旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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時野ちゃん!ばんざい!

2018-05-20 00:10:00 | ノンジャンル
 梅雨のせいで、寄せていた眉間のシワが自然にゆるみ、久しぶりに(ホッコリ気分)を味わった。
 「47年ぶり!赤ちゃん誕生!区民揃って花火打ち上げ」のニュースに接したおかげだ。所は沖縄県北部・大宜味村白浜という小集落。
 昨年9月。比嘉貢野さん(30歳)、茜さん(40歳)夫妻は長女通野ちゃん(5歳)、長男蝶朱クン(ちょうあ=3歳)とともに白浜に移住してきた。そして同10月、次女時野(もちの)ちゃんの誕生をみたのである。おかげで白浜区の人口は10世帯14人に増えた。
 全区民(我がこと)のように喜んだのは言を待たない。そのメッセージを拾いながら(ことの経緯)を追ってみよう。


 まず親川富成区長談=涙が出るほど嬉しい。白浜外部の関係者にも感謝している。「自分の孫が誕生した」と手放し。
 白浜の歴史に詳しい宮城広美さん(73歳)によると終戦直後は18世帯130人ほどいた同区。その後、ほとんどの世帯が他市町村に流出したという。
 白浜出身ながら縁あって区外に嫁いだ前田峰子さん(68歳)は、子どもがたくさん写った60年前の区民集合写真を見つめ「村の暮らしには子ども存在は夢をもたらす。時野ちゃんの誕生は本当に素晴らしい」と目を細める。
 47年前に同区に生まれた江藤清美さんは現在、読谷村に居住しているが、朗報に接して(祝いの言葉を)と駆けつけた。自身も3人の子を持つ江藤さんは「子育てを終えたら必ず故郷白浜に戻る」と、望郷の念しきり。時野ちゃんを抱っこしながら「言葉を知らないほど嬉しい。こんな日を待ちに待っていた」と、頬ずりを繰り返す。それもそのはずで江藤さんの母親苗子さん(78歳)は現在、白浜で健在。「人口が減っていく寂しさを幾度も味わってきた。ひとりでも人が増えるのは、寂しさの百倍嬉しい」と、嬉し涙の笑顔を見せた。
 那覇近郊白浜郷友会の会長を務める島袋雄成さん(62歳)は「新年会や那覇での運動会など年に4回は絆を深めている。白浜の1人の人口増は、他所の100人増に匹敵する」と感無量の態。

 時野ちゃん誕生祝賀「花火打ち上げ」を企画・実施したのは、自らも白浜出身で宜野湾市在住の知念秀明さんを実行委員長とする、称して「白浜ファンクラブ」の面々。白浜ん人(しらはまんちゅ)に加えて、寒村ながら野趣溢れる村の佇まいに魅せられたメンバーなそうな。
 実行委員長の知念秀明さんは「都会では、47年ぶりの新しい命の誕生なぞあり得ない。田舎の優しさに包まれて、健やかに育ってほしい」とエールをおくっている。

 こうして全区民、出身者の祝福を受けた時野ちゃんの父親比嘉貢野さんは、自ら三線を取り「めでたい節」「海ぬチンボーラー」を歌い返礼。大いに賑わった2018年4月21日の夜のフィナーレは、集まった約100人カウントダウンを合図に花火が打ち上げられ、那覇まつりや東京・両国の花火に勝るとも劣らない「命の花」を夜空に咲かせた。
 高齢化、少子化などという硬い論議はこの際、お休みにして他所者の私も「時野ちゃん!ばんざい!」をさせてもらったしだい。

 琉歌にこんなのがある。

 ♪親ぬ親までぃん 踊ゐ跳にすしや 子ぬ子ぬ産ちぇる 御祝えやてぃどぅ
 《うやぬ うやまでぃん WUどぅゐはに すしや くぁぬ くぁなちぇる うゆえ やてぃどぅ

 自分の子が子を生んで初めて人は爺婆になれる。無事に出産をなした祝いを満産祝事(まんさんすうじ)と言い、親族が集まって内祝をする風習がある。当然、馳走や祝い酒も出る。やがて歌三線の座になり、座の者ひとりひとりが順繰りに立ち、祝意を表す即興舞い「一人なぁー舞うらしぇー」になる。そこで爺・婆も祝座の真中に出た。そして1首を披露。
 歌意=私たちまで座の中央に出て、つたないカチャーシー舞いを披露するのは、我が子が、結婚をして子をもうけた御祝いだからです。どうぞ笑って許してごらんください。爺婆になった喜びの舞いには上手・下手はありません。
 大宜味村白浜の大人たちは皆、同様の(想い)だったのではないか。

 私事。
 生来の不器用さが災いして、カチャーシー舞いを私は(めったに)舞ったことがない。いや、1度だけのそれを記憶している。長男の満産祝いの座だ。主催者が舞わなければ、座が盛り上がらない。残波岬から飛び降りる思いの決意をして舞った。それも20秒ほど・・・・他意はない。それ以上続けられなかったのだ。
 読者のあなたにお願いがあります。沖縄芸能について蘊蓄を垂れている上原直彦は「カチャーシーさへ踊れない!」なぞと他言して下さいますな。今後のラジオ放送が説得力を失ってしまう・・・。
 屋外は灰色の雲に抱きすくめられている。けれども気分は(ホッコリ)。大宜味村白浜の星、時野ちゃんの幼い笑顔が脳裏を占めているからだろう。


発車!オーライ!バスが行く

2018-05-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「乗ってみたい乗物のひとつらしいですよ。小学校生の息子と娘にせがまれて名護行きのバスに乗りました。弁当持ちで。ボク自身、30年ぶりのバスでした。日頃はマイカーに乗っても、すぐに舟を漕ぐ子どもたちなのに、往き帰りそれがない。窓の外を走る景色がよっぽど気に入ったのでしょう。ずっと兄妹ばなしをしていました」
 嬉々としてゴールデンウイークを語る後輩のT。瞳が輝いていたのが嬉しかった。

 戦後まもなくの交通手段は(拾い車)と称する、いわゆるヒッチハイク。軍用トラック、ジープなども運転手が沖縄人ならば、手を上げたり、アメリカンスタイルで口笛を吹き、親指を立てて行く方向を示せば(大抵、気軽に乗せてくれた)と、先輩たちは述懐する。
 僕が乗物を利用するころまで、それは続いたが、そのころからは民間でも、軍払い下げの(有料の乗合いトラック)が登場。遠出ができた。
 やがて、琉球バス、沖縄バス、昭和バス、青バス、銀バス、東洋バス等々が運行するようになる。現在はすべてがワンマン化しているが、当時は(車掌)がいて、車内で切符を切っていた。もちろん、乗車賃は米ドル。

 かつてバスは(木炭)を燃料にした。いわゆる(木炭バス)。日本における木炭自動車の製造は昭和11年頃。沖縄への導入は昭和12、13年頃と言われる。想像するか、図書館で写真資料を見る以外ないが、なんでも「バスの後部にランドセルような部位があって木炭を収納。クランクというパドルを人力で回して火を起こし、その火力を動力化した。馬力が弱いため、坂道の登りの途中からの木炭バスは、喘息を患ったかのようにゼーゼー呼吸をあらくしていたという。
 「ガソリン1滴、血の1滴」と言われ、日本は明治から始まった中国大陸への侵攻で、極端なエネルギー不足に喘いでいたのである。
 ガソリンはすべての車両、始動する折りだけに使用することが義務付けられていた。
 バス会社のひとつ「あずまバス」は、西回りの屋慶名(現うるま市)の例をみると、本社を置く那覇市西新町から、両線の終点地・東恩納(現うるま市)が1円10銭。1日に2往復だった。道路は2車線ながら、対向車がすれ違う場合、接触しそうなほどの狭さ。しかも舗装までは及ばず、運転手、車掌はもちろん、乗客も埃の(白化粧)を強いられた。

 現在、糸満市内を10人乗りのバスが走っている。
 糸満市は交通弱者や地域住民の交通便利向上を図るデマンドバス「いとちゃんミニ」の運行を4月1日から再開。
 利用者は予約に応じて市内の全コンビニを含む164カ所のバス停の中から好きな場所で乗り降りできる。2020年度までの「試験運転」としての再開だが、利用者からは運行継続の声が上がっている。
 「いとちゃんミニ」は10人乗りのワゴンタイプ。車椅子にも対応。毎日3台が午前9時~午後5時の運行。大人料金は初乗り300円。3キロごとに100円を加算し、9キロ以上が600円。中学生以下や障害者、65歳以上で運転免許証を返納した人は、それぞれ半額になる。
 乗車第1号となった糸満市座波の金城春子さんは、座波公民館前から同市潮平の商業施設まで利用。毎週2~3回は買い物で出掛けるといい「乗り心地はいいし、料金も安いので重宝。ずっと継続運行してほしい」と、便利さを強調していた。
 乗車は30分前までに予約センターへの連絡が必要。受付時間は午前8時半~午後4時半としている。

 戦後、公営バスが運行したのは昭和22年(1947)8月18日のこと。全島7路線。車両は本土から回送された米軍車両を改装したもの。バス運行開始当日は各路線とも午前と午後、1回のみの運行だったが、名護営業所扱い路線の総売り上げ高は4500余B円(軍票)という盛況ぶり。乗車経験者はこう語る。
 「途中停留所では、降りる人がない限り乗れなかった」。
 運賃は13歳以上は大人料金で1マイルに付き30銭。小人は半額。4歳以下は無賃。アメリカ民政府の所在地知念(現南城市)から与那原まで1円45銭。首里間2円65銭。浦添城間まで4円15銭。嘉手納=6円90銭。恩納村=10円55銭。石川市=7円25銭。金武村=9円80銭。瀬嵩(現宜野湾市)=14円95銭などなど。荷物は膝の上に置ける20斤(12㎏)以内の小荷物に限られた。これは闇物資を取り締まる意図があった。バスにも時代の有りようが見られる。
 (時候はいいし、ドライブを楽しもうか)と短路に思いついたが・。・・・。待てよ?僕は運転免許証の取得経験がない。されば(バス)のお世話になるしかないのではないか。んっ?再び待てよ?久しく乗っていないバス。かつてのように「発車オーライ!」という車掌のコールが聞けるだろうか?いまはワンマンバスだからなぁ。それでも南へ行こうか、北へ行こうか。


ロンドン~沖縄を紡ぐ・三線の音

2018-05-01 00:10:00 | ノンジャンル
 シェりー女史(杉田千秋=陶芸家・三線教室)はロンドンに住む日本人。
 10数年前から沖縄通いを続け、人間国宝・琉球古典音楽野村流保存会城間徳太郎師範に師事。三線音楽を究めている傑女である。
 「ロンドン沖縄三線会主催の“ロンドン・オキナワデー”を6月23日に、もちろん、ロンドンで催しますが行きませんか」。
 逢うなり季節の挨拶もそこそこに、気軽な誘いを受けた。差し出した趣意書を読んで(行ってみるか)なぞと、これまた旅ごころをくすぐられる。趣意書にいわく。

 ロンドン沖縄三線会は、1999年結成以来(沖縄大好き英国人、日本人メンバー)によって、三線音楽はもちろん沖縄の自然、文化をイギリスの人たちに知ってもらうべく活動をしてきた。今回、節目の10回目を迎えます。加えて、本会の発起人である東洋民族音楽研究家・ロンドン大学教授デイビット・W・ヒューズ博士(72歳)が日本国の秋の叙勲(旭日章)を受賞。その祝賀を兼ねての「オキナワデー・2018開催」になります。当日は沖縄をはじめ奄美大島の三線奏者も参加。さらにロンドンで活躍中の音楽家とのコラボレーションもあり年々、厚みを増してきています。
 
 「ロンドンで聴く三線の音は、また格別だろう」
 同好の士として(参加したい)と心動かされるのは必然的感情ではなかろうか。
 
 イギリスにおける(沖縄文化)紹介は2001年、照屋林賢率いる(りんけんバンド)のハイドパーク公演、2005年の{沖縄市・園田エイサー・テームズフェスティバル参加}、2006年の(おきなわ祭り)も好評を得、2010年から開催されている「オキナワデー」では、毎年約8000人の在英日本人と英国人、各国人が交流を深めている。
 よって更なる質の向上を目指しながら、沖縄を英国にて紹介していく目的を果たしたい。今回も例年同様、多くの人に参加してもらうよう入場は無料とし、家族同伴型のイベントを心掛ける。ひとつの例として毎年、好評を博している来場者参加の(エイサー実演)は、呼び物のひとつになっていて、いまから楽しみにしている英個人が多い。

 趣意書を説明するシェリー女史の瞳は光を増し「オキナワデー」への思いは熱を帯び、まだまだ続く。

 例年好評の現地空手グループや本場沖縄からも三線奏者らを招聘する。他に英国在住の日本人ウクレレ奏者グループと三線のコラボレーションを企画。これらを通して今後も沖縄と英国との更なる文化交流の活発化の中心的存在になるよう、夢を広げている。
 今回は10回目の記念イベントになる上に、沖縄で8月に県が主催する「第1回沖縄空手国際大会」の告知を積極的に行い、例年以上に沖縄県との連帯を密にしていく所存。
 後援・協賛・企業団体を記すと、同オキナワデーの規模が分かる。
 *在英日本国大使館。
 *国際交流基金。
 *日本政府観光局。
 *沖縄県。
 *一般財団法人沖縄観光コンベンションビューロー。
 *一般財団法人自治体国際化協会(クレア)。
 ◇協賛企業
 *生地のスーパー・しゃりま。
 *サカイ引越センターロンドン支店。
 *ジャパングリーンメディカルセンター。
 などなど。

 ロンドン・オキナワデーの発起人の一人であるデイビット・W・ヒューズ博士は沖縄往来30年余になろう。借家して滞在。各地の民族音楽を採集して国際的位に発表。日本民族音楽に造詣が深い。自らも三線を奏する。それは琉球古典音楽のみに留まらず、エイサー歌や流行り唄にまで及ぶ。190メートルはあろう髭をたくわえた大男。そう書くと(いかつい英国人)を想像するだろうが、眼が少年のようで、笑みを絶やさない口ぶりで、相手の気持ちにすんなり溶け込んでくる学者である。
 私事ながら、大阪ミュージックシャーター“バナナホール(先年閉店)”における歌者古謝美佐子の「島うた公演」会場で声を掛けあった人物。以来、来沖のたびに歓談の訪問をしてくれる律義な人。RBCiラジオ主催「ゆかる日まさる日さんしんの日」にも2度ほど、ロンドンと結ぶ映像インタビューに応えてもらった。それだけのことだが私にとっては、数少ない「外国人の知人」として親交を一方的に願っている。