンル
★連載NO.314

 「真夏日」という気象用語は、全国の平均気温で決めたらしいが、沖縄には当てはまらないようだ。
 平成19年も11月半ばを過ぎて、街のクリスマスツリーに光の花が咲き始めたというのに、気温は25度をキープ、街中を半袖姿が歩いている。とは言っても朝夕は確かな手応えで(寒さ)ではない(肌に快い)北風を楽しむことができる。
 味覚の秋。
 沖縄本島北部・本部町伊豆味<もとぶちょう いずみ>では、恒例の「みかん狩り」が始まった。夏場に実った温州みかんとカーブチー<在来の早稲種>は、そろそろ役目を終えるが、代わって登場しているのがオートー<在来種>である。

 ひところまでオートーは、普通に農家の庭先に植えられていた。11月、12月が食べごろだが、まだ青い9月、10月の実は、酸味を効かす料理用として古くから重宝してきた。台風にも害虫にも強く、しかるべくして沖縄に根づいているのだ。緑と黄色がかって熟したそれは、人間ばかりではなくガラサー<からす>など野鳥も好物。日ごろは森や山の端でしか見られないガラサーやスーサー<ひよどり>たち、野鳥の行動を庭先でじっくり観察したのもオートーの木の下であった。
 地元情報によれば、今年のオートーは台風被害が少なく独特の甘さが増して豊作ということだ。さらに、本部町の八重岳に寒緋桜が咲き始める1月初旬、食べごろになるのがタンカンだ。
 タンカンは、中国を原産地とする柑橘類の1種。ポンカンとオレンジの自然交配で生まれたとしている。「タンカン」の名称には、それらしい説がある。
 昔、中国の最南部で収穫されたミカンを行商人たちが、短い桶に入れて担ぎ、各地方に売り歩いていたことから「短い桶に入ったミカン」・短い桶「短桶=たんかん」と呼ばれるようになったという。「短拑」とも記されるそうな。「拑」には「はさむ。はさんでもつ」の語意がある。
 国内では沖縄、奄美大島、屋久島が主な産地。栽培には昼と夜の温度差が重要で、その差があまりない南西諸島が最適なのだろう。糖度が高く甘味濃厚。後味清涼。普通のミカンの2倍ものビタミンCが含まれている。2月まで楽しめるとあって、沖縄正月<うちなぁ そうぐぁち。旧正。平成20年は2月7日>の来客のもてなしには欠かせない。

タンカン

 この時期の山の幸をミカンとするならば、海の幸に「かまぼこ」がある。
 海人<うみんちゅ。漁業を生業とする人>の町・沖縄南部の糸満市では、11月17日土曜日「いとまん海人かまぼこフェア」を開催。市内11の製造業者が出店。冠婚葬祭に用いる伝統的な赤いかまぼこ・白いかまぼこ。グンボー<ごぼう>、チデークニー<黄大根・にんじん>を魚のすり身でこねて揚げた庶民的なチキアギー<付け揚げ>やクーガ<卵>を合わせたカシティラーかまぶく<菓子のカステラ様>。それに新しく造り出した「かき揚げかまぼこ」「てんぷらかまぼこ」などを売り出している。いずれも、本土のそれとは異なり、板に乗ってないのが沖縄かまぼこの特徴だ。そして、私的に好物の「くがに丸・黄金丸」と命名したそれもある。テニスボール大のくがに丸は、白飯・寿司飯・炊き込み飯をかまぼこで包んだものや、細かく切った野菜と卵を中身としている。20年余前ごろ那覇の公設市場に姿を現した同様なものは形からして、その名も「爆弾」と称し、ピクニックや寄り合いや運動会にも重宝されている。

かまぼこ


バクダンおにぎり

 1昨年だったが、友人と糸満市内での用件をすませて「かまぼこ屋」に立ち寄り、チキアギーとカシティラーかまぼこを家人へのチトゥ<つと。みやげ>に買ったことだが、家に着いたときは、チキアギー2枚がなくなっていた。車中の世間ばなしの合間にちぎっては口に運んでいたのである。チキアギーは包丁を入れるよりも、手でちぎって食した方がよりうまい。

 せっかくの味覚の秋に水をさすようだが・・・・。
昭和22年<1947>10月31日。琉球軍政府情報部は、つぎのような発表をしている。
 「米国は、日本や沖縄を含むアジア諸国及びヨーロッパ諸国の飢餓国民に食料を供給するため、穀物や油類等の節約運動を実施する。米軍人も沖縄人も協力するように。このことについてトルーマン大統領は、全米国民に対し要望事項を発している。◇火曜日を肉なしデーとすること。◇水曜日を鶏肉、卵なしデーとすること。◇毎日、パン1枚を節約すること。◇レストランでは、バター付パンは、客の要望があった場合のみ出すこと」

 みかん、かまぼこが食せる日々はしあわせだ。勝戦・敗戦にかかわらず戦争のあとにくるものは飢餓である。
 ・・・・ちょっとセンチな締めくくりになった。これも、秋の風のせいだろう。

次号は2007年11月22日発刊です!

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上原正吉・民謡自分史工工四

2007-11-08 13:41:00 | ノンジャンル
★連載NO.313

 「50年間、民謡ひと筋に生きてきた。これを期に自分の愛唱歌の(工工四)を出版したいと思っている」
 歌者上原正吉が意気込んでいる。

 「工工四」とは、琉球古典音楽の楽譜。宮廷音楽家屋嘉比朝寄<やかび ちょうき。1716~1775>が、中国の三絃楽器の楽譜を参考にして考案した。「くんくんしー」とも「くるるんしー」とも称する。古典音楽を修得するための教則本であると同時に、各地に伝承される臼太鼓<うしでーく。うすでーく>など、祭祀音楽の記録本でもある。
 この「屋嘉比工工四」の登場によって、素歌の唱えと手拍子、鼓<ちぢん>などを頼りに成されていた(祈願歌)が採譜されて、三絃<三線。さんしん>に乗るようになった。もし、工工四の考案が遅れていたとするならば、多くの歌が時の彼方に置き去られていただろう。
 その後「屋嘉比工工四」は、「知念工工四」「野村工工四」「湛水工工四」「安富祖工工四」と、その道の一人者によって改良、編纂され、昭和10年<1935>から昭和16年<1941>に伊差川世瑞、世礼国男共著「声楽譜附野村工工四」へと繋り、三絃と歌詞が同時に記された「工工四」が完成したことになる。
 因みに現在、主流を成している「声楽譜附野村工工四」は、「かじゃでぃ風」を1節目とする上巻37節。中巻は「作田節=ちくてんぶし」など大節<うふぶし>29節。下巻は二揚節<にあぎぶし>が多く、干瀬節<ふぃし>・子持節<くぁむちゃー>・散山節<さんやまー>・仲風節<なかふう>・述懐節<しゅっくぇー・すっくぇー>の、いわゆる二揚五節<にあぎ いちふし>をはじめとする57節。そして、続巻・拾遺集には、地方の歌や口説類、琉球筝曲の段のものなど81節。計204節が記載されている。

 「私の工工四は、琉球民謡の教則本でも、記録本でもない。昭和35年<1960>、ビクターレコード沖縄代理店・高良レコードから出した45回転盤の「宮古根」「南洋小唄」「ちゅっきゃり節」に始まり、最近の「あかばんた」「一夜花」など、私が歌った節を工工四化したい。作詞、作曲は同志たちの作品がほとんど」
 上原正吉は熱っぽく語っている。
 まず、30節前後を1巻として出版。2巻、3巻と繋げて300節を収める計画だ。彼が、これまでにレコード、CD化した民謡は、500節にとどく。

 昭和16年<1941>。今帰仁村謝名<なきじんそん じゃな>に生まれた上原正吉の今日までの道のりは辛苦の日々であった。3才に母親を失った。顔さえ覚えていない。戦後、13才に父親病死。琉球政府の生活救済を受けての暮らしだった。その上、その年の台風は、茅葺きの小さな家まで破壊してしまった。彼は意を決して那覇に出た。安里ひめゆり通りの自動車部品店に就職。のちに雑貨店を経営しながら独立の日を待っていた。
 こうしたおりに出会ったのは、琉球民謡界の大御所前川朝昭<故人>である。すぐに弟子入りした。三絃は、ものごころついたころに、父親が弾いていたそれを聞き馴染んでいた。小学校5年には、アメリカ製の粉ミルク缶を半分に切ってチーガ<三絃の共鳴板>にした三絃を自ら作って弾いていた。このことが上原正吉の運命を開いたのである。
 前川朝昭は、彼を息子としてみていた。彼もまた、前川朝昭に亡父の面影を重ねながら師事。実力をつけてきたのだ。
 NHKのど自慢大会にも出た。2位、3位、2位を繰り返すうち、昭和45年<1970>、ついに1位を獲得。その年の全国大会に沖縄代表として出場を果たした。県内3放送局主催民謡大会の民謡大賞、大衆賞を総なめ。一方では、チャリティー公演を自主開催。社会福祉に尽した功績が評価されて、県福祉協議会など関係団体から表彰されること再三。

 上原正吉の歌風はどうか。
 ひと口に言えば「情節を得意とする泣きぶし」である。大和の森進一・沖縄の上原正吉と評する人もいる。
 さて。
 ここまで、上原正吉の私事を書いたのは何故か。
 彼が出版する「工工四」の背景を知ってほしかったからである。上原正吉自身が語っているように、民謡の教則本でも記録本でもない自らが歌った(歌の系譜)が世に出ようとしているのだ。これまでに前川朝昭、知名定繁<故人>、喜納昌永、登川誠仁、喜屋武繁雄<故人>。さらに大浜安伴<故人>、古堅宗雄<故人>、山里勇吉、国吉源次・・・・。
 その他にも「民謡工工四」は10数冊出ている。上原正吉のそれはひと味異なり、言ってみれば、歌者の「民謡自分史」なのである。ひとりの歌者の(歌の系譜)から探る沖縄戦後民謡史も、また面白い。


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秋・琉歌三題

2007-11-01 16:50:45 | ノンジャンル
★連載NO.312

 ♪夏ぬ走川に涼風ぬ立ちゅし むしか水上や秋やあらに
 <なちぬ はいかわに しだかじぬ たちゅし
   むしか みなかみや あちや あらに>
 歌意=夏の川面を渡る風に涼しさが感じられる。もしかして、水上には秋が生まれたのではなかろうか。


 沖縄の寒暖計の水銀も、もう30度の目盛りまで上がる勢いはなくなった。
 *川風の涼しくもあるか打ち寄する 浪と共にや秋は立つらん
 古今集巻四・紀貫之の詠歌だが、彼は何月ごろに秋を知ったのだろうか。日本列島は南北に長く、季節感にも月日の差があることを琉歌・和歌で味わうことができる。
 サシバ<鷹の1種>の群れの南への渡りも終盤の先日、カラスにやられたと思われる若いサシバ1羽が、鹿児島で保護された。羽に傷を負って飛ぶことができない。保護センターが一応の治療をした後、そのサシバは空路、沖縄こどもの国動物園に移された。もう、南へ飛んで行った仲間の群れには合流できないが、沖縄で十分なリハビリをし、餌の取り方などを訓練。来年3月、4月ごろ、北へ帰る仲間たちの群れに放たれることになっている。中国南部、フィリピン、ニューギニアまでは行かなくても、沖縄での越冬をして春には仲間たちに逢えるだろう。

 ♪秋ぬ夜に何がし鶯ぬふきる 春ぬ面影ぬ残てぃ居たみ
  <あちぬよに ぬがし うぐゐしぬふきる
    はるぬ うむかじぬ ぬくてぃ WUたみ>
 歌意=秋の夜に鶯の声がする。鶯は春の鳥なのにどうしてだろう。わが世の春を謳歌した名残りを忘れかねてのことか。
 島袋盛敏著「琉歌集」には、「秋の野に=あちぬ ぬに」とあって、同意の1首が載っていて、琉球国第2尚氏14代目尚穆王<しょうぼく>。(1739~1794)の詠歌となっている。尚敬王の長子の尚穆は14歳で即位。41年の在位中、首里城の改築・大整備。清明祭の奨励。褒奨条例、琉球科律<刑法>などを成立させた(名君)の評価がある。しかし、この時代、多額の費用を要する江戸上りや、1771年八重山を襲った明和の大津波、続く干ばつによる飢饉などで王府の財政は大逼迫していた。
 したがって「秋ぬ野」の「野」は、窮乏する琉球国であり「鶯」は尚穆自身。また「春ぬ面影」は、平穏だったかつての「琉球国」として解釈する向きもある。
 暮れゆく<衰微>の<国>に鳴く鶯の声は、国王尚穆の(ため息)だったのだろうか。
 一方「秋の夜に」になると、趣きを異にする。歌意も「個人的に青春を鶯に成りきって謳歌したことばではあるが、歳月は容赦なく過ぎて、わが人生はすでに秋の夜・・・・。それでも、春の日を懐古してひと声ふた声鳴いてみる」という挽歌とも解釈できる。
 盛りの時は過ぎ、散りゆく花に身を重ねたようにも思えるが、生来、暢気に生きてきた私は「老いたりとは言え、桜や梅を宿とした鶯だ。秋になっても大いに鳴いてみせるさッ」と解釈。この1首をサンシンに乗せ、好んで歌っている。

 ♪走川ぬ如に年波は立ちゅい 繰い戻ち見欲ぶしゃ花ぬ昔
  <はいかわぬぐとぅに とぅしなみは たちゅい
    くいむどぅち みぶしゃ はなぬ んかし>
 歌意=歳月人を待たず。歳の波は速い川の流れのように過ぎていく。ああ、いま一度、糸車を操るように繰り戻して、花の昔に返ってみたいものだ。
 琉球古典音楽<宮廷音楽>に「早作田節=はいちくてんぶし」なる1節があって、普通は、稲の豊作を祝う歌詞が用いられるが、流派・湛水流では「揚出し早作田節=あぎ んじゃし」として、この1首を歌う。同じ曲節でありながら豊作祝いうたと懐古では、内容を異にしすぎるが「枯淡」を歌風とする湛水流独自の歌詞採用と言われている。

 待て、待て待て。
 柄にもなくワビ・サビの世界に入り込んでしまった。いや、それとも秋には、がさつな男を情緒的にする魔力があるのだろうか。
 もっとも、10月23日は69回目の誕生日だった。行政用語の前期高齢者から、すぐに後期高齢者になる。しかし、ゴルフでも69と70では大違いだ。年齢の1年の差の持つ意識・観念は意味深い。明日の日に区切りはつけず、しばらくはオールシーズン(鶯)に成り切って桜から梅へと飛び回り、いい声で鳴き続けようと決意だけは(固い)この秋である。

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