旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

飲んでいねかい

2019-01-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「飲んでいるかい?」
 「以前よりは酒量は落ちたが、まあまあ、やっているよ。おまえは?」
 「オレもさ。浴びるように飲んでいたオレ達とは思えないほどの減りようだよ。別に節酒を心掛けているわけでもなのにね」。
 「人間、一生に飲む酒の量というのがあるのかな」
 「するとオレもおまえも、そろそろ定量ってわけか」。
 ここは小料理屋の小座敷。古馴染みらしい初老が二人、泡盛をなめ、刺身をアテにしている。
 世の中の正月の祝酒も抜けたであろうが、二人は正月の(つき合い酒)に疲れたらしく、静かに飲もうと、どちらかが誘ったものらしい。

 酒については、世界中に蘊蓄を述べた聖人君主が存在する。それらについて、酒飲み達は、いちいちごもっともと納得しているものの、それに賛同して飲み方をあらためた人は少ないようだ。結局は自分のスタイルを通しているのではないか。

 松尾芭蕉いわく。
 『酒は好んで飲むべからず。微薫にして止むべし
 酒は(飲むな)とは言わない。好みに乗じて飲み過ぎてはならない。匂いを楽しむにとどめた方がよいとしている。納得である。が・・・・。

 ギリシャの哲学者・数学者・宗教家ピタゴラスいわく。
 『酔いは一時的の発狂なり』『バッカス(酒神)が人を殺す数は、戦よりも多い』。
 納得である。が・・・・。

 琉球王府時代の大政治家・具志頭親方蔡温(じしちゃん うぇかた さいおん)いわく。
 『酒は祀りごとのためにある。凡人、これを知らず、遊興にのみ用いて、身を損なうもの多し
 しかりである。が・・・・。
 聖人、君子は若い時から「酒」に対して、このような悟りを開いていたのだろうか。そうは思えない。肉体に自信を持ち、意気盛んなころは、無茶を承知で飲みまくったに違いない。体質に異常がない限り大いに飲んで歓喜し、失敗も味わったことだろう。そして年月とともに酒の功罪を知るにいたる。その分かれ目が一方を聖人にし、片方を凡人にすえおいたものと思われる。

 凡人の言い分。
 『酒は飲め飲め茶釜で沸かせ 御酒上がらぬ神はなし
 琉歌にいわく。
 『酒ん飲むしがどぅ 親ぬ孝んすゆる 女類ん呼ぶしがどぅ 元祖継じゅる
 《さきん ぬむしがどぅ うやぬこうん すゆる ジュリん ゆぶしがどぅ ぐぁんす ちじゅる》でぃぬ
 歌意=(男に生まれて)酒を飲む勢いのある者でなければ親孝行はできない。また、女郎遊びができるほどの者でなければ、先祖代々は継げない。つまり、英雄色を好むで、大いに飲んで好色にもなれ!と酒色を奨励している。

 『酒飲でぃん八十 飲まんてぃん八十 酒飲でぃぬ八十ましやあらに
 《さきぬでぃん はちじゅう ぬまんてぃん はちじゅう さきぬでぃぬ はちじゅう ましやあらに
 歌意=人は誰しも齢を取る。酒を飲んでも、たかだか八十歳。飲まなくても八十歳。同じ八十歳の人生ならば、飲んだ八十歳がましではないか!
 この方が凡人のボクには納得ができる。

 ・・・・が。
 『酒には6つの禍がある』
 その1=財産を失う。
 その2=病を生ず。
 その3=争いを生む。
 その4=名前を汚す。
 その5=怒り、俄に生ず。
 その6=知恵、日々に損す。

 しらふの時は(さもありなん)と納得する。。けれども、誘惑に負けて、1度盃を手にすると酒は『天が与えた美録である』の宗教的哲学?を支持してしまうのである。
 ところで。
 小座敷の初老の二人はどうなったか。姿が見えない。ほろ酔いでお開きにした聖人なのか。「もう一軒!」の梯子を決め込んだ凡人だったのか。新年の夜の巷には冷たい風が吹いている。


ムーチーのころ

2019-01-10 00:10:00 | ノンジャンル
 年に一度は口ずさむ学校唱歌がある。
 ♪春は名のみの風の寒さや~谷の鶯歌は覚えど~時にあらずと声もたてず~
 作詞=吉丸一昌、作曲=中田章「早春譜」である。

 亥年は明けたものの旧暦は師走に入ったばかり。沖縄の冬はこれから。ようやく、年中行事のひとつ「ムーチー」を迎える。旧暦12月8日がその日で、今年は新暦1月13日にあたる。ムーチーは「餅」の方言呼称。
 「ムーチーの日」の数日前から、サンニンガーサと称する月桃(げっとう)の葉を井戸端で洗うおふくろや姉たちの姿が見られ、少年のボクは、ただただ「もうすぐ、ムーチーが食べられるっ」との期待だけだったが、おふくろや姉たちにとっては、極寒の中での水仕事はひと苦労だったに違いない。鼻の先を真っ赤にしながら、声ひとつ出さず黙々とサンニンガーサ(月桃の葉)を洗っていたものだ。

 寒さの入口にあたる旧暦12月8日。その前夜からムーチー作りは始まり、翌日には、子どもたちの息災を願って、ムーチーを数個、仏壇に供えてから子どもたちにそれぞれの歳の数づつ配られたものだ。末っ子に生まれついたボクは、どうしても兄や姉たちよりは、貰いが少なく、それが不服でたまらず「よしっ!何時か兄や姉たちの歳を追い抜いてやるっ」と本気で考えたものだ。
 また、この頃の寒さを「ムーチービーサ=寒さ」と称し、いまでもボクは冬物を着用する目途にしている。

 ムーチーはもち米の粉に白桃や黒糖をまぜて練り、幅5センチ、縦12、3センチほどに平たくし、月桃やクバの葉に包むと、大きな蒸し鍋で蒸す。蒸し上がったムーチーは火ぬ神や仏壇に捧げられることは、すでに述べた。
 また、ムーチーを蒸したあとの鍋の湯は熱いうちに家の出入り口や屋敷の隅々に撒く。疫病神の「足を焼く」との呪いで、つまりは厄払いをし、清められたところで新年を迎えるとした。きめ細かい庶民の願いが込められている。

 年内に子どもが生まれた家では、その子の無病息災を願って特別に「ハチムーチー=初ムーチー」を作り、親戚や隣近所に「徳ちきてぃ呉みそーり=新生児に徳をつけて下さい」と言って配る慣わしがある。
 月桃の葉を用いるのにはそれなりの理由がある。

 ◇ゲットウ=方言名サンニンサニン
 ショウガ科の多年草。低地の原野に生育。大きいのは高さ3メートルほど。葉は2列状。長さは3メートルから6メートル、幅15センチほど。花は4月から6月ごろ咲き、白色に紅色。フサが茎にぶら下がるように咲く。果実は卵玉状で8月から10月が最盛期。観賞用として早くから植栽されていた。根茎は健胃整腸、消化不良などの薬用とし、種子は仁丹の主要原料となる。そこで葉がムーチーを包むカーサに用いられるのは、こうした薬用効果があり、保存が利くからだ。
 ちなみに月桃は鹿児島県佐多岬を分布の北限とし、琉球列島、台湾、中国南部、インド、マレーシアに分布すると、ものの本にある。

 話はムーチーに返る。
 ムーチーの中でも普通のそれよりも大きめのものをウニムーチー(鬼餅)と称する。
 尚敬王代1735年。この年から「鬼餅の日」を師走8日と定めるという布令がなされたという。中国の風習が琉球に移入されたものらしい。中国では12月8日「金剛力士を作り厄を払い、沐浴をして「罪障を転除す」とあって、餅ではなく「粥」を食して厄払いとしたという。
 いわばムーチー行事は、1年間のもろもろの厄を払い、新しい年を迎えようという意味合いが大きいようだ。

 かつてムーチーは各家庭で作られていたが、いまは市場やスーパーで求めることができる。大抵の年中行事が薄れていく中で、ムーチー行事がなくならないのは「子どもたちの無病息災を祈願する」ことを重要視しているためであろう。いつの世も親が子を思う心は不変だ。
 我が家の庭とは呼べない小さなスペースにもサンニンが植えられている。この時期になると老妻は、14、5枚のサンニンの葉を切り、ムーチー作りをする。
 「今年はトーナチン(とうもろこし)の粉入りムーチーをつくろうか」なぞと張り切っている。老夫婦二人暮らしで「ムーチーでもあるまい」と思うのだが、孫たちに配るのを楽しみにしてのことらしい。
 ムーチー行事がすむと、いよいよ旧正月を迎える。
 沖縄では正月を迎えることを「ソーグァチ、かむん」という。「かむん」は「噛む・食する」の意。正月にしか馳走にありつけない庶民の貧しい暮らしが長くつづいた名残りことばだろう。
 かくて沖縄の戌年は往き、本当の亥年がやってくる。


亥年・雑感

2019-01-01 00:10:00 | ノンジャンル
 “一年ぬ事や 元旦に定み 一日ぬ事や 朝ぬ内に~
 《いちにんぬ くとぅや ぐぁんじちに さだみ いちにちぬ くとぅや あさぬうちに

 『一年のことは、元旦に定め、一日のことは朝の内に』
 「世持節=ゆぅむち節」の歌い出しである。「一年の計は元旦にあり」をストレートに三八六の琉歌体に詠んでいる。元旦とは不思議な日で、ぼくのようなガサツな男でも毎年、書始めにはそう書いていた。
 あれから幾星霜・・・・。
 “正月や冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし”になっている。

 この2、3年の元旦と云えば、大晦日のテレビ番組を遅くまで観るせいで朝寝を決め込み、目覚めたころには初日がすっかりあたりを明るくしている。
 家人に「おはよう。おめでとう」を同時に云い、元旦が始まる。正午ごろになってやおら「お年玉」の準備をする。まずは孫たちの分。
大学生2人=5,000円。中学生3人=1,000円。5歳児=500円が我が家の相場。あと、知人、友人の子たちのために年相応に1,000円、500円を幾つか用意する。

 お年玉と云えばこんなことがあった。
 知人の子に500円を渡したことだが、その子は即座に中をあらため遠慮なく云った。
 「お父さん!山田の小父さんとこは紙のお金だったのに、上原の小父さんとこは、まぁーるいお金だよっ」。
 我が家の初笑いはこれであった。

 私のお年玉の覚えは・・・・。
 なにしろ、昭和20年代のこと。皆、平等に貧しかったせいで、お年玉なぞもらったり、もらわなかったり・・・・。たまに景気のいい?叔父貴からお年玉をもらっても、それは叔父貴が我が家にいる時だけは私の手にあっても、叔父貴が帰ると、すぐにおふくろが預かる。
 「子どもがお金を持ってもしょうがない」。
 おふくろの言葉。「それもそうだ」。少年の感想。正月気分が抜けるころには(おふくろに預けたお年玉)のことなど忘れていた。
 あのころのお年玉の相場はいくらだったのか・・・・。
 円ではもちろんない。ドル・・・・。でもなかったような気がする。そうだ!B円だ。金額は失念しているが。

 ◇B円=米軍が発行した円表示・B型軍票のこと。
 昭和23年(1948)7月から1958年9月までの10年間にわたり、沖縄で唯一の法定通貨として使用された。表記は日米両語を併用し、表面には軍票・額面及び(B)の文字。裏面には(軍票布告により発行す)記されていた。額面構成は千円、百円、二十円、十円、五円、一円、五十銭、十銭の8種類。
 B円は米軍の日本占領を想定して、第2次大戦中の1943年、ワシントンの造幣印刷局で3億1100万枚が印刷されたといわれている。B円は1958年ドルに切り替えられ、日本復帰とともに現在の日本円へと移行する。

 ◇お年玉哀話。
 私が敬愛する上間久雄兄。
 少年のころは今帰仁村越路に住いしていた。
 「何しろ村内でも山手に位置する寒村。母とボクだけの暮らし。貧しかったが、それを意識する暇もない毎日だった。お年玉?そうさなあ・・・。小学校、高学年になって、知り合いからもらった記憶がある。もちろんB円。少年には現金の使い道は差し当たりなかった。そっくりそのまま母に渡したよ。それから2、3日してからのこと。母が商店街に出掛けていった。日暮れて帰ってきた母は、何やら大きめの包みを抱えている。母の顔は嬉々としていた。母が包みから取り出したのはジェラルミンの鍋。それまで我が家には古い鉄鍋しかなかったからなあ・・・・。ボクのお年玉はジェラルミンの鍋に変わったわけだ。嬉しかったなあ」。
 暮れの忘年会でのお年玉ばなしである。因みに現在、上間久雄兄は沖縄市に居住まいし、子や孫に囲まれて、スポーツに親しみ、サークル活動に専念し、読書三昧という82歳の青春を楽しんでいる。

 亥年。十二支を締める年。俗にいう「終わり良ければ総て良し」に肖ろうか。
 「猪突猛進」をいいように解釈して、もろもろのことに首を突っ込み、一生懸命、集中力を傾けてみようかなぞと素直になっている素直になっている自分がいる。正月とは不思議な気分を醸し出される魅力を持っている。
 玄関に「おめでとうございます」の声、孫たちがやってきたらしい。我が家がパッと明るくなった。
 “一年のまた始まりし何やかや”虚子。