旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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初夏から真夏へ・沖縄の行事

2010-05-27 00:23:00 | ノンジャンル
 ※小満=二十四節気のひとつ。草木が一応の大きさに達するという意の語。
 方言読み=スーマン。今年は5月21日に小満入りした。
 このことで沖縄は、本格的な雨の季節に入ったことになる。これが15日の期間を経て迎えることが芒種。
※芒種=二十四節気のひとつ。芒〈ノギ〉のある穀物の種を蒔くころ。ノギとは、イネ科植物の内、花を包む外花穎〈がいかえい〉の先端にある針状の突起のこと。植物の形態を表わす用語で、ノギの有無・形・長短は、植物分類上の特徴となる。
方言読みはボースー。今年の芒種入りは6月6日。これまた15日を期間とする。小満と芒種を合わせ読みして「スーマンボースー」と言い、沖縄的には長雨の代名詞である。大地をうるおす慈雨と受け取っているものの、晴天が恋しく雨天・曇天を仰ぐ日々が続く。では沖縄の雨期は一体、いつ明けるのか。
 「ハーリー鐘〈がに〉ぬ鳴いねぇー 雨ん上がゐん」
初夏の恒例行事・海神祭のメインイベント「ハーリー=爬竜船」競漕をさらに盛り上げるドラ鐘が鳴ると、ひと月余に及んだ雨も上がるとされている。海神祭は旧暦5月4日〈グングァチ ヨッカヌヒー〉に挙行。今年も6月15日に糸満漁港をはじめとし、漁業の盛んな大宜味村、読谷村など、各地の漁港は賑わう。豊漁と開業の安全をウンジャミ〈海神〉に祈願するとともに感謝の意を捧げる儀式の後、海の男たちによる勇壮なハーリー競漕が半日にわたって行われる。所によって東西・南北であったり、行政区別に組分けされて勝敗を決する。かつては、漕ぎ手は男性に限られ、女性たちはチヂン〈鼓〉やドラを打ち鳴らし、浜辺や岸での応援に悲鳴に近いほどの声を上げ、形振りかまわず狂喜乱舞するのみだったが、最近は男女平等、男女機会均等法の定着したかして女性チームも参加、花を添える上に外国人チームの力漕も呼びものになっている。
特筆したいのは、八重瀬町具志頭・港川のハーリーだ。港川では旧暦5月4日は勿論、翌日も競漕をする。初日は海神への感謝と豊漁祈願であることは他地域と変わらないが、2日目は慰霊のためのそれである。つまり、今昔変わらず海に生きながらも、天候やその他の理由で不幸にも海で命を落とした集落の(海ん人=うみんちゅ)の霊への鎮魂のハーリーなのだ。姿は波に同化していても、亡くなった海の男の魂は海神とともに、いや、海神となって島の海ん人を見守っているのだ。天・海・人一体。この宗教的ともいえる観念は他の祭祀にも脈打っている沖縄人の精神構造のひとつであろう。
     
       大宜味村のウンガミ

 旧暦5月5日は、特別のグングァチ グニチーと言い、本土の端午の節句にあたる。
 ものごころついた男子は、この日をしっかりと記憶にとどめ、正月並に指折り数えて待った。玩具を買ってもらえるからだ。戦前はこの日、那覇の街には「ヰーリムン市〈まち〉」が立ち、親子連れで賑わった。
 ヰーリムンとは、物を(もらう)を意味する「ヰーユン」の転語。そのことから玩具のことも「ヰーリムン・貰いもの」と、今でも言っている。
 ヰーリムンの定番は、木彫りのチンチン馬小〈んまぐぁ〉。爬龍船を型どったハーリー小。琉球独楽〈こーるー〉。竹製の操り人形。ハブ小。阿檀〈あだん〉の葉で作った風車などなど。いずれも職人の手による逸品。中でも一番人気はウッチリグブサー〈起き上がり小法師〉。つまりダルマだった。親は(わが子がウッチリクブサーのように七転八起の不屈の精神をもって育ってほしい)との願いを込めて買い与えた。子は子で、全身真赤な鬚ダルマのユーモラスな形、表情に魅せられて親しんでいた。
 新暦旧暦を問わず、5月5日の「こどもの日」は、現在でも盛大に行われているのは言わずもがなであるが、起源は中国だそうな。
 中国では、月と日の数が重なる日を「吉日」とする考え方があって、実際に年間12の吉日を祝ってきたが、いつの時代からか1月1日=元旦・3月3日=桃の節句・5月5日=端午の節句・7月7日=七夕・9月9日=重陽の節句がいまに伝わっている。
 グングァチグニチーの頃は煮え立つほどに暑く、暑気あたりで体力も低下する。そこで昔びとは考えた(この暑さも悪霊のなせるわざ。厄払いをしなければなるまい)。その呪いとして、薬草であるフーチバー〈よもぎ〉を茎ごと束ねて人形〈ひとがた〉を作り、門や家の入口に掛け、さらにソーブ〈菖蒲〉を浸けた泡盛を飲んで邪気払いをするようになった。また一方では、菖蒲を「武士の心得を重んじることを意味する〈尚武〉に掛けて、男子が剛健に育つことを祈願するようになったという。
 さらにこの日の食べものに「アマガシ」がある。小豆や押し麦に黒糖を加えて作ったぜんざい風のものだ。これを菖蒲の葉の匙で食するのである。井戸水で十分冷やしたアマガシは甘く、暑気がいっぺんに吹っ飛び、汗を引かせることができる。

 小満・芒種・ハーリー・グングァチグニチー・・・・。
 こうして沖縄の初夏は、雨の時期と並走しながら長く熱い真夏へと移って行く。人口的な冷やしものクーラーに頼らず、諸行事と向き合った昔びとの暮らしをあえてしてみるのも、消夏法のひとつなのかも知れない。
   

色は匂えど・・・・いろは話

2010-05-20 00:30:00 | ノンジャンル
「いろはの“い”の字から勉強仕直さなければならないなぁ」
 ますます混迷の深みにはまっていく日本の政治経済。何が何だか分らなくなった自分に対し、嘆息まじりにもらしたひと言を聞いて、25歳の青年は問い返してきた。
 「あのぉ・・・・いろはの“い”の字って何ですか」
 現在でも小学校に上がると、まず“いろは”48文字の平仮名と片仮名を教わるものと思っていたのだが、それはいつの頃からか教科にはなくなり、彼らははじめから”あいうえお”の五十音から入ったという。正確にはいつ何時、小学校から“いろは”が消えてしまったのだろう。もっとも、子どもたちの習字を見ると墨黒々とした“いろは”3文字をよく見かけるから、五十音と並行して“いろは”は、細々と生きているのかも知れない。それとも、習字・書道の先生は“いろは”を教わった年代で、毛筆の初歩としては“いろは”が、筆運びには適しているとし“いろは”を用いているのだろうか。早速、近くの書道塾の先生に問うてみよう。

 われわれの少年時代は、ちょっとした繁華街を歩くと“いろは”の3文字は容易に目にしたものだ。市場の中の「いろは食堂」。ここの沖縄そばは辺りに聞こえていた。貸本と文房具を扱っていた「いろは書房」。「いろは湯」は、よく通った銭湯。Aサインバー「IROHA」には、暮色が闇に変わるのを待ち兼ねていたように、看板や入口のドアの縁に赤青黄色の豆電球が勢いよく点滅。軍作業と言われていた米軍基地に働く沖縄人が、アメリカ兵と連れだって三三五五出入りしていた。彼らがドアを開けて、すぐに閉めるその瞬間だけ、中からジュークボックスの「テネシーワルツ」やジャズらしき音が漏れ聞こえた。さらにその一瞬だけ、原色のスカートやブラウスで着飾り、パーマネントで見栄えよくしたオネーサンたちの嬌声も聞くことができた。いかなることが行われているのか覗きたい気持ちは山々だったがそこは少年の身、入ることは叶わない。(いずれ大人になったら、何やら興奮を誘うAサインバーIROHAを体験しよう)と、固く決意した。
 その決意のせいか高校3年生のころには“七つ八つからイロハを覚え ハの字忘れてイロばかり”なぞと、誰かが持ち込んだのか江戸前の都々逸の文句を諳んじて、粋がるようになっていた。しかし、イロの道に踏み込むのは3、4年あとのことになる。

ジュークボックス

 “いろは”は、小学校に上がってイの1番に教わる国語の第一歩と心得ていたのだが長じて、ある国文学者がエッセイふうに書いた「イロハばなし」を読んで面食らった。“いろは”の48文字は、私の思い込みのように生易しいものではなかった。平安時代末期に流行った歌と言われている。
 御釈迦さまが入滅する直前に説いたとされる経典「涅槃経=ねはんぎょう」の内容を持っているのが「いろは歌」だそうだ。即ち「諸行無常=しょぎょうむじょう」「是正滅法=ぜしょうめっぽう」「生滅滅已=しょうめつめつい」「寂滅為楽=じゃくめついらく」を表わすと言う。
 “色は匂えと散りぬるを 我が世誰そ常ならん 有為の奥山今日超えて 浅き夢見し 酔ひもせす=いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならん うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす”
※色は匂えど散りぬるを【色よく香しく咲いている花もやがて散る=諸行無常】
※我が世誰そ常ならん【現世に生きる私も永遠の命があるわけではない=是正滅法】
※有為の奥山今日超えて【有為転変。迷いの奥山<現世>を今日終えて、来世に入らんとする=生滅滅已】
※浅き夢見し酔ひもせす【悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることもなく、知覚できる事柄、つまり現象の仮相の世に酔い痴れることもない。安らかな心境なり=寂滅為楽】

 ここまでくると「たかがイロハ」と、軽く覚えてきた48文字も「イの一番」「イの字から始める」「ハの字忘れてイロばかり」「AサインバーIROHA」なぞと言い流すわけにはいかなくなった。意味が深い説法なのだ。
 お気づきだろうが「いろは歌」には、五十音から削除された「ゑ」や「ゐ」が生きている。これらは日本語をより滑らかに発音する重要な「音・おん」であると言い切りたいがいかがなものか。
 【余談】
 戒めのための怒鳴りことばに「いろはーにーわらばぁ!」がある。「わらばぁ」は童・小僧っ子の意。
 相手は年下。でも、常識のイロハも知り物事の分別もつく年頃なのに、的外れのことを言ったり、らしからぬ行動をとったりするときに投げかける言葉である。意味するところは、常識をわきまえない子どもみたいな言動をするなッということだ。それらの言動を戒める場合「やなッ!いろはーにーわらばぁ!」を発してから本格的に叱りつける。「やなッ!」はこの場合「この野郎ッ」の「このッ」に当たる接頭語。
 それにしても「イロハわらばぁッ」ではなく、匂えどの「に」までつけたのは、沖縄語の言葉のリズムのせいか。とかく沖縄的で私は愉快である。



サイレンの音に何を聞くか

2010-05-13 00:38:00 | ノンジャンル
 「サイレンの音を聞くと、血が騒ぐッ!」
 還暦前の友人は、かつて高校球児だった。県内大会はもちろんのこと、憧れの甲子園を目指して白球を追った日々が昨日のようによみがえり、サイレンは即「プレイボール!」に繋がるそうな。彼の頭にサイレン音が刷り込まれた経緯は分からないでもないが、私のサイレンの音に対する記憶とは、だいぶ相違する。
 件の高校球児よりもひと回り年上の私は、6歳のとき那覇の大空襲、すなわち昭和19年10月10日の那覇大空襲を経験、そのまま家族もろとも本島中部の恩納村山田集落から恩納岳を経て金武町の山中へと、明日をも知れぬ逃避行の日々だったから、サイレンの音は大人たちが叫ぶ「空襲警報ッ!」「空襲来襲ッ!」の声そのものに聞こえてならない。このことは、60余年経ったいまでも夜中、遠くの消防車のサイレンを聞いても、反射的にいやな目の覚まし方をしてしまう。幼児体験は一生つきまとうものらしく、サイレンを「プレイボール!」に繋げられる元高校球児が羨ましい。
    

 symbol7【女】一時、二時、三時、四時、五時と 六時のサイレンが鳴るまでは 愛し主さんと腕枕 泣きの涙で夜を明かす
 symbol7【男】可愛いお前はバラの花 花の香りが立ちこめて 語る今宵は夢のごと 六時のサイレン気にかかる

 これは昭和10年〈1935〉ごろ、那覇の花街・辻〈チージ〉で流行った俗謡「サイレン節」の歌詞である。泊まり込みの色男と枕をともにした色女の掛け合いが、大和口で成されているのが面白い。花街では、大和口が使える男がモテたのかも知れない。
 この「サイレン節」の旋律に別の歌詞を付け、さらに江戸時代の町駕籠の駕籠かきの男ふたりと女客を登場させて、役者・舞踊家の玉城盛義〈たまぐすく せいぎ=1889~1971〉が創作したのが、舞踊小歌劇「戻り駕籠」である。内容は、1日の終い駕籠にいわくあり気に頬っ被りをした女を乗せた駕籠かき。道々、駕籠の中の女の品定めが昂じて喧嘩になる。すると、女が仲裁に入ってその場をおさめるが、頬ッ被りを取ったその女の面相は、この世のモノとも思えないほどのヤナカ-ギー〈ぶす。醜女〉である。駕籠かきは腰を抜かして失神寸前!という所で幕となる。いまでも都度、演じられている。有事に用いるサイレンが人気狂言を生むとは、庶民はいつの時代もしたたかである。

「戻り駕籠」=いしなぐの会

 symbol7【女】アンマー〈阿母・この場合、妓楼の抱え女親〉に知られたら事になる 愛し主さん叱られる 二人の仲を守るため 鬼の来ぬ間に帰したい
 symbol7好きなお前と二人なら 地獄の果ても鬼はなし アンマーに知れたらその時は 可愛いお前は俺の妻

 昭和も10年代に入ると、日本帝国は戦争へと突っ走って行く。花街も有事に備えて警戒態勢を取らざるを得ない。昭和14年〈1939〉6月13日付の琉球新報紙にその事例を見ることができる。(概要次の通り)。
 『深夜、明け方まで妓楼街にいる遊興者に警鐘を乱打し、時局心を湧き立たせるため、那覇署と妓楼経営者が協議、辻遊郭の中心たる上ぬ角〈うぃーぬかどぅ〉にサイレン塔を設け、午前零時の門限と共にこれを鳴らし、閉楼・帰宅を促すようにする。サイレンは、組合の評議委員や使用人、アンマーが輪番、交代当番として鳴らし、大いに時局認識を高揚させることになった』

 symbol7【女】愛し主さんのためならば 雨傘不自由させませぬ 私の羽織を蓑にして 私の肩掛け傘にして
 symbol7雨傘不足はいとわぬが 袖引くお前が気にかかる 今度来る時その時は 奥様姿で迎えてね
 symbol7【女】今度主さん来る時は 奥様姿で待ちましょう またも来る時その時は 二階三階迎えて上げましょう
 
 そもそもサイレントは何か。
 ギリシャ語のseiren・セイレーンが語源らしく海の精・妖女・魔女・毒婦を意味するそうな。それというのも古代ギリシャ最高の叙事詩人ホーマー〈ホメロス〉の作品「オデュッセイア」の中に登場する美声の半人半鳥の魔女セイレーンは、怪しげな歌を歌って、沖行く舟の舟人を誘惑し、命を奪っていた。主人公オデュッセイアは、こうした怪奇事から舟人を救うために、舟子の耳に蝋を詰めさせ、身体を帆柱に括り付け、セイレーンの魔力を封じ込めることを得た。これによりセイレーンは、男心をとろかす魔力を失い、ついには海に身を投じて岩石になったという物語のようだ。
 この美声の魔女[セイレーン]が転じて警報、警笛のような[音を出す機器をサイレン]を意味するようになったという。

 甲子園の「プレイボール」や人命救助のための平和な音サイレンであればよいが、いまにも鳴りかねない昨今の[日本のサイレン]であってはならない。
 それにしても、魔女セイレーンの美声は聞いてみたい。たとえこの身は滅びようとも。

   

一杯のコーヒーから

2010-05-06 00:20:00 | ノンジャンル
 「冷たいモノでも飲みながら話しましょう」
 相手が男性の場合、私の言う“冷たいモノ”は、ビールを指している。しかし、昨今はからっきしアルコールを受けつけない男性が多々いて結局、言葉通りアイスティーかアイスコーヒー、あるいはジュース、コーラを前にしてテーブルにつくことになる。
 女性に対しては「お茶などいかがですか」「コーヒーでもどう?」と言うことにしているが、中には「お茶、コーヒーよりはビールがいいワ」と、明快な自己主張をする女性がいて、飲めない男性よりは、よっぽど頼もしい。

 “一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに ふたりの胸のともしびが ちらりほらりとつきました

 昭和14年〈1939〉3月20日。コロンビアレコードが出した「一杯のコーヒーから」の歌詞である。作詞藤浦洸・作曲服部良一・うた霧島昇、ミスコロンビア。
 はじめ、コロンビアレコードの企画としては「一杯のビールから何が生まれるか」と藤浦洸に作詞を依頼したことだが、あいにく藤浦洸はまったくの下戸で「飲めない私が、一杯だろうが二杯だろうがビールをテーマに作詞ができるわけがない」と断って[コーヒー]にしたそうな。
 【東京故事物語】によると、長崎のオランダ商館でコーヒーを出されて、面くらいながらも飲んだのは、江戸中・後期の幕臣大田南畝〈おおたなんぽ。1749~1823〉。
 大田南畝は、役人でありながら文人・狂歌師・戯作者の肩書きのある粋人。本名覃〈ふかし〉。通称直次郎。コーヒーの味について問われた彼は「いたって不味いッ」と答えたいう。
 大田南畝。別号四方赤良〈よもあから〉、蜀山人〈しょくさんじん〉を持つ粋人をして「いたって不味いッ」と言わしめたコーヒー。現代のそれとは比べようもないモノだったかも知れない。ともあれ、日本人でコーヒーを口にした最初の人物は、長崎役人時代の大田南畝ということになっている。


 “一杯のコーヒーから 夢はほのかに香ります 赤い模様のアラベスク あそこの窓のカーテンが ゆらりゆらりとゆれてます

 やがてコーヒーは庶民の前に姿を現し、明治21年〈1888〉、東京上野黒門町に日本初の喫茶店「可否茶館」がオープン。コーヒー1杯1銭5厘。ちなみにミルクは2銭だった。四角や丸テーブルの籐椅子。天井にランプを吊ったしゃれた茶館は、文明開化の足音を自ら踏みならしはじめた東京のモボ〈モダンボーイ〉、モガ〈モダンガール〉の出入りをみた。しかし、営業的にはうまく行かず、3年後に閉店している。
 それにしても明治21年と言えば、琉球藩から沖縄県になってわずか9年後。県の人口も37万4698人のころ。やはり東京は文化の中心だったようだ。
 沖縄にコーヒーがお目見えしたのはいつごろか。
 大正4年〈1915〉6月。那覇市西新町の埋立地に新築された大正劇場内に併設した「快楽店」が、一杯5銭で出したのが最初とされている。
 大正劇場は収容1000人余。広い楽屋があり、舞台の長い花道が話題になり、まさに「娯楽の殿堂」を自他共に誇示した。沖縄の演劇史に名をとどめる真境名由祚〈まじきなゆうそ=1876~1946。真境名由康〈ゆうこう=1889~1982=の養父〉や玉城盛重〈たまぐすくせいじゅう=1868~1945=玉城盛義〈せいぎ〉の叔父〉らが、柿落としの舞台を飾った。しかも、新しい演劇を目指して画家・作家の山里永吉〈1902~1989〉にオリジナル脚本の執筆を依頼するなど、活気を呈していたから、コーヒーの「快楽店」には日夜、那覇の文人や粋人が集まってコーヒーを飲み(新時代沖縄)を語り合っていたに違いない。
 それでも一般家庭でコーヒーを飲むようになったのは、戦後のことだろう。アメリカ軍が持ち込んだ飲食文化だ。いち早くアメリカに馴染んだ、いや馴染もうとした人たちは、朝食はパンとコーヒーと決めて、進取の精神を示した。しかし、明治生まれの私のおふくろは「ウランダー〈西洋人をすべてそう呼称した〉並の食事では、沖縄の男は根気が持たない。働けないッ」として、父や兄の食事には必ず味噌汁をつけたそうな。また、コーヒーにいたっては、虫下しの「ナチョーラ〈海草〉を煎じて飲んだほうがましッ」と、90歳の生涯をコーヒー知らずだった。親父は59歳で昭和25年に逝っている。もし、親父が長命していたら、コーヒーを好んで飲んでいたかどうか。「ニッポン人にはお茶があるわいッ」と、明治男の名誉をかけて、頑固に拒否していたかも知れない。

 “一杯のコーヒーから 小鳥さえずる春もくる 今日のふたりのほろにがさ 角砂糖ふたつ入れましょうか 月の出ぬ間に消えぬ間に

 さてさて。
 全音楽譜出版社発行・浅野純編「歌謡曲のすべて=楽譜・歌詞集」をめくったおかげで長ばなしになってしまった。もうすぐ初夏の陽も闇に変わろうとしている。コーヒー好きのあのひとに電話を入れてみようか。それとも、コーヒーよりもビールを歓ぶあのひとと落ち合おうか。さしあたり、もう一杯のコーヒーを飲んでから決めることにする。


  上原直彦著書:2010年4月29日発行
 
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