旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
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太陽加那志、御月前

2012-08-20 01:23:00 | ノンジャンル
 沖縄の夏は若夏<旧3月、4月>に始まり、梅雨入り。それが明けるころには、眉間にシワを寄せないと防げないほどの暑さになっている。そして、真六月<まるくぐぁち>に突入。旧6月は一番暑い。その真六月の中ごろ、沖縄本島中部を中心とする各地から、毎年、耳慣れた音が聞こえてくる。さんしん、太鼓、掛け声。エイサーの稽古の始まりである。それまで、カラオケハウスやスナックで涼をとっていた若者たちは、花を求める蝶のように飛んできて、今年のエイサーについて話し合い、さんしん方、太鼓方をまずは決めた後、踊り手をふくむエイサー組の規模を決める。
それでも、太陽の輝きは衰えを知らず猛暑。旧7月になったらなったで七夕太陽<たなばた てぃーだ>と称して、眉間のシワをのばすわけにはいかない。
 いよいよ旧盆<今年は8月30日-9月1日>。エイサーは、御先祖さまの霊をもてなしながら、全県下で若者たちの血をたぎらせる。
4月の声とともに発生した風吹ち<かじふち。台風>も、勢力を増して沖縄上陸をうかがう。直撃したり、迷走したり。この付き合いをするのも大変なことだが、県民の水ガメを満たしてくれるのも風吹ちであってみれば、そうそう恐れてばかりもいられない。
エイサーの歌やさんしんや太鼓の音が日一日遠のくころ、暑さは<やわらぐ>と思いきや、戻い太陽<むどぅい てぃーだ>があって、残暑はなお厳しい。9月下旬になって、ようやく、別り太陽<てぃーだ>を名乗って、夜風にふと、涼を感じるようになる。
気象現象とは言え、真六月。七夕太陽。戻い太陽。別り太陽・・・。世界中をかけめぐっているにもかかわらず、呼称を変えて長逗留する太陽加那志<てぃーだ がなしぃ。尊称>。よっぽど沖縄がお好きとみえる。ありがたいことだ。
エイサーの後は、十五夜遊びが待っている。旧8月15日の御月前<うちちゅうめぇ>も美しいが、後ぬ十五夜<あとぅぬ じゅうぐやぁ>と言って、ひと月後、旧9月15日の御月前は、さらに美しい。

待ちかにてぃ居たる 七月ん済まち なまた八月ぬ 十五夜待たな
 (まちかにてぃ うたる しちぐぁちん しまち なまた はちぐぁちぬ じゅうぐや またな

歌意=正月。三月浜降り。清明祭。そして、何よりも待ちかねていたお盆も無事済ませた。さあ、今度は皆して八月十五夜を待とう。
単純に解釈すると「沖縄人。なんと遊び好きッ」と、思われがちだが、さにあらず。十五夜は月見にとどまらず、各地で大綱引き、村芝居が催される。したがって、前記の琉歌は、単に遊びを待つのではなく逆に「エイサーが済んだからといって、気を抜いてはなるまいぞッ。大綱を打たなければならない。村芝居の企画、構成、稽古をしなければならない。おのおの方ッ。油断めさるなッ」なのである。
今年の旧の八月十五夜は9月30日。後ぬ十五夜は10月29日である。各地の村遊びもさることながら、沖縄は各地が月眺み所<ちちながみ どぅくる>。しかし、琉歌にこうある。

咲ち美らさあてぃん 照り清らさあてぃん 誰とぅ眺みゆが 月ん花ん
 (さちじゅらさ あてぃん てぃり じゅらさあてぃん たるとぅ ながみゆが ちちんはなん

歌意=咲く花、照る月がいかに美しくても、清らかでも、誰と眺めようか月も花も。

つまるところ、人は一人では生きられない。一緒に眺める人がいてこそ、月であり、花である。



見栄・見得

2012-08-10 00:15:00 | ノンジャンル
梅棹忠夫、金田一春彦、板倉篤義、日野原重明監修。講談社カラー版「日本語大辞典」に、
見え=見えるさま。見かけ。外見。
見栄=自分をよく見せようと、うわべをつくろうこと。
見得=歌舞伎で役者が感情の高潮を誇張し、動きを一瞬静止して、美しいポーズをとる演技。と、ある。さらに、
見得を切る=(1)役者が見得の所作をする。(2)ことさら、大げさな態度を示す。
見栄を張る=うわべを飾る。と、記されている。

 私。東京、大阪などへ出かけると、よく、見得を切ったり、見栄を張ったりする。いっぱいやりながら話していると「上原サンは、空手をやりますか」と、聞かれる。沖縄戦、復帰前後の沖縄、基地問題などを語り合ったあとに出てくる問い。皆疲れて、話題を変えようとしての問いのようだ。
「とんでもないッ。いくら空手の本場とは言え、皆が皆、空手を心得ているわけではない。私なぞ、とてもッとてもッ」とは、とてもッ言えない。沖縄の名誉をかけて<見得>を切る。
「道場こそ開いてないが、××流7段だッ」と、いい放ちスッと立ち上がると、腰を落とし拳を握り、八の字に構えた両足をおもむろに逆八の字歩を進める。そして、二度三度拳を突き出し、前後に足を飛ばす。この一連の動作を20秒から30秒内にやった後、姿勢を元に戻して、フーッと息を吐く。結果、大抵は「おうッ!」という感嘆の声がある。この程度は沖縄人、見よう見まねか血のせいか誰でもできる。私は、間髪を入れず言う。
「しかし、二度と私の前では、空手の話はしないでほしい。半年前に稽古中、相手の急所に蹴りが入り、相手は・・・・・・」
あとは、うつむいて沈黙する。座の一同は<上原は、沖縄でもそれと知られた武道家・・・なのかも知れないッ>と、思い込む。
待てッ。この事例は<見得を切る>と言うよりも<大ぼら>あるいは<大嘘>に属するのかも知れない。とかく、知らぬ他国では、自分を大げさに表現したくなるものだ。私の良い癖か悪癖か。

見栄を張って、飛行機に乗り遅れたことがある。東京でのはなし。いつもなら誰かの世話になって羽田空港を往来するのだが、魔が差したのかその日は<見栄>いっぱいの私。「送るヨ」という友人の厚意に対して「それほどの田舎者ではないヨ」と、断りを入れて東京駅から羽田に向かった。東京=浜松町=モノレール=羽田のルート。私は電車が好きだ。沖縄には電車が走ってないからだ。殊に満員電車に乗ると、この大東京を動かしている重要な国民になったようで、五体に充実感が走る。が、その日の電車には空席があった。ゆったり坐って周囲を見ると、乗客のほとんどが小説、雑誌、新聞を黙々と読んでいるか、眠るかしている。私は「これが都会人だ。田舎者と思われては、沖縄のためにならないッ」と、判断。すぐさま、持ち合わせの推理小説を取り出して都会人になる努力をした。その後がいけない。都会人への感情移入が深すぎた。ハッと気づいたときには、電車は浜松町をすでに通過。車内アナウンスは品川駅を案内していた。気は動転。あとは駅員に泣きついて浜松町に戻してもらい、モノレールに乗って羽田に着いたときには、私の飛行機は飛び立っていた。
教訓=東京の電車の中では、見栄を張って読書をしてはいけない。いまひとつ、自分を「田舎者だと思われてはッ」と<思う>のは、選ばれた田舎者だけで、多忙な都会人は私が思うほど、私を田舎者扱いはしていない。意識すらしていない。見得を切ったり、見栄を張ったりするのは、もう、懲りた。
そう決心したのはその時だけで、いまも見得、見栄をしつこく切ったり張ったりしている。しつこくなくなったら人間、ダメになる。


表通り裏通り

2012-08-01 00:10:00 | ノンジャンル
 街には通りがある。村にも通りがある。それぞれの土地柄の生活を映して、通りがある。通りの呼称もさまざまだが、全国的に最多なのが<銀座通り>だそうな。
戦前戦後の日本の繁栄を象徴する東京銀座にならってのことだろう。
沖縄にも銀座通りはいくつかある。それが、那覇市や沖縄市といった都市部ではなく、3、40軒の商店が並ぶ地方の通りに命名されているのは、なんとも温かくていい。毎年、20個から25個の台風が通過する沖縄を<台風銀座>とは、誰が言い出したのだろう。
沖縄で一番有名な通りは、那覇市の<国際通り>である。県庁前から松尾、牧志を経て安里へ至る一帯は、戦前は田畑や湿原であったが、戦後、旧那覇市内に米軍が駐屯するや、職を求めて各地から人が集まり、思わぬ所に家が建ち<街>を造成した。はじめは、日用雑貨、闇物資が立ち売りされ、露店が主であったが「復興の槌音も高く」が合言葉になっていた昭和24年<1949年>ごろから、この一帯は一大建築ラッシュ。映画館、劇場、デパート、銀行、市場、商店が出現。言葉通り沖縄経済、文化を支える<大通り>になったのである。しかし、表通りの繁栄とは裏腹に、大通りから一歩裏通りに入ると、戦火の後は生々しく残り、バラック住宅はいい方で傾いたままの家屋、墓地などと、表通りとは天国と地獄の差があった。県庁前から安里三叉路までの約1.6キロに突如出来上がった繁華街。そして、その裏側との貧富の落差を見て、米従軍記者は「戦争が生んだ奇跡の1マイル」と表現した。この表通りは、沖映通りの起点から牧志ウガン小公園辺りまでだったが、その中間に「娯楽の殿堂アーニー・パイル国際劇場」があったため<国際通り>の呼称がついた。現在は県庁前から安里三叉路までを国際通りと称しているが、実際には県庁前から順に国際本通り、国際中央通り、国際大通り、蔡温橋通りと四つに区分されていて、これをまとめて<国際通り>としているのである。

 那覇市の華やかな大通りとは趣を異にして、沖縄市諸見里には<百軒通り>がある。かつて、外人専用のAサインバーを主に飲食街を形成。料亭静波、高見亭などがあって、結構な通りをなしていた。しかし、いまでは<百軒>を割り、64軒のいっぱい飲み屋が並んでいるが、下町の温かみにつつまれた憩える場であることは、最盛期以上ではあるまいか。その要因のひとつは、百軒通りの別名にある。“どこの誰かは知らないけれど”人呼んで<年金通り>。定年で現役を退いた方や、その年輩の方々が気軽に利用する、迎えるママやホステスも年では負けていない。双方年金受給者。そんなところから、通りの名がついた。アルコール類は沖縄産のビールと泡盛。肴は豆腐、ゴーヤーなど季節のモノのチャンプルーに近海魚のサシミ、煮つけ。その魚も常連さんが釣ってきたものが持ち込まれ、新鮮さこの上ない。
<年金通り>の一番のよさは<知識の泉>であること。なにしろ、元校長教頭。元公務員。元銀行支店長。元政党役員。元軍雇用員をはじめ、家督を息子にゆずって悠々、年金生活を楽しんでいる海人陸人<うみんちゅ あぎんちゅ。海人は漁業。陸人は農業や商業に従事する人>が常連である。しかも、戦前戦後を生き抜き、現在の沖縄の基礎を築いてきた人達の集まりだけに、語り合う言葉のひとつひとつに重みがある。知られざる戦後裏面史がある。永田町のおエライさんには届いていない<沖縄>が、夜毎語られる。
この<年金通り>の存在を聞きつけて、大和のレポーター、フリーライターが取材を敢行するが、いまだ、その成果を目にしていない。「おもしろオキナワばなし」ではすまされない<沖縄近代史>が語られるからだろう。
現役の県議会議員K氏は「政治家としての自分を見失いそうになると、年金通りに行く。理屈ではない政治のあり方が学べる」そうな。
あなたも行ってみるといい。ただし、面白半分で行くと無視される。あくまでも、素直に自分をさらけだして、話の輪の中に入ればいい。島うたのひとつも歌えば、なおいい。