旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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雨の俗語・雨の琉歌

2008-02-28 11:35:28 | ノンジャンル
★連載NO.329

 今年の2月は、晴れの日はあっただろうか。
 記憶に残らないほどの2、3日しかなく、ずっと曇り、もしくは雨・・・・。この時期の季節用語「三寒四温」をついぞ聞かず、3月に入っていく。おかげで、周囲に聞こえるのは「咳・せき」の音声である。
 「咳」の沖縄口は「サックィー」。漢字を当てると「癪声」。あるいは「裂声」になろうか。いずれにしても、正常ではない「声」を言い当てている。樹木の中にも、裂け易く柔な木質があって、これを「サクギー・木」と称する。
 また、咳の擬態語は「ゴホン!ゴホン」の共通語に対して、沖縄口は「コホッ!コホッ!」「オホッ!オホッ」。もしくは「コンッ!コンッ」だ。「コンッコン」の場合はいささか重傷。胸部が締めつけられ、肺臓にひびくサックィーだから重々、養生しなければならない。

 「雨ぬ降いねぇ ナードゥイ〈庭鳥。ヤードゥイ・家鳥。鶏〉ぬん 隠っくぃーん=あみぬ ふぃねぇ ナードゥイぬん くぁっくぃーん」という俗語がある。雨が降ると、鶏でさえ小屋や軒下、床下に隠れて雨をやるというのだ。それは、犬もマングースも野鳥も同じであろう。しかし、人間の中には雨に濡れながらゴルフに打ち込む人もいるし、雨宿りのチエを持たず歩いている人もいる。彼らを言い当てた俗語もある。
 「濡でぃれーからぁ 雨ぇ怖じらん=んでぃれーからぁ あめぇ うじらん」。ずぶ濡れになったら、雨なぞ怖じるにあたらないというわけだ。そうなると乾かさない限り、雨どころか水をかけられても同じこと。失うものは何もない気になる。
 しかし、この俗語が教えるところは他にある。雨を[悪事]に置き換えているのだ。1度、悪事に染まるともう歯止めは効かず、どっぷりとはまってしまうとして[はまらないよう、濡れないよう]戒めているのである。
 「転ばぬ先の杖」「朱に交われば赤くなる」に通じるか。
 ずぶ濡れ状態を共通語では「濡れ鼠」としているが、沖縄口では鼠ではなく「鶏」を例にして「濡でぃ鶏=んでぃ どぅい」である。
 昔の人は、鶏が雨もいとわず餌をついばむと長雨。また、鶏が雨の日、高い所に上がって羽繕いをすると、まもなく雨が上がる前兆と予報した。身近にいる鶏の行動を目安にしたところが面白い。
 余談ながら、沖縄本島北部の離島・伊江島のシンボル的山・タッチューでも晴天、雨天の予測ができる。北部の人たちは、海を隔てた伊江島タッチューが見える間は晴れ。見えなくなると雨としている。これは事実である。
去る2月9日。気温15度、雨が降り風が吹く中、北部のゴルフ場で「雨ぬ降いねぇ 鶏ぬん隠っくぃーん」の俗語を熟知していてプレイをしたのは私だ。晴れることを期待しながらのプレーだったが、伊江島タッチューはまったく見えずじまいだった。おかげで、いまもって鼻水ソウソウ。サックィーコンを持ち歩いている。家人や友人に[鶏に劣る暴挙]と酷評、非難されているのが辛い。

 雨を詠み込んだ古歌がある。
 ある御仁。降る雨もいとわず花ぬ島〈はなぬ しま。花街、遊郭〉へ出かけようとすると、妻は傘を差し出して詠んだ。
 ♪今降ゐる雨や 雲に宿みそり 里が花ぬ島 着ちゅる間や
  〈なま ふいゐる あみや くむに やどぅみそり さとぅが はなぬしま ちちゅるえだや〉
 歌意=降りしきる雨よ。しばらく雨雲の中にとどまってはくれまいか。夫はいま、外出をするところなの。長い時は望まない。せめて、夫が花ぬ島に行き着く間、雲を宿にしていておくれ。
 勤めから、いったん帰宅して後、心の疼きのまま遊興に出かける。外は冷たい雨が降っている。それでもコートの襟を立てて玄関に立った背後に妻の声。
 「あなた。濡れては体に毒よ。さあ、この傘をさして行ってらっしゃいませ」
 [お早いお帰りを]なぞの言葉はない。無言で傘を受け取ってひろげ、ひと足踏み出した背中に、妻の詠歌である。
 この場面で、あなたならどうする。妻の心情を振り切って花ぬ島に向かうか。それとも妻の切なさを押さえた優しさに感じ入り、花ぬ島行きを思い止まるか。
 時に雨は、人生を演出する。

 今年の2月の長雨は、さとうきび農家にも影響をあたえた。南大東島では、農地が雨で軟弱になり、大型収穫機ハーベスターの運用がままならないという。例年なら気温も20度前後を行ったり来たりするところだが、それも上は17、8度止まり。下も15、6度をうろついている。
 人里には、山からソーミナー〈めじろ・目白〉が下りてきてはいるものの今年の春は、いつもより鈍足のようだ。




次号は2008年3月6日発刊です!

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さんしんの日を前に・クルチばなし

2008-02-21 22:43:46 | ノンジャンル
★連載NO.328

 「わが読谷村のシンボル的残波岬〈ざんぱみさき〉一帯を、いずれ[クルチの森]にしたい」
 熱っぽく語るのは、読谷村文化協会・喜友名行雄会長。
 「2008年現在、残波岬には1本のクルチも生えていないが、これから計画して植樹をするつもりだ。そして100年後、南海の潮風に精気を得て育った残波クルチをソウ〈棹〉にしたさんしんを造り弾きたい。急ぐこともないでしょう。それに今、始めなければ100年どころか10年、いや、明日も明後日もない。まあ、そのさんしんを自らが弾けないのは、ちょっと心残りですがネ」
 しかし、喜友名会長は、長浜真勇副会長ともども有志と語らい、行政を動かし始めている。1世紀をかけた夢。沖縄人のさんしんに対する壮大なロマンを感受しないわけにはいかない。
 対照的に、夢はいきなり小さくなるが、わが家の名ばかりの庭にも1本のクルチが立っている。33年前〈1975〉那覇市から西原町に住まいを移した際、八重山民謡の歌者大工哲弘が記念に植えてくれたクルチ。50センチ足らずだったそれも、いまでは高さ3メートルほど、幹も直径20センチほどになった。残波クルチよりは早く[さんしんが打てる]と思ってはみたが、その夢は叶うまい。なにしろ、育て方に愛情がない。10数年前の台風のおり、地盤が緩みクルチが傾いた。すぐに立て直しを図ればよかったものを数ヶ月後、むりやりそれを試みたが若木のせいか、いや、素人作業のせいで中央部が曲がったまま成長をつづけさせてしまった。

 さんしんのソウ〈棹。さお〉は、主に黒檀を材とする。通称クルチ・黒木である。沖縄産が最上級であることは言うを待たない。
 黒檀は、南方アジアに産するカキノキ科の高木。芯は真黒で堅く細密。光沢が美しい。そのため高級家具や器具、床柱、張木細工、楽器、定規、道具類の柄などなど、古くから重宝されてきた。また、インド南部やセイロン島〈スリランカの旧称〉原産マメ科イスノキの高木・紫檀も、さんしんの棹材に用いられていて、黒檀・クルチに対して紫檀をユシギと称している。

2008年3月4日は、RBCiラジオ主催・第16回「ゆかる日まさる日さんしんの日」である。読谷村文化センター鳳ホールを主会場に午前11時45分から午後9時まで、沖縄中のさんしんが一斉に鳴る。その日を目前にして「さんしん事務局」には、さまざまな[さんしんの日・余話]が入ってくる。
 第2回目だった。さんしん持参で来場した人たちに30センチほどのクルチの若木を500本配った。そのうちの1本は現在、沖縄市泡瀬の兼城直次さん宅の庭に誇らしく立っている。植えたのは直次さんの父親兼城賢信さん。会場で入手したクルチの苗は一応、うるま市勝連・照間の自宅に植えて根付かせたものだが、長男直次さんが結婚して一家を構えたのを記念し、沖縄市泡瀬の地に移植。30センチは、2メートル10センチに成長している。賢信さんは畳職人。一方で古典音楽をよくし、野村流の優秀賞、妻女米子さんも琉球箏曲の優秀賞を取得しているとあっては[1本のクルチ]に寄せる想いは、格別なものがあるようだ。それを受け継いだ息子直次さんは、照れ半分に語る。
 「結婚記念のクルチが目の前に生えている。両親同様、ボクたちを監視、いや、見守ってくれているようだ」

兼城直次さん宅のクルチ 

琉歌。
 ♪里が弾ちみしぇる黒木蛇皮張ゐに 我歌乗しやびら弾ちゃい給り
 〈さとぅが ふぃちみしぇる くるちじゃひばゐに わうた ぬしやびら ふぃちゃい たぼり〉
 歌意=貴方が弾く黒木蛇皮張りのさんしんの音に、私の歌声を乗せましょう。さあ、弾いてくださいませ。
 弾く人、歌う人は夫婦でも恋人同士でも、また初めて逢う男女でもよい。さんしんは、人と人の心を結びつける綾音に成り得るのは確かだ。
因みに。
 「黒木蛇皮張ゐ」は熟語。辞書に、
 じゃびせん[蛇皮線]中国の元代に広まった三弦の楽器。三線〈さんしん〉の日本での俗称。胴の両面にヘビの皮を張る。三味線の前身。
 と、解説されている。
 その通りではあるが、沖縄では「じゃびせん」「じゃひせん」とは言わない。あくまでも「さんしん」である。
 ともあれ、沖縄中がさんしん色に染まる日は近い。


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竜・鶏・海鳥・旅。そして、人間

2008-02-14 15:17:33 | ノンジャンル
★連載NO.327

 昔々。
 人も動物も、生きとし・・・生けるものが仲よく生きていたころの大昔。
 天を飛び、海を駆けていた竜が沖縄の島に寄り、陽気に誘われて昼寝をしていました。すると、そこいらを這い回っていたンカジ〈ンーカジ。百足〉が[これは、よい棲み処]と思ったのか、竜の耳に入りました。神通力を有する竜とは言え、これはたまりません。
 「アガーヨーッ!痛いっ。痛いっ」
 自分では、どうすることもできません。そこで竜は、身を人間に変えて医者の所へ行きました。しかし、人間界では1番の識者とされる医者が、竜の変身に気づかないはずはありません。医者は言いました。
 「これ竜よ。人間を欺いてはいけない。ありのままの姿を見せるならば、耳の中のンカジを取り除いてやるがどうだ」
 竜は、医者の言葉に従い本来の姿になりました。医者の治療法はこうでした。
 飼っているナードゥイ〈ヤードゥイ。庭鳥・家鳥・鶏〉を1羽、竜の耳の中に放ちました。虫類が好物の鶏は、あっと言う間に百足をついばんで出てきたのです。ハシットゥ〈安心、平常心。いい気分を表す言葉〉なった竜は、医者と鶏に幾度も幾度も礼を言い、海に出、天に昇っていきました。
 それからというもの竜は鶏を敬い、受けた恩を忘れず、鶏の世界を守護するようになりました。
 やがてこのことは琉球中に知れ渡り、殊に琉球の公船・中国の唐船〈とうしん〉、薩摩への楷船・飛船〈けーしん・びしん〉の高艫には、鶏の絵を描いた旗を揚げるようになりました。鶏の恩を忘却しない竜はそれを見て[航海の安全を守ってくれる]と考えたのです。また、実際にどんな荒れた海も琉球船の鶏旗を見て、竜が静めてくれたということです。
 このように、竜神に対する信仰はいよいよ厚く、いまでも実用している内海用の舟サバニの前部に、大きな2重丸の意匠をほどこしたそれを見ることができますが、これはサバニそのものを竜に見立てたものとされています。




 一方には、航海安全を守護するのは、姉妹神〈WUNAE。WUなゐ〉とする観念もあります。唐や大和への船旅の安全は、姉、妹の生霊が[海路を穏やかならしめる]という信仰があります。船旅に出る兄・弟には、姉・妹が織ったティーサージ〈手布〉を持たせました。いまに、歌い継がれている「白鳥節=しるとぅやー。しらとぅやー」は、このことを歌った名曲です。
 ♪御船ぬ高艫に白鳥が居ちょん 白鳥やあらん御姉妹御霊
 〈うにぬ たかとぅむに しるとぅやが ゐちょん しるとぅやや あらん うみなゐ うしじ〉
 歌意=航海中の船の高艫に、白い海鳥が止まっている。いやいや、これは単なる海鳥ではない。われわれの航海を守護する姉妹神の化身である。合掌。
 このことは、竜神信仰と深くつながっているのです。また、船旅に出る場合、姉妹の頭髪、それも頂部のそれを切り、守り袋に入れて携帯する風習がありました。家族は常に運命共同体とする考え方がうかがえます。
 琉球王府時代には「風旗。かじばた。かじはた」もありました。
 厚さ2㎝・高さ40㎝ほどのフシがついていない板に、船形を彫り込んだもので、公用をもって唐、大和に行く役人の留守宅の屋外に掲げました。役目を遺漏なく勤め[無事なる帰還]を祈願。その場合、風旗は風上に向けるのが決まりでした。風旗は、船出の数日前に作られ、これを先頭にして家族一同が揃い、首里の幾つかの御嶽を巡礼しました。

 昔の船旅は、言うまでもありませんが帆船です。何よりも風が頼みです。
 宮古、八重山、久米島などの離島から、王都首里に上る場合も、家族はもちろん、親戚の婦女子は揃って身を清め、御嶽詣でを成して航海安全を祈願しました。このことを「風願=かじにげぇ。かじにがい」と言いました。四面海に囲まれ、海とともに生きてきた、いかにも沖縄らしい信仰・風習と思うのですがいかがでしょう。

 竜、鶏、海鳥、人間、そして風。
 かつては皆、共存して息づいていたのですが、いまのわれわれは科学万能の中にどっぷりとつかり、自然に対する敬愛をどこかに置き忘れてはいないでしょうか。いや、心のどこかに持ってはいても、古い習わしはむりやり捨てようとしているように思えてなりません。もったいなくはありませんか。

次号は2008年2月21日発刊です!

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顔・面・恥=KAWU・CHIRA・HAJI

2008-02-07 10:14:21 | ノンジャンル
★連載NO.326

 若い娘たちの会話。
 「お笑いのゴリって、ほんとうにウチナーヂラーだね。毛や眉もそうだし、顔そのものが濃いさぁ。一目で沖縄人って分かる」
 「オッパッピーも、母親は沖縄だってね。それにしては、ヤマトゥーヂラーよね」
 人類学的分析をいとも簡単にしているのには、感心せざるを得ない。
 ウチナーヂラーは、いかにも沖縄人的面体。ヤマトゥーヂラーは、色白の本土の人のそれを指している。その色の白さをこう表現する。
 「ンーチクーガ ンーちゃんねぇ」。ンーチクーガは「剥き卵=ゆで卵」。したがって本土の人は、総じて[ゆで卵を剥いた]ようと例えた。さらに「ンーチクーガに目、鼻、口を描いたようだ」とも言う。それには、悪意はない。色浅黒い自分たちとは異なって大和人は、ゆで卵剥いたように色白。なんとも、ないものねだりの羨望があるのだ。
 いまでも、色白の沖縄人に会うと「大和人みたい。本土で暮らしていたの?」と、問うことがある。
 顔とは、目、鼻、口などがある頭部の前面であるが、それらが一体となってさまざまな感情や気質を表す。そのため顔は、立ったり潰れたり、口でもないのに物を言い、作ることも繋ぐこともできる。「面=つら。おもて。チラ。ウムティ」もしかり。満面朱を注ぐ。赤面の至り。面持ち、面影。蜂に刺されるのも、金で張られるのも面。厚い面の皮は剥がされることもある。「恥」は即、顔・面に関わる。沖縄の恥の教訓語にいわく。
 「恥ぬ有る間る人間=はじぬある いぇーだる にんじん」。恥を失ったものは、もはや人間ではないと言い切っている。
 空港やデパートなど、とかく人目につく所に貼られているのが殺人、詐欺等々で全国に指名手配された面々の顔写真。これらは世間に対して顔出しも面と向かうこともできず、恥をさらしていることになる。
 この手配書は、王府時代からあったようだ。様式としては御上が出す「御羽書=うふぁがち」「書付=かちちき」と称する公文書である。

 玉城朝薫作・組踊「女物狂=おんなものぐるい」一名「人盗人=ふぃとぅぬすびとぅ」には、人相書きが用いられている。それは、似顔絵ではなく「人盗人=ひとさらい」の風体に関する御羽書・書付である。
 物語は、首里城下の童子を誘拐して、遠く国頭方面へ行く人盗人は途中、通りかかった寺に一夜の宿を借りる。しかし、寺にはすでに手配書が回っていた。盗人が眠っている隙に童子は、寺の座主〈じゃーし。住職〉に救いを求める。座主や小僧たちの機転によって童子は、難を逃れる。そこへやってくるのは、ひとり子を誘拐されて狂気となった母親。
 方々彷徨い歩いた挙句、寺に辿り着いて我が子に再会。正気を取り戻した母親は、晴れて子とともに首里へ帰るという内容。
 劇中、寺僧と座主は、手配書を持ち出し、旅の者〈実は人盗人〉を引き出して人相書きと本人を照らす。
 「盗人。歳二十五、六。丈程〈たきふどぅ。体形〉大方〈おおがた〉。色黒く、眉黒く、目クマク〈細く〉、鼻まぎく〈大きく〉、口まぎく。髪に頭巾〈じっちん〉、腰にイラナ差し〈鎌を差し〉・・・・」
 ここまで・事細かに指摘されて盗人は、這う這うの態で逃走する。

組踊「人盗人」


「人盗人」=瀬底正憲氏


瀬底正憲氏

 作者玉城朝薫は1734.8.2~1734.1.26。尚貞王~尚敬王時代の文人。当時、首里城下で頻繁に起きていた誘拐事件を材にこの作品を書いたと言われる。
 色黒で眉が太くて濃く。蛇のように目が細く、鼻・口の大きいものは、ヌスドゥヂラー〈盗人面〉ということになるが、私はどちらかというとギョロ目で鼻、口は大きからず小さからずの造作だから、ヌスドゥヂラーには当てはまらない。両親に感謝しなければなるまい。

 しかし、人の顔はひとつではないように思える、内づら・外づら。相対するものによって変わる。俗語にも、金銭を「借りるときの仏面、返すときの鬼面」などとあって、心証はそのまま顔に出るらしい。
 正直言って私は、いいカーギ〈美形。容貌〉の女性と、その形容とは明らかに格差のある女性と対面する場合、はっきりと自覚するほど[顔色・表情]が異なる。親の意に反し、長ずるにしたがって損得や悪欲に染まってしまい、イーラーヂラー〈助平面〉になってしまったのだろう。
 「30になったら、自分の顔に責任を持て」
 そう親兄弟に教訓されてきたが、その歳を倍以上経たいま、顔は己に責任を持ち得ているか。ひとり鏡の前に立って確かめた。が、そこには思いとは裏腹に[いい顔]を作っている自分がいた。やはり、人の顔はひとつではない。

次号は2008年2月14日発刊です!

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