旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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つれづれ・いろは歌留多 その3

2013-07-20 09:46:00 | ノンジャンル
「4歳の娘が、初めてオレの名前をフルネームで書いてくれたよ。親のオレしか読めないたどたどしい、えんぴつ文字。それでも力強い筆致でね。得意そうな顔に、つい涙した・・・」。親なら誰もが経験する感動場面である。確かな形で子の成長を実感する瞬間だ。
さて、いろは歌留多も、今回は「り」から、言葉を拾ってみよう。

※〔
読み札=りんごの木には、りんごの実。
取り札=ナーベーラーの蔓には、ナーベーラー。
*当たり前だと言えば、これ以上の当たり前はあるまい。りんごの木にトマトが実をつけたり、ナーベーラー〈へちま〉のつるにゴーヤーが成ったりすることはまずない。つまり、道理は道理の通りなくてはならないのだ。親子に譬えるならば顔立ち、性格、物言いようまで親子は似るもので、さもないと「親に似ぬ子は鬼子」などと言われてきた。」「蛙の子は、蛙」であったほうが、よいように思える。

※〔
読み札=ヌーディー ウァーグァー!
取り札=のどちんこ!
ヌーディーは喉。ウァーグァーは幼豚。沖縄語では、のどたんこを産まれて間もない幼豚に例えた。共通語の「のどちんこ」。口蓋垂〈こうがいすい〉の俗語。のどびことも言う。男児のチンチンに例えたとも言われる。

※〔
読み札=留守番している ただひとり。
取り札=家の番 胴一人小。
    〔やーぬ ばーん どぅーちゅいぐぁー
子どもが一人で留守番ができると「一人前」と認めてもらえる。私にも覚えがある。小学校1年生か2年生のころだったと記憶するが、両親も兄、姉もそれぞれ外出して、一人で留守宅を守ることになった。「大丈夫!」と引き受けたものの火の用心、戸締り、外出禁止などなど、多くの注意事項を受け、それがプレッシャーになって、時間が経つにつれて心細さこの上もなく、泣きべそをかきながら、家人の帰宅を形通り、首を長くしてまっていたものだ。家人が揃って夕食なった時、おふくろは親父に「ヒコは昼間、一人で留守番したのですよ」と報告した。親父は「犬の子よりはましだな」と、褒めてくれた。犬ころと比較されても、大役を全うした充実感、達成感で少年は満足だった。また、ある日の留守番は。あまりの寂しさに泣き、泣きくたびれて寝入ってしまったが、目覚めてみると、ちゃんとおふくろとともに布団の中にいた。それも小学校低学年のことだった。
童ぇ褒みてぃ 育てぃりわらべー ふみてぃ すだてぃり=童は褒めて育てよ」というが「犬の子よりはまし」も褒め言葉だろうか。いやいや、いまとなっては親父のそれは、十分なる褒め言葉として心に残っている。

 ※〔
 読み札=男と女 仲睦ましく
 取り札=ヰキガとぅヰナグ 仲睦ましく
 かつては「を」は名前にも発音通り用いられたが、50音の改定で「お」と表記され「を」は、動詞のみに使われている。しかし、地方語では「お」ではなく、どうしても「を」と発音しなければ意味が異なる例が少なくない。
 この世には、男と女しかいないから、お互い尊重し合い、仲睦ましく助け合って生きなければならないと、これまた小学校高学年になって教わった。その教訓は、いまでも失念せず実行している。

 ※「」。
 読み札=我ぁむん 汝ぁむん 皆がむんわぁムン いゃームン んながムン〕。
 取り札=わたしのモノ あなたのモノ みんなのモノ。
 私物は別として、共用すべきもの、公共物は私有化せず、皆で大切にしよう。
 しかし、人間は欲張りにできているのか、見境なく私有化する傾向にある。中には「我ぁムンや我ぁムン 汝ぁムヌん我ぁムン」にしてしまう。そういう人間に限ってモノを粗末にする。個人の欲や都合だけでは世の中、うまくは回らない。

 ※「
 読み札=愛しん子 神ぬ子カナしんグァ カミぬっクァ〕。
 取り札=いとしい子 神の子。
 医学が発達していなかった時代は、幼児の死亡率が高かった。したがって、出産するとその子が5歳、7歳になるまでは自分の子ではなく、神様から預かった命として大切に育てた。童神という言葉があって、童は純真で「神仏の心を持っている」という解釈もあるが、別に「童は幼い時までは神の子でいるからして、粗末に扱ってはならない。心身ともに健全に育てた時、神は授けものとして、親に渡すという考え方があった。いずれも、その通りと得心がいく。

 新暦は7月後半。旧暦も6月中旬。
 「真六月=まるくぐぁち」なる季節がある。梅雨が明けて、一気に猛暑が襲ってくる最も暑い時期とされる。沖縄は連日32~33度をマークしている。今年は例年になく高温傾向にあるそうな。「自愛」。この2文字を心得て今夏を乗り切ろう。

 ※7月下旬の催事。
 *キジムナーフェスタ2013〈沖縄市〉
  期間:7月20日(土)~28日(日)
  場所:沖縄市民小劇場あしびなー・沖縄市民会館他

 *2013鯨海峡とかしきまつり〈渡嘉敷村〉
  期間:7月26日(金)~27日(土)
  場所:渡嘉敷小中学校グランド




あなたの座右の銘は?

2013-07-10 01:16:00 | ノンジャンル
 “親になてぃ親ぬ 恩知ゆんてぃやい 昔云言葉や 今どぅ知ゆる
  〈うやになてぃ うやぬ うんしゆんてぃやい んかし いくとぅばや なまどぅ しゆる
 琉歌の中でも、最も一般的に知られる教訓歌のひとつだ。
 親がかりのころは(親の恩)なぞ考えてもみなかったことだが、自分が結婚をして、子を持つようになってはじめて、親の恩を実感したと詠んでいる。そのころには親はすでにいない。「孝行をしたいときには親はなし」。悟るのが遅かったかと多少、後悔の念も読み取れる。
 筆者は、父親との縁が薄く、13歳で死別している。母親は89歳の長寿を全うしたが、その母親に孝行をした覚えがまったくない。いまごろになって、ちょいと心残りがあり、冒頭の琉歌を思い出したしだい。
 母親が何かの拍子に口にしていた古諺があったのも、ついでに思い出した。
 「十ぬ指や 同丈ぇ無んトゥぬイービや ゐんたけー ねーん」。
 これである。
 親指〈ウフイービ〉、人差し指〈サシイービ〉、中指〈ナカイービ〉、薬指〈サラシイービ。もしくはナラシイービ〉、小指〈イービングァー〉。どの指を見ても長さが異なる。それと同じように人間も、人によって姿形や個性があり、生き方も異なっている。したがって、ひとそれぞれ価値観が異なることは理の当然。であるからにして、自分の価値観のみをよしとして、他人のそれを無視したり、否定してはならないと教訓している。
 母親がこの古諺を筆者に向かって言ったのは当時、筆者は「親の意見となすびの花は千にひとつのあだもなし」を知らず、勝手気ままに行動をしていたのだろう。
 古諺の言い回しは、所によって異なるようで、八重山地方には同義の古諺が残っている。いわく、
 「同ぬ人からん 同ぬ人ぉ 生るぬゐぬピトゥからん ゐぬピトゥぉ まらぬ=同じ人からでも同じ人は生まれない」。
 同じふた親からでも、同じ子は生まれない。それぞれ異なる容貌、性格を持っているとしている。そうでありながらも親は、平等に慈しみ、愛情をもって育てる・・・・。親不孝者は、いまからでも心を入れ替えなければなるまい。いやいや、これは筆者の独白的自問自答。母親の存命中に(座右の銘)にすべきであった。

 指になぞらえた古諺をいまひとつ。
 「指や内んかいどぅ 曲がゐるイービや うちんかいどぅ まがゐる」。
 直訳すれば「指は内にこそ曲がる」である。指を折る場合、誰しも手の平の方へ折る。手の甲の方へ指を折る器用な人はいまい。この古諺が教えるものの道理であろう。しかし、主旨は別のところにある。
 内(うち)は家(うち)を意味している。肉親と解してもよい。他人との交わりは、どんなに親友、刎頸の友を確認仕合っていても、一生それが全うされる例は少ない。他人が立ち入ってはならない事柄もあるからだ。人間、、いざという時、親身になって力をかしてくれるのは親、兄弟であることを指の屈伸に譬えている。血の繋がりの縁を表現しているが、そこいらから感受できることは、昔びとはなんとボキャブラリーが豊富であることか。しかも、実生活のそこいらにある言葉をサラリと使って訓示に仕立てる。いやはや、頭が下がる。

 親子については、世界中に金言がある。
 北村孝一編「世界のことわざ辞典=東京堂出版」(親子と兄弟)の項目にこうある。
 「父親は10人の子を養っても、10人の子は父親1人養えない」。
 高齢化社会の中にいる高齢者にとっては、ゾッとする諺が。辞典にはイギリス、ドイツ、デンマーク、ポーランドなどの諺とあるが、そう遠い国の言葉ではあるまい。
 父親は、たとえ子供が10人いても何とか養い育てていくが、子供の方は10人いても、父親の面倒を十分に見ないことが多い。親の子に対する愛情は確かなものだが、子供の方はとかく「親の心を知らず、年寄りを大切にしない」ことをたとえていう諺だそうな子は子で、自分の子を育てるのに懸命なあまり、そうなるのだろうし、このことはエンドレスに続く観念のように思える。
 他にも、
 「母親ひとりは、7人の子が母親を養うよりも簡単に7人の子を育てる」。
 「母親の胸は9人の子を抱けるが、9人の子たちは母親1人養えない」。
 「1人の親は10人の子を育てられるが、10人の子は、1人の親を安らかにできない」。
 などがあり、子を思う親の気持ちは世界中変わらないものがあると言えよう。

 さて。
 表題を〔あなたの座右の銘は?〕にしたが、筆者はいかなる言葉をそれにして生きてきたのだろう。また、生きていくのだろう。いい年齢になると、世のしがらみにもまれ、ゆられ、流されて、それすら見失っている。さらば、暑さ寒さにも負けず〔座右の銘〕を見出して、人生を立て直してみることにする。

 ※7月中旬の催事。
  *第25回 糸満ふるさと祭り・第15回 エイサーinいとまん(糸満市)
   開催日:7月13日(土)~14日(日)
   場 所:西崎陸上競技場

  *第5回 2000円札応援祭り(那覇市)
   開催日:7月14日(日)
   場 所:パレット久茂地前広場

  *キジムナーフェスタ2013(沖縄市)
   開催日:7月20日(土)~28日(日)
   場 所:沖縄市内各会場




見えているか!自分

2013-07-01 01:00:00 | ノンジャンル
*高いつもりが低いのが教養。
 *低いつもりが高いのが気位。
 *深いつもりで浅いのが知識。
 *厚いつもりが薄いのが人情。
 *薄いつもりで厚いのが面皮。
 *強いつもりが弱いのが根性。
 *弱いつもりで強いのが自我。
 *多いつもりが少ないのが分別。
 *少ないつもりが多いのが無駄。

 東京下町のお寺さん近くの喫茶店のカウンターにあった小冊子を友人が持ってきてくれた。
 この類の小冊子は、大抵の観光地にあって読む人の心をくすぐっている。友人が、この小冊子を持ってきてくれたのは「少ないつもりで多いのが無駄」の後に、ボールペンで次の1行が書き加えられていたからだ。
 *賢いつもりが愚かなのが橋本。
 学歴、教養、社会的地位も申し分なく、地方のみならず国を動かす勢いの人物が「慰安婦問題」に不用意な発言をして、自らを窮地に追い込んでいるさまは「賢いつもりで愚か」と言われても仕方あるまい。

 西洋のブラックユーモアを思い出した。
 昔々、西洋の偉い学者が渡し船に乗った。学者は、見るからに学者らしい身なりだが、渡し船の船頭は身なりも貧しく、親の跡を継いで渡しを守っているらしく、学問とは無縁の態。学者は、いつもの説教癖が出たかして、船頭に言った。
 「船頭クン。キミは神学を学んだことがあるかね」。
 船頭は、びっくりして答える。
 「とんでもありません。聖書すら自前では読めません」。
 「そうかぁ気の毒になぁ。神学を学ばないものは、人生の3分の1を失ったようなもんだ。では、哲学を学んだことがあるか」。
 「テ、テ、哲学とてもとてもっ!哲学と言う言葉を聞いただけで頭が痛くなります」。
 「なんとまぁ気の毒に。ワシは10歳から哲学を学んでいる。哲学を学ばないものは、さらに人生の3分の1を失ったことになる。人間、ただ生きていればよいというものではない。つまり、学問とはだネ・・・・・」。
 学者は、船頭相手に高尚な講義をはじめた。と、そのとき、強烈な突風が船を襲い、アッという間もあらばこそ、渡し船は転覆して学者も船頭も河に投げ出された。船頭は、さすがに河で生きてきただけに泳ぎは得意。転覆は幾度も経験している、すぐに岸に向かって泳ぎ出した。しかし、学者はそうはいかない。
 「お、おういっ船頭!助けてくれっ!」・。
 その声を聞いた船頭は叫んだ。
 「先生っさまぁ!先生さまは泳ぎを学んだことがありますかっ!」。
 溺れかけた学者は必死に助けを求める。
 「お、泳ぎどころか学問一筋で海にも河にも入ったことはないっ!助けてくれっ!」。
 船頭は言った。
 「それはまぁお気の毒に。神学、哲学を知らないものは人生の3分の1を失うが、泳ぎを学ばず、知らないものは人生の10分の10を失うだよっ」。

 古諺に「学や知っち 物ぉ知らんがくやしっち むのぉしらん」がある。
 高学歴の学問は知っているが、日常的な常識をしらないことを言い当てている。また「くさ物言いとぅ 夜小便とぉ当らんくさむぬいいとぅ ユーシバイとぉ あたらん」もある。いい大人になっても、屁理屈や小賢しい物言いばかりで実行を伴わないものは、寝小便をたれる小人に等しいというのだ。筆者もそうなっていないか。反省!反省。

 ※7月初旬の催事。
 *第24回 日本最西端与那国島国際カジキ釣り大会(与那国町)
  開催日:7月5日(金)~7日(日)
  場 所:久部良漁港

 *第23回 サニツ浜カーニバル(宮古島)
  開催日:7月7日(日)
  場 所:下地与那覇港

 *第25回 糸満ふるさと祭り・第15回エイサーinいとまん(糸満市)
  開催日:7月13日(土)~14日(日)
  場 所:西崎陸上競技場