我が家には絵画が数作品ある。
居間にひとつ。書斎にひとつ。玄関にひとつ。そして短い廊下らしい壁にひとつ。これは版画である。
日曜日など、用もないのにふらりやって来る古馴染みのTなどは絵心はまるでないのに、したり顔で言う。
「ほう。与那覇朝大さん(故人)の作品だね。んっ?版画は名嘉睦稔か」なぞと毎度同じ関心をする。共通の友人だからだろう。ひとしきり懐かしい眼を向けた後、Tはこれまた決まったように言う。
「沖縄では高名な画家、版画家だから売るとしたら、どれくらいの値段がつくだろう」
それが冗談ではなく、舌舐め面で訊く。これだから芸術を理解しない不粋者は困るのである。その話にのろうものなら、自分の所有物でもないのに、本気で売りかねないTなのだ。
「不埒なことを考えるんじゃない」
私は口を荒げて拒否するのだが、レオナルドダヴィンチの絵が508億円で落札されたそうな。美術品は金になる」
執拗この上もない。その新聞記事は私も読んだ。曰く。
{ニューヨーク共同}
イタリア・ルネッサンス期の巨匠レオナルドダヴィンチがキリストを描いた油絵が11月15日午後(日本時間16日午前)米ニューヨークで競売に掛けられ、手数料と合わせて約4億5千万ドル(約508億円)で落札された。
主催した競売大手クリスティーズによると、美術品としては史上最高の落札額。20枚もない現存するダビンチの絵画のう唯一の個人所有で、長年行方不明になっていたため「幻の作品」として注目を集めていた。
クリスティーズによると、これまでの美術品の最高落札額は、ピカソが1955年に描いた「アルジェの女たち」が2015年の競売で付けた約7900ドルだった。
報道はどうであれ、我が家の与那覇朝大も名嘉睦稔もレオナルドダヴィンチでもピカソでもない。身近で喜怒哀楽を共にした彼らの分身である。生臭いドルや円に換算することはできない。よしんば手放すとしても、後に残るのは自分への嫌悪感と絶望感でしかないだろう。
さて。
琉球歴史を眺めると、ふたりの絵家が目に留まる。
自了と殷元良だ。
*自了(じりょう)1614~1644年(尚寧26~尚賢4)。城間清豊(ぐすくま せいほう)の雅号。童名・真竃(まかまどぅ)。城間親雲上清信(せいしん)の長男に生まれた。が、先天的な聾唖者。両親は彼に特別な教育をしたわけでもないが頭脳明晰、探求心旺盛。独学で絵技を磨き大成した。
中国の冊封使杜三策(と さんさく)は来琉の折り、首里城内で自了の作品を見て、中国の高名な絵師顧虎頭(こ ことう)や王摩詰(おう まきつ)などの名を上げ「これに匹敵する」と称賛したという。また、1643年(尚賢3)、慶賀使として金武王子朝貞(ちょうてい)一行が江戸に赴いたとき、自了の作品3幅を持参。狩野派藤原安信はこれに接し、その筆勢を絶賛。
「自了がわが国にあらば、絵師として親交を結びたい」と言わしめたという。
戦前までは首里那覇の名家に自了の作品が残っていたが、沖縄戦でほとんど焼失している。「竹林七賢」「野国青毛名馬図」「仙人図」「高士逍遙図」「松下三仙図」などがあったというが・・・。現存するのは5指を切る。県立博物館・美術館所蔵。
*殷元良(いん げんりょう)1718~1767年(尚敬6~尚穆16)の雅号。仲松庸象(ようしょう)の次男。首里に生まれる。のちに座間味庸昌(ざまみ ようしょう)を名乗る。幼少にして絵を好み、神童の名があった。12歳のとき、尚敬王の命により城中に召され、宮廷絵師山口宗季(そうき)に師事。15歳で若里之子(職位・わかさとぅぬし)に。28歳には「黄冠=おうかん」を叙している。北京や江戸にも公使の随行員として渡航。絵筆の修行を重ねた。帰国後、尚敬王の御後絵(おごえ・肖像画)を描き、他の職業絵師とは異なり、いわゆる(国王お抱えの絵師)になり、師山口宗季亡きあとは、誰もが認める琉球画壇の代表的絵師として活躍している。
画風は花鳥・山水画に中国絵画の技法がある反面、日本画の影響もみられる。代表作とされる「神猫図」はじめ多数。「神猫図」は消失しているが、現存が確認されている作品は「花鳥図」「雪中雉子之図=せっちゅうきじのず」「山水図=絹本墨画」「鶉図」「竹之図」「壽老人」など。本家仲松姓を座間味姓に改めたのは、尚穆王から座間味間切を賜り、地頭職位に就いたことによる。
私自身は絵の心得は自慢ではないがまるでない。けれども絵画展には都度、足を運ぶ。がさつな性分を洗いに行っているのかも知れない。
年末。書斎の整理整頓をしながら、これまた故与那覇朝大に貰った絵画集のページを時間をかけて見開いている自分に気付く。こうして、私の酉年は暮れて行く。
居間にひとつ。書斎にひとつ。玄関にひとつ。そして短い廊下らしい壁にひとつ。これは版画である。
日曜日など、用もないのにふらりやって来る古馴染みのTなどは絵心はまるでないのに、したり顔で言う。
「ほう。与那覇朝大さん(故人)の作品だね。んっ?版画は名嘉睦稔か」なぞと毎度同じ関心をする。共通の友人だからだろう。ひとしきり懐かしい眼を向けた後、Tはこれまた決まったように言う。
「沖縄では高名な画家、版画家だから売るとしたら、どれくらいの値段がつくだろう」
それが冗談ではなく、舌舐め面で訊く。これだから芸術を理解しない不粋者は困るのである。その話にのろうものなら、自分の所有物でもないのに、本気で売りかねないTなのだ。
「不埒なことを考えるんじゃない」
私は口を荒げて拒否するのだが、レオナルドダヴィンチの絵が508億円で落札されたそうな。美術品は金になる」
執拗この上もない。その新聞記事は私も読んだ。曰く。
{ニューヨーク共同}
イタリア・ルネッサンス期の巨匠レオナルドダヴィンチがキリストを描いた油絵が11月15日午後(日本時間16日午前)米ニューヨークで競売に掛けられ、手数料と合わせて約4億5千万ドル(約508億円)で落札された。
主催した競売大手クリスティーズによると、美術品としては史上最高の落札額。20枚もない現存するダビンチの絵画のう唯一の個人所有で、長年行方不明になっていたため「幻の作品」として注目を集めていた。
クリスティーズによると、これまでの美術品の最高落札額は、ピカソが1955年に描いた「アルジェの女たち」が2015年の競売で付けた約7900ドルだった。
報道はどうであれ、我が家の与那覇朝大も名嘉睦稔もレオナルドダヴィンチでもピカソでもない。身近で喜怒哀楽を共にした彼らの分身である。生臭いドルや円に換算することはできない。よしんば手放すとしても、後に残るのは自分への嫌悪感と絶望感でしかないだろう。
さて。
琉球歴史を眺めると、ふたりの絵家が目に留まる。
自了と殷元良だ。
*自了(じりょう)1614~1644年(尚寧26~尚賢4)。城間清豊(ぐすくま せいほう)の雅号。童名・真竃(まかまどぅ)。城間親雲上清信(せいしん)の長男に生まれた。が、先天的な聾唖者。両親は彼に特別な教育をしたわけでもないが頭脳明晰、探求心旺盛。独学で絵技を磨き大成した。
中国の冊封使杜三策(と さんさく)は来琉の折り、首里城内で自了の作品を見て、中国の高名な絵師顧虎頭(こ ことう)や王摩詰(おう まきつ)などの名を上げ「これに匹敵する」と称賛したという。また、1643年(尚賢3)、慶賀使として金武王子朝貞(ちょうてい)一行が江戸に赴いたとき、自了の作品3幅を持参。狩野派藤原安信はこれに接し、その筆勢を絶賛。
「自了がわが国にあらば、絵師として親交を結びたい」と言わしめたという。
戦前までは首里那覇の名家に自了の作品が残っていたが、沖縄戦でほとんど焼失している。「竹林七賢」「野国青毛名馬図」「仙人図」「高士逍遙図」「松下三仙図」などがあったというが・・・。現存するのは5指を切る。県立博物館・美術館所蔵。
*殷元良(いん げんりょう)1718~1767年(尚敬6~尚穆16)の雅号。仲松庸象(ようしょう)の次男。首里に生まれる。のちに座間味庸昌(ざまみ ようしょう)を名乗る。幼少にして絵を好み、神童の名があった。12歳のとき、尚敬王の命により城中に召され、宮廷絵師山口宗季(そうき)に師事。15歳で若里之子(職位・わかさとぅぬし)に。28歳には「黄冠=おうかん」を叙している。北京や江戸にも公使の随行員として渡航。絵筆の修行を重ねた。帰国後、尚敬王の御後絵(おごえ・肖像画)を描き、他の職業絵師とは異なり、いわゆる(国王お抱えの絵師)になり、師山口宗季亡きあとは、誰もが認める琉球画壇の代表的絵師として活躍している。
画風は花鳥・山水画に中国絵画の技法がある反面、日本画の影響もみられる。代表作とされる「神猫図」はじめ多数。「神猫図」は消失しているが、現存が確認されている作品は「花鳥図」「雪中雉子之図=せっちゅうきじのず」「山水図=絹本墨画」「鶉図」「竹之図」「壽老人」など。本家仲松姓を座間味姓に改めたのは、尚穆王から座間味間切を賜り、地頭職位に就いたことによる。
私自身は絵の心得は自慢ではないがまるでない。けれども絵画展には都度、足を運ぶ。がさつな性分を洗いに行っているのかも知れない。
年末。書斎の整理整頓をしながら、これまた故与那覇朝大に貰った絵画集のページを時間をかけて見開いている自分に気付く。こうして、私の酉年は暮れて行く。