旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

鷹渡り・おきなわの秋

2008-10-30 14:06:18 | ノンジャンル
連載NO.364

 ♪秋の夕日に照る山もみじ 濃いも薄いも 数ある中に
   松を彩る楓や蔦は 山の麓の裾模様
 小学校4、5年生のころ教わった唱歌「もみじ」が口をついて出た。群馬県在の知人らの絵はがきには、紅葉狩りへの誘いとその写真がある。頃はよし、旅ごころを刺激してやまない。

 沖縄の気温もようやく30度と29度、28度あたりを行ったり来たりして、だいぶしのぎやすくなった。でも、スーツを常着するにはまだ早い。
 秋の使者サシバの渡りも無事すんだようだ。今年、宮古島や伊良部島で確認されたサシバは、13年ぶりに3万羽を超えた。鷹の仲間のサシバは、毎年10月「寒露」の日に北の繁殖地からやってくる。大きな群れが日ごとにその数を増やしたのは、時を違わず今年も「寒露」の日だった。越冬地の東南アジアへの旅の途中、一夜の羽を宮古島、伊良部島に休める彼たち。10月8日<寒露>から21日まで実施された飛来調査では、3万2000余羽を確認している。この数字は、2004年を除く過去10年間の平均飛来数の約2倍。3万羽を超えたのは13年ぶりということだ。増加の要因は「日本列島のサシバの繁殖地に台風の直撃が少なく、子育ての気象条件がよかったことや、調査期間中の宮古島上空の気流がよく、サシバの渡りに必要な条件が揃っていた」と関係者は分析している。
 かつては沖縄本島各地でもこの「秋の風物詩」に接することが容易だったが開発、都市化の時流の中には、彼らが宿とする樹木や食料のアタビー<蛙>アンダチャー<トカゲ>などが激減、戦前ほどの数は見ることができなくなった。と言うことは宮古島や伊良部島は、サシバの休息地としての条件を満たしていることになる。サシバの群れが島の上空を舞うさまは実に壮観、自然の中の生命の神秘と荘厳さを覚えずにはいられない。
 しかし、今年の3万2000余羽のサシバが1羽残らず、南の越冬地に渡れるとは限らない。沖縄に飛来してくるまでに傷ついたり、体力を消耗しきったものは、次なる飛行叶わず、群れと行動をともにすることはできない。一般的にこれらのサシバを「落てぃ鷹=うてぃ だが」と称するが、宮古の人びとは彼らを神の使いと位置づけて「スマバン タカ・島番鷹」と敬称する。島に残ったサシバは飛翔能力がなくなったのではなく、神様から〔おまえ達は島に滞在して、この島に邪悪なものが侵入しないように番をせよ。島を守護せよ〕との使命を受けた鷹としているのである。このことは宮古の古謡にもある。ここにも小さな島、いや、それだからこそ自然を敬い、自然と同化して生きてきた島びとの観念をみることができる。

 一方、沖縄本島で言う「落てぃ鷹」はどうだろう。
 首里那覇の童たちは、市内の奥武山や末吉の森などで落てぃ鷹を捕獲。サシバの足に麻製の穀物袋や畳制作に使用する太めの通称4号糸・シンゴーイーチュを適当な長さで結わえて、頭上高く飛ばして遊んだ。そのあとは森へ放ってやった例もあるが、たいていはタカジューシュー<鷹雑炊>なる炊き込み飯の主役になって人間の胃袋に納まった。けれども、それはかつてのこと、現在は保護鳥の指定を受けているから、サシバの捕獲は法律で禁じられている。まして食するなどもっての外である。
 俗語にある「落てぃ鷹」は、彼らを擬人化して用いる。つまり、大空をわがもののように飛ぶ鷹のように権力、地位、身分を誇示していた人間がそれらのすべてを失い、尾羽打ち枯らしたさまを揶揄している。
 日本が明治政府を樹立。琉球王国が沖縄県になった際、身分制度が崩壊して野に下った首里士族の例が「落てぃ鷹」。地方に暮らしを求めた彼らを「廃藩のさむらい」と言い、
 ♪大和世になりば 鷹ん地に降りて 鶏とぅ共の 芋小掘ゆさ
 と、狂歌に詠まれて囃し立てられた。つまり、日本国に組み入れられたとたん、首里貴族<鷹>も田舎に下りて、慣れない農耕に従事。芋を作り百姓<鶏>と共に芋掘りをしているさまの〔なんと哀れなことよ!〕と、かつての農民・平民は皮肉っている。
 巷間「猿は木から落ちても猿だが、選挙で落ちたモノはただのヒト以下」と言われているが、それはあんまり・・・・だ。猿と同一にしては失礼にあたる。豊かな国造り、平和な都道府県、暮らしよい市町村創成のために高邁な理想と深淵をもって出馬、しかもわれわれが選ぶ・・・・方々なのだから。

 撮影は見えないが、飛行機がふたすじの長く白い雲を生んでいる。沖縄の秋空の青にそのすじはよく似合う。
 待てよ。飛行機雲は排気ガス中の微粒子を核として、水蒸気が凝縮してできるものと聞いているが、季節とも関係があるのだろうか。このことを気にしながら、知人がよこした絵はがきに目をやり、唱歌「もみじ」の2番目を思いだし思いだし歌ってみる。
 ♪渓の流れに 散り行くもみじ 波にゆられて 離れて寄って
  赤や黄色の色さまざまに 水の上にも 織る錦


次号は2008年11月6日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com



舌・口・言葉

2008-10-23 11:58:48 | ノンジャンル
★連載NO.363

 舌禍=演説、講演などの内容が法律にふれたり、他人を怒らせたりして受ける災難。他人の中傷や誹謗によって受ける災難<日本語大辞典>

 「日教組が強い県は、学力が低い」
 念願の大臣の席に坐った喜びのあまりか、就任2日目に発言。即刻〔辞任〕せざるを得なかったセンセイがいらっしゃる。これなぞ、まさに舌禍。沖縄風に云えば「口にどぅ喰ぁりーる」である。この俗語の場合「口」は「物言い様」。「喰ぁりーる」は「自分の口で自分を喰い捨てる」つまりは、墓穴を掘る様を言い当てている。かつて、後に総理大臣になった大物が「貧乏人は麦を喰えッ」と言い放って国民の怒りを買った事例もある。
 「敵は本能寺にあり」と、織田信長の首を取って天下人を夢見た明智光秀。結局は豊臣秀吉に討たれて〔三日天下〕に終わる。以来、ものごとを始めたものの根気がなく、長続きしないことを三日天下と言ってきたが、今回のセンセイはその〔三日〕も保てず「二日天下」・・・・。語呂も悪いし洒落にもならないように思える。戦国時代から今日まで、こうした物言い様で世間を騒がせ、身を滅ぼした例は枚挙にいとまがなく、教訓にしてきたはずなのに〔舌禍〕は後を断たない。
 「まあ、人間的でいいのではないか」と〔笑って許して〕の寛大な意見もあるが、国情が逼迫している今日、国民としてはそう寛大さを発揮している時代ではなかろう。

 口・言葉に関する諺や歌謡は多い。八重山民謡「でんさ節」にも、次のような文句がある。
 ♪物言ざば慎み 口ぬ外 出だすな 出だしから 又ん 飲みやならぬ
 ♪車や三節ぬ楔しどぅ 千里ぬ道ん走い廻る 人や三節ぬ舌しどぅ 大胴や喰い捨てぃ
 歌意=物を言う時には、よくよく考慮して口にせよ。一度発した言葉は、またと飲み込むことはできない。
    荷車や馬車は、その車輪の中心に〔かなめ〕として、三寸の楔が打ち込まれている。それでしっかり固定されているからこそ、千里の道をも往復できるのだ。ところが人間は、三寸は三寸でも舌先三寸の物言い様で大事な我が身を滅ぼしてしまう。
 車の楔は三寸でもいいが、実際に人間の舌が三寸もあったら困りものだ。沖縄では、大人の殊に男の中指の第1関節から第2関節の間を約1寸の尺度としている。「でんさ節」の〔節〕は〔寸〕の意。大和ではどうだろうか。

 舌は、さまざまな諺・俗語に登場する。
 *舌が肥える=うまい物、高級な食べ物を食べなれているために、味の善し悪しがよく分かるようなるたとえ。
 それならいいが、舌が肥えて「贅沢」になり過ぎてはいけないだろう。
 *舌が長い=おしゃべりである。多弁。
 *舌が伸びる=他をはばからず、威張って大げさなことを言う。大言、広言を吐く。
 *舌の剣は命を絶つ=人を傷つけるような言葉は、おうおうにして双方の命取りになる。言葉を慎めということ。
 *舌柔らか也=物言いが巧みである。
 *舌先三寸に胸三寸=口と心は慎まなければならないのたとえ。
 などなど多々。
 松尾芭蕉の句“物言えば唇寒し秋の空”は、なまじ余計なことを言うと、禍を招くと解釈するか。本格的な秋に入り朝夕、物言う唇にも寒さを覚えると解釈するか。浅学のいたり・・・・。ご教示願いたい。

 昔ばなし「七色元結=なないろ むうてぃー」
 那覇と豊見城の間を流れる国場川に橋を架けることになった。その工事は殊のほか難行。そのとき、ひとりのユタ<巫女・霊能者>が「子年生まれで髪を七色の元結で結った女を人柱に立てるとよい」と託宣するのだが、そんな女を探せども居ず、なんと人柱の条件を満たした女とは、託宣をした当のユタ本人だった。ユタは「他人より先に物を言ってはならない」と遺言して人柱になった。大筋、このような話だ。
 この真玉橋由来記は、昭和10年<1935>。平良良勝の作・演出により劇化され都度、上演されている。同様の人柱伝説は大和にもあり、「長良川」の芸題の芝居があるという。いずれにせよ命がけの“物言えば唇寒し秋の風”だったわけだが諺・俗語とはよくしたものだ。一方には「物言わぬは腹膨る=思っていることを言わずに我慢していると、気持ちがすっきりしない。物は言うべし」とする反語がちゃんとある。だからこそ諺・俗語は教訓になり得るのだろう。

真玉橋遺構(豊見城市在)

 RBCiラジオ午後3時の番組「民謡で今日拝なびら=月~金」は、47年続いているが、そのうちの43年ばかりを担当している小生なぞ、生番組なだけに「唇寒し」を幾度やってきたことか。それでも「腹が膨れる」のを好まず、懲りずに放送している。
 物言い・発言はきれいごとではすまされない場合がある。かと言って不用意でも思いつきでも、うまくはいかない。いやはや、とかくこの世は難しい。

RBCスタジオにて

次号は2008年10月30日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com



島うた・誇らしゃ・山内ぶし

2008-10-16 15:36:05 | ノンジャンル
★連載NO.362

 いつものように朝4時半。
 61年連れ添った妻フミは、すでに起きて渋めのお茶を入れ、飲みよいほどに冷まして夫の目覚めを待っている。夫は起床すると早々に洗面をすませ、着こなしたスポーツウェアに着替える。支度が整うと、妻の入れたお茶をひと口ふた口飲むと、そそくさと階下の車庫へ。妻は無言のまま、夫の背中に視線をやって送り出す。
 沖縄市園田の家庭で16年間見られる風景だ。
 夫とは、戦後沖縄の民謡会にあって「100年にひとりの美声」と沙汰された歌者山内昌徳。愛車を走らせて向かう先は、自宅から1キロ足らずのそこにある沖縄市営運動場。日課のウォーキングが目的である。
 「ウォーキングなのだから、1キロ足らずは歩いて行ってはどうか」
 周囲はそう勧めるが、本人の思惑はこうだ。
 「早朝とは言え、勤め人の運動者がボチボチ数を増す時間。それに社交街中の町のそばを通るから、飲み屋で夜を明かした人も車も飛び出してくる。健康維持のためのウォーキングをするのに、輪禍に遭ってはたまらない。だから車で行く」
 立派な理屈が返ってくる。ひところは、思い通りの運動量をこなせたが、最近はそうもいかなくなった。なにしろ、セクシーな美声をもって一世を風靡した山内昌徳が毎朝〔運動場に姿を現す〕ことを伝え聞いた、かつての山内ファンの女性・・・・と言っても70代80代の美女たちが、彼を待ち受けるようになったのである。
 ウォーキングはそこそこ。すぐに拉致されて、美女たちの世間ばなしの中に拘留されてしまう。議題は高齢化社会をどう生き抜くか、少子化、年金、政治、経済、国際情勢。色恋ばなしから燃油高騰、ニッポンの行く末にいたるまで、とかく事欠かない。つまりは、いなまお「スター健在」というところ。運動場を囲む樹木の下で開かれるこの早朝討論会を横目で見ている他のウォーキング連は、ある種の羨望もあってか、この様子を「山内教室」と呼称するようになっている。
 「おたがい老いたりとは言えども、かつて沖縄の民謡シーンを共有した美女たちだ。彼女たちとの交流を拒まず、いや、大事に維持することは、歌者の普遍的姿勢でなければならない」
 〔ファンを大切にする〕。これまた妙に説得させられる山内論。このような山内昌徳の周囲に起きたエピソードは虚々実々、20や30の事例ではない。スターほどエピソードは多く、それがまたスターのスターたるゆえんと言える。

第11回NHKのど自慢大会」沖縄代表

 大正11年<1992>4月25日。
 読谷村牧原1366番地。父昌蒲、母ナビの3男3女の中の3男に生まれた山内昌徳。古堅尋常小学校、同青年学校を経た山内青年は、当時の若者のすべてがそうであったように「滅私奉公」。御国のため、天皇陛下への忠義を果たすべく、徴兵検査を受けて甲種合格、日本帝国軍人になった。配属先は、鹿児島西部18機関銃部隊。訓練はそこそこ、国分飛行場造成、整備で夜が明け、日が暮れる毎日だった。それから終戦に至るまで中国大陸北支・南支を転戦。その体験は〔壮絶〕を極めるが、紙面の都合上割愛。
 敗戦を南支の荒野で知り長崎、鹿児島、大阪を経て沖縄に引き揚げた。かつての日本帝国軍人は、米軍嘉手納基地に働き、少年のころから弾いていたサンシンに歓びを見つけ、米民政府管理下にあったラジオ「琉球の声・沖縄放送局=現琉球放送KKの前進」にも出演。昭和33年<1958>3月。NHKのど自慢全国大会に民謡の部・沖縄代表として出場。戦前戦後を通して初めてのこと。歌ったのは得意の「ナークニー」。この節の歌い方は、いまも「やまちナークニー=山内風ナークニー」の名が付いて歌われている。
 政治力では成し得なかった〔日本復帰〕を〔島うた〕で成し遂げたのである。そのころから、山内昌徳の評価は「100年にひとりの美声」。以来、演奏活動はもちろん、後進の指導に尽力、幾多の歌者を世に出したことか。

 平成8年<1996>。
 山内昌徳は〔自分の入る墓〕を建てた。正面墓壁右上には〔歌者山内〕の文字が刻まれている。「山内姓は多いからね。間違いなくワシの墓である証」だそうだ。
 沖縄には生前葬の風習はないが、存命中に自分の墓を建造すると〔長生きする〕という観念はある。それを見事に実行。洒落っ気も十分だ。それを知る人たちは口々に言う。
 「ヤマチぬウトーや、望み通ゐ、ヒャークや軽っさんどぉ=山内のおやじさんは、望み通り百歳は軽く行くぜ」。
 歌の達人は〔人生の達人〕になった。さすがに公開の場で歌うことは控えめにしているが、日課のウォーキングは欠かさず、次男たけしをはじめ直弟子、孫弟子たちの稽古は厳しくつけている。

 そして平成20年<2008>10月26日。
 昨年やるべき85歳のトゥシビー祝儀<生まれどし祝い>を記念して、次男たけしと共に親子リサイタル「島うた 誇らしゃ 山内ぶし」を開催する。場所=沖縄市民会館。午後6時開演。それに合わせて「誇らしゃ 山内ぶし」と題するCDをキャンパスレコードから出す。全16曲。これに登場する船越キヨ<故人>、外間愛子<故人>や瀬良垣苗子らは、戦後の女性歌者の先がけであり、山内昌徳と共に、復帰前の沖縄を全国に認知させる役割を担ってきた。また、このCDは単に個人の歌歴にとどまらず、昭和30年代から今日に至る〔島うたの記録〕と言える。伴奏楽器、録音技術など、昔日のサウンドからそのことを感じ取り、島うたを共有する1枚にしたいと思っている。

 ☆キャンパス通信。
 *「島うた・誇らしゃ・山内ぶし」の公演及びCD「誇らしゃ 山内ぶし」についての問い合わせは、キャンパスレコードへ。
電話:098-932-3801
http://sky.ap.teacup.com/campus-r/136.html



次号は2008年10月23日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com



男だけのふり遊び・ご案内

2008-10-09 14:59:49 | ノンジャンル
★連載NO.361

 「ふり遊びばかりしないで、たまには勉強しなさいッ」
 いまでも親が子どもにかける言葉ではなかろうか。
 私なぞ3日に1度は、おふくろに云われていた。60年近くも前の〔ふり遊び〕とは、悪童が揃ってする「玉小クァーエー=B玉の取りっこ遊び」「パッチー クァーエー=メンコ」、それに海サグイ山サグイと言って、ただうろつくだけではなく、海ではアファケー<貝・蛤>や、イヌジャー<岩溝に棲む小ダコ>を捕り、山ではソーミナー<メジロ>捕りや、イチュビ<野いちご>などを取って食べながら戦争ごっこやターザンになりきってのアウトドアプレイが殆どだったが、〔遊び〕の頭に〔ふり〕が付くと「無駄な」「ばかばかしい」「役に立たない」となり、親の小言の対象になった。
 学校では「よく遊びよく学べ」と、確かに教えられたが、わが仲間は「よく遊びよく遊び」に徹していたから、親に「ふり遊びばかりしてッ」とコーサー<拳骨>を喰らっても反抗はしなかった。コーサーの理由をよく理解しているのは、当の本人だったのである。

 遊び=むだ。しまりのないこと。
 遊ぶ=好きなことをする。仕事や勉強をしない。酒食にふける。
 などと辞書に書いてあり、かの色男光源氏も「夜ふくるまで遊びをしたまふ=桐壺」を楽しんでいる。つまり、洒落っ気を発揮する感性を持ち合わせた〔遊びごころ〕がなければ、遊びの奥義には達し得ない。さらに「遊びに師無し」と言い、遊びは他人から教えられるものではなく、常に自らの努力、切磋琢磨、実践をもって会得するものだそうだ。まあ、一方に「遊びに師無し」は、師を持たない分「悪に染まり易い」ことの戒めとする向きもあるにはある。

 「ふり遊び=あしび」の〔ふり〕はこの場合、接頭語として用いられている。悪霊か何かにとりつかれて「ふれ者」になる。気がふれたように〔遊びほうける〕さまを指していて、大和風に云えば、正気でありながら狸に化かされたか狐つきになったかのように、ふれ者のように遊びまくることを示している。
 2008年10月19日午後7時。沖縄市民小劇場「あしびなぁ」に〔正気・本気のフリムンたち〕が参集する。「男だけのふり遊び」公演がそれだ。
 9年連続で遊び芸を披露する面々は、沖縄芝居の重鎮の一人、八木政男。劇団「真永座」主宰及び芝居や舞踊に欠かせないカツラ、小道具作りの職人仲嶺真永。役者で舞台はもちろん、沖縄関わりの映画「釣りバカ日誌」「深呼吸の必要」「風の舞」など出演の多い北村三郎。八重山民謡の県指定技能保持者であり、全国的に演奏活動をしている大工哲弘。沖縄芸能の後継者で演劇集団「いしなぐの会」の當銘由亮、知名剛史。そして今回は、県立芸術大学に遊び学び、舞踊、組踊の成長株宇座仁一が初参加。構成・演出・司会は、琉球放送ラジオ50年の放送屋上原直彦。総元締はキャンパスレコード社長備瀬善勝。
 演目①日ごろは、沖縄口の表現者がイメージを裏切る大のり歌謡パレード。②女踊り3題。③さんしんによる日本童謡集。④抱腹絶倒の喜劇「年頭御拝」。〔あなたは、この笑いにたえられるか!秋の夜長の遊び芸〕〔今年も大のり小のり!懲りない男たちの名演・迷演〕を謳い文句にしている。おまけに、ポスター・チラシに表示されている門賃<むんちん。入場料>を、最近の物価高に逆らって前期・後期高齢者は2000円。90歳以上は無料にするという遊びつきである。
 鶴田浩二ではないが「いまの世の中、右を向いても左を見ても、真っ暗闇じゃござんせんか」。そこで、まっとうな男だけが恥も外聞も捨て、後ろ指をさされるのもいとわず〔笑い〕でもって〔世直し〕を試みる〔ふり遊び〕である。

稽古風景

♪ふり遊びしちん フリムンやあらん 肝染ま小友ぬ 揃るてぃ居てぃどぅ
 ふり遊びはするが、本物のフリムンではありません。心を許し合った友・仲間が打ち揃って仕組んだ〔ふり遊び〕なのです。
 これである。この文句は、歌者徳原清文の愛唱歌「ゆしよーゆし」の一節。

 「遊び」は、神遊びをはじめとして満作を神に感謝する豊年祭、綱引き、獅子舞、エイサー、海神祭ハーリーなどすべて神につながり、神と向き合っている。旧暦8月十五夜、9月十五夜の月見遊びについて1719年来琉、滞在約8ヶ月間の琉球見聞を記録した尚敬王の冊封副使・中国人徐葆光<じょ ほこう>は、その著書「中山伝信録」に〔神、人共に喜び合う日なり〕と、十五夜遊びを記している。
 「男だけのふり遊び」は、そこまで高尚ではないが、しばしの時間を共にして〔ふり笑い〕をするのも健康のためによろしいのではなかろうか。ご案内申し上げ候。 
◇キャンパス通信。
 「男だけのふり遊び」チケット販売所。那覇=高良レコード店。ナビィ三線店。仲尾次三味線店。沖縄市=照屋楽器店。普久原楽器店。市民小劇場あしびなぁ。キャンパスレコード。うるま市=津波三味線店。名護市=ブックボックス名護店。


次号は2008年10月16日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com


アカハラダカ・琉歌・秋の気配

2008-10-02 13:00:26 | ノンジャンル
★連載No.360

 9月23日「秋分の日」。北海道の大雪連山旭岳に初冠雪。北の大地は冬に入るが、南に下ること約2500キロの沖縄、さらに那覇から南へ約300キロの宮古島には、今年初のアカハラダカ<赤腹鷹>が姿を見せた。
 台風13号の影響でアカハラダカの〔渡り〕は、例年より10日遅れになった。北海道は駆け足で冬。沖縄はようやく秋の気配。日本列島は東端から西端まで一直線で示すと約3000キロ。南北への長さが季節感を異にしている。
 朝鮮半島などに生まれたワシタカ科の体長は約30センチのアカハラダカは毎年、秋の気配が強くなり、白く露の結び始めるころとされる「白露」のころやってくる。しかし、〔白く露の結び始めるころ〕とは、本土の季節感。日没は確かに早めになったが沖縄は、日中の気温が30度を切れない日々が続いている。
 太平洋や東シナ海を渡る鳥たちにとって日本列島は、島々が南北に飛び石状にあるのも格好の〔中継地〕なのだろう。アカハラダカやこれから渡ってくるサシバ<ワシタカ科>が、宮古島に多く見られるのは、地形が平坦で高い山がなくハブがいないのも幸いしていると言われる。バッタ類、トカゲ、野ネズミ、カエルなどをエサとする彼らには、ハブは天敵的存在。戦前は、沖縄本島各地を中継地としていたが、戦火や戦後の開発等によって山林が減り、羽を休める緑の樹木が少なくなったせいか、彼らの姿はそう多くは見かけなくなった。
 アカハラダカは、島々に羽を休めながら越冬のためフィリピンやマレー半島などへ南下するが、春には〔来た道〕を忘れずに通って、北のふるさとへ帰る。
 秋、そして冬の訪れを告げるサシバの渡りは、古くから知られているが、アカハラダカについては、1980年が初確認だそうな。30余年ほど前に宮古島には〔野鳥の会〕が結成されて固有の野鳥はもちろん、四季折々のそれを観察している。その宮古野鳥の会の調査によると、今年は9月18日の3羽を皮切りに、23日までに912羽をカウント。各地からの親子連れや、それ目当ての観光客が双眼鏡片手に沖縄の夏・秋の境目を楽しんでいるようだ。
 
 昼は渡り鳥。夜は月を楽しむ時候の沖縄。しかし、今年はフィリピン海域に発生して八重山諸島、殊に与那国島、台湾を直撃、そのまま中国大陸に抜けるものと思われた台風13号は、気まぐれな性格でUターン。久米島や沖縄本島をかすめ奄美大島、九州、四国、紀伊そして関東を経て太平洋に抜けた。
 おかげで年に一度の8月15夜も早い流れの雲、突然に降る大雨に惑わされて〔月見の宴〕は張れなかった。それでも沖縄人は、失望なぞしない。「後の十五夜<あとぅぬ じゅうぐや>がある」これである。後ぬ十五夜とは、ひと月後9月15夜のこと。実際の話、陰暦とは言え8月15夜のころまでは、夜になっても地熱があり〔暑さ〕を感じるが〔後ぬ十五夜〕にもなると夜風は肌に心地よくなる。因みに今年の「後ぬ十五夜」は、新暦10月13日に当たり「体育の日」でもある。方々の砂辺や山手の毛<もう。野原>では、趣向をこらした〔月眺み・ちちながみ〕がなされるだろう。

富盛の十五夜まつり

 このころ詠んだ琉歌はいかが。

 ♪情無ん雲や 情有てぃ風ぬ 吹ち払らてぃ呉らな 後ぬ十五夜
 〔今宵は9月の十五夜なのに、無情な雲が名月を隠している。秋風よ、キミの情けをもって、あの無情な雲を吹き払ってくれまいか。いとしい人と名月を眺め、愛を語る今宵だから〕。
 沖縄の月は四季を通してそれなりの趣があり、人びとは月に向かってさまざまな想いを託してきた。人目を忍ぶ恋路の場合は「雲よ、ふたりを光々と照らす月をキミのふところに仕舞い込んでおくれ」と言い、一方では風に頼んで雲を「払っておくれ」と懇願して名月を欲しがる。人は、月に雲に風に甘えて四季を巡らせているようだ。
 南国の8月15夜の月の清らかさは言うを待たない。その名月の下では各地、村遊び、村踊ゐ、村芝居をはじめ「獅子舞」「綱引き」が盛大に成されて、春からこれまでの労働をねぎらい、豊作を天地の神に感謝する行事が行われた。

糸満市真栄里


糸満市真栄里の綱引き

 いま1首。暮らしの中の詠歌を。

 ♪秋風ぬ立てぃば ぬが粗相にみしぇる 暑さ涼まちゃる玉ぬ団扇
 〔心もち秋めいた風を感じたからといって、どうしてすぐにクバ団扇を粗末にするのですか。夏場はあれほど涼風を送り、片時もそばを離れない、いや、離さなかった団扇ではありませんか〕。
 女心を秋風<男>とクバ団扇<女>に置き換えて、女性が詠んだ1首。親密にしていた男の態度が、このところ素気ない。そこで女は言った。
 〔若いときは、あれほど可愛がってくれたのに、わたしの目尻に秋風がシワの波を寄せるようになったら、愛のことばひとつかけては下さらない。男心と秋の空ってほんとなのネ・・・・〕
 どうやら愛にも“秋”はあるらしい。

次号は2008年10月9日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com