旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

つれづれ・いろは歌留多 その4

2013-09-20 10:00:00 | ノンジャンル
 ♪東明がりば墨習れが行ちゅん 頭結てぃ給ぼり我親加那志
 〈あがり あかがりば シミなれが いちゅん カシラゆうてぃ たぼり わうやがなし

 歌意=東の空が明るくなってきました。学問所へ勉強に行く時間です。真結=まーゆゐ片かしら(男子の髪型)を結い整えてください母上様。
 士族の子弟は8,9歳にもなると官営の学問所へ通学した。出校する子弟の身だしなみを整えてやるのは、母親の毎朝のつとめだった。
 低学年の学習は(読み・書き)が主。これを「しみふく・墨複」と言い、区分すると(墨)は習字、(複)は素読のこと。墨は当然「いろは」。従って墨複を修めたことを「墨人・しみんちゅ」と称し一目置かれた。
 今回の「いろは歌留多」は「ね」から。

 [ね]。
 
 読み札=にーびち満産(まんさん)大祝儀(まぎすーじ)
 取り札=出産 おおきなお祝い。
 沖縄語の「ね」は基本的に「に」に変化する。「にーびち」の語源には諸説あって「根引き」「女引き・めびき」などがある。根引きは、稲の苗を他の田畑に移すという意味がある。女性が他家に嫁ぐことを(尊い命の根引き、株分け)になぞらえたと考えられる。宮古島の多良間島では、今でも「にーびち」を「メガピキ」と言う。メガは女性の通称。ピキは引き・引く。満産は出産。結婚そして出産は、人生祝儀の最初で最大に行われている。

 「な」。
 読み札=なんちち かばさ まーさむん。
 取り札=おこげ 香ばしい おいしいね。
 羽釜で御飯を炊いていたころの(おこげ)は、子どもにとってはいいおやつだった。少年のころ、2,3時になると小腹がすき「ぬーがな ねーに=なにかないか」とおねだりするとおふくろは、羽釜の底にこびりついたナンチチ、水に浸した(おこげ)をミシゲー(飯貝・しゃもじ)で掻き集め、ニジリーメー(おにぎり)にしてよこした。ユーバン(夕飯)までのいい繋ぎになった。おふくろの名誉のために特記しておくが、わがおふくろは御飯を炊くたびに、ナンチチさせていたわけではない。それはたまたまで大抵は芋が繋ぎだった。最近はナンチチにもとんとお目に掛かれないが(ナンチチ)という言葉を耳にするだけで、おふくろが偲ばれる。

 [ん]。
 読み手=ンマ シミ ンナジ ンーナグァ
 取り手=馬 梅 うなぎ 小さな貝。
 沖縄語には「ん」で始まる語が多少ある。稲はンニ。姉はンーミー、ンーメー、もしくはンメーはお婆さんなどなど。従って「しりとり」は、延々と終わりをしらない。九州一円にもこの例は多いと聞いている。ンーナは海浜の岩場に生息する小さな巻貝。種類も多く、適当な大きさなものは
50,60個と採ってきて茹がき、中身を針で突いて出して食したり、アンダンスー(油味噌)の具にしたりした。この種の巻貝は川辺や田んぼにもいるが、これは泥臭くて食するには適さない。

 ♪大和口すしん 楽やあいびらん 御汝我んしちょてぃ 暮らしぶさぬ
 〈やまとぅぐち すしん らくや あいびらん うんじゅ ワンしちょてぃ くらしぶさぬ

 明治12年(1879)4月4日、沖縄県成立。皇民化教育が徹底されて、日常生活で使われていた「沖縄口」は、全国的に通用しないとして封じ込められてきた。庶民は一から共通語を学習しなければならない。それは強引かつ強制的な方法で成されるに至って庶民は苦労を余儀なくされる。
 こうした時代背景の中で、使い慣れた沖縄口で詠んだのが、前記の琉歌である。狂歌風だが当時の人びとの戸惑いが読み取られ切なさすら覚える。
 歌意=無理やり、慣れない大和口(共通語)を使うのも楽ではありません。いままで通り「御汝=貴方。ワシ=私」と、親しみのある自分たち、沖縄口で会話をして暮らしたいものだ。
 共通語を「大和口」。中国語を「唐口・とうぐち」。西欧語を「ウランダ口」と言ってきて、それはいまでも生きている。

 「つれづれ・いろは歌留多」シリーズは、単なることば遊びに過ぎないが、その中から一つでも「沖縄口」に接して、地方語の妙味を感じ取っていただければ望外。沖縄語は日本語の中の立派な地方語である。

 ※9月中旬の催事
 *大東宮祭2013(北大東島)
  開催日:9月22日(日)~23日(月)
  場所:村内全体

 *さらはまミャークヅツ(宮古島市伊良部島)
  開催日:9月25日(水)~28日(土)
  場所:ブーンミャ
 






語り部たちのカジマヤー祝い

2013-09-10 00:12:00 | ノンジャンル
 沖縄には「年日祝い=トゥシビースージ」がある。生まれ年を祝い、厄を払う儀式だ。それは13歳から成され97歳まで続く。61歳以上の[長寿祝い」の感がある。もっとも最近は平均寿命が延び61歳、73歳は「まだ現役!」とする観念が本人たちにあって61歳、73歳のそれをやるのは少なくなっている。

 2013年8月10日。
 那覇市内のホテルのホールが賑わった。昭和9年(1934)沖縄県立第一高等女学校を卒業した同期生「ひめゆり九年会」の4人が、ひと足早い数え年97歳・カジマヤー合同祝いを開いたのである。
       
        写真:8月11日付・沖縄タイムスより 
   
 この老女たちはいまでも月に1回昼食会をしている。
 カジマヤーとは風車の意。人間、100歳に近づくと(童心に還る)とされ、祝いの日には色とりどりの風車を大量に作り、1番大きいものを本人が持ち、あとは祝いの客に1本づつ配る。長寿の肖りとするところから「カジマヤー祝い」の名がついている。
 
 件の老女たちのコメントを8月11日付・沖縄タイムス紙はこう紹介している。
 第一高等女学校から県立師範学校に進み、定年まで教壇にあった金城ミツ枝さん。
 「こんなに大きなお祝いになるとは思わなかった」。
 知名茂子さんは、いまでも化粧品を買いに息子にデパートに連れて行ってもらうおしゃれ好き
「足や腰が痛いといいながら、いまでも集まれるのが嬉しい」。
 照屋津瑠子さんは70歳から90歳まで続けた水泳が長生きの秘訣と胸を張り「いまは皆で集まり、ゲラゲラ笑うことが1番」と付け加えている。
 絵を描くことが趣味の亀谷祐子さん「仲間が揃えば、いつも女学校時代の話で盛り上がっている。これからも続けたい」。
 明るい前向きの老女たち。しかし、後輩たちは「ひめゆり部隊」に属し、沖縄戦を最前線で体験して戦死。生き残った人たちは「沖縄戦の語り部」である。長寿は祝福しなければならないのは当然。一方で語り部の高齢化は、証言者が数少なくなっていくということを考えさせられる。

 沖縄県立第一高等女学校。 
 明治36年(1903)4月。首里当蔵(とうのくら・言那覇市)の沖縄師範学校内に本県初の県立高等女学校として設立された。
 明治33年(1900)に私立教育会によって創設された沖縄高等女学校はこの年、第1回の卒業生を出すと同時に、第一高女へ吸収されている。修行年限は4年。「女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」ことを目的とし開港以来、良妻賢母を合言葉とする教育方針が貫かれた。明治41年(1908)、真和志村〈現那覇市〉安里に新築移転。大正4年(1915)沖縄県女子師範学校が独立認可され翌年、同校敷地内に併置された。同校は校長の兼任制をとり「女師一高女」の通称で県下に名を馳せた。
 昭和3年(1928)これまであった那覇市立高等女学校が県立となるに及んで、第一高等女学校(略称一高女)と改められたが、沖縄戦で焼失。沖縄戦では師範学校女子部とともに「ひめゆり学徒隊」として参し、多くの犠牲者をだした。

 97歳の「カジマヤー祝い」をした老女たちは、言葉通り(青春)を激動の時代に置きながらも敢然と生き抜き、戦争の実相の証人としての役割を果たしてきた。
 しかし、戦後68年の今日、一般の男女を問わない戦争体験者は、記憶も薄れていくのか(沖縄戦)について「地獄だった。大変だった」とは言うものの、具体的な証言を公表しなくなりつつあるように思える。
 南方戦線に出兵、辛うじて復員を成した山田一雄(93歳・仮名)は、こう語った。
 「これまで機会あるごとに戦争体験を語ってきた。日本軍の実態を語ってきた。戦争は国と国との殺し合いではない。人と人との殺し合い以外の何ものでもないことを語ってきた。次世代のキミたちの耳にも心にもそれは届いたが、国を動かすおエライさんたちの耳にも心にも、何ひとつ届いてはいない。もう疲れたよ。そう言わずに頑張って!だってっ!頑張ったよ。68年間頑張ったよ。これ以上、この老体に何を頑張れというのか。今日からはキミたちが頑張る番だ。もう何年も生きてはいない。少し休ませてくれないか・・・・」。
 さらに山田老人は付け加えた。
 「沖縄の日米軍用基地はなくなるまい。ますます強化されていく。オスプレイを配備しながら政府は(沖縄の負担軽減)なぞと公言し、自衛隊の軍隊化を進めようとしている。近い将来、徴兵制度を施行するのではないか。キミたちは兵隊としては使いものにはならない。キミたちの子や孫がその対象になる。そう思うとワシまで眠れなくなる。死んでも死にきれない・・・・。年を取ると疲れやすい。少しでも楽にあの世へ行かしてくれ」。

 カジマヤーの祝いの語源には2節ある。
 前記の説といまひとつは、97歳の人が懸命に生きてきた集落の十字路(<spanstyle="color:blue">カジマヤー)を行列して通過させて長年の労に報い、長寿を祝福する儀式とする説。しかし、この際(語源)なぞという理屈はどうでもいい。戦争と言う下したくても下せない荷物を背負って生きてきたすべての先輩たちの命の祝いをして差し上げるのは、われわれの厳粛な義務ではないのか。
 「そりぁキミ。浪花節すぎないか」。
 あなたはそう言い切りますか。
 今年の「カジマヤー祝い」の日は、10月11日(旧暦9月7日)にあたる。

 ※9月中旬の催事
 *八月踊り(宮古島)
  開催日:9月12日(木)~14日(土)
  場所:多良間島

 *平成25年度 とぅばらーま大会(八重山)
  開催日:9月17日(火)
  場所:石垣市新栄公園

 *糸満大綱引(糸満市)
  開催日:9月19日(木)
  場所:糸満ロータリー~白銀堂間





綱引きの季節

2013-09-01 11:48:00 | ノンジャンル
「なんで綱引きするの?」。
 幼稚園児の子に聞かれて、若いお母さんは、さあ困った。大まかには分かっていても、詳細の説明に困った。 
 「ん・・・・。お母さんもよく知らないから、ちょっと調べてみるね」。
 子供の了解を得てお母さんは、沖縄の年中行事に関する書物を読み返して、自らが学習したそうな。

 8月4日。
 南城市知念区の「大綱曳き」があった。


 知念区を小字・平仲(ひらなか)と久美山(くべーま)に分けての対戦。知念集落の大綱曳きは、戦前から昭和33年(1958)までは旧暦6月24日、稲の収穫後、翌年の豊作を祈願する行事(六月カチシー)の日に催された。カチシーとは、もち米で作った強飯=おこわ=のこと。そのため「カチシー綱」の別称がある。
 集落にあった製糖所広場、と言っても近代的なそれではなく、牛や馬の動力を借りたサトウキビ圧搾機のある「砂糖屋車庭=さーたーやー くるまなぁ」で行われていたが、現在は知念農村広場を主会場としている。
 かつて同集落には「八人頭=はちにんかしら」と称する役目(やくみー・役員)がいて、日頃は田畑の見回りをし、家畜の放し飼いによる農作物の被害や盗難などの監視をする一方、諸行事、殊に大綱曳きには、この八人頭が実行委員になり指揮、運営にあたった。
 知念区の大綱の長さは約80メートル。胴回りは雌綱雄綱を繋ぎ結ぶ先頭部分が約180センチ。雌綱雄綱共に藁3束を1組綱として80本。それが数メートルごとに細くなっている。
 綱曳き本番前。それぞれ鉦鼓1名。銅鑼打ち2名。法螺吹き1名、大太鼓打ち数名、時によっては女性のパーランクー(片面の小鼓)打ちが30名、40名参加する行列がある。一斉に気勢を上げると、棒術を披露する「棒しんか」が登場して演舞。それでも綱曳きは始まらない。区民総出の行列「道じゅねー」がある。


 その手順はこうだ。
 *道じゅねーは「ハルエイ ハルエイ」の掛け声とともに主会場に集結する。
 *鉦鼓・銅鑼の音にテンションが上がった女性たちは、相手に向かって「負けまいぞ、負けまいぞ」と大声でがなる「ガーエー」をする。
 *棒術が終わるといよいよ綱曳き本番。鳴り物はハイテンポになる。
 *同集落の綱の曳き方の特徴は、綱を上下に持ち上げ「地面に叩きつける。波打つように」曳く。勝敗はどちらかが手を放した時に決する。勝負は2回。
 綱曳きが終わると双方が集団で向き合い気勢を上げるが、その時に歌われる「綱曳き唄」はこうだ。

 ♪綱ん曳ちまかち 舞ういんまかち
 〈綱も曳き負かし 舞いも舞い負かし〉
 ♪東方でむん 舞うい負きやびみ
 〈われら東方 舞いも負けまいぞ〉
 ♪西方でむん 舞うい負きやびみ
 〈われら西方 舞いも負けまいぞ〉
 ♪綱ぁ負けてぃん 舞うい負きやびみ
 〈綱曳きは負けても 舞いも負けまいぞ〉
 ♪綱ん曳ちまかち かんし胴軽るさ
 〈綱曳きん勝って こんなに心身軽くなった〉

 「綱曳き唄」がフィナーレになる。
 曳き終わった綱の細い部分は、六尺棒に巻きつけて持ち帰り、平仲は字内の広場で、久美山は「浜毛=はまもう」と称する場所で無病息災を祈願して焼く。
 知念区の綱曳きは毎年行われるわけではなく「五年マーイ=五年回り・五年に一度」行事。
 もちろん毎年催す地域もあり、二年マーイの例も少なくない。

 綱引きは、刈り入れた稲の藁で作ることからも察しがつくように「豊作感謝」「翌年の豊作祈願」「無病息災祈願」旱魃の際の「雨乞い祈願」など、つまりは「弥勒世願え=世の平和祈願」のために、人びとの「力」を神に示すためになされたものである。
 「琉球由来記」には〔大広場や大道でヒクのは、民衆の体力を競うため。地域が疲弊し、厄病が流行した年にヒクのは疫鬼を払うことを目的とした〕とある。さらに、力を競うのは〔挽き〕、疫鬼祓いは〔引き〕の字を当てたと言われる。知念区の〔曳き〕には、両方の意味と願いが込められていると、地元の方は誇らしげに語ってくれた。
 旧暦6月から旧暦8月の「十五夜綱」。そして10月の豊年祭まで、各地で独特のツナヒキが約300ほどなされるが、要約すると◇その年の豊作を祝う。◇翌年の豊作祈願と予祝。◇厄病祓い・害虫除け。◇雨乞いなどを目的とした農耕儀礼と言えよう。
 商工業を主とした那覇のそれは「那覇大綱=なふぁ うーんな」。漁業の町糸満、与那原にも「ツナヒキ」はあり、天下にその名を馳せているが、すべての地域が農業に関わっていて「農耕儀礼」に反してはいない。
 かつて若狭町大通りでなされた「那覇四町大綱」は、ひき手が疲れると大綱の末尾をガジマルの大木や大石に結び置き、ひと休みしたというエピソードも語り継がれている。

 「なんで綱引きするの」。
 そう聞かれたら、お母さんは答えればいい。
 「それはね・・・・・」。

 ※9月上旬の催事。
 *第17回 宜野湾市青年エイサー祭り(宜野湾市)
 開催日:9月7日(土)~8日(日)
 場所:宜野湾市民広場

 *第47回 久志20㎞ロードレース大会(名護市)
 開催日:9月8日(日)予定
 場所:名護市立嘉陽小学校跡地