旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

またぞろ・男だけのふり遊び

2010-11-25 00:32:00 | ノンジャンル
 「男だけのふり遊びをまるまる11年も続けている?本物の“ふりむん”だよ。しかし、ニセものの“ふりむん”よりも本物の方が人間らしいのかも知れない。いや、恐れ入りました」。
 喜んでいいのか白けるべきか。とりあえず笑顔でその場しのぎをした。

 「男だけのふり遊び」とは何か。
 12年前。とかく“遊び”好きの㈲キャンパスレコード社長備瀬善勝、またの名をビセ・カツ。役者北村三郎。放送屋上原直彦が酒を飲んだことに始まる。
 「芝居や組踊は盛んだが、バカ笑いのできる演芸が姿を消してしまった。どうだろう!敢えて男だけでバカ笑いできる演芸公演をしでかしてみようではないか」
 遊びの達人を自称する3人に否があろうはずがない。すぐに沖縄市民小劇場「あしびなぁ」を押さえることから手をつけた。つぎに趣旨に賛同する役者の出演交渉にかかる。まずベテラン八木政男に声を掛けると「んむっさんや!=面白いね」と、二の句もない快諾を取り付けた。あとは楽だ。劇団「真永座」座長であり、沖縄芸能に関する小道具を自ら製作、注文販売をしている仲嶺真永。劇団「石なぐの会」を結成して伝統的な歌劇、旧劇はもちろん、新しい芝居を実践している當銘由亮、高宮城実人、知名剛史。それに歌三線の徳原清文が加わり、キャスティングは万全。構成等は上原直彦に決まった。
       
        写真提供:知念文吉  

 出しものはと言えばこの面々、人前ではめったに歌わない歌謡曲を自己紹介がてらに披露することになるが、芝居とは要領が異なるため面々に緊張が走る。懐メロ系統はコスチュームでカバーしての歌謡オンパレード。不思議なもので役者は、曲目に合わせた衣装を着けると実力以上の歌唱力を発揮する。続いて當銘、高宮城、知名による女踊り、3番目の演目はオリジナル琉球講談。
 講談は大衆演芸のひとつで、日本固有の話芸。聴衆に史実やフィクションのストーリーを語るもの。古くは〔講釈〕と言ったが、明治以降は[講談]と呼称するようになっている。沖縄にはなかった語り芸だが、昭和29年〔1954〕10月1日創立の琉球放送が企画し、往年の名優平良良勝<たいら りょうしょう=1893~1979>の口演と、宮廷音楽・近世の名人と目される幸地亀千代<こうち かめちよ=1896~1969>の歌三線で構成された琉球女流歌人吉屋思鶴<よしや うみちる=1650~1668>の生涯を描く琉球講談「吉屋チルー物語」を数週間にわたってラジオ放送をし大流行を得た。その後「忠臣護佐丸=ちゅうしん ごさまる=生年不詳~1458」や、彼と相対峙した武将阿麻和利<あまわり=生年不詳~1458>など、歴史上の人物伝が電波に乗った。それは平良・幸地によって幾人かの役者に後継を試みたが定着せず、幻の演芸になっていた。
 そこで我が〔ふり遊び連〕は、講談の面白さを世に問うべく上原直彦が執筆。琉球音楽外伝「知念績高・やんばる旅」「十二支物語」音楽秘話「赤田門秘聞」など数本を披露してきた。そして今年は「上ゐ口説考・旅ぬ出じ立ち」を仲嶺真永、北村三郎が語る。元来講談は、一人語りの話芸だが「ふり遊び」の場合、歌三線や踊りを取り入れた講談に仕立てている。
 これまでの公演の切り狂言は〔3分間に5回笑わせます〕を保証して「やまぁよー」「ハラ巡査=一名家庭円満菓子」「百一」「伊集ぬガヌク小」「三村踊り」「ハワイから来た男」等々で会場を沸かせてきたが今回は、八木政男十八番芸の泥棒もの「留守番」が見ものになっている。
       
         写真提供:知念文吉

 制作事務局のキャンパスレコードに問い合わせがあった。
 「男だけのふり遊び公演は、観客も男に限定されるのか。女は入場できないのか」
 そんなことはないのである。こうした類の公演は、女性客の黄色い声があってこそ盛り上がるのである。また、出演者も〔十分に稽古をして舞台に臨めば、芝居・演技は観客がさせてくれる〕。舞台と観客の一体感を役者の立場から言い当てた言葉をモットーに熱演する所存。性別不問!大いに盛り上がり、盛り上げていただきたい。
 ところで。
 「ふり遊び」の“ふり”は、一般的に常識外の言動の頭に付く言葉。語源的には何か物の怪<もののけ>にとりつかれたの意「ふれもの」が転じて「気がふれたのではないが言動が普通でない人・そそっかしい人」にも気軽く「ふりむんッ」と言い、それはいまでも戒めの言葉として日常的に使われている。
 最近、日本国は内憂外患。“右を見ても左を向いても真っ暗闇じゃございませんか”。暮れゆく寅年のひととき、あなたも「ふり遊び」連の仲間入りをしませんか。もっとも、正真正銘・本物の〔ふれもの〕になっては、不都合でしょうが・・・・。

  ※公演問い合わせ先=キャンパスレコード☎098-932-3801

 ※お知らせ!!
  12月から、旬刊・上原直彦「浮世真ん中」となります。
  毎月1日、10日、20日の掲載となります。


  
      

花盛り・琉球舞踊界その⑦〈最終章〉

2010-11-18 00:36:00 | ノンジャンル
 「琉舞手帖=初心者から上級者までの琉球舞踊解説書」の著者大道勇は、放送屋としての古馴染である。
 昭和38年<1963>、法政大学経営学部を卒業すると同時に彼は琉球放送に入社。テレビ制作部に籍を置いて、自主製作のバラエティーものの演出をこなしていた。私はと言えば、彼より入社は早かったが、ラジオ制作部に所属して上司の命ずるまま、右や左を手さぐりしながら、民謡や宮廷音楽や芝居の番組を担当する一方、ラジオ・テレビ兼営局の体制の中、時折、テレビの生放送のフロアディレクターや演出補をしていた。昭和42年<1967>、大道勇はOHK・沖縄放送協会に転籍「沖縄の歌と踊り」等々、県内では高視聴率を得た数々の芸能番組を手掛け、造詣を深くしてきた。
 余談になるが、大道勇が琉球放送テレビ在籍中に担当していた毎週日曜日正午から1時間の視聴者参加生番組「花王ワンダフルショー」の後任になったのは私。彼は私より1個年下ながら、メカ音痴の私に〔テレビメディアとは何か〕を懇切丁寧に教えてくれた。テレビがカラーになる前のことで、いまでもモノクロ画面に接するとき、大道勇の顔までが白黒で重なってくる。50年近く前〔いい男同士〕だったのだが、いやはや、おたがい過去をふり返るには、先が短い〔いい年頃〕になっている。
 大道勇が時間をかけて記録した【舞踊家名簿】。流派・研究所・道場・会などを五十音順に紹介してきたこのシリーズも、今週号で最終章。
       
         写真:琉舞手帖より

【舞踊家名簿】

 ※琉球舞踊太佳流・家元佐藤太佳子<那覇市>
 *華良雄の会会主=比嘉良雄<浦添市>*華昌代の会会主=平良昌代<那覇市>*華の会<師範代表>師範=皆川律子<豊見城市>*華の会師範=笹谷春乃〈鹿児島県姶良町〉*華の会師範=渡嘉敷エチ子<那覇市>*華の会師範=金城光枝<新潟県佐渡市>*華の会師範=神山浩子<豊見城市>*華の会師範=比嘉幸子<浦添市>*華の会師範=孤島丘奈<浦添市>*華の会師範=根間郁子<那覇市>*華の会師範=金城陽一〈豊見城市〉*華の会師範=具志 忍〈東京都稲城市〉*華の会師範=浦崎直秀<ブラジル・サンパウロ>*華の会師範=伊東さちよ<アメリカ・ニューヨーク>*華の会師範=島袋順子<ブラジル・サンパウロ>

 ※琉球舞踊重踊流・宗家=志田房子<東京都練馬区>*二世宗家=志田真木<東京都練馬区>
 *志扇三重の会会主=井口三重子<東京都東久留米市>*志扇美智の会会主=砂邊美智子<神奈川県横浜市>*師範=姫野多美<三重県四日市市>*師範=波照間永子<東京都文京区>*師範=松田エリザ葉奈恵<ブラジルサンパウロ州サンパウロ市>

 ※琉舞藤の会会主=新崎恵子<沖縄市>*師範=花城富士子<沖縄市>*師範=呉屋かなめ<沖縄市>*師範=島袋正子〈沖縄市〉

 ※琉舞縁扇会会主=池原勝子<那覇市>
 ※琉舞無憂華の会会主=山田多津子<宜野湾市>*師範=宮城律子<宜野湾市>
 *師範=山田玲子<西原町>*師範=石川詩子<宜野湾市>

 ※柳清本流柳の会・家元=仲宗根文子<沖縄市>
 *柳扇優の会会主=仲宗根優子〈沖縄市〉*柳豊会会主=大城豊子〈大阪市大正区〉*柳扇会会主=照屋正子〈沖縄市〉*柳光会会主=渡具知光子〈ハワイ州ホノルル市〉*柳糸志乃会会主=糸村昌子〈金武町〉*柳恵之会会主=新城恵子〈北谷町〉*師範=山田和子〈北谷町〉*師範=荷川取信子〈宮古島市〉*柳豊会師範=大城奈津子〈大阪市大正区〉*柳清会二代目家元=比嘉倫子〈那覇市〉*師範=真栄田義晃<名護市>*師範=上間てるみ<大阪市大正区>*師範=山本カツ子<大阪市西淀川区>*師範=与座敏子<那覇市>*師範=比嘉一恵<那覇市>
 *柳清舞鶴会会主=大城鶴子<南風原町>*柳清舞鶴会師範=赤嶺路子<南風原町>*柳清舞鶴会師範=赤嶺多賀子<与那原町>
 ※和華の会・家元=高良和子<浦添市>
 *和華の会師範=普久原津恵子<那覇市>*和華の会師範=渡慶次初枝<那覇市>*和華の会師範=亀谷裕子<浦添市>*和華の会師範=本村みどり<那覇市>*和華の会師範=前田文子<宜野湾市>*和華の会師範=上間朝子<浦添市>*和華の会師範=永山玲緒奈<浦添市>*和華初志の会主宰=上原初子<浦添市>*和華良舞の会主宰=野原良子<那覇市>*和華松の会主宰=松田愛子<浦添市>

 さて。
 どう位置づけたものか。ともかく、宗家4。家元31。会主124。主宰5。師範327を数える。もちろん、宗家、家元、会主、主宰も〔師範〕の有資格者。その下に教師免許取得者が1000単位でいる上に、沖縄タイムス社・琉球新報社がそれぞれ主催する琉球舞踊コンクールにおける新人賞、優秀賞、最優秀賞、最高賞受賞者がいて、またそれを目指して修練に励む研究生たちを含めると、琉球舞踊に関係している人口は天井を知らないだろう。まさに〔花盛り・琉球舞踊界〕である。
 ここまで小まめに記録した大道勇氏に敬意を表する。
      
 「琉舞手帖」は、㈲ボーダーインク発行。電話=(098)835-2777。好評発売中。

     
     

花盛り・琉球舞踊その⑥

2010-11-11 00:20:00 | ノンジャンル
 制服・ユニホームとはよくしたものだ。
職業的なそれならば、ひと目でその人の活躍の場が判別できる。〔場〕としたのは、制服、ユニホームにも屋内・屋外用があるからだ。例えば、医師や看護師が身にしている通称〔白衣〕は、室内着の典型。診察室に入って白衣のスタッフに面接しただけで、全面的な信頼を覚え「よろしくお願いします」の言葉を心底から発することができる。それがもし、医師はジーンズにTシャツ、看護師がミニスカートに茶髪にハデハデ化粧だったとしたら、私ならすぐに逃げ出すであろう。医師も看護師もその辺を心得、自信と誇りを持って、白衣の袖を通しているに違いない。したがって、白衣は院内・屋内限定のユニホーム。
 白衣に聴診器を首に掛け、白衣にカルテパネルを抱えた看護師を従えて街中を闊歩する医師なぞ、ついぞ見かけない。
      
 舞踊家はどうだろうか。通称〔二式着物〕、あるいは〔半稽古着〕を着用して、師範クラスは弟子に稽古をつけている。もちろん、普通の着物を着けることもあることは言うまでもない。二式着物・半稽古着は、あくまでも研究所、道場における屋内用。けれども、長い黒髪を背中にたらしたり、それなりに結ったりした上に、男の甚平にも似た半稽古着のまま、繁華街を艶やかに行く女性を見かける。「舞踊家だっ!カッコいい」と、しばし目で追う。本人もまた、それを十分意識しているようだ。芸能人には、屋内着・屋外着の区別はないの
かも知れない。
        

【舞踊家名簿】

 ※宮城本流・鳳乃会家元 宮城能鳳<与那原町>
 *鳳・昌寿乃会会主=糸数昌益<糸満市>**鳳・煽の会会主=根路銘広美<沖縄市>
 *鳳・綾羽乃会会主=嘉手苅林一・会主嘉手苅幸代<読谷村>*鳳・錦扇会会主=新垣徳吉<USA>*鳳・麗乃会会主=宮城能麗<那覇市>*鳳・麗乃会師範=古謝徳子<南城市>*鳳・麗乃会師範=比嘉侑子<中城村>*鳳・麗乃会師範=諸見里春代<北谷町>*鳳・麗乃会師範=宮城能乃<豊見城市>*優香の会会主=宮城能香<那覇市>
 *優舞の会会主=宮城能舞<那覇市>*礽乃会二代目会主=照屋由紀乃<宜野湾市>

 ※宮城流朱之会会主=古謝弘子<嘉手納町>*朱・須賀子之会会主=平良須賀子<沖縄市>*朱・やえ之会会主=山田やえ<北谷町>*朱・愛子之会会主=仲程愛子<宜野湾市>*朱・碧之会会主=金城フサ子<浦添市>*宮城流師範=津波琴江<読谷村>*宮城流師範=幸地みかえ<嘉手納町>*宮城流師範=宮城昭美<読谷村>*宮城流師範=知花小百合<読谷村>*宮城流師範=宮里すが子<浦添市>*宮城流師範=宮城尚子<那覇市>*宮城流師範=宮城由紀子<嘉手納町>*宮城流師範=多和田美幸<那覇市>
 *薫風の会会主=赤嶺正一<那覇市>
 *薫風の会師範=佐久本稔<那覇市>*薫風の会師範=名嘉久枝<那覇市>
 *豊舞会家元=宮城豊子<沖縄市>*豊舞会師範=仲村和美<沖縄市>*豊舞会師範=新垣幸子<北米ロサンゼルス支部>*豊舞会師範=宮城小寿江<宜野座村>*豊舞会師範=白木美智子<宜野座村>*豊舞会師範=小嶺和佳子<沖縄市>*豊舞会師範=佐渡山奈美姫<沖縄市>*豊舞会師範=仲地ゆき乃<うるま市>

 ※宮城流・二代目家元=宮城能造<那覇市>

 ※宮城元流能史之会・家元=宮城能之<那覇市>*師範=山根初美<那覇市>*師範=宇座仁一<那覇市>

 ※宮城流美能留会家元・宮城早苗<那覇市>*美能留会家元・宮城園美<那覇市>
 *美能留会師範=金城保子<浦添市>*美能留会師範=松田 恵<沖縄市>
 *美代乃会会主=渡久地美代子<西原町>*美代乃会師範=萩堂清恵<本部町>

 ※美和の会会主=座喜味千枝子<沖縄市>*美和の会師範=根保光枝<名護市>*美和の会師範=普久原千津子<読谷村>*美和の会師範=前當正雄<うるま市>

 ※琉球舞踊大城流・寿乃会家元=大城政子<那覇市>*寿乃会師範=大城一乃<那覇市>*寿乃会師範=大城好枝<南城市>*寿乃会師範=玉城美千枝<那覇市>*寿乃会師範=真志取 都<那覇市>*寿乃会師範=津波明子<糸満市>

 ※琉球舞踊かなの会会主=高嶺久枝<南風原町>*師範=宮城伸子<豊見城市>*師範=宇地原幸子<八重瀬町>*師範=儀間美明<浦添市>*師範=豊見本美重子<豊見城市>*師範=張本直子<石垣市>*師範=宮城早綾佳<那覇市>*師範=高嶺美和子<南風原町>

 今年の夏休みから、舞踊道場・研究所に通い始めた小学校6年生の女の子がいる。
来年卯年に、夫婦揃って85歳のトゥシビースージ<生れ年祝儀>を催す祖父母がいて、その祝宴の余興に「ひとさし舞いたい!」と、両親に申し出てのことだ。両親に否があるはずはない。演目は祝儀舞「かぢゃでぃ風節」と「谷茶前節=たんちゃめー」。1年掛かりの特訓になるが、自主的行為のせいか集中力旺盛で「日に日に上達している」とは、両親の評価。その孫の努力の成果を何より待ち兼ねて、目をほそめているのは祖父母ではあるまいか。こちらまで幸せな気分になる。

 ☆大道勇著「琉球手帳=初心者から上級者までの琉球舞踊解説書」参照による【舞踊家名簿】は、11月18日号につづく。


   

花盛り・琉球舞踊会その⑤

2010-11-03 23:59:00 | ノンジャンル
 戦後の娯楽の中心は映画だった。
 琉球舞踊も芝居公演の演目として大衆に支持されていたが、芝居公演の行く先には不安がつきまとっていた。先見の明があった舞台役者の中には、戦前から身につけていた舞踊のみに専念し、研究所を設立して〔舞踊家〕に転身する人が出始めた。それは昭和27年頃には顕著になるが、教習料は〔礼金〕という慎ましやかな納め方。しかし、一方ではチケット制を採用して、手ほどきを受けるたびにチケットを切る研究所もあった。これを憂慮した主だった舞踊家連は昭和32年<1957>「琉球舞踊研究所連盟」を設立して〔正統なる継承・普及〕に当たった。同連盟はやがて解消。「琉球芸能連盟へと発展した」と、名優故宮城能造<明治39年~平成元年・1906~1989>は、沖縄タイムス連載「私の戦後史」に記している。
 回数券制は戦前も成されていた。ところが、芸能における現金の遣り取りは〔卑しい行為〕とされる社会通念があって公表をひかえていたが戦後、アメリカ世という時代の転換の中でそれを一掃。〔琉球舞踊を正しく継承しよう〕とする気運が高まり、教習料制が採用され今日に至っている。これもアメリカンデモクラシーのひとつだろう。

 大道勇著「琉球手帳=初心者から上級者までの琉球舞踊解説書」から、2009年10月現在の〔舞踊家名簿〕を紹介する。流派・研究所・道場・会等は五十音順としている。
      
        踊り:仲嶺真永

 ☆玉城流
 ※敏風会家元=宮里敏子<那覇市>
 *敏風栄乃会会主=渡嘉敷栄子*敏風貞寿乃会会主=渡慶次貞子<那覇市>*敏風真文の会会主=真栄田文子<那覇市>*敏風利美の会会主=安次嶺利美<那覇市>*敏風直和会会主=阿波根直子<那覇市>*敏風摂舞会会主=中村米子<兵庫県尼崎市>*敏風末広の会会主=前底裕子<那覇市>*敏風会師範=外間智子<豊見城市>*敏風会師範=天久和子<浦添市>*敏風会師範=島袋ゆかり<那覇市>*敏風会師範=花城静子<南風原市>*敏風会師範=与座喜美子<那覇市>*敏風会師範=譜久村悦子<北谷町>*敏風会師範=佐和田君枝<那覇市>*敏風会師範=嘉陽田早苗<那覇市>*敏風会師範=城間末子<那覇市>*敏風会師範=松田勝江<浦添市>*敏風会師範=津波古アキ<那覇市>*敏風会師範=玉城美奈子<浦添市>*敏風会師範=堀川久美<那覇市>*敏風会師範=大底紀子<那覇市>*敏風会師範=知念みさこ〈与那原町〉*敏風会師範=高良美江子〈豊見城市〉*敏風会師範=山下安子<鹿児島県大島郡和泊町>*敏風会師範=上間悦子<那覇市>*敏風会師範=国分多喜子<沖縄市>*敏風会師範=宮里加代子<うるま市>*敏風会師範=高安京子<宜野湾市>

 ※琉扇會宗家=平田行正〔琉舞・組踊道場〕*二代目家元=平田智之<那覇市>
 *琉扇よしの會會主=浜元良美<糸満市>*琉扇京乃會會主=伊禮京子<糸満市>*琉扇伊登姿乃會會主=西 伊登子<鹿児島県大島郡知名町>*琉扇湖泉の會會主=湖城静子<糸満市>*琉扇城之會會主=城田盛順<那覇市>*琉扇華実會會主=座安栄子<那覇市>*琉扇八千代乃會會主=神田千代子<沖縄市>*琉扇會師範=具志堅朝堅<糸満市>*琉扇會師範=安谷屋智子<糸満市>

 ※渡嘉敷流 あけぼの乃会会主=花岡勝子<那覇市>*師範=白兼とよ子<那覇市>

 ※八嘩流家元=真栄田千加子<那覇市>
 *餘音春の会会主=友寄春美<宜野湾市>*餘音の会師範=仲里左斗子<うるま市>
 *餘音の会師範=友寄とみ子*餘音の会師範=砂川サヨ子<那覇市>*餘音の会師範=大内章代<那覇市>

 ※舞芸の会さら *会主=座喜味正子<沖縄市>*会主=座喜味米子<沖縄市>

 ※真境名本流 始祖=真境名由康 二代目家元=真境名由苗<ハワイ州ホノルル>
 *師範=真境名律弘<北中城村>*師範=真境名愛子<カリフォルニア州>*師範=真境名千代子<那覇市>*師範=真境名迪子<那覇市>*師範=真境名秀子<北中城村>*師範=真境名あき<浦添市>*師範=真境名英美<沖縄市>

 ※真南風流・真紀の会家元=神村真紀子<浦添市>
 *真紀の会師範=宮城美佐子<浦添市>*美ら萌の会会主=金城博惠<那覇市>*美ら紅の会会主=金城惠美子<那覇市>

 ※道扇流 家元=金城道枝<那覇市>
 *道扇会師範=赤嶺光子<那覇市>*道扇会師範=新屋敷孝子<豊見城市>*道扇会師範=儀保政彦<南風原町>*藤代乃会会主=藤戸絹代<那覇市>*武美の会会主=武富美智子<浦添市>

 稽古事は、幼少の頃から始めるに越したことはない。
 しかし、五十の手習い・六十の手習いもまたいい。もっともその道のみに生きるには、五十、六十はちと遅かろう。舞踊研究所・道場をしばしば訪問することがあるが、中年の入門者も少なくない。その人たちは家元・会主・師範を目指しているのではなく、琉球舞踊を観るだけでなく〔踊る立場から親しむ〕ために勤しんでいる。「あわよくば、新人賞でも受けてみようかしら」と、にっこり笑ったある婦人がいた。瞳が澄んでいた。モノを始めるのに〔遅い〕は決してない。
 
 〔舞踊家名簿〕は、次週11月11日号につづく。