「飲んでいるかい?」
「以前よりは酒量は落ちたが、まあまあ、やっているよ。おまえは?」
「オレもさ。浴びるように飲んでいたオレ達とは思えないほどの減りようだよ。別に節酒を心掛けているわけでもなのにね」。
「人間、一生に飲む酒の量というのがあるのかな」
「するとオレもおまえも、そろそろ定量ってわけか」。
ここは小料理屋の小座敷。古馴染みらしい初老が二人、泡盛をなめ、刺身をアテにしている。
世の中の正月の祝酒も抜けたであろうが、二人は正月の(つき合い酒)に疲れたらしく、静かに飲もうと、どちらかが誘ったものらしい。
酒については、世界中に蘊蓄を述べた聖人君主が存在する。それらについて、酒飲み達は、いちいちごもっともと納得しているものの、それに賛同して飲み方をあらためた人は少ないようだ。結局は自分のスタイルを通しているのではないか。
松尾芭蕉いわく。
『酒は好んで飲むべからず。微薫にして止むべし』
酒は(飲むな)とは言わない。好みに乗じて飲み過ぎてはならない。匂いを楽しむにとどめた方がよいとしている。納得である。が・・・・。
ギリシャの哲学者・数学者・宗教家ピタゴラスいわく。
『酔いは一時的の発狂なり』『バッカス(酒神)が人を殺す数は、戦よりも多い』。
納得である。が・・・・。
琉球王府時代の大政治家・具志頭親方蔡温(じしちゃん うぇかた さいおん)いわく。
『酒は祀りごとのためにある。凡人、これを知らず、遊興にのみ用いて、身を損なうもの多し』
しかりである。が・・・・。
聖人、君子は若い時から「酒」に対して、このような悟りを開いていたのだろうか。そうは思えない。肉体に自信を持ち、意気盛んなころは、無茶を承知で飲みまくったに違いない。体質に異常がない限り大いに飲んで歓喜し、失敗も味わったことだろう。そして年月とともに酒の功罪を知るにいたる。その分かれ目が一方を聖人にし、片方を凡人にすえおいたものと思われる。
凡人の言い分。
『酒は飲め飲め茶釜で沸かせ 御酒上がらぬ神はなし』
琉歌にいわく。
『酒ん飲むしがどぅ 親ぬ孝んすゆる 女類ん呼ぶしがどぅ 元祖継じゅる』
《さきん ぬむしがどぅ うやぬこうん すゆる ジュリん ゆぶしがどぅ ぐぁんす ちじゅる》でぃぬ
歌意=(男に生まれて)酒を飲む勢いのある者でなければ親孝行はできない。また、女郎遊びができるほどの者でなければ、先祖代々は継げない。つまり、英雄色を好むで、大いに飲んで好色にもなれ!と酒色を奨励している。
『酒飲でぃん八十 飲まんてぃん八十 酒飲でぃぬ八十ましやあらに』
《さきぬでぃん はちじゅう ぬまんてぃん はちじゅう さきぬでぃぬ はちじゅう ましやあらに》
歌意=人は誰しも齢を取る。酒を飲んでも、たかだか八十歳。飲まなくても八十歳。同じ八十歳の人生ならば、飲んだ八十歳がましではないか!
この方が凡人のボクには納得ができる。
・・・・が。
『酒には6つの禍がある』
その1=財産を失う。
その2=病を生ず。
その3=争いを生む。
その4=名前を汚す。
その5=怒り、俄に生ず。
その6=知恵、日々に損す。
しらふの時は(さもありなん)と納得する。。けれども、誘惑に負けて、1度盃を手にすると酒は『天が与えた美録である』の宗教的哲学?を支持してしまうのである。
ところで。
小座敷の初老の二人はどうなったか。姿が見えない。ほろ酔いでお開きにした聖人なのか。「もう一軒!」の梯子を決め込んだ凡人だったのか。新年の夜の巷には冷たい風が吹いている。
「以前よりは酒量は落ちたが、まあまあ、やっているよ。おまえは?」
「オレもさ。浴びるように飲んでいたオレ達とは思えないほどの減りようだよ。別に節酒を心掛けているわけでもなのにね」。
「人間、一生に飲む酒の量というのがあるのかな」
「するとオレもおまえも、そろそろ定量ってわけか」。
ここは小料理屋の小座敷。古馴染みらしい初老が二人、泡盛をなめ、刺身をアテにしている。
世の中の正月の祝酒も抜けたであろうが、二人は正月の(つき合い酒)に疲れたらしく、静かに飲もうと、どちらかが誘ったものらしい。
酒については、世界中に蘊蓄を述べた聖人君主が存在する。それらについて、酒飲み達は、いちいちごもっともと納得しているものの、それに賛同して飲み方をあらためた人は少ないようだ。結局は自分のスタイルを通しているのではないか。
松尾芭蕉いわく。
『酒は好んで飲むべからず。微薫にして止むべし』
酒は(飲むな)とは言わない。好みに乗じて飲み過ぎてはならない。匂いを楽しむにとどめた方がよいとしている。納得である。が・・・・。
ギリシャの哲学者・数学者・宗教家ピタゴラスいわく。
『酔いは一時的の発狂なり』『バッカス(酒神)が人を殺す数は、戦よりも多い』。
納得である。が・・・・。
琉球王府時代の大政治家・具志頭親方蔡温(じしちゃん うぇかた さいおん)いわく。
『酒は祀りごとのためにある。凡人、これを知らず、遊興にのみ用いて、身を損なうもの多し』
しかりである。が・・・・。
聖人、君子は若い時から「酒」に対して、このような悟りを開いていたのだろうか。そうは思えない。肉体に自信を持ち、意気盛んなころは、無茶を承知で飲みまくったに違いない。体質に異常がない限り大いに飲んで歓喜し、失敗も味わったことだろう。そして年月とともに酒の功罪を知るにいたる。その分かれ目が一方を聖人にし、片方を凡人にすえおいたものと思われる。
凡人の言い分。
『酒は飲め飲め茶釜で沸かせ 御酒上がらぬ神はなし』
琉歌にいわく。
『酒ん飲むしがどぅ 親ぬ孝んすゆる 女類ん呼ぶしがどぅ 元祖継じゅる』
《さきん ぬむしがどぅ うやぬこうん すゆる ジュリん ゆぶしがどぅ ぐぁんす ちじゅる》でぃぬ
歌意=(男に生まれて)酒を飲む勢いのある者でなければ親孝行はできない。また、女郎遊びができるほどの者でなければ、先祖代々は継げない。つまり、英雄色を好むで、大いに飲んで好色にもなれ!と酒色を奨励している。
『酒飲でぃん八十 飲まんてぃん八十 酒飲でぃぬ八十ましやあらに』
《さきぬでぃん はちじゅう ぬまんてぃん はちじゅう さきぬでぃぬ はちじゅう ましやあらに》
歌意=人は誰しも齢を取る。酒を飲んでも、たかだか八十歳。飲まなくても八十歳。同じ八十歳の人生ならば、飲んだ八十歳がましではないか!
この方が凡人のボクには納得ができる。
・・・・が。
『酒には6つの禍がある』
その1=財産を失う。
その2=病を生ず。
その3=争いを生む。
その4=名前を汚す。
その5=怒り、俄に生ず。
その6=知恵、日々に損す。
しらふの時は(さもありなん)と納得する。。けれども、誘惑に負けて、1度盃を手にすると酒は『天が与えた美録である』の宗教的哲学?を支持してしまうのである。
ところで。
小座敷の初老の二人はどうなったか。姿が見えない。ほろ酔いでお開きにした聖人なのか。「もう一軒!」の梯子を決め込んだ凡人だったのか。新年の夜の巷には冷たい風が吹いている。