沖縄の夏は若夏<旧3月、4月>に始まり、梅雨入り。それが明けるころには、眉間にシワを寄せないと防げないほどの暑さになっている。そして、真六月<まるくぐぁち>に突入。旧6月は一番暑い。その真六月の中ごろ、沖縄本島中部を中心とする各地から、毎年、耳慣れた音が聞こえてくる。さんしん、太鼓、掛け声。エイサーの稽古の始まりである。それまで、カラオケハウスやスナックで涼をとっていた若者たちは、花を求める蝶のように飛んできて、今年のエイサーについて話し合い、さんしん方、太鼓方をまずは決めた後、踊り手をふくむエイサー組の規模を決める。
それでも、太陽の輝きは衰えを知らず猛暑。旧7月になったらなったで七夕太陽<たなばた てぃーだ>と称して、眉間のシワをのばすわけにはいかない。
いよいよ旧盆<今年は8月30日-9月1日>。エイサーは、御先祖さまの霊をもてなしながら、全県下で若者たちの血をたぎらせる。
4月の声とともに発生した風吹ち<かじふち。台風>も、勢力を増して沖縄上陸をうかがう。直撃したり、迷走したり。この付き合いをするのも大変なことだが、県民の水ガメを満たしてくれるのも風吹ちであってみれば、そうそう恐れてばかりもいられない。
エイサーの歌やさんしんや太鼓の音が日一日遠のくころ、暑さは<やわらぐ>と思いきや、戻い太陽<むどぅい てぃーだ>があって、残暑はなお厳しい。9月下旬になって、ようやく、別り太陽<てぃーだ>を名乗って、夜風にふと、涼を感じるようになる。
気象現象とは言え、真六月。七夕太陽。戻い太陽。別り太陽・・・。世界中をかけめぐっているにもかかわらず、呼称を変えて長逗留する太陽加那志<てぃーだ がなしぃ。尊称>。よっぽど沖縄がお好きとみえる。ありがたいことだ。
エイサーの後は、十五夜遊びが待っている。旧8月15日の御月前<うちちゅうめぇ>も美しいが、後ぬ十五夜<あとぅぬ じゅうぐやぁ>と言って、ひと月後、旧9月15日の御月前は、さらに美しい。
“待ちかにてぃ居たる 七月ん済まち なまた八月ぬ 十五夜待たな”
(まちかにてぃ うたる しちぐぁちん しまち なまた はちぐぁちぬ じゅうぐや またな)
歌意=正月。三月浜降り。清明祭。そして、何よりも待ちかねていたお盆も無事済ませた。さあ、今度は皆して八月十五夜を待とう。
単純に解釈すると「沖縄人。なんと遊び好きッ」と、思われがちだが、さにあらず。十五夜は月見にとどまらず、各地で大綱引き、村芝居が催される。したがって、前記の琉歌は、単に遊びを待つのではなく逆に「エイサーが済んだからといって、気を抜いてはなるまいぞッ。大綱を打たなければならない。村芝居の企画、構成、稽古をしなければならない。おのおの方ッ。油断めさるなッ」なのである。
今年の旧の八月十五夜は9月30日。後ぬ十五夜は10月29日である。各地の村遊びもさることながら、沖縄は各地が月眺み所<ちちながみ どぅくる>。しかし、琉歌にこうある。
“咲ち美らさあてぃん 照り清らさあてぃん 誰とぅ眺みゆが 月ん花ん”
(さちじゅらさ あてぃん てぃり じゅらさあてぃん たるとぅ ながみゆが ちちんはなん)
歌意=咲く花、照る月がいかに美しくても、清らかでも、誰と眺めようか月も花も。
つまるところ、人は一人では生きられない。一緒に眺める人がいてこそ、月であり、花である。
それでも、太陽の輝きは衰えを知らず猛暑。旧7月になったらなったで七夕太陽<たなばた てぃーだ>と称して、眉間のシワをのばすわけにはいかない。
いよいよ旧盆<今年は8月30日-9月1日>。エイサーは、御先祖さまの霊をもてなしながら、全県下で若者たちの血をたぎらせる。
4月の声とともに発生した風吹ち<かじふち。台風>も、勢力を増して沖縄上陸をうかがう。直撃したり、迷走したり。この付き合いをするのも大変なことだが、県民の水ガメを満たしてくれるのも風吹ちであってみれば、そうそう恐れてばかりもいられない。
エイサーの歌やさんしんや太鼓の音が日一日遠のくころ、暑さは<やわらぐ>と思いきや、戻い太陽<むどぅい てぃーだ>があって、残暑はなお厳しい。9月下旬になって、ようやく、別り太陽<てぃーだ>を名乗って、夜風にふと、涼を感じるようになる。
気象現象とは言え、真六月。七夕太陽。戻い太陽。別り太陽・・・。世界中をかけめぐっているにもかかわらず、呼称を変えて長逗留する太陽加那志<てぃーだ がなしぃ。尊称>。よっぽど沖縄がお好きとみえる。ありがたいことだ。
エイサーの後は、十五夜遊びが待っている。旧8月15日の御月前<うちちゅうめぇ>も美しいが、後ぬ十五夜<あとぅぬ じゅうぐやぁ>と言って、ひと月後、旧9月15日の御月前は、さらに美しい。
“待ちかにてぃ居たる 七月ん済まち なまた八月ぬ 十五夜待たな”
(まちかにてぃ うたる しちぐぁちん しまち なまた はちぐぁちぬ じゅうぐや またな)
歌意=正月。三月浜降り。清明祭。そして、何よりも待ちかねていたお盆も無事済ませた。さあ、今度は皆して八月十五夜を待とう。
単純に解釈すると「沖縄人。なんと遊び好きッ」と、思われがちだが、さにあらず。十五夜は月見にとどまらず、各地で大綱引き、村芝居が催される。したがって、前記の琉歌は、単に遊びを待つのではなく逆に「エイサーが済んだからといって、気を抜いてはなるまいぞッ。大綱を打たなければならない。村芝居の企画、構成、稽古をしなければならない。おのおの方ッ。油断めさるなッ」なのである。
今年の旧の八月十五夜は9月30日。後ぬ十五夜は10月29日である。各地の村遊びもさることながら、沖縄は各地が月眺み所<ちちながみ どぅくる>。しかし、琉歌にこうある。
“咲ち美らさあてぃん 照り清らさあてぃん 誰とぅ眺みゆが 月ん花ん”
(さちじゅらさ あてぃん てぃり じゅらさあてぃん たるとぅ ながみゆが ちちんはなん)
歌意=咲く花、照る月がいかに美しくても、清らかでも、誰と眺めようか月も花も。
つまるところ、人は一人では生きられない。一緒に眺める人がいてこそ、月であり、花である。