人災、政変、経済逼迫。泣くに泣けない内憂外患。
なでしこジャパン、世界陸上金メダル。スポーツにわずかな光明を見て「がんばろう日本!」と己に言い聞かせても、なかなか明るい明日は見えず、胃の腑に居座った〔不安〕は消化されずにいる。しかし、何もしないではこれまたいられない。ともあれ明治からこの方の沖縄県のトップたちと世情をハイライトながら見直して、彼らは〔世替り〕と国難をどう乗り切ってきたか。そこいらに何らかのヒントを得たいと思う。
※県令時代。
♣西村捨三〔にしむら すてぞう。大保14年~明治41年=1843~1908〕。
滋賀県彦根出身。第4代沖縄県令。
藩校・弘道館を卒業後、19才に江戸に出てさらに学ぶ。26才には、彦根藩庁入りして役所に就き、元藩主井伊直憲に随行して欧米を視察。1877年、明治政府内務省に出仕、内務権少参事を皮切りに大書記官、庶務局長、警保局長、参事院議官補などを歴任。琉球処分官松田道之の沖縄出張中は、内務省で琉球関係事務を担当していた。その職務内容が評価されたかして、明治16年<1883>12月21日、沖縄県令との兼務を命じられた。年が明けて8月、身柄を東京に移されていた琉球最後の国王尚泰<しょう たい>の帰省の際は、西村捨三が同行。そのまま、第4代沖縄県令に就任している。
事務的には、沖縄に通じていたと思われる。
在任中は、第3代県令岩村通俊が執った路線を維持しながら県庁舎の修・新築。首里~那覇間の道路改修。物産陳列舘開設。王府時代、三司官具志頭親方蔡温<ぐしちゃん うぇーかた さいおん=1682~1761>の林政関係の諸令達を集成した「林政八書」の編集。医学講習所設立。私的刑罰の抑制。女児教育の奨励。中学校への英語課導入等々、県政基盤整備に尽力した。
1886年3月、3年の任期を終えて帰京した後は、本省土木局長専任なったが、さらに長野県や大阪府の知事も歴任しているが、著書に「南島記事外篇」「御祭草紙」などがある。
西村捨三が在任した3年間の〔沖縄の動き〕をメモしてみよう。
♣明治16年。
◇県人警官採用。
警視、警部、巡査約160人すべてが他府県人によってなされていた警察業務に、初めて沖縄人警官2名が採用された。中頭郡美里村泡瀬<現・沖縄市>の高江州某と首里区久場川<現・那覇市>の翁長某の両名。当時はまだ〔断髪〕した者はほとんどいない。両名も片かしら<沖縄風の男性の結髪>に着物・股引姿。警棒と捕縄のみを携帯していた。
◇遊所工業取締令発令。
芝居上演は、芸題が替るたびに演目と内容を警察に届けるよう義務付けされた。このことは大正、昭和も変わらず敗戦直後まで続いた。
◇明治橋完成。
民間人神里当寛ら4人が発起人。木橋架設の許可を得、架橋会社を設立して着工~完成を見た。那覇と那覇港南岸に位置する垣花を結び、南部との流通の要になった。
♣明治17年。
◇沖縄県病院に医学講習所設置。
第1期生23名入学。
♣明治18年。
◇県下にサトウキビ栽培を奨励。早速、宮古島に官営製糖工場を設置して稼動。石油発動圧搾機が導入された。
※大迫貞清〔おおさこ さだきよ。文政8年~明治29年=1825~1895〕鹿児島県出身。第5代沖縄県令。
明治3年以降、鹿児島藩権大参事、静岡県県令、警視総監、元老院議官を歴任。1871年には陸軍少佐に。次いで明治19年<1886>4月27日、第5代沖縄県県令になるが、この年の7月19日「官制改正」により〔県令〕は〔知事〕と改称。61才の大迫貞清沖縄県初代県知事の誕生である。
在任中は久米島、宮古、八重山への製糖業の奨励。王府時代の禄を離れた旧士族のための授産施設「沖縄織工場」設立。首里と与那原を結ぶ通称与那原街道改修などを推進。1887年4月14日、沖縄県知事離任。帰京して再び元老院議官に就く。さらに勅選の貴族院議員、鹿児島県知事に就任して手腕をふるった人物。
♣人力車登場。
◇大迫貞清知事専用の人力車1台を移入。これが沖縄における「人力車第1号」。1886年の年の暮れであった。その後、人力車は民間営業になるが、当時の俥賃は那覇市区内ならば一律5厘。
♣針突禁止。
◇沖縄風俗のひとつだった婦人の手の甲や指に入れた1種のタトゥー<針突=ハジチ>を大迫貞清は弊風とし、禁止令を発したことだが、なかなか改められなかった。
♣牛乳飲料奨励。
◇牛乳が一般化。普及に伴って「牛乳営業取締規制」の制定に至る。新聞には「近頃、牛乳需要が増加しつつあることは慶賀に堪えない。牛乳はそのまま飲んでもよし、火で暖めて飲んでも栄養は変わらない。しかし目下、赤痢病流行中であるから、なるべく暖めて飲むのが安全である」とあって、注意を喚起している。
なでしこジャパン、世界陸上金メダル。スポーツにわずかな光明を見て「がんばろう日本!」と己に言い聞かせても、なかなか明るい明日は見えず、胃の腑に居座った〔不安〕は消化されずにいる。しかし、何もしないではこれまたいられない。ともあれ明治からこの方の沖縄県のトップたちと世情をハイライトながら見直して、彼らは〔世替り〕と国難をどう乗り切ってきたか。そこいらに何らかのヒントを得たいと思う。
※県令時代。
♣西村捨三〔にしむら すてぞう。大保14年~明治41年=1843~1908〕。
滋賀県彦根出身。第4代沖縄県令。
藩校・弘道館を卒業後、19才に江戸に出てさらに学ぶ。26才には、彦根藩庁入りして役所に就き、元藩主井伊直憲に随行して欧米を視察。1877年、明治政府内務省に出仕、内務権少参事を皮切りに大書記官、庶務局長、警保局長、参事院議官補などを歴任。琉球処分官松田道之の沖縄出張中は、内務省で琉球関係事務を担当していた。その職務内容が評価されたかして、明治16年<1883>12月21日、沖縄県令との兼務を命じられた。年が明けて8月、身柄を東京に移されていた琉球最後の国王尚泰<しょう たい>の帰省の際は、西村捨三が同行。そのまま、第4代沖縄県令に就任している。
事務的には、沖縄に通じていたと思われる。
在任中は、第3代県令岩村通俊が執った路線を維持しながら県庁舎の修・新築。首里~那覇間の道路改修。物産陳列舘開設。王府時代、三司官具志頭親方蔡温<ぐしちゃん うぇーかた さいおん=1682~1761>の林政関係の諸令達を集成した「林政八書」の編集。医学講習所設立。私的刑罰の抑制。女児教育の奨励。中学校への英語課導入等々、県政基盤整備に尽力した。
1886年3月、3年の任期を終えて帰京した後は、本省土木局長専任なったが、さらに長野県や大阪府の知事も歴任しているが、著書に「南島記事外篇」「御祭草紙」などがある。
西村捨三が在任した3年間の〔沖縄の動き〕をメモしてみよう。
♣明治16年。
◇県人警官採用。
警視、警部、巡査約160人すべてが他府県人によってなされていた警察業務に、初めて沖縄人警官2名が採用された。中頭郡美里村泡瀬<現・沖縄市>の高江州某と首里区久場川<現・那覇市>の翁長某の両名。当時はまだ〔断髪〕した者はほとんどいない。両名も片かしら<沖縄風の男性の結髪>に着物・股引姿。警棒と捕縄のみを携帯していた。
◇遊所工業取締令発令。
芝居上演は、芸題が替るたびに演目と内容を警察に届けるよう義務付けされた。このことは大正、昭和も変わらず敗戦直後まで続いた。
◇明治橋完成。
民間人神里当寛ら4人が発起人。木橋架設の許可を得、架橋会社を設立して着工~完成を見た。那覇と那覇港南岸に位置する垣花を結び、南部との流通の要になった。
♣明治17年。
◇沖縄県病院に医学講習所設置。
第1期生23名入学。
♣明治18年。
◇県下にサトウキビ栽培を奨励。早速、宮古島に官営製糖工場を設置して稼動。石油発動圧搾機が導入された。
※大迫貞清〔おおさこ さだきよ。文政8年~明治29年=1825~1895〕鹿児島県出身。第5代沖縄県令。
明治3年以降、鹿児島藩権大参事、静岡県県令、警視総監、元老院議官を歴任。1871年には陸軍少佐に。次いで明治19年<1886>4月27日、第5代沖縄県県令になるが、この年の7月19日「官制改正」により〔県令〕は〔知事〕と改称。61才の大迫貞清沖縄県初代県知事の誕生である。
在任中は久米島、宮古、八重山への製糖業の奨励。王府時代の禄を離れた旧士族のための授産施設「沖縄織工場」設立。首里と与那原を結ぶ通称与那原街道改修などを推進。1887年4月14日、沖縄県知事離任。帰京して再び元老院議官に就く。さらに勅選の貴族院議員、鹿児島県知事に就任して手腕をふるった人物。
♣人力車登場。
◇大迫貞清知事専用の人力車1台を移入。これが沖縄における「人力車第1号」。1886年の年の暮れであった。その後、人力車は民間営業になるが、当時の俥賃は那覇市区内ならば一律5厘。
♣針突禁止。
◇沖縄風俗のひとつだった婦人の手の甲や指に入れた1種のタトゥー<針突=ハジチ>を大迫貞清は弊風とし、禁止令を発したことだが、なかなか改められなかった。
♣牛乳飲料奨励。
◇牛乳が一般化。普及に伴って「牛乳営業取締規制」の制定に至る。新聞には「近頃、牛乳需要が増加しつつあることは慶賀に堪えない。牛乳はそのまま飲んでもよし、火で暖めて飲んでも栄養は変わらない。しかし目下、赤痢病流行中であるから、なるべく暖めて飲むのが安全である」とあって、注意を喚起している。