旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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首里城下・人力車が走る

2011-08-20 10:19:00 | ノンジャンル
 人力車が走っている。
 首里城公園前を起点とし玉陵~安国寺~中山門~観音堂~赤丸宗通り~いろは坂~一中健児之塔~石畳道~大赤木~瑞泉酒造。そして、首里城公園前に戻る。これは、1時間30分コース。他に30分コース、1時間コースとあって、利用者の都合に合わせている。

 ※首里城公園=首里城は、14世紀ごろ察度王によって築城されたといわれる王城。戦火で焼失したが、平成元年<1984>正殿復元に着手。平成4年にほぼ完了。公園として公開。世界遺産郡のひとつ。
 ※玉陵<たまうどぅん>=琉球国王第二尚氏王統の墓陵。1501年創建とされる。国王・王妃・世子・世子及びその直系の霊を祀る。
 ※安国寺=臨済宗の寺。山号太平山。はじめ観音菩薩像、のちに不動明王像も奉安。尚泰久王時代=1450~1456に創建。
 ※中山門<ちゅうざんもん>=首里城への第一の関門。別名下ぬ綾門<しむぬ あやじょう>。これに対して守禮門<しゅれいもん>を「上ぬ鳥居・上ぬ綾門」とも言う。
ここで一度下車。琉球染物の工房を見学。
 ※観音堂=臨済宗慈眼院の通称。1618年創建。中国や大和への船旅の安全祈願をした。
 ※赤丸宗通り=味噌・醤油醸造会社通り。創業者・具志堅宗精<ぐしけんそうせい>の名乗〔宗〕をとって赤丸宗<そう>とした。昭和25年<1950>11月創業。戦後の混乱期から日本復帰<1972>前までは、島内シェア50%を占めた。行政区名より、この通り名の方が親しまれている。
 ※いろは坂=首里城から寒川町に下る坂。寒川いろは坂・首里いろは坂とも言う。
 ※一中健児之塔=日米戦争終結間際、鉄血勤皇隊・少年特別志願兵として日本軍部と行動をし、そして散った旧沖縄県立第一中学校<現・首里高校>の教職員及び生徒の慰霊塔。
 ※石畳道=首里城から南の真玉橋に至る総延長10キロの官道だったが、沖縄戦で大半が破壊された。現存するのは、金城町に残る238メートルの区間。ここでは、人力車を降りて散策。
 ※大赤木<うふ あかぎ>。内金城御獄<うちかなぐすく うたき>の境内に神木として立つクワ科の樹木。ウスク・アコウギとも言う。樹齢200年。
 ※瑞泉酒造=琉球王朝時代。酒造りを公認された首里三箇<すい さんか。3箇所の集落の意>。すなわち赤田町、鳥堀町、そしていまひとつ崎山町で創業。「瑞泉」の名は、湧水を前にした首里城瑞泉門にちなむ。
      
       写真:飛龍HPから転載 
 現在、人力車を引いているのは島袋誠38歳。師範免許を有する空手4段。腕相撲を特技とする猛者である。
 「いまどき、人力車俥夫かい」
 私の心ない問いかけに島袋誠は、にこやかに答えた。
 「ほんとに“いまどき”でしょうね。けれども首里、那覇に生まれ育ったボクにとってそこは“確かなるふるさと”なんですよ。首里城界隈を歩くには距離があり、さりとて自動車では表の風景しか見えない。そこで、昔ながらの人力車で悠々散策をしてもらおうとこの仕事を始めました。妻やふたりの娘には、ちょっと迷惑を掛けていますが妻の“あなたはロマンチストだから”のひと言が後押しになっています」
 大見謝哲20歳。上り下りが少ないコースで、島袋誠のよい相棒になっていい汗をかいている。もちろん、彼ら風の語り口で案内してくれる。

 人力車が沖縄に導入されたのは、明治19年<1886>末。当時の県令<知事>大迫貞清<1825~1896・鹿児島県出身>専用の一台のみであった。ちなみに大迫貞清は、廃藩置県後の第5代目・沖縄県県令。
 明治も20年代に入ると民間の足としても人力車は急速に普及し始めた。那覇はまだ〔区制〕を施いていた時代で、その那覇区内車賃は端から端まで乗っても5厘を超えない。しかし、那覇区から首里区の県立第一中学校辺りまでとなると4銭と高く、おエライ方のみが利用した。こうして、人力車が走るようになると、それに便乗した商売も出てくる。
 首里への登り口「坂下」は、地名通り急勾配の長い坂道。その「坂下」に、いつの間にか人力車の〔後押し〕を生業とする男たちが登場。首里城への第1の関門・中山門までの後押し料を5厘取っていたそうな。
 年月とともに人力車の両者多くなり、初お目見えして2年後の5月には、台数も303台を数えるにいたった。その急増に対応して「人力車営業取締規定」が制定さる。おそらく、客の奪い合い等々のトラブルが頻発したのだろう。
 「那覇の崇元寺前は、客待ちの人力車がズラリ並んでいたし、那覇港にいたっては、桟橋入口に100台は駐車していた」
 これは、戦前をよく知る那覇の古老の述懐。
 東京で人力車を考案して官許を得たのは和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3人。西洋馬車にヒントを得たという。明治2年<1869>のこと。

 私の人力車乗車経験は最近で家族旅をした安芸の宮島、大分県日田市、東京・浅草での3度ばかりだが、首里城下を走るそれにも近々、乗ることにしている。ひとり乗るか、ふたり乗りにするか、ともかくゆったりと〔琉球の風〕を感じ取りたい。


    

瀬底島・ヒージャーオーラシェー

2011-08-10 00:20:00 | ノンジャンル
 沖縄口で「シークジマ」と呼称する本部町字瀬底<せそこ>は、人口440余人の島。
 歴史は古く、成化5年<1469>第一尚氏7代目にして王統最後の国王尚徳の死後、同系の北山監守・今帰仁按司の一子が無人の瀬底島に渡り「7煙=なな きぶゐ=7軒」の家族をもって集落を成立させたといわれている。ちなみに、古くは戸数の数詞を〔1軒1軒から立ち上がる生活の煙=きぶし〕を確認して〔幾煙=いく きぶゐ〕としていた。
 はじめは今帰仁間切の地内だったが1666年、本部間切に編入されている。これが明治41年まで続き、村制施行とともに〔本部村〕、次いで昭和15年からは西隣りの小島・水納島<みんなじま>と共に「本部町」の1字になり、今日に至っている。面積2.99キロ平方メートル。海岸線長8キロ。東シナ海を海域としている。かつてはサトウキビ・サツマイモ・キャベツ・豆類を生産してきたが、現在スイカ栽培にも力を入れている。
 豪族が治めた島だけに遺跡多々。それに伴う祭祀、伝統行事を今に継承。また、昭和初期から昭和30年ごろまでは、麦の茎で編む「むんじゅる笠=麦蔓笠」は、特産として有名を馳せたが、近代化の波とともに各種の帽子の登場で姿を消してしまった。
 手を伸ばせば届きそうなところに本部崎があるのに、なにせ1キロ足らずの海を隔てているため、交通は俗に言う「シーク渡し舟」が船頭まかせで往来していた。しかし、それも昭和21年に動力船が導入されて廃止。さらに昭和60年2月完成、全長762メートルの「瀬底大橋」の開通で〔渡し船〕も見られなくなった。

 その瀬底島がヒージャー<山羊>で燃えている。山羊料理を表に出したいのではない。数年前から「ヒージャーオーラシェー=山羊の角合わせ」を島の名物にしようと、有志が意気込んでいるのだ。
      
 農村娯楽の牛の角合わせ「ウシオーラシェー」を今では「闘牛」と言い、軍鶏の蹴り合いを「タウチーオーラシェー」、淡水魚の闘魚のそれを「ターイユオーラシェー」と称してきた。これらの起源は古い。さあ、そこに参入した「ヒージャーオーラシェー」を共通語的には、どう名称すればよいのか。「闘羊とする?闘山羊?」・・・・。いまひとつ納まりがつかない。本部町には「もとぶヒージャー生産組合」がある。
規約は※目的。※事業。※組織。※役員及びその任期。※総会等々から成っている。その中の「目的・第1条」を読んでみる。「この組合は、昔から代々受け継がれてきた沖縄独特のヒージャー文化を新たな産業へと発展させるため、生産者及び関係機関が一体となり、消費販路拡大や飼育技術の向上に向け意見交換を行い、安定的な生産及び出荷体制の確立と〔もとぶヒージャー〕のブランド化を図ることを目的とする」。
 そして「事業」のひとつに〔ヒージャーオーラシェー〕を目的PRのメインに位置付けている。呼称「ヒージャーオーラシェー」は、一般的沖縄方言。本部町を中心とするヤンバル<山原。本部北部の総称>言葉では「ピージャーオーラサイ」と言うが、この独特のヤンバル訛り・アクセント・ニュアンスが文字では伝えられないのが口惜しい。
 さて。山羊をどう戦わせるか。
 かつては、農閑期に各集落の広場でなされたが、瀬底島には2,3年前に鉄パイプで囲った専用リングが設置されるようになった。毎年5月4日を恒例とし、今年は20頭が出場した。瀬底島からは13頭、7頭は名護市勝山から遠征してきて10番の取り組みとなった。リングに入った山羊は、しばし様子見した後、呼吸を図って向き合い、いきなり前足を高く上げたかと思うと、強烈に前頭部をぶつけ合う。頭骨の衝撃音に観客は一瞬、驚愕の声を上げる。それを「正面割り」という技名にしている。ほかにも、角で足を掛ける「掛け技」。肩で押しまくって相手のスナミナを消耗させる「肩押し」などの技名があって興味津々。勝敗を決するルールは特別になく、15分を制限時間として戦意を喪失し逃げる山羊の負けとする分かり易い判定をする。時間いっぱいの熱戦の場合、主審の判定に勝敗・引き分けはゆだねられる。中には、相手の後ろに回り、その背中に前足を乗せて腰の前後運動する山羊もいる。なんと言う技か!素人の筆者は知り得ていない。
 会場には歌三線や鳴物の音が絶えず、山羊は必死でも観客の表情は明るく、応援のかけ声やフィーフィー<指笛。口笛>や笑い声で賑わう。これもフィージャーオーラシェー独特の雰囲気。一見をお勧めする。
      

 山羊はウシ科ヒツジ亜科ヤギ属。乳・肉・毛・皮を目的に紀元前3500年頃、イラン地方の遊牧民によって家畜化されたそうな。
 のちに東南アジア、中国を経て琉球に入り、日本には江戸時代初期、琉球から肥前長崎や薩摩が移入。小型肉用種が飼育された後、全国に広まったと物の本にある。つまり、シルクロードならぬ「ヒージャーロード」の要は沖縄ということになる。
 ついでに知ったかぶり。
 明治11年<1878>。後に明治政府の大隈卿に就任する薩摩藩出身の政治家松方正義<1835~1924>はフランスから。さらに明治末期には民間人や農商務省がスイスから。その後もスイス、イギリスから再三、優良種を導入し、ヤギは〔乳用、肉用〕としてニッポンの〔健康〕を増進してきた。「たかが山羊!」と、軽視してはならない。

      
     

星降る七夕・お盆の入り

2011-08-01 00:24:00 | ノンジャンル
 七夕伝説に登場する牽牛とは、牛を引く農夫のこと。牽牛星、彦星とも言うね。一方の織姫は、ハタ織りを仕事とする女性。七夕姫・織女<しょくじょ>とも呼ぶ。さて、そこでだ。年に1度、天の川を渡って愛の語らいをするふたりの物語は、なんともロマンチックだが、よく考えてみると、愛し合っているふたりならば、毎夜逢ってもよさそうなものだよね。それが何故に年に1度のなのか。それには深い事情がある。以前は牽牛、織女は、昼も夜も心のおもむくままに逢っていたのだが、これが神様の怒りに触れてしまったのだよ。『お前たちが愛し合うのはいっこうにかまわない。でも、牽牛は農耕に気が入らず、織女も機織りを怠って恋愛三昧に耽っている。男も女も、己が成すべき職分を失念していては天も地も成り立たない。お前たちを天の川の両岸に引き離すことにするが、毎年7月7日の一夜だけは逢うことを許す』。そう神様に限定された結果、愛し合っているにも関わらず、年に1度だけの逢瀬になったのだよ。つまり、七夕物語は、労働をそっちのけで色恋に耽ってはならないということを教訓している。
 中学校2年のころだったか、受持ちの男先生がそう話していた。ボクは思った。
「この先生は、人を恋う心の大切さを持ち合わせていない。たとえ理屈はそうであっても、ちょうどいまボクは、初めて人を好きになり、夜な夜な彼女の家の辺りを胸熱くしながらさまよっているというのに・・・・。顔は合わさなくても、声が聞けなくても家の中にいる彼女の横顔や後ろ姿をひと目見れたらそれでいいというのに・・・・。そうしなければ予習も復習も、まして宿題なぞ落ち着いてはできないというのに・・・・」。
 このことであった。以来、その男先生がキライになって、先生が教壇に立つ数学の時間に身が入らなくなった。いまもってボクが数字に弱いのは、このことに原因がある。


 本土における七夕まつりは〔星に願いを〕だが、沖縄のそれは意を異にし、独特の祖先神祀りである。現在も、七夕はお盆の節入りと位置付けられている。この日、各家庭では墓参をして墓所を掃き浄めた後、ウチャトウ<御茶湯>や花をたむけて焼香をする。そして唱える。
 「もう6日すると盆入りです。7月13日には子孫打ち揃い、ウンケー<御迎え>をいたします。どうぞ、そろりそろりとおいでになって、われわれにおもてなしをさせて下さいますように」。
 また、墓参から帰宅すると仏壇仏具を拭き清めたり虫干しを成す。昔ならば、土葬をした故人の洗骨を執り行うこともした。普段、位牌や仏具一切には、やたら触れてはならないとされていても、七夕だけはそれが許される。このことを「七夕 日なし=たなばた ひなし」という。つまり、仏事を行なう場合はそれなりの「日取り」をしなければならないとされているが、七夕は特別で洗骨、墓所移転、水の神が宿る井戸の底さらい等々に最良の日としているのである。
 「琉球国由来記」よると、第二尚氏初代国王尚円<しょうえん>を祀るため、1492 年、尚真王によって建てられて以来、毎年七夕には第二王統の菩提寺である〔円覚寺〕において、王家一族が祖先供養をした後、同行した側近の者たちに素麺がふるまわれたという。ちなみに〔円覚寺〕は、京都南禅寺の芥隠禅師を開山住持としている。山号は天徳山円覚寺と称し、臨済宗の沖縄における総本山である。
 これらの記述等から推考するに七夕は、中国や日本の〔星まつり〕とは異なり、沖縄のそれは祖先供養の意味合いが濃厚と言えよう。
しかし、いまでは、〔星まつり〕も併せて行なわれていて、七夕の暮色が本物の闇になったころ、集落中の電気・灯りを一斉に消して、満天の星空を楽しむ地域もある。殊にその地域の子どもたちは夏休み期間中とあって、七夕の天気が(晴れでありますように)と、殊勝にも2,3日前から天に向かって手を合わせる。青年たちはまた、男女打ち揃い陰暦7月13日<御迎えの日>14日<中日>15日<御送い=ウークイ>に華やかす念仏踊りエイサーの稽古を加熱させる。今年の陰暦七夕は、陽暦8月6日だ。

平敷屋エイサー 

 “一年に一夜 天ぬ川渡る 星ぬ如とぅ契てぃ 語れぶさぬ
 (ひとぅとぅに いちや あまぬかわ わたる ふしぬぐとぅ ちじてぃ かたれぶさぬ

 歌意=一年に1度(鵲=かささぎ=という鳥が、牽牛と織女星を渡すため、その羽で天の川に架けると言われる“鵲の橋”)を渡って契るように、私も彼女と甘い語らいをしたい。
 冒頭の男先生とは大違いの歌人がいたものだ。
 沖縄方言の「天の川」は〔天河原=ティンジャーラ・ティンジャラ・ティンガーラ
 流れ星を多く見ることができるのも七夕だ。流れ星は尾を引いて行った先で燃えつきてなくなるというのが常識だが、沖縄の流れ星は消滅なぞしない。流れ星を方言で「星ぬ家移ちー=ふしぬ やーうちー」と言うように、星はその位置から他所に〔引っ越す〕たまに流れるのであって、決して無には返らず、引越し先で再び輝くと沖縄人は考えてきている。
 「かの男先生はどうしているだろう。もう、星になったのかも知れない・・・・」
 さまざまなことを想起させて、星のまたたきを楽しむ陰暦7月を迎えた。