3月4日。琉球放送iラジオ主催・第19回「ゆかる日まさる日さんしんの日」開催まで、そう日数はない。
かつて風は音を運んだ。
東京・両国で打つ大相撲のやぐら太鼓が、千葉・木更津で聞こえたそうな。東京にも風の通る道あったのだろう。戦前の沖縄、またしかり。那覇・西武門の蓄音器店の店頭でかける蓄音器盤の舞踊曲「浜千鳥節」や、当時の師範学校生や中学生、女学生に好まれた「カッコウワルツ」が「私の住む泉崎<現・ハーバービューホテル>界隈まで聞こえた」とは、沖縄芸能史及び風俗史研究家崎間麗進氏<90歳>の証言だ。いま、騒音の中の那覇にも、風の通る道があったとみえる。
蓄音機は、電蓄<電気蓄音機>からレコードプレイヤー・CDプレイヤーに昇格。78回転の蓄音機盤も、45回転の通称ドーナツ盤や33回転のLPを経てCD、DVDになった。機材も高性能を誇っているものの、騒音防止法のからみか、音の漏れない特定の場所でしか聞けず、風に乗らなくなった。けれども、3月4日の歌・三線は、電波に乗り、誰はばかることなく、ふるさとの空を飛び、インターネットで世界中に鳴り渡るのである。
さて。
私の三線歴はというと琉球放送に入社、報道部から制作部に異動した際、芸能担当を命じられたことに始まる。
戦前、染物関係の家に生れた私の身近に三線はなかった。祖父は所有していたと聞いているが、引いている姿を見たことはない。長じて放送屋になり〔芸能番組を担当せよ〕の辞令が下りても、戸惑いが先立ったのは理解してもらえるだろう。正直、それは“悩み”に膨れ上がった。音楽と言えば学校で教わる歌曲や仲間内で好んで歌ったロシア、イタリア、ドイツ民謡。殊にアメリカがこの小さな島に持ち込んだカントリーソングそしてジャズがすべて。三線音楽なぞ〔老人のもの〕と決めてかかっていた。それが23歳になって〔芸能担当〕である。悩まずにおくものか。
「三線はすべての琉球芸能の基調をなす。一応は慣れ親しんだほうがよい」
これは上司、先輩のアドバイスだが、そんなきれいごとでは迷いは晴れない。私の悩みを聞いたおふくろはおふくろで言う。
「他人の子が出来ることをワタシの子であるオマエが出来ないはずがない。仕事なのだから、まずは三線に触れてごらん。そして、どうせやるなら楽しくおやり」
〔人ごとだと思って、なんと気楽なっ〕。おふくろの言に多少反発しながらも〔どうせやるなら楽しくおやり〕のひと言を妙に納得してしまい、会社の備品の三線を自己流で弾き始めた。師匠には事欠かない。昭和35、6年当時、放送を満たすほどの蓄音機盤、レコードも多くはなく古典音楽や島うたは、それをよくする歌者連をスタジオに招き、演奏を録音収録して放送素材としていた。したがって、待ち時間やリハーサルの間に間に、居並ぶ第1人者の方々に歌の内容をうかがったり、三線のチンダミ<調絃>の手解きを受け、時には一緒に歌わせてもらった。一方的自慢と自惚れで言わせてもらえば、私の師匠は興那覇政牛、幸地亀千代、喜友名朝仁、宮城嗣周、前川朝昭、糸数カメ、嘉手苅林昌、大浜安伴、山里勇吉、友利明令・・枚挙にいとまがない。おかげで古典音楽の端節、島うたの情節、遊び歌、八重山や宮古の節々を聞き覚えの三線に乗せて楽しむことを得た。
沖縄の歌謡史はもちろんのこと、この方々が通ってきた時代やその経験談は〔生きた民俗史〕として学び、殊に個人的な裏ばなしは〔人に歴史あり、物に歴史あり〕で、青年の胸を熱くし、魅了するに十分だった。
歌をひと節知ることは、時代の人と暮らしを知ることのように思える。例え流行りの歌であっても、いや、流行り歌だからこそ現実的かつ実生活感のある言葉が巧みに読み込まれて、イキイキと踊っている。このことにこそ私は大いに共鳴したことではあった。
明治生まれの両親に生んでもらい、幼少年時は大正生れの先生方から日本語教育とアメリカ仕込みのデモクラシー教育を受けた私には、沖縄口を日常語とする素地はまるでなかったのだ。それが職業として芸能番組を担当することになって〔沖縄口〕を知らないではすまされない。
沖縄語の習得を意識して〔うちなぁ歌〕をひと節ひと節、唇に乗せる。三線は拙いそれだが、言葉たちは乾いた大地が水を吸い込むが如く、私の全身をかけ巡る血に注入されていった。大げさなようだが、それが実感だったのは事実だ。このことは私の中では最大の〔さんしん効果〕と位置づけている。
三線は情感・感性を高めてくれる。友人知人を増やしてくれる。世間を広くしてくれる。沖縄人の喜怒哀楽を伝えてくれる。沖縄をはっきり見せてくれる。
それらを共有する「ゆかる日まさる日さんしんの日」は、ほんものの春をつれて、もうすぐやってくる。
かつて風は音を運んだ。
東京・両国で打つ大相撲のやぐら太鼓が、千葉・木更津で聞こえたそうな。東京にも風の通る道あったのだろう。戦前の沖縄、またしかり。那覇・西武門の蓄音器店の店頭でかける蓄音器盤の舞踊曲「浜千鳥節」や、当時の師範学校生や中学生、女学生に好まれた「カッコウワルツ」が「私の住む泉崎<現・ハーバービューホテル>界隈まで聞こえた」とは、沖縄芸能史及び風俗史研究家崎間麗進氏<90歳>の証言だ。いま、騒音の中の那覇にも、風の通る道があったとみえる。
蓄音機は、電蓄<電気蓄音機>からレコードプレイヤー・CDプレイヤーに昇格。78回転の蓄音機盤も、45回転の通称ドーナツ盤や33回転のLPを経てCD、DVDになった。機材も高性能を誇っているものの、騒音防止法のからみか、音の漏れない特定の場所でしか聞けず、風に乗らなくなった。けれども、3月4日の歌・三線は、電波に乗り、誰はばかることなく、ふるさとの空を飛び、インターネットで世界中に鳴り渡るのである。
さて。
私の三線歴はというと琉球放送に入社、報道部から制作部に異動した際、芸能担当を命じられたことに始まる。
戦前、染物関係の家に生れた私の身近に三線はなかった。祖父は所有していたと聞いているが、引いている姿を見たことはない。長じて放送屋になり〔芸能番組を担当せよ〕の辞令が下りても、戸惑いが先立ったのは理解してもらえるだろう。正直、それは“悩み”に膨れ上がった。音楽と言えば学校で教わる歌曲や仲間内で好んで歌ったロシア、イタリア、ドイツ民謡。殊にアメリカがこの小さな島に持ち込んだカントリーソングそしてジャズがすべて。三線音楽なぞ〔老人のもの〕と決めてかかっていた。それが23歳になって〔芸能担当〕である。悩まずにおくものか。
「三線はすべての琉球芸能の基調をなす。一応は慣れ親しんだほうがよい」
これは上司、先輩のアドバイスだが、そんなきれいごとでは迷いは晴れない。私の悩みを聞いたおふくろはおふくろで言う。
「他人の子が出来ることをワタシの子であるオマエが出来ないはずがない。仕事なのだから、まずは三線に触れてごらん。そして、どうせやるなら楽しくおやり」
〔人ごとだと思って、なんと気楽なっ〕。おふくろの言に多少反発しながらも〔どうせやるなら楽しくおやり〕のひと言を妙に納得してしまい、会社の備品の三線を自己流で弾き始めた。師匠には事欠かない。昭和35、6年当時、放送を満たすほどの蓄音機盤、レコードも多くはなく古典音楽や島うたは、それをよくする歌者連をスタジオに招き、演奏を録音収録して放送素材としていた。したがって、待ち時間やリハーサルの間に間に、居並ぶ第1人者の方々に歌の内容をうかがったり、三線のチンダミ<調絃>の手解きを受け、時には一緒に歌わせてもらった。一方的自慢と自惚れで言わせてもらえば、私の師匠は興那覇政牛、幸地亀千代、喜友名朝仁、宮城嗣周、前川朝昭、糸数カメ、嘉手苅林昌、大浜安伴、山里勇吉、友利明令・・枚挙にいとまがない。おかげで古典音楽の端節、島うたの情節、遊び歌、八重山や宮古の節々を聞き覚えの三線に乗せて楽しむことを得た。
沖縄の歌謡史はもちろんのこと、この方々が通ってきた時代やその経験談は〔生きた民俗史〕として学び、殊に個人的な裏ばなしは〔人に歴史あり、物に歴史あり〕で、青年の胸を熱くし、魅了するに十分だった。
歌をひと節知ることは、時代の人と暮らしを知ることのように思える。例え流行りの歌であっても、いや、流行り歌だからこそ現実的かつ実生活感のある言葉が巧みに読み込まれて、イキイキと踊っている。このことにこそ私は大いに共鳴したことではあった。
明治生まれの両親に生んでもらい、幼少年時は大正生れの先生方から日本語教育とアメリカ仕込みのデモクラシー教育を受けた私には、沖縄口を日常語とする素地はまるでなかったのだ。それが職業として芸能番組を担当することになって〔沖縄口〕を知らないではすまされない。
沖縄語の習得を意識して〔うちなぁ歌〕をひと節ひと節、唇に乗せる。三線は拙いそれだが、言葉たちは乾いた大地が水を吸い込むが如く、私の全身をかけ巡る血に注入されていった。大げさなようだが、それが実感だったのは事実だ。このことは私の中では最大の〔さんしん効果〕と位置づけている。
三線は情感・感性を高めてくれる。友人知人を増やしてくれる。世間を広くしてくれる。沖縄人の喜怒哀楽を伝えてくれる。沖縄をはっきり見せてくれる。
それらを共有する「ゆかる日まさる日さんしんの日」は、ほんものの春をつれて、もうすぐやってくる。