旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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身近な絵画

2017-12-20 00:10:00 | ノンジャンル
 我が家には絵画が数作品ある。
 居間にひとつ。書斎にひとつ。玄関にひとつ。そして短い廊下らしい壁にひとつ。これは版画である。
 日曜日など、用もないのにふらりやって来る古馴染みのTなどは絵心はまるでないのに、したり顔で言う。
 「ほう。与那覇朝大さん(故人)の作品だね。んっ?版画は名嘉睦稔か」なぞと毎度同じ関心をする。共通の友人だからだろう。ひとしきり懐かしい眼を向けた後、Tはこれまた決まったように言う。
 「沖縄では高名な画家、版画家だから売るとしたら、どれくらいの値段がつくだろう」
 それが冗談ではなく、舌舐め面で訊く。これだから芸術を理解しない不粋者は困るのである。その話にのろうものなら、自分の所有物でもないのに、本気で売りかねないTなのだ。
 「不埒なことを考えるんじゃない」
 私は口を荒げて拒否するのだが、レオナルドダヴィンチの絵が508億円で落札されたそうな。美術品は金になる」
 執拗この上もない。その新聞記事は私も読んだ。曰く。

 {ニューヨーク共同}
 イタリア・ルネッサンス期の巨匠レオナルドダヴィンチがキリストを描いた油絵が11月15日午後(日本時間16日午前)米ニューヨークで競売に掛けられ、手数料と合わせて約4億5千万ドル(約508億円)で落札された。
 主催した競売大手クリスティーズによると、美術品としては史上最高の落札額。20枚もない現存するダビンチの絵画のう唯一の個人所有で、長年行方不明になっていたため「幻の作品」として注目を集めていた。
 クリスティーズによると、これまでの美術品の最高落札額は、ピカソが1955年に描いた「アルジェの女たち」が2015年の競売で付けた約7900ドルだった。

 報道はどうであれ、我が家の与那覇朝大も名嘉睦稔もレオナルドダヴィンチでもピカソでもない。身近で喜怒哀楽を共にした彼らの分身である。生臭いドルや円に換算することはできない。よしんば手放すとしても、後に残るのは自分への嫌悪感と絶望感でしかないだろう。
 さて。
 琉球歴史を眺めると、ふたりの絵家が目に留まる。
 自了と殷元良だ。

 *自了(じりょう)1614~1644年(尚寧26~尚賢4)。城間清豊(ぐすくま せいほう)の雅号。童名・真竃(まかまどぅ)。城間親雲上清信(せいしん)の長男に生まれた。が、先天的な聾唖者。両親は彼に特別な教育をしたわけでもないが頭脳明晰、探求心旺盛。独学で絵技を磨き大成した。
 中国の冊封使杜三策(と さんさく)は来琉の折り、首里城内で自了の作品を見て、中国の高名な絵師顧虎頭(こ ことう)や王摩詰(おう まきつ)などの名を上げ「これに匹敵する」と称賛したという。また、1643年(尚賢3)、慶賀使として金武王子朝貞(ちょうてい)一行が江戸に赴いたとき、自了の作品3幅を持参。狩野派藤原安信はこれに接し、その筆勢を絶賛。
 「自了がわが国にあらば、絵師として親交を結びたい」と言わしめたという。
 戦前までは首里那覇の名家に自了の作品が残っていたが、沖縄戦でほとんど焼失している。「竹林七賢」「野国青毛名馬図」「仙人図」「高士逍遙図」「松下三仙図」などがあったというが・・・。現存するのは5指を切る。県立博物館・美術館所蔵。

 *殷元良(いん げんりょう)1718~1767年(尚敬6~尚穆16)の雅号。仲松庸象(ようしょう)の次男。首里に生まれる。のちに座間味庸昌(ざまみ ようしょう)を名乗る。幼少にして絵を好み、神童の名があった。12歳のとき、尚敬王の命により城中に召され、宮廷絵師山口宗季(そうき)に師事。15歳で若里之子(職位・わかさとぅぬし)に。28歳には「黄冠=おうかん」を叙している。北京や江戸にも公使の随行員として渡航。絵筆の修行を重ねた。帰国後、尚敬王の御後絵(おごえ・肖像画)を描き、他の職業絵師とは異なり、いわゆる(国王お抱えの絵師)になり、師山口宗季亡きあとは、誰もが認める琉球画壇の代表的絵師として活躍している。
 画風は花鳥・山水画に中国絵画の技法がある反面、日本画の影響もみられる。代表作とされる「神猫図」はじめ多数。「神猫図」は消失しているが、現存が確認されている作品は「花鳥図」「雪中雉子之図=せっちゅうきじのず」「山水図=絹本墨画」「鶉図」「竹之図」「壽老人」など。本家仲松姓を座間味姓に改めたのは、尚穆王から座間味間切を賜り、地頭職位に就いたことによる。

 私自身は絵の心得は自慢ではないがまるでない。けれども絵画展には都度、足を運ぶ。がさつな性分を洗いに行っているのかも知れない。
 年末。書斎の整理整頓をしながら、これまた故与那覇朝大に貰った絵画集のページを時間をかけて見開いている自分に気付く。こうして、私の酉年は暮れて行く。 


歌手になる日

2017-12-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「忘年会は来週だそうだね」
 「オレんとこにも世話役のK君からメールが入ったよ。カラオケハウスを予約してあるそうな。キミは何を歌うのかね」
 「そうさなぁ・・・・。いま流行りの歌は到底無理だし結局、懐メロということになるだろうよ」。
 初老の男二人がおでんにフウフウ息を吹きかけ、ビールの冷たさを楽しんでいる。学生時代の古馴染みか、かつて職場を同じくした仲なのか。
 「歌は古馴染みと歌うにかぎる。息子一家、娘婿一家に誘われてカラオケハウスのマイクを握ることがあるが、親父の選曲は古いだのなんだの、受けが悪い上に軽くいなされてしまう。1曲止まりでマイクを彼らにゆずることになる。こちらはもっぱら聞き役だ」。
 「分かるよその気持ち・・・・。そこへいくと古馴染み同士は、時代の流行りを共有しただけに、言葉通り、いまは昔のあの歌この歌が自由に歌える」
 「12月はいいね。普段はあまりやらない懐メロ番組を放映するからテレビの前に坐ることがある」。
 季節も年齢によって捉え方があるものだ。

 ボクはどうだろう。
 先日、テレビの画面に見覚えのある顔が大写しになった。ドラマである。
 「んっ?誰だったっけ?おや!佐川満男ではないか。いい歳になったなぁ・・・。しかしまあ、渋いいい演技だ」。
 なぞと感じ入り、日頃はそう観ないドラマを最後まで観てしまった。そして彼の歌に思いを馳せる。

 ♪遅かったのかい君のことを 好きになるのが遅かったのかい
  ほかの誰かを愛した君は 僕を置いて離れていくの 
  遅かったのかい 悔やんでみても 遅かったのかい 
  君はもういない~
 

 40年ほど前に彼の「今は幸せかい」を聴いた折りは、甘ったるく、そう好きになれず、それでも歌詞とメロディーに惹かされて、それとなく馴染んでいた。その後、彼のことは気にもかけず、彼もまた、歌謡界からその名を消したかのようだった。「引退した」と勝手に思い決めていたことだが、どうしてどうして、歌手は役者に転身して、存在感のある演技をみせている。聞けば大阪を拠点に現役活動をしているという。なるほど、歌をもって真剣に生きてきた者は、例え一時的挫折はあっても、他のジャンルで才能を発揮することができるものだと、ボクとしては大真面目に佐川満男を意識しないわけにはいかなかった。勤め人がピアニストになっても、主婦が社長になっても、何の不思議もないように人間、自分自身さえ見失わなければ、充実した人生を歩めるものだと、佐川満男に教えてもらったような気になった。
 「挫折は失敗ではない。諦めこそが生き方を希薄にするものらしい」なぞと小賢しく、悟り顔をしたしだい。
 
 ♪今は幸せかい君と彼は 甘い口づけは君を酔わせるかい
  星をみつめて一人で泣いた 僕のことは忘れていいよ
  今は幸せかい悔やんでみても 今は幸せかい 君はもういない

 
 件のおでん屋の二人。
 「今度の忘年会には演歌はよして、あちらモノを披露しようか!以外にイケぜオレは!」
 「変身ってわけか。三波春夫がシャンソンを歌うようなものだな」。
 笑ってビールのジョッキを合わせる仕様が微笑ましい。

 ボクのアチラものはどうだ。「テネシーワルツ」を口ずさむ。

 かつては普通に使っていた横文字も、日本が戦争態勢に入ると殊に英語は、敵国語として禁止された時代がある。それは戦後になっても、大人たちの意識に刷り込まれたままだったらしい。けれども若者たちは、自由と平和を標榜する「アメリカ世」をすんなり受け入れ、アメリカへの憧れを膨らませていた。その導入になったのが音楽や映画。「テネシーワルツ」もそのひとつ。
 テネシーの「シー」を「スィー」と発音して、アメリカ文化を手に入れた気になっていた。映画を観ればジョン・デレック、ランドルフ・スコット、そして若いジョン・ウェインなどが2丁拳銃を巧みに扱い、ライフル片手に荒馬を乗りこなし、インディアンをやっつける!。あのスケールの大きさは青少年の夢を膨らませて余りあるものがあった。現実的には、学校の行き帰りに通る歓楽街をAサインバーやキャバレーのジュークボックスの(今から思えば)パティー・ペイジが唄うオリジナルの「テネシーワルツ」や、あちらモノの音楽が聴こえ、時には日暮れを待って、わざわざ聴きに行った少年の日があった。
 そこへ江利チエミの「テネシーワルツ」が1枚加わる。ますますアメリカ西部の開拓地テネシーが身近に感じられた。いまでもアメリカといえば、ワシントンやニューヨークよりもテネシーへ、馬に乗って行きたい。

 ♪去りにし夢 あのテネシーワルツ なつかしい愛の歌 
  面影しのんで今宵も唄う うるわしのテネシーワルツ~

 おでん屋の二人は勘定を払うと残りのビールを飲み干し、フットワークよろしく格子戸を開け、暖簾を押し分けて出て行く。おそらく忘年会のカラオケのレパートリーを増やしにか、あるいは青春を取り戻しにだろう。おでんとビールの温もりを夜風がなでていく。


初冬の琉歌たち

2017-12-01 00:10:00 | ノンジャンル
 ♪秋や暮りたしが 育てぃたる菊や 残てぃ初冬ぬ 伽になゆさ 
 <あちや くりたしが すだてぃたる ちくや ぬくてぃ はちふゆぬ とぅじになゆさ

 歌意=秋は暮れたけれども、その前に植え育てた菊は残って咲き誇っている。肌寒い中で何よりの伽(慰め)になっている。
 伽(とぅじ)には別に(妻)のことでもあるが、この場合(慰め)にとどめたほうがいい。

 手元にAサイズより縦がちょっと短めで濃い緑表紙の「琉歌集」がある。
 島袋盛敏著。昭和44年(1969)7月1日、沖縄風土記社発行版。どこでどう手に入れたのか記憶が時間の彼方に薄れてしまっている。無理に思い起こせば昭和34年(1959)10月1日、琉球放送に入社。報道部を経てラジオ制作部兼編成部に配属。郷土番組ディレクターを命じられた折り上司だった外間朝貴氏(故人)が「番組制作の参考に」と、手渡された1冊ではなかったのか・・・・。ちなみに外間朝貴氏は、琉球歴史や伝説、風俗史を題材に「伝説を訪ねて」なる沖縄初のラジオドラマを開拓した方。毎週日曜日午後8時放送の30分番組でボク自身(声優)をやらせてもらっていた。
 1ドルが365円当時、初任給36ドルでは専門書なぞ買える実力もなく、会社の資料室、貸本屋、古書店に頼っていたことだが「琉歌集」は定価7弗。自前では購入できなかった1冊が手元にある。紙質がいまひとつのせいか時間のせいか表紙は幾度目かのセロテープの世話になっているし、ページは手垢で赤茶けていて、いまでは丁寧に扱わないと破損しそう・・・・。

 目次。
*節組の部。
 宮廷音楽の教則本「工工四・上中下巻順」に「かぢゃでぃ風節30首」に始まり、里唄「うみやから節」まで208首を記載。
*吟詠の部。
 四季=春67首。夏43首。秋52首。冬28首。
 賀正=163首。相聞=464首。哀傷=135首。名所=86首。旅=43首。教訓=10種。願望=28首。風刺=28首。懐古=9首。分句=2首。音楽=3首。酒=9首。天然痘=2首。狂歌=147首。
 次いで種類別及び作者牽引が付き625ページに及ぶ。

 ♪天ぬ御定みや 変わるくとぅ無さみ しぐり雲渡る 冬ぬ始み
 <てぃんぬ うさだみぬ かわるくとぅ ねさみ しぐりくむ わたる ふゆぬ はじみ

 歌意=天の定める自然の推移というものは実に不変である。あれほど高く澄みきっていた秋の空にも時雨雲が渡り、冬の始めを告げている。天は偉大なり。
 雪の降らない沖縄では、空を渡る雲に四季感を覚えるのである。

 島袋盛敏(しまぶくろ せいびん)。
 明治23年(1890)12月19日生。昭和45年(1970)1月2日没。教育者。沖縄研究者。
 首里久場川の士族の家柄に生まれている。沖縄県師範学校を卒業後、県立図書館嘱託。国頭(北部)中頭(中部)そして那覇などの小学校教師を勤めた。昭和6年(1931)。沖縄学の仲原善忠氏の奨めで上京。成城学園女学校教師を勤める傍ら琉球文学、琉球芸能などを研究。昭和27年(1952)、同校を退職後は研究に専念。「球陽外巻・遺老説伝=1935」「琉球の民謡と舞踊=1956」「琉球大観=1964」「琉球全集=1968」などを著している。特に「琉球大観」は、およそ500年にわたる約2890首を集大成した大著である。
 また柳田国男、伊波普猷、比嘉春潮らの勧めと国立国語研究所の委託を受けて、自身の言語である首里方言の辞典編集に取り掛かり、昭和26年(1951)出版の「沖縄語辞典」の基礎となった稿本1万2000語以上を完成している。

 実に、実に不遜ながら島袋盛敏師の著書、殊に「琉歌集」を繰り返し読ませて頂いてそのたび多くの言葉、オキナワンスピリッツを感受している。小生にとっては師の著書はバイブル的存在である。

 ♪初冬ぬ空ぬ 霜とぅ思みなちゃさ 残る白菊ぬ 花ぬ姿
 <はちふゆぬ すらぬ しむとぅ うみなちゅさ ぬくる しらじくぬ はなぬ しがた

 *思みなちゅさ=思いきわめた。思ってしまった。見間違えた。
 歌意=年内にしては昨夜は寒さを感じた。翌朝、早々に起きて庭を見る。ところどころが白くなっている。やはり霜が降りたのかと思い、よくよく見れば、その白は霜ではなく、秋の名残りの白菊の姿ではないか。

 夕闇が夜の闇にかわる頃ともなれば、巷には早ジングルベルが流れ、赤鼻のトナカイになり切った男女が喜色満面で初冬を楽しんでいる。「ボーナスの使途の目途がついたのだな」と、余計な憶測をする自分がいる。かつては己もそうだったのに・・・・。ボクの人生も「初冬」を迎えた。冷たい風が吹き抜ける。