旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その③

2011-09-30 23:55:00 | ノンジャンル
 人災、政変、経済逼迫。泣くに泣けない内憂外患。
 なでしこジャパン、世界陸上金メダル。スポーツにわずかな光明を見て「がんばろう日本!」と己に言い聞かせても、なかなか明るい明日は見えず、胃の腑に居座った〔不安〕は消化されずにいる。しかし、何もしないではこれまたいられない。ともあれ明治からこの方の沖縄県のトップたちと世情をハイライトながら見直して、彼らは〔世替り〕と国難をどう乗り切ってきたか。そこいらに何らかのヒントを得たいと思う。

 ※県令時代。
 ♣西村捨三〔にしむら すてぞう。大保14年~明治41年=1843~1908〕。
滋賀県彦根出身。第4代沖縄県令。
 藩校・弘道館を卒業後、19才に江戸に出てさらに学ぶ。26才には、彦根藩庁入りして役所に就き、元藩主井伊直憲に随行して欧米を視察。1877年、明治政府内務省に出仕、内務権少参事を皮切りに大書記官、庶務局長、警保局長、参事院議官補などを歴任。琉球処分官松田道之の沖縄出張中は、内務省で琉球関係事務を担当していた。その職務内容が評価されたかして、明治16年<1883>12月21日、沖縄県令との兼務を命じられた。年が明けて8月、身柄を東京に移されていた琉球最後の国王尚泰<しょう たい>の帰省の際は、西村捨三が同行。そのまま、第4代沖縄県令に就任している。
 事務的には、沖縄に通じていたと思われる。
 在任中は、第3代県令岩村通俊が執った路線を維持しながら県庁舎の修・新築。首里~那覇間の道路改修。物産陳列舘開設。王府時代、三司官具志頭親方蔡温<ぐしちゃん うぇーかた さいおん=1682~1761>の林政関係の諸令達を集成した「林政八書」の編集。医学講習所設立。私的刑罰の抑制。女児教育の奨励。中学校への英語課導入等々、県政基盤整備に尽力した。
 1886年3月、3年の任期を終えて帰京した後は、本省土木局長専任なったが、さらに長野県や大阪府の知事も歴任しているが、著書に「南島記事外篇」「御祭草紙」などがある。

 西村捨三が在任した3年間の〔沖縄の動き〕をメモしてみよう。
 ♣明治16年。
 ◇県人警官採用。
 警視、警部、巡査約160人すべてが他府県人によってなされていた警察業務に、初めて沖縄人警官2名が採用された。中頭郡美里村泡瀬<現・沖縄市>の高江州某と首里区久場川<現・那覇市>の翁長某の両名。当時はまだ〔断髪〕した者はほとんどいない。両名も片かしら<沖縄風の男性の結髪>に着物・股引姿。警棒と捕縄のみを携帯していた。
 ◇遊所工業取締令発令。
 芝居上演は、芸題が替るたびに演目と内容を警察に届けるよう義務付けされた。このことは大正、昭和も変わらず敗戦直後まで続いた。
 ◇明治橋完成。
 民間人神里当寛ら4人が発起人。木橋架設の許可を得、架橋会社を設立して着工~完成を見た。那覇と那覇港南岸に位置する垣花を結び、南部との流通の要になった。
 ♣明治17年。
 ◇沖縄県病院に医学講習所設置。
 第1期生23名入学。
 ♣明治18年。
 ◇県下にサトウキビ栽培を奨励。早速、宮古島に官営製糖工場を設置して稼動。石油発動圧搾機が導入された。

 ※大迫貞清〔おおさこ さだきよ。文政8年~明治29年=1825~1895〕鹿児島県出身。第5代沖縄県令。
 明治3年以降、鹿児島藩権大参事、静岡県県令、警視総監、元老院議官を歴任。1871年には陸軍少佐に。次いで明治19年<1886>4月27日、第5代沖縄県県令になるが、この年の7月19日「官制改正」により〔県令〕は〔知事〕と改称。61才の大迫貞清沖縄県初代県知事の誕生である。
 在任中は久米島、宮古、八重山への製糖業の奨励。王府時代の禄を離れた旧士族のための授産施設「沖縄織工場」設立。首里と与那原を結ぶ通称与那原街道改修などを推進。1887年4月14日、沖縄県知事離任。帰京して再び元老院議官に就く。さらに勅選の貴族院議員、鹿児島県知事に就任して手腕をふるった人物。
 ♣人力車登場。
 ◇大迫貞清知事専用の人力車1台を移入。これが沖縄における「人力車第1号」。1886年の年の暮れであった。その後、人力車は民間営業になるが、当時の俥賃は那覇市区内ならば一律5厘。
 ♣針突禁止。
 ◇沖縄風俗のひとつだった婦人の手の甲や指に入れた1種のタトゥー<針突=ハジチ>を大迫貞清は弊風とし、禁止令を発したことだが、なかなか改められなかった。
 ♣牛乳飲料奨励。
 ◇牛乳が一般化。普及に伴って「牛乳営業取締規制」の制定に至る。新聞には「近頃、牛乳需要が増加しつつあることは慶賀に堪えない。牛乳はそのまま飲んでもよし、火で暖めて飲んでも栄養は変わらない。しかし目下、赤痢病流行中であるから、なるべく暖めて飲むのが安全である」とあって、注意を喚起している。


   


沖縄=県令・知事・主席・そして知事 その②

2011-09-20 00:15:00 | ノンジャンル
 「成てぃぬ あんましむのぉ 按司・地頭」なる慣用語がある。
語意*なてぃぬ=職位など、なってみて。この場合は公職に就いての意。
あんましむん=苦労。煩わしさ。病気は「あんまさ」。
*按司=あじ。または、あんじ。王府時代の高官職位。
*地頭=ぢとぅー。地方に配置された役職。現在の市町村職。
意味するところは、夢を実現して、あるいは推挙されて就いた按司、地頭職も煩わしさと苦労の連続で病になるほど。決して楽ではないというのだ。
野田佳彦総理や大臣の椅子に座った方々はどうか。地位の居心地はどうだろうか。就任して10日も待たず、たった9日間の大臣だった方の心境やいかに。まあ、その辺の詮索はともかくとして、シリーズを進行しよう。

 日本国は明治政府を樹立するや、琉球国をひとまず[藩]にして、全国一斉に廃藩置県への道を進めた。しかし、琉球は[王国]からいきなり[県]にするわけにもいかず、琉球処分官松田道之一行を派遣。ひとまず[琉球藩]に置き換え[沖縄県]への道筋を立てたのである。
 松田道之の補佐役を務めるため「県令心得」の肩書きで赴任したのは木梨精一郎。そして、正式に初代沖縄県令に発令された鍋島直彬については9月10日号に記載した。それ以降の人物に登場願おう。

 ◆県令時代。
 ※上杉茂憲〈うえすぎ もちのり〉。弘化1年~大正8年〈1844~1919〉。山形県米沢出身。第2代沖縄県令。
 父斉憲〈なりのり〉の跡目を継いで米沢藩主になった人。廃藩置県とともに朝廷の命令に従い、住居を東京に移した。明治5年から翌年までイギリス留学。帰国後宮内庁御用掛〈かかり〉を務めていたが、明治14年5月18日付けで第2代沖縄県令に就任。約2年余の在任中「第1回県費留学生」を東京に派遣するなど、新時代の人材育成を重視した県政を試みている。また、着任した翌年には1ヵ月にわたり沖縄本島各地を巡回。さらに久米島、宮古、八重山を視察。その時の記録は「上杉県令巡回日誌」にまとめられ、当時の沖縄の社会、民情を知るに貴重な史料になっている。
 上杉茂憲はこよなく沖縄を愛し、彼が推進した「県費留学生」からは、後の社会運動家で現・八重瀬町東風平出身謝花昇〈じゃはな のぼる=1855~1908〉。新聞人・政治家として活躍する那覇市首里山川出身太田朝敷〈おおた ちょうふ=1865~1938〉。行政官、政治家になる那覇市上之倉出身岸本賀昌〈きしもと がしょう=1868~1928〉などが世に出ている。
 県下をくまなく巡回・視察して、沖縄の実情を把握した上杉茂憲は中央政府に対し、
「堂々たる日本政府が南海の貧しい島沖縄、しかも罪のない琉球王国を滅亡させてまで、たった20万円の税金を吸い上げるとは・・・」
 とする報告書を提出した。ところが、このことが「政府批判」とされ、在任2年余で免職となった。
 明治14年~15年といえば◇煙草栽培を奨励。◇宮古、八重山、久米島の製糖開始。◇小学校教員誕生。◇先島航路開設。◇芝居興行認可などなど。各分野で新生沖縄県が本格的に始動した年だった。

 ※岩村通俊〈いわむら みちとし〉。天保11年~大正4年〈1840~1915〉。高知県宿毛出身。第3代沖縄県令。
 政府から見れば「県政改革の行過ぎ」「政府批判」を理由に免職になった上杉茂憲の後任。岩村通俊が着手したのは、王府時代の旧慣の調査とそれに基づく旧藩支配層の優遇措置だった。このことについて、
 「国王を頂点に士族~平民~百姓の縦社会を明確にして成り立っていた琉球。その中での慣習は一朝一夕では改善できないと判断した岩村通俊は、明治国家の地方統合を目的とした政治姿勢を具体的に推進した。しかし、旧藩支配層は歓迎しても下部層すべてが納得したかどうか」
 と、考察する研究者もいる。
 こうした岩村県政に対する反対運動こそ表面化してないが、何らかの抵抗の動きがあったかして、彼の在任期間はわずか8ヵ月だった。岩村通俊は後に北海道長官を拝命。かの地では大いに政治手腕を発揮、高い評価を得たという。

 南北に長い日本列島。
 北海道・沖縄からは東京がよく見えるが、東京からは北海道も沖縄も見えないらしい。それは、明治から今日まで相変わらずで、そのためか東京の日本政府は他府県にはいない北海道・沖縄限定の[担当大臣]を置いている。
 沖縄を何人の担当大臣が一陣の風のごとく通過して行ったことか。やはり、国家全体を格差なく治める力は、わが国にはないのだろうか。
 [沖縄=県令・知事・主席。そして知事]は、10月1日号につづく。


沖縄=歴代県令・知事・主席。そして知事 その①

2011-09-10 00:15:00 | ノンジャンル
 「野田内閣は、任期を全う出来るか」「まあ、よく持って1年・・・そこいらではなかろうか」「ひとつ賭けをしようか」。
 この国難の時に、総理大臣を競馬にして[賭け]の対象にするとは、なんと不謹慎かつ不真面目なことかと思われるが、それもこれも超短命内閣続きの日本国。政権争奪戦がすべてで、民意なき陣取りゲームに明け暮れているからだろう。

 王国から日本国の一県へ。琉球国から沖縄県へ。明治政府はどのような政治姿勢をもって廃藩置県を執行したのか。表面裏面のさまざまな政治の思惑、駆け引きがなされたのは歴史が物語っている。
 そこで、最後の琉球国王尚泰〈しょう たい。1843~1901。在位31年〉に代わって[沖縄]を仕切ったのは県令心得木梨精一郎から、現在の県知事仲井真弘多までの歴代県令・知事・主席、そして知事を通して、世相を垣間見ることにしよう。

 ◆県令時代。
 ※木梨精一郎〈きなし せいいちろう。1845~1910〉。
 山口県出身。明治9年〈1876〉3月。沖縄県令心得として、琉球藩出張を命じられた。これは、琉球藩内の裁判、警察事務を明治政府内務省出張所に移管するなど、琉球処分が進められ、内務省出張所の権限が強化された時期にあたる。木梨精一郎は、同出張所所長の肩書きで琉球処分官松田道之〈まつだ みちゆき。1839~1882。鳥取県出身〉を補佐。琉球藩庁との交渉に奔走した。そして、政府が明治12年〈1879〉、廃藩置県を令達した3月27日から同年4月4日、全国への布令及び初代県令発令まで「沖縄県県令心得」のままだったが、その間の功労が評価されて同年8月[琉球処分に尽力した功績]により、金200円の下賜を受けている。その後、明治19年〈1886〉、長野県知事に就任した。
 木梨精一郎の後、沖縄県が誕生した明治12年〈1879〉4月4日、沖縄県初代県令に就任したのは、肥前鹿島藩出身で[藩主]の座にあった鍋島直彬。明治14年5月18日までの2年1ヶ月の在任になるが、鍋島直彬は沖縄県令就任を必ずしも[快諾]したのではなかったようだ。

 ◆鍋島直彬〈なべしま なおよし。天保14年~大正4年(1844~1915)〉。

写真:ウィキペディアHPより
 
 肥前鹿島〈現・佐賀県南西部〉出身。嘉永元年〈1848〉に藩主になった。明治5年〈1872〉アメリカ留学。4年後に帰国するや、藩制から県制への[世替わり]の国体定まらない時期に、初代沖縄県令として着任する。しかし、同郷の政治家・教育者大熊重信〈1838~1922〉にあてた書簡いわく、
 「弱体をもって辺境の地に赴くは、必ずしも望むところではないが、任命とあらば及ばずながら職務を全うしたい。心残りは齢70の老母を残しての赴任・・・」云々。よほどの葛藤と覚悟を極めての沖縄入りだったことがうかがえる。実際に在任中コレラにかかり、また、日本国に組入れられることに反対する旧士族らが組織する頑固党の非協力的対立があって、世替わりの局面での県令職務は困難だった。

 その間、明治7年〈1874〉1月。薩摩藩が琉球に置いた[在藩奉行]が廃止され、その行務は明治政府内務省出張所に移管。また、政府は年間6000円を補助して、郵便蒸気船を那覇~鹿児島間に隔月1便、年6便を就航させるなど、中央との関係を密にする施策を次々に打ち出した。
 明治8年〈1875〉3月、神奈川県横浜でコーヒーが発売されたころ、大久保利通内務郷は「琉球は日本国や海外事情に疎い」として、」本土新聞数紙を官費で買い上げて「無償で配布した」と沖縄県史にあるが、どの新聞を何部、いつまで配布したかは明らかではない。
藩政時代の裁判や警察業務は、王府直轄の平等所〈ふぃらじゅ〉が執行し、筑佐事〈ちくさじ〉が刑事にあたっていたが、これが内務省出張所に移管されたのも明治9年。アメリカではトーマス・エジソンが蓄音機を発明。本土では「土曜日の半ドン。日曜日休日」が実施されたのもこの年だ。
 半ドンは、欧米諸国の公的労働時間制を取り入れて、土曜日の午後と日曜日を休日としたことによる新語。また東京では、もちろん空砲だが土曜日の正午きっかりに大砲を打ち鳴らして終業を報じた。その大砲の「ドンッ!」の音と「半日就業」を組み合わせて「半ドン」という言葉が生まれたとする説がある。文明開化の音だったに違いない。
 この「半ドン制」は1980年代まで続くが、大企業を中心に週休2日制が広まり、公立学校では1992年から毎月第2土曜日、さらに3年後第4土曜日も休日になった後、2002年度から月間の土曜日が休みになった。しかし、私立学校の一部では現在も土曜日に授業を行っている所もあるそうな。公務員の場合は、1992年に完全週休2日制が実施されたのは周知の通り。

 こうして、明治初期の10年ほどを切り取ってみても、時代は淀むことなく動いてきたことがわかる。「浮世真ん中」は、しばらく県令・知事・主席。そして日本復帰後の公選知事の顔ぶれを見ながら、沖縄の世相を見直していくことにしよう。




タマガイ・マジムン・サン結び

2011-09-01 00:40:00 | ノンジャンル
 “幽霊の正体見たり枯れ尾花”
 夏場は、あの世とこの世の垣根を取っ払った怪奇現象や幽霊ばなしがよく似合う。いまどき〔幽霊ばなしなぞッ〕と一笑にふしてはみても、長い夏もやがて遠のくであろうこの時期、どこからか一瞬吹く涼風が首筋あたりをなでて、幽霊ばなしを身近に感じさせる効果を上げてくれる。

 むかし話。
 真和志間切識名村<現・那覇市>に、朝起きて豆腐をつくり、村内や近隣の集落を売り歩いて暮らす若夫婦がいた。楽な暮らしではなかったが、相思相愛の仲は貧しさをも補ってあまりあるものがあった。二人で豆腐をつくり、それを売り歩くのは妻。仕上げまで手伝った夫は、一番星が顔を見せる時刻まで畑仕事に精を出すという毎日が、平穏に繰り返されていた。けれども、好事魔多しとか。
 この夫婦の妻に邪恋の念を抱いていた男がいた。豆腐売りから家路を急ぐ妻が、決まって識名坂<しちなんだ びら>を登って行くのを知っていた男はある日、坂<ひら>の中腹で妻を待ち受け、無理矢理、草むらに連れ込むやケダモノ行為を働いた。しかも、そのことがばれるのを恐れて、こともあろうに絞殺に及んだ。
 一方夫は、いつもなら自分より先に帰宅して、夕餉を整えて待っているはずの妻が、宵闇がほんものの闇に変わっても帰宅しないのを気遣い、坂上で待っていた。その姿を認めた男は〔毒を喰わば皿までッ〕を決め込んで、なんということか、夫まで撲殺してしまったのである。何がなんだか分からないままに命を落とした夫婦の霊魂は、その後も夫は妻を、妻は夫を求めて識名坂をさまよい、夜な夜なタマガイ<火の玉。遺念火>となって現れるようになった。
 人びとがことの真相を知るのは、不埒男が己の犯した罪の深さにさいなまれ、自分の悪行であることを口走りながら狂い死にしたからであった。そして、村人によって夫婦の亡骸は手厚く葬られ供養したことだが、それでもタマガイは時折、夜の識名坂を音もなく飛んだという。
 この話は明治42年<1909>9月。「識名坂ぬ遺念火=しちなんだびらぬ いにんび」と題して、劇団球陽座の舞台に掛かり、納涼芝居のひとつになっていた。

 沖縄では、旧盆をすませた後の旧暦8月上旬は、悪霊が徘徊する時期の魔除け行事「ヨーカビー」を各地で行なった。むろん、戦前の話。旧暦8月に入ると不吉事をもたらすタマガイが集落のあちこちに出没するとされ、若者たちが集落を見渡せる高台に陣取り、タマガイを確認しては、その場所に行きホーチャック<爆竹>を鳴らしてタマガイ払いをした。
 今風に考えると、旧暦の八月十五夜までは「シチグァチ ティダ=七月太陽」が、この夏最後のエネルギーを出し切るころで、渇水とそれに伴う疫病などが流行り、あまり安穏な暮らしが保てなかった時代のこと。それもこれも悪霊の成せる業として、ヨーカビー行事を成し、神仏の力も借りて“御祓い”をしたのではなかろうか。いまひとつには、この行事を好機に若者たちの肝試しと納涼にしたのではないかとも考えられる。
 ヨーカビーの語源についてはまず、旧暦8月8日から11日までに行なったことに由来して〔八日の日=八日目・ヨーカビ〕に転じたという説と「妖怪火」の沖縄読みとする説がある。いずれにせよ、近年は「ヨーカビー」の言葉さえ死語になっている。しかし、UFOを見たと言い切ってゆずらない人もいる。ひょっとするとタマガイも近代的進化をしてUFOになったのかも知れない。いや、そうに違いない。
       

 人は洋の東西を問わず、いまでも験<げん>をかつぐ。まじないもする。
 沖縄では夜、食べ物を持ち運ぶ場合、ススキの葉や竹の葉を結んだ「サン」を食べ物の上に置く。これにも由来があって・・・・。
 昔、羽地間切<現・名護市>屋我地島のさらに離れ小島に漁を生業にしている老人がいた。ところが、夏になると毎晩のように獲った魚を喰い荒らしにくるマジムン<妖怪。もののけ>どもがいた。悪さはしないまでも、相手がマジムンでは心地よくない。ある日、漁から帰り魚や蛸や貝、それにスヌイ<もずく>などをバーキ<ざる>に移し、老人は何の気なしに草の葉を結んでその上に置いた。するとどうだろう。マジムンどもは、その夜も家の前まではやってきた様子だが、中に入ることをしない。それどころか奇声をあげて退散し、二度と老人の家にはこなくなった。老人は知った。
 「マジムンどもは、草の葉を結んで“サン”が怖いのだ。このことは、琉球中の人に伝えなければなるまい」
 老人の奨励はたちまち琉球中に広まった。
 琉球の国造りの神々が降臨したとされる久高島<現・南城市>では、これを〔サイ〕と言い、魔除けや祭祀の道具のひとつにしている。また、首里では藁や糸芭蕉の葉片を結ぶのをサン。ススキの葉を束ねた祭祀用をゲーン<ススキの意>と、言い分けている。本来はいずれも十字に結んでいたが、いまでは〔リボン結び〕風に簡略化されている。ともかく〔結び目をつける〕ことが肝要なのである。
     
       写真:久高島  
 いくら科学万能時代でもタマガイ、マジムン、厄払い、魔除け等々の故事は、信じようと信じまいと生きていたほうがよい。そして、楽しめばいい。これも精神文化、情緒、情感の内ではなかろうか。