旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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盛夏・ジージャーと少年たち

2008-08-28 19:32:16 | ノンジャンル
★連載NO.355

 「沖縄の人は、蝉を食べるんですってネ」「ハブを食べるって、ほんとうですか」
 夏も盛りになり、そこら中の木立を舞台に、暑さをさらに煽る蝉が大合唱をするころになると毎年、他府県人に問われる。
 私でよければ、経験者としてお答えしましょう。
 昭和24、5年。いまのように遊び道具や施設がなかった少年のころ、確かにジージャー(蝉)を口にした。そこいらの山や川は少年たちの“自由の天地”。中でもジージャー採りは一人ひとりが[名人]を自負していた。芭蕉の葉っぱやクバの葉〈棕櫚の葉〉を丸めて筒を作り、松や栴檀の幹や枝で羽根をふるわせ“わが世の夏”を謳歌しているジージャーを筒に落とし入れて採っていた。面白いように採れる。そのジージャーの異様な面体を不思議がって観察したり、頭部を糸で括り飛ばして遊んでいた。
 ここまでは[普通の子]の遊び。[いい子]は「蝉は地中に7,8年もいて、地上に生きるのは7日から10日間。はかない生涯だと先生が言っていた。かわいそう・・・・」と、せっかく捕獲したジージャーを逃がしていた。こうした[いい子]のディキヤーフーナー〈優等生ぶった〉の言動が許せない我ら[わるい子]は「逃がすくらいなら、始めから採るなッ」を理念に[いい子]どもを仲間から外して、採ったジージャーとは最後まで付き合った。しかし、[わるい子]との遊びには、さすがにジージャーもバテてしまう。それでも[わるい子]は、彼らを解放しない。それどころか彼らの胴体を竹や小枝を用いて、お尻からダンゴ刺しにして焼く。火種はといえば、近くの畑小屋にはたいてい有ったマッチを使用。焼き方は炭火焼きならぬ、掻き集めた木の葉での枯葉焼き。
 まず、羽根が焼け落ち、表面に火が通った頃合いには、生肉の焼ける香ばしい匂いがする。このタイミングをはずさずサッと取り出し、火の粉やススを払って口にする。でも実際には、食べるに値するほどの身肉はない。内蔵はすでに焼け過ぎていて妙なニガ味しかなく、頭部もほどよく焼けてはいても殻がガードしていて歯の間に刺さるばかりだから、2,3度噛んで吐き捨てた。結果、蝉の[枯葉焼き]は、胸部と肩肉がメインディシュというわけだ。それも米粒ひとつふたつほどの焼肉。
 そんな遊びの話が他府県にも伝わり[沖縄人は蝉を食べる]になったのだろう。食べるとは[常食]を指すのが普通であって、子どもの遊びのそれを沖縄の食生活の位置に上げては、短絡に過ぎるし沖縄を誤解しかねない。
 [わるい子]は殺生ばかりしたのではない。なるほど捕獲することで蝉の死期をちょっと早めはしたが、その死は決して無駄にはしなかった。大木や岩かげに居を構えたアイコー[蟻。アイとも言う]の巣穴前にそっと蝉の亡骸を置く。そこは夏の働きもののアイコーのこと、すぐに冬の食料を嗅ぎつけて寄ってくる。[わるい子]は、それらアイコーの命の営みをよくよく観察。いまでいう夏休みの[自由研究]を先生に言われなくても、しっかりと成していたのである。

 世界には約1600種。日本に32種の蝉が分布。その内の沖縄の夏の主人公たちに登場願おう。
 ◇ジージャー=和名・くろいわにいにい。体長2㎝前後。4月に鳴き始め10月ごろまで見られる。ジージーグァとも言い那覇や南部、中部一円では清明祭のころ登場するところから、シーミーグァと呼称。他の蝉も同様、地域によって方言名は異なる。
 ◇ナービカチカチー=和名・あぶらぜみ。6月中旬から10月。鍋釜の底のススを包丁など金属で擦り落とすときの音に似ているところから、この名が付いたとされる。
 ◇サンサナー=和名・くまぜみ7月中旬から8月中旬は彼の世界。栴檀やホルトノキを好み、太陽が顔を出すのとほとんど同時にうるさく鳴き出す。丁度、夏休み期間のため、子どもたちの格好の遊び相手。枯葉焼きになったのも彼らがほとんど。琉歌には、アササーの名で詠まれている。
 ◇ジーワー=和名・くろいわつくつく。8月上旬から11月まで鳴き、長く暑かった夏の終わりを告げてくれる。ジ~ワと、なんとも切なく物悲しい鳴き声を聞くと「ワタシたち、蝉の季節もここまで・・・・」という終焉のメッセージに思えて、こちらまでメランコリックになる。そのころ、どこからか時折、涼感を覚える風が吹く。
 ジーワーによく似たものに「ケーンケーン」と鳴くオオシマゼミがいる。これは山地でしか見られないが、沖縄本島中部、北部にも生息。北部ではネンネングァ、ケンケンアササーと呼ばれている。
 これらの種類、地域名などについては屋比久壮実著「沖縄の方言で楽しむ生きもの・いちむし」〈アクアコーラル企画発行〉を著者の了解を得て引用した。

 おっとッ!
 「ハブを食べるって、ほんとうですか」に答えよう。
 食べようと思えば食べられる。私も八重瀬町具志頭の青年たちに招待されて、ハブを食したことがある。想像するに難しくはないだろうが、ハブは全体が脊髄。それが皮をかぶった生きものだ。身肉はほとんどなく、皮を剥ぎ、頭部を除く胴体を10㎝ほどに切って塩味か味噌味のスープにする。味は濃厚な鰹節汁に思えた。骨の間にあるわずかな肉は、取り出し困難で結局、青年たちの指導を仰ぎハーモニカを吹くのではなく吸う要領で食したが、私の筆では表現できない臭みがあった。
 これも[ゲテモノ食い]をしているのであって、沖縄人が[常食]しているのではないことを特記しておく。しかし、精がつくのは確かなようで夏バテ気味の今日このごろ、ゲテモノ食いの開催を呼びかけてみよう・・・かな。


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甲子園・オリンピック。そして古諺

2008-08-21 13:46:34 | ノンジャンル
★連載NO.354

 古諺「付ち肝どぅ 愛さ肝=ちちじむどぅ かなさじむ」
 親しみ慈しみ合う心こそ、愛の心。直訳すればそうなるか。「遠くにいる親戚よりも近くにいる他人」に相通じるものがあるが実際の話、人は日々顔を合わせる機会を重ねているうちに[情]が移る。初対面に始まって言葉を掛け合っていると自然に[情]が生まれるものだ。これすなわち[付ち肝]。さらにこの[情]は[愛]を伴って、まったくの他人ではなくなってくるのは、どなたも感知しているにちがいない。恋愛もそこいらから成り立っていくのではあるまいか。
 このことは、ほんのちょっとした共通点の発見から会得するものだ。同郷、同窓、同姓あるいは同名。はたまた生年を同じくするだけでも[付ち肝愛さ肝]は生まれるものだ。他の人を差別するわけではないが、まったく知らない美女よりも、鼻平らぁ小〈はなびらぁぐぁ=鼻が高くない。低い〉でも毎日、明るく挨拶を交わし会話のできる人に[情]や[愛]を覚えるのは、言葉通り[人情]ではなかろうか。
 珍しく開催期間が重なった夏の高校野球と北京オリンピックでも、現場にいるわけでもなし、テレビ中継を見ていてですら「付ち肝どぅ愛さ肝」は発揮された。

 ◇8月11日。
 柔道男子73キロ級3位決定戦は、ブラジルのアンドロ・ギルエイユ選手対イランのアリ・マルマト選手の対戦になった。両選手が紹介されると我が側近の者は、親戚でもないのにマルマト選手の応援をすると言う。
 「イランはいま、国情がよくない。せめて銅メダルを取ってイラン国民を喜ばしてあげたい」
 これが彼女の応援理由。しかし、結果は1本背負い投げでギルエイドの勝ち。側近の者は再びコメントする。
 「ブラジルは、沖縄移民の方々が100年も前からお世話のなっている国。イランには悪いけど、これでいいのよね」
 試合開始から5分も経たないのにイランの国情は忘れ、ブラジルの銅メダルに拍手。沖縄との縁浅からぬブラジルへのエールになった。短絡に過ぎるが、これも「付ち肝どぅ愛さ肝」の発露だろう。

 ◇8月10日。
 第90回全国高校野球選手権大会9日目第3試合。兵庫県の報徳学園対奈良県智弁学園は5-4の接戦の末、報徳学園が勝った。側近の者は、取材記者のインタビューに答えるかのように言う。
 「ほんとうによかった。なにしろ兵庫県には戦前から多くの沖縄人がいるし、神戸には友人Y子さん一家もいる。先の阪神淡路大震災では大変なんてものではなかったものね。報徳学園の勝利は、ほんとうによかった」。
 国内旅行でも兵庫県には行っているが、奈良県はまだの彼女である。これも「付ち肝どぅ愛さ肝」。私自身も、沖縄県代表浦添商業高校以外の試合の場合、旅したことのある県や、友人知人のいる県の代表に知らず知らずして肩入れしているのに気づき苦笑する。こうしたことの最たる例は47年間、琉球放送ラジオの生番組〈月~金〉「民謡で今日拝なびら」のパーソナリティー北島角子。強豪揃いの男子水泳で北島康介が世界1になるや「康介はスゴイッ!康介はエライッ!」と、異常なまでの歓喜の態をあたりかまわず表した。理由はただひとつ[北島繋がり]。まるで身内扱いだ。そのうち「アタシの息子よ実はッ」と言い出しかねない。心配だ。
 そう言えば、明治生まれの90歳で逝ったおふくろが唯一知っている映画俳優は、上原謙だった。[上原繋がり]だ。彼の息子が加山雄三であることを教えたら「そうかい。お前そっくりだね」ときた。クァビーチ〈子贔屓〉もいいところだが悪い気はせず、ウクレレを習得したくなったもんだ。

 ところで。
 メダルを取った外国選手は、自国を誇り己を讃えてメダルを高く掲げたり、それにキッスをするが、日本選手はメダルを噛む。どうしてだろう。1説には「報道カメラマンがそのポーズを要求したことに応えた[やらせ]だ」というがどうか。また「日本人はキッスが得手ではなく、ついつい噛む」とする説。さらには江戸時代にさかのぼり「小判を通貨としていたころ、贋小判が横行。それを手にした者は小判を噛み、表面を剥がして真贋を確かめた。その名残りがいまにあって、自分が取ったメダルがホンモノの金か銀か銅かを国民の前で噛んで確認している」という説まで出てきた。しかし、それはどうか。日本人は、そこまで疑り深い民族ではないと思いたい。

 「付ち肝どぅ愛さ肝」
 自分を慕ってくれる人を嫌う者はいまい。いい出逢いと情愛を持続し、心豊かに生きることを望むなら、自らも積極的に慕っていく姿勢も忘れてはならない。[付ち肝愛さ肝]は、日常の中に有って敬愛、思慕の出逢いを待っている。





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旧盆・中元・うさぎむん

2008-08-13 23:40:38 | ノンジャンル
★連載NO.353

 「一人では生きていなのだなぁ」
 お中元が届くたびにそのことを思わないではいられない。多くは兄弟や嫁・婿・親戚筋からの品である。そこで、お中元とは何だろうとあらためて考えてみる。ものの本には、祖先の霊を迎えて供養する民族的仏教行事[盂蘭盆]になされた進物の習慣とある。それも、もともとは正月15日を上元、7月15日を中元、10月15日を下元とし、1年を4ヵ月ごとに区切って[無病息災]に過ごせたことを互いに祝い合うための進物なのだそうだ。それがいつのころからか上元、下元の習慣が薄れ[中元]だけになった。中元は言うまでもなく盛夏に成され、時期は1年の折り返し点にあるところから[半年を無事に暮らしてきた]ことを喜び合うシルシとしてきた。しかし近年は、本来の意義は陰になって、親類縁者への暑中見舞いの贈り物になっている。そこまでは、故事のそれからそれほどかけ離れているとは思わないが、近代社会を動かす諸官庁や企業の確立に伴い、多くの人がそれまで生業としてきた農業漁業よりも、月々の安定した収入が得られる[勤め人]になった。また社会もそれを要求する時代に入った。そうなるとお中元の様相も変化、上司への付け届けになって、勤め人の悩みのひとつになっている。

 贈り物の行為そのものは、いい習慣と思われる。
 正月はお年玉、祝いごとの祝儀、結婚には記念品、送別には餞別、年末にはお歳暮、旅は土産、それに病の人あればお見舞いなどなど、その遣り取りは何気なくなされている例が少なくない。
 「ひところまでは、人様に差し上げるものを贈り物。いただきものを到来品と区別したものだが、近頃はそのような形式ばった意識は取り払われて、いずれもプレゼントで括られている」
 ある御仁は、季節的な贈り物の傾向についてそう見解を述べている。
 ところで。
 この半年、例えば行きつけの飲み屋さんにツケはないか。またぞろ、戦前ばなしになるが、那覇の遊郭には「盆切り・年切り」という支払いの習慣があったそうな。正月から盆までのツケ払いを「ぶん じり」、お盆から大晦日までのそれを「とぅし じり」と称した。一見の客は現金払いでなければ遊興できないが常連客は[半年払い]をむしろ粋としていた。それだけに、七夕から盆入り前までにはきっちりと盆切りを成し、年切りも同様、波上・護国寺の除夜の鐘が鳴る前にきれいに精算する。これがホンモノの遊び人のステイタス。世の義理・恥として怠らなかった。もし、盆切り年切りに反すると2度と登楼は叶わない。それどころか、場合によっては遊郭中に実名入りの回状が出され、永久立入り禁止となる。そのため中には。親譲りの家屋敷や墓所を売却して盆切り年切りに当てたエライ遊蕩児もいたそうな。いま、ツケのある方のための参考になれば望外である。
 それほどの大ごとではないが、なじみの彼女が盆切りをやんわりと琉歌に詠み込んで催促したにもかかわらず、歌意を読み取れず的外れの返歌をした野暮天とのやりとりを歌った俗謡が「すんがー節」。いまでも女性との掛け合いで明るく歌われている。私の得意とする歌のひとつ。どなたか相方をつとめてはくれまいか。

 このように男は、浮世の義理・恥を重んじ借金の証文にも「期限までに返済なき場合は今後一切、お見限り下されたく候」の一札を入れた。これを「見切り証文=みーちり じゅうむん」と言い、恥を担保にしている。大和の武家社会においても「武門の恥」を最大の屈辱とした。世間に笑われることを家名の恥とした時代、物の貸借には「もし、返済なき候折りには人中にて御笑われることも苦しかるまじく候」の証文を入れたという。
 「見ぃ切らりーん=見限られる=ようなことはしてはいけない」と、幾度おふくろに諭されたことか。「バカをして人に笑われた」「笑いものになる」「笑われたくない」などの言葉が使われるのも、そこらあたりの名残であろう。沖縄口の「恥切らぁ=はじ ちらぁ。恥知らず」も、もう上を向いては歩けないことを意味する言葉だ。
 ところが、お中元など品物を贈る場合[笑]の文字が用いられる。「ご笑納」がそれ。しかし、この場合の「笑」は「ご期待いただけるほどの大した物ではありません。お気軽に笑ってお納め下さいますように」という謙遜の念が込められている。そこを美徳として納得し、笑って許して納めるのも日本的人情だろう。

 旧盆の3日間。わが家の仏壇前にも「お中元」と記された身内からの品が並んだ。屁理屈のようだが、これは[今年半年を無事に過ごしたことを喜び合うお中元]ではなく、純然たる先祖神へのうさぎむん〈お供え物。目上の人への贈り物〉。それらはお盆がすむと孫たち一家に分配される。パイナップル、りんご、梨、ドラゴンフルーツやちんすこう、かるかんなど仏壇をにぎわした果実や菓子は、15日のウークイ〈お迎えした先祖霊をお送りする〉をすませた夜の内に、眠い目を無理に開けて仏壇に付き合った孫たちが持ち帰る。皆が帰り家人だけになり、フーッと息を吐くとき、大きな祭事を成し遂げた充実感と自分への[けじめ]を実感する。
 ここしばらくは、清らかな月を眺めることができそうだ。

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七夕・旧盆・沖縄の夏

2008-08-06 22:44:55 | ノンジャンル
★連載NO.352

 夏。沖縄・那覇国際空港は観光客の波で賑わう。殊に8月に入るや夏休みも手伝ってか国内外からの出入りのさまは、表現の言葉をすぐに思いつかないほどだ。
 沖縄県の観光誘致・平成20年度目標は、入域観光客数=620万人。その内、外国人観光客数=22万人。観光収入=4,470億円としている。因みに、平成19年度の入域観光客数=589万2300人。主要路線別入域状況は東京方面=275万4200人。関西方面=111万300人。福岡方面=67万7200人。名古屋方面=51万3400人などだった。
 今年も8月に入り、太陽と海と諸行事目当ての旅人が多い。その中で土産の抱え具合から、旧盆を親元で過ごそうという県外在住の県出身者の姿が目を引く。先祖崇拝を理念とする沖縄らしい風景ではあるまいか。
 日常、男たちが懸命に働くのは、正月はもちろんだが殊に旧盆は[先祖供養]をするためという観念が色濃くあるからだ。つまり、先祖神に礼儀を尽くすことは、命の継承している自分の生き方に対する[けじめ]と考えているのだ。旧盆と正月を年間の2大行事として位置づけ「盆と正月」とは言わず「七夕・正月=シチグァチ・ソウグァチ」と合わせ読みするのも、その表れだろう。正月を[祝儀]としてそれぞれの生活する所で楽しむ沖縄人は、年明け早々から[旧盆の帰省]を念頭におき、それを律儀に実行するなぞ、沖縄の宗教的観念を見ることができる。この時期、空港が賑わうのも道理と言えよう。久しぶりに逢う孫たち一刻も早く見たい爺・婆の姿、到着前からロビーに見られるのも盆風景のひとつ。
 11月にもなると西欧では、クリスマスモードに入ると聞く。沖縄は[七夕]をもって盆行事の始まりとする。この日は墓参りをして、7日後の旧盆への招待を告げるのが慣例。また、「たなばた、日なし」と言い、日取りをしなければならない諸々の儀式もこの日は一切[差し障りのない吉日]としている。例えば、墓の修復や移転、土葬時代の洗骨。あるいは、守護神が宿るとされる屋敷内のチンガー〈釣瓶を用いる井戸〉や集落の発祥のシンボル・村ガー〈集落の共同井戸〉の底ざらいなども七夕に行う。仏具屋さんにとっては書き入れ時。ひと月前からラジオ、テレビ、新聞に仏具のCMが出るのには、こうした風俗的背景があってのことだ。

 戦前。
 旧7月9日。那覇の目抜き通りには「九日マチ=くにちマチ」が立った。那覇の場合、小禄、豊見城、真和志、南風原などのチチャ田舎〈近い田舎〉からWUUJI〈サトウキビ〉やバサナイ〈芭蕉実。バナナ〉をはじめ瓜類など、トートーメー〈仏壇〉へのお供え物を売る市がずらり並んだそうな。しかし、九日マチの初日に買い物するのはウェーキンチュ〈富貴人。金持ち〉の奥さま方。この日彼女たちは、朝からチュラスガイ〈着飾り〉をして日傘を差し、下働きの奉公人に荷車を引かせて九日マチを見て回り、品々を吟味して買い求め、荷車に積んで帰路を闊歩した。ウェーキンチュの見栄がチラホラ見え隠れする風景だ。

 「なにしろ、商業都市の那覇では貧富がはっきりしていたからね」と前置きして、風俗史研究家の崎間麗進先生は語る。
 「わが家は、おふくろも小商いをして働かなければならないウェーキンチュの反対のクーシーチネー〈貧しい家庭〉だったから。九日マチの品々には手が出なかった。そこで買い物は。決まって12日だった。よく13日は精霊を迎えるウンケー〈御迎〉だから、売る側も今風に言えば[売り尽くしセール]に出て、初日の半値ほどになる。つまりはバーゲンセールで間に合わせていた。でもね、それでもわが家は先祖敬い・崇めをモットーにして心豊かに暮らしていたよ。それは、いまもかわらない」

 
 7月末。
 東京生活30年余年の友人Kから、琉歌付きの暑中見舞いが届いた。
 ♪七月がなりば変わてぃ覚び出すさ 童小ぬ頃ぬエイサー踊ゐ=旧暦7月になると童の頃、青年たちのエイサー行列のあとにくっついて、夜の更けるのも知らず村中を歩き回ったことなどが、ことさらに思い出されてならない。
 「孫のお供という形になるだろうが、七夕に帰省して実家でしばらく過ごす。エイサーの輪の中に孫たちを入れてやりたい。キミも多忙だろうが、滞在中の1日をボクにくれないか。一献、交わしたい」
 東京暮らしが長いせいか肌色も白くなり、すっかりヤマトゥンチュヂラー〈大和人顔〉になったK。それでも、沖縄訛りの抜けない彼と語り合うとき、過ぎた日々が昨日のように思われ、東京との距離が一気に短縮されるのはどうしてだろう。

 「友、遠方より来たる。また、楽しからずや」を楽しむのもシチグァチならではだ。そうしたことが、おたがいの先祖供養になると思われる。んっ?待てよ。そう思うようになっているKも私も[いい年ごろ]になったということだ。旧交を温めるのは二の次。どうせ[孫自慢]に始終するにちがいない。
 七夕。旧盆。そして、8月には「十五夜遊び」の行事が待っている。

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