旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

褒められて・褒められて その3

2019-02-20 00:10:00 | ノンジャンル
 『山川文太』詩人。
 徳田安則さんの詩人としての筆名である。琉球放送を定年退職して久しくなる。現役中は報道局、制作局の管理職を務めた。いわば小生とは(僚友)。小生の拙文集・沖縄タイムス発行「沖縄・話のはなし=浮世真ん中」(2004/初版)の折には(中ゆくい)と称する項に(褒めことば)を寄稿してもらった。いわく。

 {いたずら好きの直さん}山川文太。
 ガンマリ(悪戯)や罪のないウソをつくのが大好きな人。ガンマリを笑って見過ごせない人は、シャレが分からない人として切り捨てる。そのために誤解されたこともあるのではないか。
 公開録音で伊是名島へ渡り、台風に閉じ込められ、三日後に帰ってきて、僕に言った。
 「君はビン詰めのスクガラスを知っているだろう。ビンの中では全部、頭を逆さにして整然としている。あの並べ方はね、伊是名のおばさん達がスクガラスの入ったビンの中にお箸を入れ、物凄い勢いでかき回すと、あんな風にビンの中できれいに並ぶんだよ。いやぁ、凄い技だ」
 私は半信半疑ながらも信じていた。
 数年後の新聞。マチグァーのおばぁ達か。スクガラスを一匹ずつビン詰めしているが、老齢化には勝てず「細かいビン詰め作業は無理になったので、終わりにする」と、あった。
 信じた僕が馬鹿でした。
 また、ある時、民謡界の大御所山内昌徳さんが歌う「命口節」をベースに、山内さんの戦争体験をラジオの特別番組にするため、勝て鹿児島県隼人町に行った。山内さんは戦争前、隼人で飛行場建設作業した後、中国戦線に送られた。戦後、中国から再び隼人に帰還。こともあろうに、その飛行場を開拓して芋を作っていた。その場所を訪ねたのだ。何十年ぶりかの戦友との再会などあって、取材は終えた。打ち上げは天文館通りのスナック。
 山内さん、直さん、僕の三人。そこで直さんのガンマリがはじまる。
 山内さんはブラジルの大牧場主。日系だが言葉はブラジル語のみ。僕はその付き人で、直さんは東京の不動産屋。温泉の出る広い土地を求めて、ブラジルからやってきたという設定。東京の不動産屋は芸能界にも顔が広く、鹿児島出身の西郷輝彦、森進一とも(知り合い)だと、直さんは真顔でホステスに話す。
 山内さんがウチナーグチで直さんの作りばなしに調子を合わせると、僕は急いでヤトゥグチ(共通語)に訳する。
 店のマスター、ホステスさんは、本気にしたはずだが・・・・。
 ガンマリは「ツボにはまったッ」と、いい気分で店を出ようと、勘定書きを見てびっくり。むこうのほうが一枚上手だった。ちゃんとウソを見抜いていて、高額の数字を払うことになった。何度も何度も頭を下げて、マケてもらったが、このことは直さんには、いまだ話していない。(詩人)

 ◇胴一人物言い=どぅちゅい むぬいい=ひとり言。
 「戯言や作りばなしは好きでやってはいるが、それも二度とあわないであろう女性の前でやるだけだがなぁ・・・・」。
 山川文太さんの(褒めことば)には、偽りはない。

 さてさて。
 今年も3月4日は「ゆかる日まさる日・さんしんの日」である。
 RBCiラジオの提唱。27年目を迎える。
 今回の主会場は具志川市民芸術劇場・響ホール。
 午前11時45分から午後9時までの公開生放送を実施する。
 加えて今年は琉球放送創立65周年にあたり、会社を挙げての取り組みになる。県内の民謡界、古典音楽界、舞踊界、民俗芸能らを網羅するほか、アメリカ、南米、アジア圏の沖縄関係者とのインタビューも舞台サイドに設置した大スクリーンに映し出して(三線文化)を国際的に伝える構成をする。
 「多くの方々に参加していただこう」
 これを意図して入場は無料だが、入場整理券を発行。1部2部3部と入れ替え制を取らせていただいている。
 『65・発見 ぞくぞく』
 これは琉球放送創立65年のコンセプト。「さんしんの日にも新しい発見があり、これからも続々、そして気分的にゾクゾク・ワクワクする放送を日常的に実施していこうという決意を固めている。

 2月5日、沖縄は旧正月を迎え言葉通りの「新春」。加えてこの日は「立春」。確実に日足も伸びてきた。誰が言ったか知らないが、この時季を言い当てたうまい言葉がある。
 「さんしんの日が春を連れてやって来る!」。


褒められて・褒められて その2

2019-02-10 00:10:00 | ノンジャンル
 『御大・おんたい』ということばがある。
 『御大将』の略語で、辞典には首領・長・かしらの愛称と記されている。
 RBCiラジオの人気パーソナリティーで月曜日から金曜日まで午後5時から放送の「いんでないかい!」を担当する柳卓(やなぎ たく)は、普段、ボクのことを「御大」と呼ぶ。ボクは「たく」と呼ぶ。
 「卓よ。二人っきりの場合は(御大)もいいが、人前や放送で(御大)呼ばわりするのはヤメにしてくれないか。横っ腹がくすぐったくてならない」
 そう申し入れるのだが、彼の返事にこちとらは「いい気持ち」にさせられる。
 「何をおっしゃる御大。御大は放送界の長老で、それだけの実績のある方。ボクら後輩は御大の背中を見て日夜、頑張っているのですよ。ボクは御大をリスペクトして御大と呼ばせていただいているのですよ御大っ」
 ここでも面と向かって御大を連発する。そこまで「よいしょっ」されると、「そうかなぁ、そうかなぁ」と見境なく是認してしまうのだ。褒め上手というか、敵を作らない柳卓の処世術なのかも知れないが・・・・。悪い気がしないのはどうしてだろう。

 さて。前号のつづき。
 2004年。沖縄タイムス社発刊、小生の拙文集「話のはなし・浮世真ん中」の(中ゆくい=中休み)の項に作家・詩人の故船越義彰大兄は「ヤナグチャー直彦」と題して褒めことばを寄せていただいた。
 「ヤナグチャー」とは、口が悪いの意。

 〔ヤナグチャー直彦〕
 悪口雑言のことではない。強いて言えば言葉を飾らない。それが直彦の「言語生活」であると、私は視ている。彼と私は年齢からいうと、ひと回りほど違う。一つ違えばシージャカタ(先輩)。敬語で接するように躾られた那覇童であるにも拘わらず、彼は遠慮がない。例えば「タルーッチイ(太郎兄貴)がヤマト口を使うと言語障害を起こす」と私のことを電波に乗せる。これも不作法、ヤナグチになるかも知れないが、私はそうはとらない。なぜなら、この言葉には、彼の私に対する親しみと、下手なヤマト口への素朴な郷愁があるからだ。
 もともと、悪口は蔭でコソコソささやかれ広まるものである。彼のようにあからさまに言うのは悪意がないからである。いや、かえって他人の欠点を微笑みで見つめ、諧謔に衣替えさせての発言。だから、毒にはならない。爽やかな風となって座を和やかにするのである。博識で、しかも、人情の機微を理解する力を備えた軽妙酒脱、粋人でなければならない。左様、上原直彦は粋人である。
 直彦にはバック・ボーンがある。いい意味での那覇人気質が残っている。ただし、「ジークェー那覇」のそれではない。意識の中にある美質、欠点を承知した上での那覇人である。理屈っぽいが頑固ではない。他人、特に先輩への畏敬の念を忘れない。私と、遠慮なく話し合っているが、けじめのつけかたは見事だ。
 ずいぶん前のことだが、食堂で直彦と顔を合わせた。私はある先輩と一緒であった。離れた席から近寄ってきた直彦は私と、直彦にとっては初対面の先輩に挨拶をした。それだけではない。食事を終えた私たちを、階段の降り口まで送り、
 「ヨンナー メンソーリヨーサイ=お気をつけてお帰りください」と丁重な挨拶をした。
 その先輩は「いいニーシェー(いい若者)」と、賛辞を惜しまなかった。
 昔風をないがしろにせず、現在に対しても多面的に対応している上原直彦は、私にとって、まことに大事な知己である。(作家・詩人)

 1960年代。船越義彰著「成化風雲録」が連載新聞小説として沖縄タイムス紙上を飾った。のちにそれはRBC放送劇団によってラジオドラマ化されるが、その琉球歴史・成化の時代の動乱を描いた小説のドラマ化の折り、主人公の風根丸に抜擢されて出演したのが小生である。
 そうした縁があって船越義彰大兄を童名のタルー・タローを親愛をもって(タローッチー・タルーッチイ)と呼ばせて頂いたしだい。
 「汝ぁがー、作家ねぇーなゐWUさんはじやしが、あんしん、思むくとぅ寝言ん、書ちとぅばしよー=お前は作家にはなれないだろう。でも、日ごろ思うこと、寝言でもいいから(書く)作業はつづけなさい」。
 そう褒めてくださったのもタローッチーだった。

 「褒め殺し」という言葉がある。過分な褒め言葉を信じて大成する人、逆に褒め言葉に押しつぶされる人もいる。逆に褒め言葉を額面通り受取り、エネルギーに変え得る人もいる。
 柳卓に「御大」と「よいしょ」され、船越義彰大兄に「ヤナグチャー直彦」と褒められて「のほほん」と生きているボク。しあわせこの上もない。 


褒められて・褒められて その①

2019-02-01 00:10:00 | ノンジャンル
 住み慣れた西原町を離れ、豊見城市に居を移して2回目の正月を迎えた。
 一応は落ち着いたと言えども、確保した書斎(らしき)1室はいまだ片付いておらず、段ボールに収めた書籍などすら、本棚には並んではいない。一度、箱に突っ込んだそれらを納めるべきところに収めるというのは至難の業だ。
 「お前たちがさわっては何処に収めたか分からなくなる。自分でやるからそのままにしておくように」。
 家人にはそう厳命したものの、生来のずぼらさが優先して、手付かずになって今日まで(本たち)に、窮屈な段ボール住まいを強いていた。
 「これでは本に失礼だ」
 義理を発揮して(整理整頓)に取り掛かった・・・・。ある本が目にとまり、ついにページをめくることになった。
 2004年9月23日。沖縄タイムス社発行「沖縄・話のはなし 浮世真ん中」とタイトルする1冊。何のことはない。小生の拙文集である。(出来の悪い息子)を見るように、それでも胸に熱いモノを感じながら、ついついページをめくる。
 「相変わらずの甘っちょろい拙文だなあ」
 そう思うならば、直ぐに片すみに放ればいいものの、それが出来ずにいるのはどうしたことだろう・・・・。そのまま読み続ける。その何ページかの文章に目を吸いつかせることになる。
 小休止を意味する(中ゆくい)と称する項でいまは亡き沖縄芸能史・風俗研究家崎間麗進先生の小生に対する(褒めことば)の1文。そうそう人さまから褒められたことのない小生。テレながらもありがたく拝読する。いわく。

 『上原ぬタンメー小二才』崎間麗進。
 
 琉球放送iラジオの古典音楽番組「ふるさとの古典」で、直彦くんと対談するようになって15年余。その中で、彼のこれまでの体験談を聞いてきたが、その逸話たるや尽きることなく、つぎつぎと湧き出てくるようで、まとめると数冊の本となり、学ぶべきことが多い。なかでも失敗談は突拍子で、ハッとさせられること度々であった。
 琉球古典音楽の大御所として、なかなか近寄れなかった幸地亀千代先生の演奏のとき、ムヌアテーネーラン(筆者注・恐れを知らず)直彦いうことに「先生、女絃(ミージル)が低いようですね」と申し上げたが、何の返事もなかった。大先生の調弦の甘さを指摘したのだ。
 また、古典音楽家宮城嗣周先生との対談では、直彦いわく。
 「三線ぬんでー(サンシンでも)習ってみましょうかネ」と言ったところ、
 「でー(でも)とはなんだっ。キミは三線を軽視しているのかっ習うに及ばずっ」
と、たしなめられて返事に困ったという。ヒヤヒヤもの話である。しかし、幸地、宮城両先生とは、晩年までお付き合いがあって親しかったようだ。
 このような中で、知識も豊富にあって、これを伝え聞いた船越の太郎さん(作家・詩人船越義彰氏)いわく。「直彦はタンメー小二才だ」。
 的を得た言い当てで、上原直彦がよく表現されている。
 そこで私にも思い当たることがある。
 戦前のはなし。玉城盛重先生(古典舞踊家・近代舞踊の創始者)の研究所に出入りしていたある日。組踊「花売の縁」で主人公の森川の子が美女音樽に梅の枝を差し出し、慌て様に家に入るのは、
 「びっくりしてのことか、恥ずかしがって隠れたのですか」と質問したところ玉城先生は、
 「うりがん、いらりーみ(そんなことが説明できるものか)」と、きつい目をして叱られ遂に、森川の子の心情を聞くことはできなかった。
 いずれにしても若気のいたりだったかも知れないが、いま思うに、いろんなことを聞いたり、叱られたりしたことが、よい思い出となっている。
 私自身が忘却していた若き日のことまで引き出してくれる「タンメー小二才」の存在は嬉しく楽しい。

 過分なほめことば。熱くなることを自覚しながら、しばし沈思・・・・。何かにつけ涙腺が緩むのは、崎間麗進大兄に「タンメー小二才」と呼ばれた「二―シェー」も、言葉通り「タンメー」になったということか・・・。

 褒めことばに乗じて注釈を入れる。
 ◇「タンメーぐぁー」は「爺」。「二―シェー」は若者。青二才にも通じる。小生への褒めことばとしては、よく言えば「老成した若者」、または「恐れを知らぬ猪突猛進型」とも解釈できる。
 おっとぉ。過去に思いを馳せている間はない。段ボールのモノを片付けなければならない。それにしても整理整頓なるものは過去を引き出す魔力があるようで、小生の部屋が落ち着きをみるのは、もう少し先のことになるだろう。
 ガラス戸の向こうは灰色の幕を下ろしている。今宵も寒そうだが心は温かい。